陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

アンブローズ・ビアス 「月明かりの道」 その3.

2006-05-20 21:59:27 | 翻訳
II. キャスパー・グラタンの手記(前編)

 いまのところ、どうやらわたしは生きているらしい。だが、明日になればこの部屋で、ただ長々と、土塊と化したこの身を、何も感じぬまま横たえることになる、それがこのわたしなのだ。よしんばだれかがその厭わしい土塊の顔をおおう布を持ち上げるようなことがあったとしても、病的な好奇心が満たされるだけであろう。あるいは、それだけにとどまらず、「誰の死骸だ?」と尋ねる者もいるにちがいない。この手記の中で、自分にできる唯一の答えを記しておこう――キャスパー・グラタン、それでおそらく十分だろう。この名前が、正確には何年であったかよくわからない歳月のうち、二十年以上の長きに渡って、わたしのささやかな必要に応えてくれたのだ。そう、この名をつけたのはわたし自身なのだが、もうひとつの名を失ってしまったために、わたしにはその権利はあったといえよう。この世では、人は名前なしではいられない。相手の正体が判然としないときでも、名前さえわかっていれば、さほど困ることはない。数字によって把握される人間は確かに存在するが、それでも識別のためにはやはり不十分と言わざるを得まい。

 その証拠に、ある日、わたしがここから遠く離れた街の通りを歩いていたときのこと、ふたりの制服警官と行き会ったのだが、ひとりが半ば立ち止まってわたしの顔にしげしげと眺め入ったあげく、連れにこう言ったのだった。「あの男は767号に似てるな」その数字はひどくわたしには懐かしく、かつ、恐ろしくもあった。抑えようのない衝動に駆られて咄嗟に脇道に飛び込んで突っ走り、やがてへとへとになったころには、すっかり道のまわりは街を遠くはずれていた。

 その数字は忘れようがないばかりか、思い出すときはいつも、ぺちゃくちゃと卑猥なことを言い募る声や、うつろな笑い声、鉄の扉のガチャンと閉じる音が一緒によみがえってくるのだ。だからわたしは名を名乗る、たとえ自分でつけた名前でも、番号よりははるかにましだと思うからだ。だが無縁墓地に記載されるときには、わたしは両方とも持つことになるのだろう。なんと贅沢なことか!

 この覚え書きを見つけてくれた人に、いささかの配慮をお願いしたい。これはわたしの来し方を記したものではない。書くべきことが限られているため、そのようなものは記せないのだ。断片的な記憶をバラバラに寄せ集めることしかできず、それも一本の糸に連なる色鮮やかなあざやかな数珠のように、くっきりと順を追った記憶もあれば、突拍子もない奇妙な出来事が、ところどころ空白をはさみながら赤く彩られた夢のように浮かび上がる記憶、ちょうど、荒野で禍々しい魔女の燃やす火が、音もなくまっ赤にたちのぼっているようなものもある。

 此岸のほとりに立って、自分がこれまでたどってきた道を、最後に振り返る。二十年、血を流しながら歩いてきた足跡が、くっきりと刻まれている。貧困と心労のなか、道を誤り不安に苛まれ、重荷を背負ってよろめきながら歩いた跡なのだ。

孤立し、見捨てられ、暗鬱で、足取り重く

ああ、この詩人はわたしのことを予言していた――なんとあっぱれな、恐ろしいまでに見事な予言であろうか。

 イエスが最後に歩いた悲しみの道のような、わたしの来し方――罪の挿話が散りばめられた受難の叙事詩――その始まりを振り返っても、はっきりとしたものはなにも見えてこない。雲のなかから急に現れているのだ。わずか二十年分の道のりしかないが、わたしは老人なのだ。

(この謎の老人の正体は一体何ものであるのか? 明日あきらかになる…はず)

アンブローズ・ビアス 「月明かりの道」 その2.

2006-05-19 22:28:14 | 翻訳
その2.ジョエル・ヘットマン・ジュニアの陳述文(後編)

