陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

「賭け」する人々 その3.

2006-09-10 22:22:24 | 
2.人と賭ける

ロアルド・ダールの短編集『あなたに似た人』のなかに、『味』という短編がある。
『南から来た男』と同様、この短編も「賭け」を題材にしている。

賭けをするのは、食事会を主催する株式仲買人の男と、そこに招かれた美食家。ワインの産地と熟成年を当てるのである。

実はこのふたり、それ以前にも食事会のたびごとに賭けていた。
株式仲買人のほうは、文化人として、教養を身につけたいと願っている。そうして、ワインの知識は、自分が苦労して得た「教養」を披露する場なのである。
ワインを美食家に当てさせる。
そうすることによって、自分の出したワインが、識別されるに足るほどのものだと証明したい。
いっぽう、美食家の側は、自分の知識と蘊蓄を披露する場を求めている。

ふたりの欲望は見事にかみ合い、株式仲買人はいつもよろこんで負け、ワイン一箱を美食家に進呈していた。

ところがある日、株式仲買人のほうは、ちょっとやそっとでは当てられそうもないワインを手に入れる。
それを美食家との賭けに使ったのである。

美食家リチャード・プラットは、いつもとちがう賭け物を要求する。
ワイン一箱ではなく、株式仲買人マイク・スコフィールドの娘を。
そうして、自分の側からは、別荘二軒を賭け物として差し出す。

ここからふたりの心理戦が始まる。

「きみには絶対わからないよ、百年たってもね」とマイク。
「クラレットだね?」リチャード・プラットが、わざとらしくひかえ目にたずねた。
「もちろんさ」
「それじゃ、まあ、比較的ちいさな葡萄園のやつだろうな」
「そうね、リチャード、だけど、そうじゃないかもしれない」
「上作の年かね、それとも最上作の年?」
「ああ、それは保証するよ」
「そうだとなると、たいして難しくはないな」とリチャード・プラットは、いかにも退屈そうに、ものうげにつぶやいた。
(ロアルド・ダール「味」『あなたに似た人』所収 田村隆一訳 ハヤカワ文庫)

ここで明らかになるのは、人と人の賭けの場合は、競争の要素が強くなってくることだ。
ワインのテイスティングをめぐるマイク・スコフィールドとリチャード・プラットのやりとりも、『吾輩は猫である』で碁盤をはさんだ迷亭と独仙のやりとりと、さほどちがわない。

「迷亭君、君の碁は乱暴だよ。そんな所へ這入ってくる法はない」
「禅坊主の碁にはこんな法はないかも知れないが、本因坊の流儀じゃ、あるんだから仕方がないさ」
「しかし死ぬばかりだぜ」
「臣死をだも辞せず、いわんやてい肩をやと、一つ、こう行くかな」
「そうおいでになったと、よろしい。薫風南(みんなみ)より来って、殿閣微涼(びりょう)を生ず。こう、ついでおけば大丈夫なものだ」

相手が何を考えているかを読む。そうして、相手の裏をかくために、自分の真意を悟られないような言葉を口にする。
ここでは「賭け」は、競争と何ら変わるものではない。
碁でも、ワインのティスティングでも、もちろん運の要素はある。
けれども、賭けに臨む人々がそれ以上に頼りにするのは、自分の能力である。

運を試す賭けに勝つということは、自分がついている、神や運命が自分に味方してくれる、ということだ。
それに対して、人との「賭け」に勝つということは、自分の読み、判断、技能に対する「報い」が得られるということなのだ。

人と人との「賭け」は、必ずしも「ひとつ、賭けるとしようか」とばかり始まるわけではない。すべてが終わって、ふりかえって初めて、「あれは一種の賭けだったのだ」と気がつくこともある。

菊池寛の短編に『入れ札』という短編小説がある(戯曲も)。

代官を殺して逃亡中の国定忠治と子分たちは、少人数に分かれて逃げ落ちることになる。
苦難をともにした子分たちを、忠治は選ぶことができない。
そこで、入れ札(投票)によって、忠治と行動するにふさわしい子分を三人選ぶことになる。

九郎助は年長で、年齢的には第一の子分でなければならない。けれども過去の失策のために、地位がさがってしまっている。

 入れ札と云う声を聴いたとき、九郎助は悪いことになったなあと思った。今まで、表面だけはともかくも保って来た自分の位置が、露骨に崩されるのだと思うと、彼は厭な気がした。十一人居る乾児の中で自分に入れてくれそうな人間を考えて見た。が、それは弥助の他には思い当たらなかった。
(菊池寛『入れ札』『藤十郎の恋・恩讐の彼方に』所収 新潮文庫)


そこで、九郎助は自分に入れる。
ところが、九郎助には、自分が入れた一票しか入らなかった。九郎助は選に漏れたのである。

仲間から離れてひとり落ちる九郎助のあとを、弥助がついてくる。

「俺あ、今日の入れ札には、最初(はな)から厭だった。親分も親分だ! 餓鬼の時から一緒に育ったお前を連れて行くと云わねえ法はねえ。浅や喜蔵は、いくら腕節や、才覚があっても、云わば、お前に比べればホンの小僧っ子だ。たとい、入れ札にするにしたところが、野郎達が、お前を入れねえと云うことはありゃしねえ。十一人の中(うち)でお前の名をかいたのは、この弥助一人だと思うと、俺ああいつ等の心根が、全くわからねえや」
…(略)…
 柄を握りしめている九郎助の手が、だんだん緩んで来た。考えて見ると、弥助の嘘を咎めるのには、自分の恥ずかしさを打ちあけねばならない。
 その上、自分に大嘘を吐いている弥助でさえ、自分があんな卑しい事をしたのだとは、夢にも思っていなければこそ、こんな白々しい嘘を吐くのだと思うと、九郎助は自分で自分が情けなくなって来た。口先だけの嘘を平気で云う弥助でさえ考え付かないほど、自分は卑しいのだと思うと、頭の上に輝いている晩春のお天道様が、一時に暗くなるような味気なさを味わった。

この「入れ札」は、九郎助にとって、自分と、ほかの子分の間での、進退を「賭け」たものだったのだ。
「賭け」は、駆け引きを含む。けれども、それにはそのなかでの「フェアプレー」が要求される。
現実の世界ではさておいて、物語のなかでは、フェアプレーを違反する者は、かならずその報いを受ける。ロアルド・ダールの『味』においても、菊池寛の『入れ札』においても。

(この項つづく)


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