陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

「賭け」する人々 最終回

2006-09-16 22:45:46 | 翻訳
7.「賭ける」ことに賭けてみる

「賭け」、とくに金銭を賭けてのいわゆる「賭け事」を罪悪視する考え方がある。

自分の欲望を抑えて、勤勉に働くこと。そうして、その労働で得た生産物や賃金は、自分の欲望のままに消費することなく貯蓄すること。

こういう考え方を「正しいもの」とするならば、ほんの一瞬で、何時間もの労働に匹敵するような金を手にするかもしれない賭け事は、許しがたい罪悪だろう。
「賭けるということ、それは、労働を、忍耐を、倹約を放棄することだ」。(ロジェ・カイヨワ『遊びと人間』)

そうして、幸運が瞬く間に転がり込むことは、ひとに陶酔と眩暈をもたらす。

ドストエフスキーの中編小説に『賭博者』という作品がある。

ドイツの観光地に滞在する将軍の子供たちの家庭教師をしているロシア人の青年は、恋人にそそのかされて、賭博場に足を踏み入れることになる。

正直のところ、胸がどきどきして、冷静でいられなかった。ルーテンブルグからこのまま立ち去ることはあるまい、必ずわたしの運命に何か根元的な決定的なことが生ずるだろう、ということは確実に承知していたし、とっくにもう決めてもいた。そうでなければならないし、いずれそうなることだろう。わたしがルーレットにそれほど多くのものを期待していることが、いかに滑稽であろうと、勝負に何かを期待するなぞ愚かでばかげているという、だれもに認められている旧弊な意見のほうが、いっそう滑稽なような気がする。それになぜ勝負事のほうが、どんなものにせよ他の金儲けの方法、たとえば、まあ、商売などより劣っているのだろう。勝つのは百人に一人、というのは本当だ。しかし、そんなことがわたしの知ったことだろうか。
ドストエフスキー『賭博者』原卓也訳 新潮文庫)

自分の運命を知ろうとしてルーレットに向かう主人公は、恋人のために賭け、元金を八倍にしてそれを渡す。それから徐々に、ルーレットにのめりこんでいくようになる。

 わたしは勝った――そして、また全額賭けた。前の分も、今の儲けも。
「三十一!(トラント・エ・タン)」ディーラーが叫んだ。また、勝ちだ! つまり、全部で八十フリードリヒ・ドルである! わたしは八十フリードリヒ・ドルを全額、真ん中の十二の数字に賭けた――円盤がまわりはじめ、二十四が出た。わたしの前に、五十フリードリヒ・ドルずつの包みが三つと、金貨が十枚、積み上げられた。前の分と合わせて、わたしの手もとに、総額二百フリードリヒ・ドルできていた。

 わたしは熱病にうかされたように、その金の山をそっくり赤に賭け、突然われに返った! そして、その晩を通じて、全勝負を通じてたった一度だけ、恐怖が寒さとなって背筋を走りぬけ、手足にふるえがきた。わたしは、今負けることがわたしにとって何を意味するかを、恐怖とともに感じ、一瞬にして意識した! この賭けにわたしの全生命がかかっていた!

こうして主人公は巨額の金を手に入れるが、やがてそれもパリで蕩尽してしまう。
ふたたびヨーロッパ各地の賭博場をまわって、債務のために刑務所にまで入る。
それでも賭博場から離れられない。かつての友人に再会して、こうした質問を投げかけられる。

「……どうなんです、あなたは博打をやめるつもりはないんですか?」
「ああ、あんなもの! すぐにでもやめますよ、ただ……」
「ただ、これから負けを取り返したい、というんでしょう? てっきりそうだと思ってましたよ。しまいまで言わなくとも結構です。わかっているんですから。うっかり言ったってことは、つまり、本音を吐いたってことですよ。どうなんです、あなたは博打以外には何もやってないんですか?」
「ええ、何も……」
…(略)…
「あなたは感受性を失くしちまいましたね」彼が指摘した。「あなたは人生や、自分自身の利害や社会的利害、市民として人間としての義務や、友人たちなどを(あなたにもやはり友人はいたんですよ)放棄したばかりでなく、勝負の儲け以外のいかなる目的をも放棄しただけでなく、自分の思い出さえ放棄してしまったんです。わたしは、人生の燃えるような強烈な瞬間のあなたをおぼえていますよ。でも、あのころの最良の印象なぞすっかり忘れてしまったと、わたしは確信しています。あなたの夢や、今のあなたの最も切実な欲求は、偶数、奇数、赤、黒、真ん中の十二、などといったものより先には進まないんだ、わたしはそう確信しています!」

賭け事は、予想して金を賭け、結果がでるまでのあいだ、「全生命がかかっていた」と感じるほどの怖ろしいほどの緊張感をもたらす。そうして勝ったときの眩暈がするほどの陶酔。
だからこそ、そこまで人は夢中になるのだ。
『賭博者』の主人公のように、賭け事で身を持ち崩す人も、実際に少なからずいるのだろう。

人は大昔から、それこそ火を使い始めるのとほとんど変わらない頃から、賭けを続けてきた。

あるいはまた、日常生活のさまざまな場面で、たとえ金銭はからまなくても、失敗して、何かを失うことがあったとしても、思い切ってやってみるという意味での「賭け」を、さまざまな場面でし続けている。

あるいはまた、生まれつきのさまざまな制約と不平等のなかで、これだけは万人に開かれているはずの「運」を求めて宝くじを買うこともある。
現状からの飛躍を求めて、オーディションに応募したり、小説を書いて公募に出したりすることもあるだろう。

こうした「賭け」の要素を排して、ただひたすら「勤勉に働くこと」が、ほんとうに「善い」ことなんだろうか。
それでさえ、運に乗じたり、機を読んだり、という、一種の「賭け」の要素があるのではないだろうか。

明日また勤勉に働けるように、余暇に体を休める、リフレッシュする、という意味の遊びを越えて、それ自体が目的となるような「遊び」、真剣な「遊び」を求めることは、よくないのだろうか。
ほかには味わえないような、賭け事の緊張を求めていくのは、悪いことなのだろうか。

「賭博に打ちこむ人間たちの心」が恐ろしいのではなく、おそらく人間の心(もしそんなものがあるとして)のなかには、もともと恐ろしい部分があるのだ。そうして、「賭博」はその恐ろしさを凝縮してしまったり、制御不能にしてしまったりする可能性があるから、恐ろしいのだろう。

「賭博」がよいことか悪いことか、わたしはここでそんなことがいいたいわけではないし、わたしに言えることでもない。
そうではなくて、未来を知ることができないわたしたちは、さまざまな場面で「賭け」を不断にし続けざるを得ないのだ。
自分のコントロールできる範囲を限定してお金を賭けてみることだって、そのあいだ、ワクワクドキドキが楽しめるのなら、それもいい。
そのことが、自分にとってどういう意味を持ってくるのか、それを決めるのは、結局は、その人自身ということになるのだろう。

賭ける。
これは大昔から人間が続けてきた営みのひとつなのだ。

(この項終わり)