 わたしは学業を放擲し、父の下に留まりました。父は、当然ではありますが、まったく別人のようになってしまいました。元来、落ち着いた寡黙な人間だったのですが、いまや深く落胆し、自分のうちに閉じこもるもようになり、なにがあっても意識を外に振り向けることができなくなったのです。とはいえ、物音、足音がしたり、急に扉がばたんと閉まったりすると、つかのま、耳をそばだてるのでした。それは注意を引かれたというより、不安におののいた、といったほうが良いのかもしれませんが。感じたことがどんな些細な出来事であったとしても、父はあきらかにぎくりとし、蒼白になることさえあり、そうなるときまってそのあとは、いっそう深い絶望の淵に沈み込んでしまったのです。おそらく父は、いわゆる「ノイローゼ」のような状態にあったのだと思います。わたし自身は、その当時、若かったこともあって、ともかく、若さというのはたいしたものでした。若いということが、いかなる傷をも癒す薬となっていたのです。ああ、わたしがいまふたたび、あの魅惑の世界に住むことができるなら! 悲嘆ということを知らないばかりか、喪失の重みを量ることさえできなかったのです。打撃の大きさを、正確に理解することなど、できようもなかったのです。

 あるばんのこと、そのおぞましい出来事から数ヶ月がたっていましたが、父とわたしは市街地から家へ一緒に歩いて帰っていました。東の空から満月がのぼって、三時間ほどが経ったころだったと思います。あたり一帯、夏の宵の厳かな静けさがたれこめていました。聞こえるのは、わたしたちの足音と、途切れることなく鳴き続けるキリギリスの声だけ、並木が道に人を寄せつけまいとするかのような黒い影を落としていて、それが途切れる狭い部分だけが、ぼおっと白く浮かび上がっていました。家の門にさしかかったところ、門の前は闇に沈んで、灯りもなかったのですが、父は突然立ち止まり、わたしの腕をつかむと、ほとんど声にはならない、吐息だけのような声でこう言ったのでした。

「おお、あれはなんだ?」

「何も聞こえませんが」

「見えるだろう? あれを見ろ!」そう言って、道の前方をまっすぐ指さしたのです。

「なにもありゃしません。おとうさん、家に戻りましょう。お父さんは加減が良くないんですよ」

 父はそのときにはもうわたしの腕をふりほどいて、月に照らされた道のまんなかに、身をこわばらせて突っ立ったまま、常軌を逸した者のように虚空を見つめていました。月明かりの下で見る父の顔は蒼白で、言葉にできないほどつらそうな表情を顔に貼りつけていたのです。わたしは袖口をそっと引っぱりましたが、父はわたしの存在など、忘れてしまっていました。やがて父は一歩一歩、あとずさりをし出しました。ほんの一瞬も、自分が眼にしているもの、あるいは、眼にしているはずの何ものかから目を離そうとしないまま。わたしは父のあとをついていこうとして半身を後ろに向けたのですが、どうしていいかわからないまま、その場にたちつくしていました。恐怖に襲われた、とも思えないのです。ただ、身体に感じた、突然の冷気がそれでないとしたら、なのですが。氷のような風が頬を撫で、頭のてっぺんからつま先まで、すっぽりと包み込まれたように思いました。その冷気に髪もなぶられるのを感じたほどです。

 そのとき、家の二階の窓から突然灯りが差してきて、わたしはすっかりそれに気を取られてしまいました。召使いのひとりが、凶事のいかなる予兆を感じたのかはわかりませんが、目を覚まし、言いようのない衝動に駆られて、ランプに灯をともしたのでした。つぎにわたしが父を振り返ったときには、その姿はなかったのです。それから長い歳月が過ぎましたが、父の運命がどうなったかを告げるかすかな声さえ、だれも知らない王国とわたしたちを結ぶ推測という名の国境からは、聞こえてはこなかったのでした。

(この項つづく)

(※ katydid を辞書でひくと、キリギリスと出ているんですが、キリギリスって夜鳴くんですか? これ、スズムシとかコオロギとかじゃないかな、と思うんですが、夏の夜に、キリギリス、鳴くんでしょうか。ごぞんじのかた教えてください)

アンブローズ・ビアス 「月明かりの道」 その1.

2006-05-18 22:05:55 | 翻訳
今日からアンブローズ・ビアスの短編「月明かりの道」を訳していきます。
原文はhttp://gaslight.mtroyal.ab.ca/moonltrd.htmで読むことができます。


アンブローズ・ビアス
月明かりの道


1.ジョエル・ヘットマン・ジュニアの陳述文

 わたしほど運の悪い人間もいないでしょう。資産はある、まずまずの教育も受けている、身体の健康状態も申し分ない、ほかにも有利な条件はいくつも揃っていて、似たような境遇の者からは重きを持って扱われ、境遇の劣る者からはうらやましがられてきましたが、実際、ここまで順風満帆でなければ、公的な生活と私生活の落差を骨身にしみるほど思い知らされることもなかっただろう、と、折に触れて考えたものです。暮らしに事欠き苦労し、なんとかする必要に迫られていたならば、わたしにつきまとう、考えても疑ってもきりのない、あの陰惨な秘密を忘れることもできるだろうに、と。

