陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

伴走者として

2006-09-17 22:27:39 | weblog
中学のとき、好きな先生がいた。
わたしはこの先生に、冬樹社版の『坂口安吾全集』を借りて、一冊ずつ全巻読んだのだ。巻によっては、まだ開いたあとさえなく、真新しいページをぱりぱり音をさせながらめくったこともあった。そういうときは、本を読む前に手を洗い、表紙を覆うろうびきの紙を破らないよう、緊張しながら読んだものだった。

この先生に、あるとき話をしにいったことがある。
日々感じていた周囲との齟齬や、ばくぜんとした将来に対する不安のようなものを話したのだった。
この先生だったら、わかってくれる、という思いも、どこかであったのだと思う。

自分がどういったふうに話をして、それに対して、どのように答えてもらったのか、いまはもうまったく覚えていない。ただ、ごくごくありきたりの、当たり障りのない返事をもらって、ああ、この先生にもわかってもらえなかった、と、ふたがれたような胸をかかえて教官室を出、渡り廊下を歩いていると、薄いグレーの雲が、まるで手を伸ばせばつかめるほど低くたれこめていたのを覚えている。

それからずいぶん時が過ぎ、さまざまな出来事があり、また本を読み、あるいは多くの話を聞いてきた。
そうしながら気がついたことがいくつかあった。

そのひとつが、「いい話」「感動する話」をするのは、それほどむずかしいことではない、ということである。

困難を抱えていたり、行き詰まっていたりする人に、「正論」を言うことは、むしろ簡単なことだ。
人の悪いところはよく見える、という。
あなたのこういうところがまちがっている、あなたはこうすべきだ、と、指摘する。
なるほど、それはまったくその通りでもあるのだろう。

けれども、その人が、無関係の第三者から見て「誤った」選択をしてきたのも、それなりの必然があったのだ。さまざまな要素があって、その結果として、いくつかの選択を続けていき、そうやってそこにたどりついていったのだ。

ヘンな話だけれど、『ドラえもん』の基本的なストーリー展開をごぞんじだろうか。
のび太がいつも困った状況を回避しようと、ドラえもんに秘密道具を出してくれるように頼む。ところが、最初は役に立つように思えたその秘密道具も、やがて事態をいっそう混乱させることになる。そうしてエントロピーが最大値になったところで、たいていの物語は終わるのだ。

なぜドラえもんの秘密道具は事態を打開できないのか。
それは、その「秘密道具」が、その事態を引き起こしている根本的な原因には一切関与していないからだ。
通常「困ったこと」として表面化する、たとえば「寝坊して遅刻した」「宿題をやっていくのを忘れた」「テストで0点を取った」という事態を、その場かぎりで解決するための道具を出したところで、その場こそ取り繕えても、それ以上の効果は望めない。
たとえば「正義の旗印」という道具は、その旗を背中に背負っていれば、どんなことをいってもそれが正しい、ということになる道具で、のび太君はお母さんに「0点が一番いい点なんだよ」と言い張って、納得させることに成功するのだけれど、その調子でいろんなことを続けていたら、風が吹いてきて、その旗が折れて……ということになるわけだ。

つまり『ドラえもん』というマンガは、子供にはそのおもしろい道具を見せておきながら、自分で解決しなければ、結局は大変なことになるのだよ、と教えている、大変に教育的配慮の行き届いたマンガなのだ。

そうして、いわゆるアドバイスというのも、このドラえもんの秘密道具とどれほどちがうのだろうか、と思うのである。
アドバイスをする人間は、あたりまえだけれど、行き詰まったり、困難を抱えたりしている人間と同じ位置に立っているわけではない。
困難を抱えた人間が、その位置から問題を取り出し、「原因」をこれまでの状況全体から取り出すのを聞いて、判断しているのにすぎない。
もしかしたら、その問題の立て方自体がまちがっているのかもしれないし、もっと多くの要因が複雑に絡み合って「原因」となっているのかもしれない。

そういうことは、アドバイスをする人間には決してわかることではないのだ。

もちろん、端から見ていてあきらかにそこがおかしい、と指摘できる点もある。けれども、その「おかしい」選択を必要とした状況を変えずに、おかしいところだけを直したとしても、それはドラえもんの「正義の旗印」を使うことと変わらない場合だって十分にありうる。その「アドバイス」どおりにしたことが、事態を一層混乱させることだってあるだろう。そんなとき、アドバイスをした人間は、そうなったことの責任が取れるのだろうか。

そういうことを考えると、端の人間に言えることというのは、ごく一般的な、当たり障りのないこと以上ではなくなってしまうのだ。

いっそ、一般的な当たり障りのない話なら、困難を抱えた人間とは直接には関係のない「いい話」「元気が出る話」「勇気が出る話」をすることだってできる。
自分がうまくいった話。
困難な状態にあった人が、それをはねのけた話。
苦労しながら頑張り抜いた人の話。
それを聞いた人は、それを聞いて、よし、自分も頑張ろう、と思うかもしれない。

けれども、そう思わないかもしれない。
そんなことを思える状況にはないかも。
そんなことは、端の人間にわかることではないのだ。

どこまでいっても、自分の問題を解決できるのは、自分しかいない。
困難な状況を、「何が問題なのか」「どこに問題があるのか」という形で整理できるのも。
この状況の「原因」が、どこにあるのか、と見極めることができるのも。
どうしたらいいか、あるいは解決を妨げている何ものかがあるのか、ということも。
結局は、その人が自分で見つけるしかないのだ。

おそらく、ドラえもんがのび太の助けになっているとしたら、それは、ドラえもんが「そこにいる」という一点においてだ。
『坊ちゃん』に清がいたように。

もしわたしたちが他者の何らかの助けになることができるとしたら、それはおそらくそういうあり方しかないような気がする。

たとえ、あなたがどういう状態にあっても、自分はここにいるから、と。
どういうことになっても、逃げないで、ずっとここにいてあげるから、と。
そういうサインを送り続けること。

これは、簡単なようで、実はものすごく大変なことであるように思える。
これを超える他者との関わり方、というのを、わたしは思いつかない。