陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

たで食う虫はエゴイストにはなれない

2006-09-05 22:34:05 | weblog
「高尚なご趣味で」という言い方があるが、たいがいそう言っている人間は、腹の中で「また、ものずきな」と思いながら言っているにちがいない、とわたしは思う。

たとえお茶にしても、詩吟をうなるにしても、囲碁にしても、どこに出しても恥ずかしくなさそうな趣味ではあるけれど、それに夢中になってしまえば、端から見ればどこか滑稽だ。このあいだ、自転車に乗りながら詩吟をうなっていたおじさんを見かけたのだけれど、本人が実に気持ちよさそうなぶん、見ているわたしはなんとなくおかしくなってしまった。

こうなると、「オタク」だの「マニア」だのと、多少の揶揄といくぶんかのさげすみをこめて語られる(ではないのかな? 不快に感じる人がいたらごめんなさい)「鉄道マニア(いわゆる“てつ”)」や「アニオタ」などと実際にはなんら変わるものではない。

思うのだけれど、「適度に」好き、程良く「好き」などという状態を維持できるというのは、じつはそれほど好きなのではなく、せいぜいが「好きな自分が好き」のレベルに留まっているのではないだろうか。ほんとうに好きとなると、おそらく我を忘れてしまう。端から見ると「ちょっと大丈夫?」とでも言いたくなるような、一種、常軌を逸した部分を不可避的に抱えてしまう。

古本屋で床に直置きしてある文庫本をよく見ようと、いきなり床にはいつくばったり(わたしです)、待ち合わせ場所の本屋でほしい本を見つけてそのまま帰ってしまったり(これもわたしです)、こういう行動は単にマヌケなだけではなく、やった本人は決して反省していない。それどころか同じ局面ではきっと同じことをするにちがいない、と思っている。

知り合いにもドラゴンズの野球中継をTVで見るときは、かならずメガホンを手元に用意して、それを振りながら見る、そうすると勝率が上がる、と大まじめな顔をして言う人物がいるが、たまたま彼は高校生に数学を教えている。いったいどのような因果関係をもとに勝率を割り出しているのか不思議になってしまうのだが、おそらくそれが「好き」ということなのだ。

「好きな自分が好き」な人、というのは、どう見えるかがいつも気になるから、好ましい本の背表紙をさりげなく見えるように持ち歩くことをしても、いきなり床にはいつくばったりはしない。「好きな自分が好き」な人も、もちろんそれについて話すし、事実、よく知っていたりもするのだけれど、「自分が他人にどんな印象を与えるか」をつねに気にかけているので、夢中で話していて、ふと気がつけばまわりがしらけていたりすることは決してない。

つまり、ほんとうに好きな人というのは、多少滑稽であり、子供っぽくもあり、いくぶん極端でもある。「なんでそこまで夢中になれるんだ」という思いには、賛嘆と同時に、「ものずきな」という揶揄もこめられているはずだ。

ただ、これは自分がそうだから言っているのかもしれないのだけれど、滑稽であろうが、子供っぽかろうが、「好きな自分が好き」な人よりは、我を忘れるくらい好きになれるものがあったほうがずっといい、と思う。
「好きな自分が好き」な人には、自分以上に好きなものはない。
こういう人を、別の言い方で、「エゴイスト」というんじゃないだろうか。
おそらく、そういう人の世界は、寂しいもののはずだ。
寂しいよりは、滑稽な方が、ずっと楽しい。


(※すいません、まだ推敲終わってません。明日、がんばってしあげます)