 わたしはジョエル・ヘットマンとジュリアの間に生まれたひとり息子です。片や豊かな地方郷士、片や美しく洗練された女性として夫から情熱的に愛されている。そこに嫉妬と強烈な独占欲があったことはいまのわたしには理解できます。わたしたちの家は、テネシー州ナッシュヴィルから数キロ離れたところ、街道から少し奥まったところ、木や灌木に囲まれて、大きくて均整を欠くどの建築様式にもあてはまらない屋敷としてありました。

 この書面でわたしがしたためようとしているのは、わたしが十九歳、イェール大学の学生であったころの話です。わたしはある日、父からの電報を受けとりました。それには緊急事態発生とだけあり、何の説明もなかったけれど、それに従ってすぐに家路につきました。ナッシュヴィルの駅には、遠縁にあたるものが出迎えてくれ、わたしが帰宅するよう求められたわけを教えてくれました。母が惨殺された、というのです。なぜ母がそんな目に遭ったのか、あるいはだれの手にかかったのかも、憶測すらできなかったのですが、情況は以下のようなものでした。

 父は翌日の午後帰宅する予定で、ナッシュヴィルに出向きました。ところがとりかかった仕事に支障が起こり、発ったのは当日の夜更け、家に戻った頃には、ちょうど夜明け前になっていたようです。検死審問での父の証言では、鍵も持っておらず、眠っている召使いを起こすのもしのびなかったために、確たる理由もなく、家の裏手に回ったというのです。家の角を曲がったところで、扉がそっと閉まる音が聞こえ、暗がりにぼんやりとした人影が浮かび上がったかと思うと、すぐにまわりの木立のなかにかき消えてしまった。急いであとを追いかけ、地面をざっと調べたあげく、この侵入者は召使いのだれかにこっそりと会いに来たのだけれど、首尾をとげることができなかったのだろう、と考えて、父は鍵のかかっていないドアからなかに入り、妻の部屋のある二階に上がっていったのでした。部屋のドアは開いており、暗い部屋の中に一歩足を踏み入れたとたん、床のなにか重いものに躓いて、頭から倒れ込んでしまったのでした。詳述は避けてもかまわないでしょう。ともかく、それは気の毒な母で、なんと人の手で首を絞められ死亡していたのでした。

 家のものはなにひとつ盗まれてはいませんでしたし、召使いのなかにも、物音を聞いたものはいませんでした。死亡した母の喉元に残ったおぞましい指紋――おお、神様、あの指紋のことなどどうか忘れさせてください――を除けば、犯人はいかなる痕跡も残してはいなかったのです。

(この項つづく)

サイト更新しました

2006-05-17 22:21:56 | weblog
先月ここで連載していた「ダイアン・アーバスの写真に対する補筆」を加筆修正して「写真を読むレッスン ――アーバスの写真を読んでみよう――」と改め、サイトにアップしました。もう少し書ききれてない部分をそのうち加筆するつもりなんですが、いったんはこれでアップしたいと思います。
http://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/index.html

これを読まれた方が、写真というものはなんだかおもしろそうだな、こんど見てみよう、と思ってくだされば、これに勝る喜びはありません。

なんだかずいぶん時間がかかったわりには、たいしたことも書いてないんですが。
それは今後の宿題ということにして。

はぁ。疲れました。
アイスクリームでも食べて、寝よう。

それじゃ、また。

ゴミの話

2006-05-16 22:46:05 | weblog
わたしの住む地域では、週に二回、燃えるゴミの回収があり、月に二回、資源ゴミと粗大ゴミの日がそれぞれにある。

わたしが住んでいる集合住宅には、ほとんど一軒分くらいの大きな集塵庫があって、そこにゴミを出すようになっているのだが、回収日に当たる日は、ゴミ収集車が回収し終えると、すぐに掃除が始まり、それから翌朝六時まで、締め切りになる。つまり、週二日をのぞくと、だいたいいつ出しても良いシステムなのだ。だから、だいたい毎朝仕事に行くついでにゴミを出す、というのがだいたいのパターンで、たまにイレギュラーな仕事が入ったりすると、うっかりいつものように持って降りて、ああ、シマッタ、今日はゴミが出せない日だった、ということになってしまい、そうなるとまたはるばる持って上がらなくてはならなくなってしまう。

