陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

「賭け」する人々 その2.

2006-09-09 23:01:27 | 
1.運と賭ける

わたしたちが賭けをする相手は、人間ばかりではない。
人とは賭けない類の賭けがある。
宝くじ、スロット、サイコロ、いわゆる「賭け事」と呼ばれるものの多くは、わたしたちが特定の「誰か」と賭けるのではない。もちろんそうした賭けには、胴元がいるのだけれど、賭けをする人は、あまり胴元と勝負をしているような意識はない。

バーバラ・キングソルバーの小説『天国の豚』には、こんな場面がある。
テイラーとその養女タートル(このふたりについては「ものを食べる話」の“4.天国での食事”でもふれている)は、買い物をして、車に戻ってきたところでワイパーに封筒が挟んであるのを見つける。宛先を間違えたいかがわしげなメモと、五十ドル。

「キャディって誰?」とタートルが知りたがる。
「大きな白い車を持ってる別人よ。フーブスっていう男の人が彼女にお金を借りてて、彼女とじかに顔を合わせたくなかったのね」
「どうしてあたしたちにくれたの?」
「わたしたち、ついてるってことよ」
「あたしたちがどこへいったらいいか教えてくれるしるしって、それだったの?」
「でしょうね。わたしたちにつきがまわってきたってしるしよ。お金がひとりでに入ってくるんだわ。ラスヴェガスへいくべきでしょうね」
「ラスヴェガスってなに?」
「人が運試しをしにいくところ」
 タートルは考えこむ。「それでどうしようっていうの?」
「それでもっとお金を手に入れようっていうの」

「運試し」がしたくなるとき、というのは、どんなときだろう。
何もかもうまくいっているとき。
いま、「ついている」と思う。そう感じるときは、たいてい、この好調がいつまで続くのだろう、という不安をばくぜんと抱えてもいる。それを確かめようと、運試しをする。

あるいは、困難を前に、乗り切れるかどうか、不安なとき。
「つき」の助けを借りたい。
自分に「つき」はあるのだろうか。そういうときも、運試しがしたくなる。

『天国の豚』では、チェロキーインディアンの子供であるタートルは、若い白人で未婚のテイラーなどではなく、チェロキー族の下でその一員として育てられるべきだと考える人物が登場する。タートルと引き離されそうになったテイラーは、着の身着のまま逃げ出したのだ。

もちろんテイラーはお金が必要だ。けれど、本当に知りたいのは、自分につきがあること、運命が自分に味方してくれているのだ、と確かめたい。ラスヴェガスで手に入るかもしれないお金は、「その証し」なのである。

大昔の人々にとって、世界は謎と不思議に満ちていた。
狩りで獲物が捕れるだろうか。
明日は好天に恵まれるだろうか。
雨が降ってくれるだろうか。

神や状況が自分に味方してくれるときもある。味方してくれないこともある。
大昔の人々は、それを知るために占いをし、くじをひいた。

時代がくだっても、未来がわからないことには変わりはない。
それでも人は、勤勉に働き、努力を続ければ状況は好転する、と思いながら、日常生活をおくっている。
けれども、ときに「運」が自分に味方してくれるかどうか知りたくなる。
年の初めにおみくじを引いたり、占いをしてみたり。
そういう行為と少額の宝くじを買うことのあいだには、それほどの差はないだろう。

けれども、「運」の証としての「賞金」は、ときに、日々の生活では決して得られないだけのものが瞬く間に手に入ってしまうことがある。そういう話を聞いた人のなかには、日々の労働や忍耐を放棄する人々が出てくる。
「運試し」のはずが、目的になってしまうのだ。

テイラーも、偶然手に入れた50ドルは、瞬く間に、スロットに呑み込まれてしまうことになる。

(この項つづく)