陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

「事実」ってなんだろう

2006-05-25 22:32:29 | weblog
一昨日までここで連載していた「月明かりの道」、いま推敲しているのだけれど、確かに芥川龍之介の『藪の中』と、いくつかの類似点を指摘することができる。

ともかく、今日はそんな話がしたいのではなくて。
「事実」というのはなんだろうか、という話。

その昔、こんなことがあった。

授業のあと、とあるクラスメイトからこんな話を聞いた。

彼女(仮に、ミナコとでもしておこう)はとある小劇団の俳優が好きで、ずっと追っかけのようなことをしていた。その彼から手紙が来て、今度ある公演のチラシが入っていたらしい。手紙には、ヨロシク、とあったので、彼女はいさんでチケットを買って、ついでに新しく服も買って、花束を持って見に行った。

その俳優は喜んでくれて、公演が終わると打ち上げがあるから、そこにおいでよ、と耳打ちしてくれたらしい。
だから、彼女はその場所である居酒屋に行って、一緒に楽しいひとときを過ごした、というものだった。

後日、別の人間から、その話を、まったく別の角度から聞いた。

その子は例の小劇団の劇団員に友だちがいる関係で、チケットの販売を手伝ったり、公演のときは椅子を並べたり会場の設営をしたり、という位置にいるらしかった。

その彼女(こちらはレイコとでもしておこう)は、ミナコのことを口をきわめて悪く言った。
ミナコは手紙をもらった、って言ってたけど? とわたしが言うと、だって彼って××(某新興宗教団体)だから、選挙のときとか、ファンの子みんなに、「今度の選挙、よろしく」ってハガキ出してるのよ、ファンの子も、たいていはそれを知ってて、○○クン、ってしょうがないわね、って言いながらもチケットを買ってるわけ。だけどミナコったらさ、それを真に受けてて、バカじゃない?

でさ、当日、ミナコが来てさ、ピンクハウスよ、もう全身、びらびらの。ちっとも似合ってないのに。
花束渡して、写真撮ってもらって、それで満足すりゃいいのに、打ち上げにまで押し掛けてくるのよ。ど厚かましいったらありゃしない。

このとき、わたしは同じできごとでも、見る位置が違えば、まったく違う出来事に見えるのだな、とつくづく感心したのだった。

「事実」というのは、いったいどこからどこまでを指すのだろう?

・○月×日、劇団△△が公演を行った。
・ミナコがピンクハウスの洋服を着て、花束を抱えて見に行った。
・公演後の打ち上げに、ミナコも参加した。

けれども、わたしたちは普通、自分が遭遇した出来事を、このような形で考えない。
おそらく、ミナコにとっては、彼女がわたしに話してくれたのが、彼女にとっての「事実」であるし、レイコにとっては(「ど厚かましい」という感想はさておくとしても)関係者でもないのに打ち上げに参加したファンがいた、というのが「事実」なのだろう。

そうして、このどちらがより「真相」(というものが仮にどこかにあるとして)に近いのかは、誰も知ることができないのだ。

たとえばこのあと、ミナコがこの俳優と、仮にボーイフレンドガールフレンドの関係になったとする。あるいは結婚したとする。すると、わたしは、ああ、やはりこの俳優はミナコのことを特別に考えていたのだ、と思い、レイコの「ど厚かましい」は、意地悪な物の見方だな、と考えるだろう。

あるいは逆に、ミナコのほかにもこの俳優から「手紙」をもらった、という女の子の話を聞いたりすれば、ミナコの「思いこみ」だと考え、レイコの言った「打ち上げに押し掛け」た、と考えるだろう。

「事実」というのは、「それが誰が見たものか」によって影響を受けるだけでなく、過去のある時点で起こったことのはずなのに、その後に影響を受けるのだ。

さらに、こうも考える。
わたしがこの「事実」に関して、このようにとらえることができるのも、ひとえに、芥川龍之介の言葉を借りれば「藪の外」にいるからだ。

わたしがミナコやレイコと同じように、現場に立ち会っていれば、おそらくはミナコとも、レイコとも異なる「事実」を目撃するはずだ。そうして、それがわたしにとっての「真相」となり、「藪の外」にいるときのように、「どちらの話が真相に近いのだろう」と考えることはない。つまり、わたしの「事実」が「真実」になってしまうからだ。

あるいは、わたしはミナコとも、レイコとも、ほぼ等距離といっていい立場にあった。特にどちらと仲がいい、という関係でもなかったために、どちらかの話を、これはほんとうだろうか、とか、嫉妬みたいな感情があるのではないか、とか、自分自身の判断を交えずに聞くことができた。これがもし等距離でなければ、ずいぶんまた受ける印象も変わってくるだろう。

こう考えると、「何がほんとうのことなのか」「何が事実なのか」というのは、きわめて不確かで、曖昧なもの、さまざまな要素のからみあったもの、と言うしかなくなってくる。さらに、「真相は『藪の中』だなぁ」という客観性を維持できるのは、「藪の外」にいるときだけなのだ。

わたしたちは自分が遭遇した出来事、目の当たりにしたものを「事実」と、つい考えてしまいがちなのだけれど、「事実」というもののあやふやさ、当てにならなさ、ということは、頭の隅に留めておいたほうがいいのだと思う。

さて、明日にはアップできると思いますので、またのぞいてみてくださいね。

それじゃまた。