鍵のかかった集塵庫の前には、かつて不心得者がゴミをそこに置きっぱなしにした証拠写真が貼りつけられていて、もちろんそれはわたしではないのだけれど、その写真には英字新聞が写っていて、ちょっと肩身が狭く感じてしまうのである(ちなみにわたしは英字新聞は取っていないのだけれど、たまにもらってくる)。

とにかく、いったん家から出してしまったゴミを、またもう一度家に戻す、というのは、結構な抵抗感がある。落ちた髪の毛でも、切った爪でも、さっきまで自分の身についていたときはちっとも汚くないのに、自分の身から離れた瞬間、ゴミになってしまい、紙くずなどよりいっそう不潔感を伴う、というのは、いったいどういう心理なのだろう。ともかく、いったん家から出したゴミを持って入る抵抗感、というのは、床に落ちた自分の髪の毛を目の当たりにするのに近いものなのかもしれない。

ともかく、そうやって、また階段をせっせとあがって自分の家に戻り、台所のダストボックスにもう一度放り込み、ふたたび鍵をかけて階段を下りて仕事場へ向かうのである。

実は、一度だけ、持って上がる時間がなくて、ゴミを持ってそのまま駅に向かったことがある。スーパーのポリ袋に入った、一日分の生ゴミと、あと紙くずが少し、量としてはそれほど多いものでもない。途中のスーパーかどこかののダストボックスに、こっそり不法投棄しようと思ったのだ。

ところがいざしようとなると、人目が気になる(実は小心者なんです)。結局、どこにも捨てられないまま、駅の駐輪場まで来てしまった。そうでなくてもギリギリの時間に出たのに、あちこちのゴミ箱を観察して、さらに遅くなっていた。駐輪場に着いたときには、すでに前カゴに入れていたゴミ袋のことは記憶になかった。

そうして、夕方、わたしは自転車置き場のわたしが自転車を置いたあたりから異臭が漂ってくるのを発見することになる。

ええ、それは持って帰って、さすがに家の中に入れる気にはなれなくて、玄関前の物置の下の段(ふだんそこに新聞紙や資源ゴミを保管している)に入れておきました。以前、同じように、ゴミを出せない日に持って降りてしまって、再び持って上がって、入れっぱなしにしてしまった苦い経験があるので、そういうことのないように、冷蔵庫の前にメモを貼って置き、翌朝さすがに忘れず、しっかり出して置いた。

ところがゴミを出し終えてから、朝食のパンを買おうと通りを渡ろうとしたときだ。集塵庫で出会った人が、わたしと一緒に通りを渡り、向かいのアパートに入って行くではないか。

そうなのだ。その人はわざわざ通りを渡って、わたしの住むアパートまで、ゴミを出しに来たのだ。おそらくそこでは収集日以外に出してはいけない決まりがあるのだろう。
ゴミというものは、一刻も早く、自分の家から外に出したい。だが、自分の住む場所では出してはいけない決まりがある。そうなると、通りを渡って出しに来るわけだ。それも一種の不法投棄にはちがいない。

ゴミというものは、考えてみれば奇妙なものだ。
「ゴミ」という状態でなければ、家にあってもかまわないのに、「ゴミ」となると、その瞬間に外に出したくなってしまう。
このありようは、少し考えてみたほうがいいのかもしれない。

お地蔵様の話

2006-05-15 22:29:21 | weblog
図書館脇の四つ辻にお地蔵様を祭った小さなお堂がある。
どちらも片側一車線の、さほど広くもない道路なのだけれど、東西に伸びる道は駅へ続き、南北に伸びる道は幹線道路に続くということで、交通量は多く、夕方には渋滞していることが多い。

信号待ちのあいだ、お堂のなかをのぞいてみるのだけれど、いつ見てもきれいに掃き清められていて、花やジュースがお供えされている。「奉納」と黒いマジックで書いてあるお地蔵様の赤いよだれかけには、いつもアイロンがピンと当たっている。

わたしが子供のころを過ごしたあたりにも、こうした四つ辻にお地蔵様があった。お堂はなくて雨ざらし、たぶん姿形もはっきりとしていなかったように思うのだけれど、そこにもやはりお供えはしてあった。
朝、そこの前を通るときには、歩道で交通整理をしている「みどりのおばさん」に頭を下げるように言われ、わけもわからず頭をさげていた記憶がある。もちろん帰りがけ、だれもいないところで頭を下げるはずもなく、そんなものがあるなどということさえ忘れていた。

