陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

「賭け」する人々 その5.

2006-09-12 22:16:43 | 
4.賭けに勝ったらどうなるか

悪魔との賭けはともかく、運を相手の賭け、あるいは人間相手の賭けで、勝ったらどうなるのだろう。
人生はそこから一気に花開くのだろうか?

ところが小説の世界では、あまりそういうことにならないのだ。

 こんなはずはない。きっとなにかの間違いだわ。
 だが間違いはなかった。六回も確かめてみたから、絶対に間違いではなかった。
 結局はだれかの身に起ることだわ。
 もちろん、それはそうだった。だれかの身には。しかし彼女の身にそれが起るとは。
(スティーヴン・キング『クージョ』永井淳訳 新潮文庫)

チャリティ・キャンバーは宝くじを引き当てる。額面五千ドル、そこから税金の八百ドルを引いたものが彼女のものになるのだ。

幸運の女神が彼女に白羽の矢を立てたのだ。これが生まれてはじめてで、たぶんもう二度とないことだろうが、日常性という分厚いモスリンのカーテンがわずかにあいて、外側の光り輝く世界を垣間見せてくれたのだ。彼女は実際的な女で、口にこそ出さないが、自分が夫を少なからず憎み、少なからず恐れているけれども、いずれは二人はともに年をとり、夫が借金と――そしてこれは心のなかでさえ認めたくはなかったが、その恐れは充分にあった――おそらく甘やかされた子供を残して先に死ぬであろうことを知っていた。

 …(略)…、実際に当たった五千ドルの十倍の賞金が当たっていたのなら、彼女はモスリンのカーテンをいっぱいにあけて、息子の手を引っぱりながら、町道三号線と、ジョー・キャンパー自動車修理工場、外車歓迎と、キャッスル・ロックの向こうにある世界へ足を踏みだすことを考えていたかもしれない。断固たる決意のもとにブレットをコネティカットへ連れて行き、ストラトフォードで小さな部屋を借りるのにいくらかかるかと、妹にたずねていたかもしれない。

 だが、現実には、カーテンはわずかに動いただけだった。それでおしまいだった。

そうして、この宝くじに当たったことが、大きな悲劇を引き起こすそもそもの発端となっていく。

では、額面がもう少し大きくなり、一生を変えるぐらいの額が当たったらどうなるか。
それがジョン・ファウルズの『コレクター』である。

 満二十一歳になった週からずっと、ぼくはフットボール賭博をやってきた。毎週、判で押したように五シリングずつ賭けた。税務課の同僚のトム爺さんやクラッチリー、それに何人かの女の子たちは、いつも徒党を組んで大枚を賭け、ぼくは一匹狼の立場を捨てなかった。だいたいトム爺さんやクラッチリーは虫が好かないのだ。…(略)…

 小切手の金額は七万三千九十一ポンド、それに何シリング何ペンスかの端数がついていた。火曜日、フットボール賭博の係員がこの額を確認してくれるやいなや、ぼくはウィリアムズさんに電話をかけた。ウィリアムズさんはぼくがそんなふうに辞めてしまうことに腹を立てていたようだ。むろん口ではそりゃよかった、みんなも喜ぶだろうと言ったが、喜ぶはずはありゃしないのだ。ウィリアムズさんはよかったら五%の公債を買わないかとすすめてくれた! 市役所なんかに勤めていると、まとまった金の値打ちというものが分からなくなるらしい。
(ジョン・ファウルズ『コレクター』小笠原豊樹訳 白水Uブックス)

「ぼく」には市役所に勤めている頃から、心引かれる娘がいた。市役所の真向かいにその娘の家がある。ロンドンの寄宿学校に通っているために、見ることができるのは、彼女が帰省したときだけ。だから、償金を手に入れて仕事を辞めれば、彼女のことも忘れるだろうと思っていたのだ。

