陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

「賭け」する人々 その7.

2006-09-14 22:37:58 | 
6.日々の賭け

「賭け」を辞書で引いてみると、つぎのふたつの定義が出てくる。

(1)勝負事などで金品を出し合い、勝者がその金品を取ること。賭け事。
(2)運を天に任せて思い切ってやってみること。
三省堂提供「大辞林 第二版」より


(1)は一般的に「賭け」と言われるものだろう。

ところが二番目の定義になると、確かにわたしたちはこういうことばの使い方を日常するのだけれど、これでは「賭け」の範囲はおそろしく拡がってしまう。
「結果がどちらに転ぶかわからないことを、思い切ってやる」であれば、ほとんどのことは結果がどちらに転ぶかわかりはしないのだ。

つまり、わたしたちが「賭け」と考えることが、わたしたちにとっての「賭け」なのである。
「これは賭けだ」と思うのは、どんなときなのだろうか。

それは、「賭け」によって、失うものがあるかもしれないときなのではないだろうか。

ロバート・コーミアの『チョコレート・ウォー』の主人公ジェリーは十四歳。この春、母親を亡くし、薬剤師の父親と二人暮らしである。

「ねえ、パパ」
「なんだい、ジェリー」
「きょう、薬局ではほんとにいつもどおりだったの?」

父親はキッチンの戸口で立ちどまり、けげんそうな顔になった。「どういうことだい、ジェリー?」
「つまりさ、ぼくが毎日、きょうはどうだったってきくと、パパは毎日、まあまあって答えるじゃない。すばらしい日とか、不愉快な日とかってないの?」

「薬局っていうのは、あまり変化がないものなんだよ、処方箋を受けとって、その処方箋どおりに薬を調合する――それだけのことさ。前もってよく調べ、ダブル・チェックしながら慎重に調合するんだ。医者の手書きの処方箋に関する噂はほんとうだけど、その話は前にしただろ」
 父親は眉をひそめて記憶をたどり、必死になって息子がよろこびそうな話題を見つけだそうとしていた。
「三年前に強盗未遂事件があったな――麻薬常習者が野蛮人みたいに薬局にとびこんできたんだ」

 ジェリーは、ショックと失望をなんとか顔にだすまいとした。
 それが父親をいちばん興奮させた事件なのだろうか? おもちゃのピストルをふりかざした若者がひきおこした、あわれな強盗未遂が? 人生ってそんなにおもしろくないもので、退屈でありふれたものなんだろうか?

 自分のこれからの人生がそんなものかと思うと耐えられなかった。まあまあの昼と夜が延々とつづいていく。まあまあ――よくも悪くもなく、すばらしくもまずくもなく、興奮もせず、なんてことない人生。
(ロバート・コーミア『チョコレート・ウォー』北澤和彦訳 扶桑社ミステリー)

ところがジェリーの日々はとんでもないことになっていくのだけれど、ここで見ておきたいのは、「賭け」を徹底して避けていくと、「まあまあ」の日々を送ることになるのではないか、ということなのだ。

薬剤師という職業が「賭け」であってはたまらない。
逆に、「賭け」という要素は徹底して避けられなければならない。

けれども、それだけではないはずだ。
日々、人が生きるなかで出会うことがら。それは、人に会い、話をする、ということなのではないだろうか。

多くの場合、わたしたちのコミュニケーションは、とくに意識することもなく、なんとなく始まり、なんとなく終わっていくのかもしれない。
それでも、相手の気持ちを知りたいとき。
表面で語られる言葉の向こうにこめられた相手の真意を読みとろうとするとき。
そうして、それに失敗すれば、何かを失ってしまうようなとき。

さらに、自分の言葉がこの関係をこわすかもしれない、そんな危険をはらみつつ選ばれた言葉。
あるいは、自分の内をさぐって、どうしても理解して欲しい、と願った言葉。
それが、失敗をすり抜けて、思い通りに相手に伝わった。理解して欲しい、と願ったように、相手は理解してくれた。

通じ合えた、という喜び。
相手とその話題をめぐって、ひとつになった、という喜び。
これは、宝くじに当たったのに匹敵するうれしさである。

このことを考えると、深いコミュニケーションを求めていこうと思うと、不可避的に、わたしたちは「賭け」ることになってしまうのだ。

(次回最終回)


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