そこの四つ辻で、学校の帰りがけ、姉が交通事故に遭ったことがある。
歩道を渡っていて、右折してきた車にぶつかったのだ。
幸い、車がスピードを出していなかったために、姉はアスファルトで頭を打ってこぶを作ったぐらいだったのだけれど、現場を目撃した近所のおばさんは、真っ先に救急車を呼び、そのときの自分の迅速な対応を、しばらく何度も家に来ては繰り返していた。

そのおばさんは、R子ちゃんが無事だったのも、お地蔵様が守ってくれたんだよ、R子ちゃん、お地蔵様にお礼言っときなよ、と決まってそう言っていたものだったが、あるとき、いつもの話のほかに、こんなことを教えてくれた。

そこの四つ辻は見通しが悪くて危ないんだけど、不思議に大きな事故がないんだよ。お地蔵様が守ってくれてるからね。
あのお地蔵様、なんでできたか知ってる? お地蔵様ができる前は、信号機もなくてね、よく事故があったんだよ。いつか大変な事故になる、ってみんな言ってた。
それがね、ある日とうとう××さんとこの息子さんが、トラックにはねられてね、亡くなったの。即死だったんだよ。ちょうど雨の日でね、××さんの奥さんは、傘を持って迎えに行ってたとこだったのさ。それからというもの、雨のたんびに××さんの奥さんは、傘持ってそこで待つようになってさ。みんなあんまり気の毒だから、いろいろ話しかけたりしてたんだけどね。家に帰ろうとしないのさ。もうすぐ帰ってくるってね。
じき、越してっちゃったんだけどさ。
それで町内で相談してさ、市役所にかけあって、信号機つけてもらって、それと一緒にそこにお地蔵様を祀ることにしたんだよ。
良かったよ、R子ちゃんも。お地蔵様のおかげだよ。

すでにそれなりの知恵がまわる子供に育っていたわたしは、大きな事故がなくなったのは、おそらく信号機のせいだろうと思ったけれど、それよりなにより、雨の日に傘を持ってじっと待つ女の人というのは怖かった。しばらくは、雨の日などドキドキしながらそこを通ったものだ。

やがて、高校になって、謡曲の『隅田川』を知るようになる。
人買いに子供をさらわれて狂った母親が、たずねたずねた挙げ句に隅田川のほとりにやってくる。そこではちょうど死んだ息子の梅若丸の一周忌の法要が行われていた……というもの。そのころわたしは引っ越してそのお地蔵様のある場所から離れていたのだけれど、それを古文のテキストのなかで読んだときに、はっと思い出したのだった。
そのお母さんはどれほど自分が遅れたことを悔やんだだろう。
どれほどそれが夢ならば、と思っただろう。
『隅田川』のなかで母親は、息子に会う。夜が明けて、我が子と思ったのは、塚に生えた草だったのだけれど、たとえ幻でも、おそらく母親は、その瞬間、さぞかし嬉しかったことと思う。

傘を持って待っていたお母さんは、それからどうなったのだろう。
お地蔵様は、そういう人も、どこかで守っていてほしい、と思うのである。

コンビニの話 ―あるいは祝10000―

2006-05-14 21:41:32 | weblog
以前住んでいたところは通りの向かいにコンビニがありました。

いまでこそ、早寝早起きが生活の軸となっているわたしなのだけれど、そこに住んでいる一時期は、さまざまな事情から、夜も昼もないような生活をしていたんです。

住宅街のはずれで、夜の十一時を過ぎると、窓から見えるよその部屋の灯りも少なくなる。十二時を回ると、明るい日のなかでは集合住宅が密集して建っているはずのあたりも、嘘のようにすっぽりと闇に覆われる。近所に木立に囲まれた小さな祠があったんですが、ベランダから眺めるその一帯の闇はいっそう濃く、暗闇が塗りつぶされたようにも見えました。

そこから別の方角に目を転じると、線路に沿って細い道が走っているのが見えました。十一時を過ぎると信号機は点滅信号になる。それをわたしは時計代わりにしていたように思います。その点滅する信号機の横断歩道を渡ったところにコンビニが、蛍光灯の白い灯が浮かび上がるようにありました。まるで、夜に航海する船が、灯台の灯を頼りにするように、一晩中明るいコンビニは、わたしの夜の道の道しるべだったんです。