 ぼくの本心としては(すでにロンドンで一番上等な七つ道具を買ってあった)、どこか田舎へ出かけて、珍しい種類や、変種の蝶を採集し、立派な標本を作りたかった。つまり好きな場所に好きなだけ滞在して、毎日外へ出て、採集したり、写真を撮ったりしたい。伯母たちが発つ前に、ぼくは運転免許をとり、特製の自動車を手に入れた。ぼくが欲しい種類はたくさんある――たとえばキアゲハ、クロシジミ、ムラサキシタバ、それにギンボシヒョウモンとかウラギンヒョウモンとかヒョウモン族の珍種。たいていのコレクターが生涯に一度ぶつかるかどうかという種類だ。蛾にも欲しいのがある。できれば蛾も集めたいと思う。

 ぼくが言いたいのは、つまり、彼女をお客に呼ぶという考えが湧いたのは全く突然のことであって、金が手に入ったときから計画したことではないという点だ。

ところが結局「ぼく」は売りに出ていた家を見に行き、そこから「秘密の客」を閉じこめておく、という考えが抜きがたいものになってしまう。

もちろん、みんながみんな「賭け金」を受け取るわけではない。
チェーホフの短編『賭け』では、勝つことがほぼ確実になりかけた人物が意外な行動をとる。

老年の銀行家は、終身禁固と死刑とどちらが人道的か、という議論から、若い法学者と賭けをすることになる。

「そりゃ死刑も、終身禁固も、非道徳的である点には変りはありませんけど、かりに死刑か終身禁固か、どちらか一方を選べと言われたら、僕はもちろん後者を選ぶでしょうね。全然生きていられないのよりは、何とか生きている方が、まだましですもの。」

 活溌な論議がもちあがった。当時はまだ若く、今よりも神経質だった銀行家は、ふいに冷静を失い、こぶしでテーブルを叩くなり、青年法学者に向かって叫んだ。
「そりゃ、まちがってますよ! 僕は二百万ルーブルかけてもいいが、あなたなんか、五年も独房に坐っていられるもんですか。」

「もし本気でおっしゃっているんでしたら、」法学者はこたえた。「かけましょうか、僕は五年といわず、十五年だって、こもり通してみせますよ」

「十五年ですって? おもしろい!」銀行家は叫んだ。「みなさん、僕は二百万ルーブルかけましょう!」

「承知しました! あなたは金をかけ、僕は自分の自由をかけましょう!」
アントン・チェーホフ「賭け」『チェーホフ全集4』所収 原卓也訳 ちくま文庫)

幽閉生活のなか、法学者は苦しみ、語学やさまざまな勉強をし、あるいは福音書を読みふけり、さまざまな本を読んで過ごす。
いっぽう銀行家は往年の莫大な財産をもはや有してはいない。明日の十二時、賭けの終了を目前にして、賭け金を払えば破産はまちがいないところまできている。

銀行家は、自分を救うために、法学者を殺そうと思い、幽閉されている場所に入っていく。
そこには、見る影もなく老いてしまった法学者の寝姿と、書き置き。

あなたがたが生きるための拠りどころとしているものに対する、わたしの軽蔑を実地に示すために、わたしは、かつては楽園のようにあこがれ、今や心からさげすんでいる二百万ルーブルの金を拒否する者です。この金に対する権利を放棄するため、わたしは約束の期限の五時間前にここを立ち去ります。それにより、わたしはこの取り決めを破棄するのです…

これらからあきらかになることは、賭けに勝つことは、幸福を意味しない、ということだ。
『クージョ』の場合は、チャリティがくじで五千ドル、当たらなければ、悲劇は起こらなかったかもしれない。けれどもキャンパー家は、別の形で何らかの災厄が起こっていた可能性は極めて高かったにちがいない。

『コレクター』の「ぼく」は、フットボール賭博で当たらなければ、家を購入して、そこにミランダを監禁することはなかったかもしれない。けれども、「ぼく」の執着が、何らかの出来事を引き起こしたであろうことは、想像に難くない。

つまり、実際に手に入れようが、入れまいが、それまでその人物が生きてきた日々の未来に与えるにくらべれば、些細なことなのである。ちょうど、法学者の十五年の日々にくらべれば、二百万ルーブルなどなんでもないように。

賭けで勝てば、もちろんその影響は受ける。その額に応じて、影響もちがうだろう。けれど、それは、その人がそれまで生きてきた日々の反映なのである。

(この項つづく)


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