夜中、ファックスを送りに行ったり(当時はまだメールでのやりとりも一般的ではなく、パソコンは使っていましたが、フロッピーで送るか、急ぎの用件ならファックスを使っていたんです)、修正液みたいな文房具も、ご飯のかわりのおにぎりも、あるいはアイスクリームも、わけもなくレーテの水を思い出させるエヴィアンも、特に食べたいわけではないけれどなんとなく口寂しいときにほしくなるようなゼリーやヨーグルトやジャンクフードも、全部そこで調達できる。ついでに電気代も電話代も払うことができる。買いもしないのに、お菓子の棚に妙に詳しくなって、新製品をすぐに見つけていたのも、この時期に限った出来事でした。

なんとか外に行ける程度の格好に着替えて財布をにぎりしめ、サンダル履きで階段をおりて通りを渡り、照明つきの水槽のようにも見える夜中のコンビニに向かいます。よく、立ち読みしている男の子たちがいました。話しているところを見たことはないのだけれど、いつ見ても同じ顔ぶれの三、四人の、あれは中学生なのか、それとも高校に入ったばっかりぐらいなのか、その年代の男の子たちが、微妙な間隔を空けて、マンガを読んでいたのでした。

明るい色に髪を染め、鼻にピアスをした十代ぐらいの女の子が、大きくなったお腹をさすりながら菓子パンを選んでいたのも、何度となく行きあいました。

店員も、学生風のお兄さんのこともあれば、もう少し年齢が上の男性だったこともありました。どの人も、とりたてて礼儀正しいわけでもないけれど、笑顔を貼りつけているわけでもない。そっけないわけでも、なれなれしくもなく、機械じみてもいない。決して近づくことのないその距離感は、まさにコンビニならではのもので、合計金額を告げられ、お金を払い、品物をもらい、「どうも」と言って、必要最小限の受け応えをすることは、さまざまなことで疲労が溜まっていたそのころのわたしには、たいそう心地よいものだったのです。

終電がアパートの前を通る時間も、深夜の保線工事用の車両が通る時間も、始発電車が通る音を聞いて、なんとなくほっとする時間も、すべて知っていました。
そうして、階段を下りて通りを渡りさえすれば、人に会うことができるコンビニは、灯台でした。

いまは、早寝早起き、ときどき新聞配達が来る時間の前に目が覚めちゃったりもしますけれど、健康的な生活を送っています。

でも、あのころのわたしのように、いろんな事情で夜中起きていて、起きているのが自分だけ、みたいな人も、いるのだと思います。

わたしのサイトはコンビニじゃありませんから、いらっしゃいませ、とも、ありがとうございました、とも言わないけれど。そうして、新製品はなかなか出ない、変わり映えのしない棚なのかもしれないけれど。

サイトのメンテナンスのとき以外は、いつでも開いています。
そんな夜は、またのぞいてみてください。
もしかしたら(笑)新製品が並んでいるかもしれません。

いままでどうもありがとう。
そうして、これからもよろしく。

もうすぐ10000

2006-05-13 22:41:52 | weblog
昨日更新したら、カウンタが9900を超えていました。
早ければ、明日には10000に行くかもしれません。

そもそも翻訳の勉強がしたいと思い、思っているだけではできないので、なにかの形で発表しよう、それにはブログという形式が便利だなと思って始めたのでした。
昔訳した「くじ」があるだけ。

そうして、黙々と翻訳を続けていくだけじゃなくて、なにか本を巡る文章が書きたい、と思うようになりました。
読んでおもしろかった、とかの感想文じゃなく、書くことによって読みが深まっていくような。

本を読む。
そうして、自分のうちに、さまざまな問題意識が生まれる。
ある本と、ある本を結び、そうすることで、見えてくるものがあるのではないか。
ある本のなかに見つけたある問題は、別の本のなかではどんな形が与えられているのか。
そういうことを探していこう。

とくに、ブログに出す段階では、翻訳にしてもコラムにしても、粗の多いものです。やはり、そこからいったん推敲というプロセスを経ることが、自分のやりかたには一番いい感じなんです。こんなレベルのものを発表することに意味があるのかどうなのか、よくわからないのだけれど。

読みにきてくださって、どうもありがとう。
のべ一万人、というか、たぶん800くらいは自分で踏んでると思うんですが、のべ9200人のみなさんひとりひとりにお礼をいいます。

わたしの書いた文章を見て、そこに引用された本や、翻訳した作家の別の作品が読んでみたい、と思われたら、これほどうれしいことはありません。

わたしはいつもいまやりたいことをやってきました。

やりたいことと向かい合う。
やりたいことを続ける。
心底やりたいことは、あきらめない。
それだけです。

自分のそのときどきで、やりたいことも少しずつ変わってはきましたが、読む、そうして書く、またふたたび読む、というプロセスは、どんなときも揺らいできませんでした。
そうやって、これからも読み、書いていくんだろうな、と思います。
だって、それがわたしのやりたいことだから。

これからも、少しずつ続けていきます。
良かったら、また遊びに来てください。
そうして、10000及び前後賞(笑)含めて、踏んだ方、ご連絡ください。

ささやかに、お祝いしましょう。

更新したわけでもないのに、サイトに誘導をもくろむ悪辣なログでした(笑)。
いや、アーバスがなかなか書けなくてね。ちょっと苦労しているのです。

それじゃ、また。

サイト更新しました

2006-05-12 22:33:12 | weblog
先日までここに連載していましたドロシー・パーカーの短編「電話」の翻訳をアップしました。

http://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/index.html

いくつか誤訳を見つけたのでなおしていますが、大きくは変わっていません。
またお暇な折りにでものぞいてみてください。

アーバスもぼちぼち手を入れています。
これは別物になってます。
またこちらもそのうちアップする予定です。

あー、眠い……。
おやすみなさい。

適材適書

2006-05-11 22:30:49 | weblog
電車の中でカレル・チャペックのエッセイ『いろいろな人たち』(飯島周編訳 平凡社ライブラリー)を読んでいたところ、こんな小文に行きあった。

タイトルは「適時適書」。

こんな文章から始まる。

 時として隣人を悩ますのに用いられるおきまりの質問の一つは、「どの本が一番好きですか」というものである。おきまりの質問の大部分のように、この質問もまさに不正確である。より正確には、こう言われるべきであろう。「こんなとかあんなとかの場合には、どの本が一番好きですか」

つまり、どんな本でも、読むにふさわしい情況がある、というのである。

たとえば、聖書は列車の中での旅行用読み物としてはふつう不適当である。歯医者の待合室での患者の待ち時間短縮用読み物として、詩集が置かれることはまずない。朝のコーヒーを前にしたときは、ユーゴーの『レ・ミゼラブル』ではなく、新聞に頭を突っ込むことの方がはるかに多い。

チャペックは言う。朝は本を読むのには向かない。午後に向かって徐々に本を読む能力が育っていって、夜に最高になる、と。
しかも、一口に「夜」といっても、さまざま夜がある。

くたくたに消耗している時には、たっぷりした肉の切り身のような読み物を要求する。それは美味を求めるのではなく、仕事を終えた樵のように、勇壮に詰め込みたくなるのだ。しっかりとした筋書きのあるような、たっぷりした長編小説を自分に与えたりする。場合によってはホラー物である。ホラー物でなければ、その時は冒険長編物語、とくに航海小説がよい。ほどほどに気分がすぐれない時、たとえば心配事があったり働きすぎたりした時などは、エキゾチックな、歴史的な、またはユートピア的な小説を自分に読ませる。その理由は主として、それらの遠い国や遠い時代は、実際に自分にとってなんの関係もないからである。急病にかかった時は、極度に興奮させ、はらはらさせる読み物を希望するが、それはセンチメンタルなものであってはならず、きちんとした結末の「終わりよきもの」でなければならない。簡単に言えば、それは探偵小説である。慢性の病気の時には、探偵小説さえ放りだし、なにか善意に満ちて信頼を呼び起こすものを求める。それに一番ふさわしいのはディケンズであろう。……

死に際してはどの本に優先権を与えるであろうか、それはまだテストしていない。しかし、刑務所にぶちこまれたり生命の危険に迫られたりしている時には……『モンテ・クリスト伯』や『三銃士』、またはスタンダールの『赤と黒』のようなものが人には一番よく効くと言われている。

 日曜日にはエッセイを読むのが一番好ましいのだが、それはもう、そういうものを読んでいると、ほどほどに、そしてある程度祭日めいて退屈になるからである。さらに古典的諸作品がふさわしいが、それらを読むのは、よく言われるように「教養人すべての義務」なのだ。一般に日曜日の読書はいささか徳義的行為の実践のようなものであり、一方平日の読書はむしろ自由放恣で、いわば暴飲暴食めいている。……

秋に読むのに一番よいのはアナトール・フランスで、それはあきらかに、その特別な熟成のためである。冬になると読者は、可能な読書の材料のすべてを自分の中で燃やし尽くす。夏には故意に避けていた膨大な心理的小説にさえ耐える。天候が悪くなればなるほど、小説も厚くなる。ベッドの中で読まれるのは詩ではなく散文である。詩を読むのは、人が軽やかに、まるで小枝に止まる小鳥のように座っている時である。目的地に向かって進む車内では、人は旅行案内書、新聞、読みかけの長編小説の終わりの何章か、そして時事的なパンフレットを読む。歯痛の時にはロマンチックな文学を好むが、鼻かぜの時にはそれを軽蔑するだろう。なにかを、たとえば手紙とか誰かの訪問を待っている時には、短編小説、たとえばチェーホフの作品が一番好ましい。

えらく長々と引用したのは、非常に共感できる箇所が多々あるからだ。

肉体が疲労しているときには、確かに、読み応えのあるものを読みたくなる。難解ではなく、むしろリーダブルなのだが、軽く読み流せないようなもの、体育会系の読み物だ。チャペックがいう「ホラー物」はどんなものを指しているのか、ちょっとよく分からないのだけれど、航海小説、というのは非常に納得がいく。そういえば、大掃除のあとでチャールズ・ジョンソンの『中間航路』を読んだっけ。わたしが歴史小説を読むのもこんなときかもしれない。

ただ、文章を大量に書いたり、推敲作業をしたあとは、たいてい脳が酸欠になっているので、そんな体力がいるようなものは読めないし、ストーリーの把握さえ困難になっている。そういうときは、もうはっきりいって、アイスクリームの原材料名を読むぐらいのことしかできない。ブルーベリー果肉、ブルーベリー果汁、とあるのは、別々に入れているということなんだろうな、という以上の推理ができなくなっている。

ところが、こういうときによく知っている探偵小説を読み返すのが、効くのだ。おそらく、こんな人はいないんじゃないか、とも思うのだけれど(笑)、江戸川乱歩だの坂口安吾の捕物帖だの横溝正史だの、あるいは都築道夫の捕物帖でもいいのだけれど、すでに何度も読み返して良く知っているものをぼけー、と眺めるのがいい。実に効く。全身を脱力させて、よく知っている展開に身を任せる。確実に癒される(笑)。わたしはもう何度こうやって「おりんでございます、お庄屋さんのところへ 戻ってまいりました」と読んだだろうか。

心配事があるときは、いっそ集中しなければならない、ノートを取りながら読まなければならない本の方がいいような気がする。旅行記であろうが、歴史小説であろうが、そこまで心を心配事から引き離してはくれないだろう。そうなれば、いっそ、全力で取り組まなければならないことに集中した方がいい。

急病に罹った時、というのは、たいてい風邪を引いて熱が出ている状態なのだけれど、それほどひどくなければ、確かに探偵小説や、あるいはSFなどはいい。それも、できればあまり出来の良くないもの。普段だったらバカバカしくなるようなものも、熱のおかげで、結構おもしろく読めたりする。

チャペックがいう「目的地に向かって進む車内」というのは、おそらく旅行のことなのだろうけれど、ほどよく空いた電車の中で読む、というのは、読書環境としてはかなり良い部類ではないのだろうか。それは、むしろ自宅で机に向かってする読書より頭に入りやすかったりする。わたしはポール・ヴァレリーもミラン・クンデラも、その著作のほとんどを電車の中で読んだ。

あるいはこんな読書もある。
わたしは寝る前に、『今昔物語』や『宇治拾遺物語』、『古事記』や『日本霊異記』、あるいは『千一夜物語』などのごく短い物語をひとつかふたつ読んで寝るのが好きだ。

昔は長編をベッドに持っていって、エイミィ・タンの『キッチン・ゴッズ・ワイフ』上下巻やポール・セローの『Oゾーン』、これも上下巻なんかを一気に読み終えて、気がついたら外が明るくなっていた、とか、よくやったものだ。学生の頃ならいざしらず、いまはとてもではないけれど、そんなことをやっていては身体がもたない。加えて、あまり読み終わって衝撃が強いものも眠れなくなってしまう(アゴタ・クリストフの『悪童日記』を読んだ後は、しばらく胸の動悸が収まらなくて眠れなかった)。

むちゃくちゃおもしろい、というわけでもなく、衝撃も受けず、短いもの。
これは小さい頃の寝る前の「おはなし」そのものである。結局わたしは小さい頃と同じことをやっているのかもしれない。

ただし、なにかを待っているときにチェホフなんぞを読んだ日には、誰が来ることになっていようと、確実に忘れて読みふけることは間違いない。
なにかを待つときは何を読んだらいいだろう?

軽いもの? エッセイ? うーん、何を読んでいても忘れそうで、コワイ。でも、これはまた別のもんだいなのかもしれない。

(※明日にはたぶん「電話」、サイトにアップできると思います。お楽しみに)