陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

適材適書

2006-05-11 22:30:49 | weblog
電車の中でカレル・チャペックのエッセイ『いろいろな人たち』(飯島周編訳 平凡社ライブラリー)を読んでいたところ、こんな小文に行きあった。

タイトルは「適時適書」。

こんな文章から始まる。

 時として隣人を悩ますのに用いられるおきまりの質問の一つは、「どの本が一番好きですか」というものである。おきまりの質問の大部分のように、この質問もまさに不正確である。より正確には、こう言われるべきであろう。「こんなとかあんなとかの場合には、どの本が一番好きですか」

つまり、どんな本でも、読むにふさわしい情況がある、というのである。

たとえば、聖書は列車の中での旅行用読み物としてはふつう不適当である。歯医者の待合室での患者の待ち時間短縮用読み物として、詩集が置かれることはまずない。朝のコーヒーを前にしたときは、ユーゴーの『レ・ミゼラブル』ではなく、新聞に頭を突っ込むことの方がはるかに多い。

チャペックは言う。朝は本を読むのには向かない。午後に向かって徐々に本を読む能力が育っていって、夜に最高になる、と。
しかも、一口に「夜」といっても、さまざま夜がある。

くたくたに消耗している時には、たっぷりした肉の切り身のような読み物を要求する。それは美味を求めるのではなく、仕事を終えた樵のように、勇壮に詰め込みたくなるのだ。しっかりとした筋書きのあるような、たっぷりした長編小説を自分に与えたりする。場合によってはホラー物である。ホラー物でなければ、その時は冒険長編物語、とくに航海小説がよい。ほどほどに気分がすぐれない時、たとえば心配事があったり働きすぎたりした時などは、エキゾチックな、歴史的な、またはユートピア的な小説を自分に読ませる。その理由は主として、それらの遠い国や遠い時代は、実際に自分にとってなんの関係もないからである。急病にかかった時は、極度に興奮させ、はらはらさせる読み物を希望するが、それはセンチメンタルなものであってはならず、きちんとした結末の「終わりよきもの」でなければならない。簡単に言えば、それは探偵小説である。慢性の病気の時には、探偵小説さえ放りだし、なにか善意に満ちて信頼を呼び起こすものを求める。それに一番ふさわしいのはディケンズであろう。……

死に際してはどの本に優先権を与えるであろうか、それはまだテストしていない。しかし、刑務所にぶちこまれたり生命の危険に迫られたりしている時には……『モンテ・クリスト伯』や『三銃士』、またはスタンダールの『赤と黒』のようなものが人には一番よく効くと言われている。

 日曜日にはエッセイを読むのが一番好ましいのだが、それはもう、そういうものを読んでいると、ほどほどに、そしてある程度祭日めいて退屈になるからである。さらに古典的諸作品がふさわしいが、それらを読むのは、よく言われるように「教養人すべての義務」なのだ。一般に日曜日の読書はいささか徳義的行為の実践のようなものであり、一方平日の読書はむしろ自由放恣で、いわば暴飲暴食めいている。……

秋に読むのに一番よいのはアナトール・フランスで、それはあきらかに、その特別な熟成のためである。冬になると読者は、可能な読書の材料のすべてを自分の中で燃やし尽くす。夏には故意に避けていた膨大な心理的小説にさえ耐える。天候が悪くなればなるほど、小説も厚くなる。ベッドの中で読まれるのは詩ではなく散文である。詩を読むのは、人が軽やかに、まるで小枝に止まる小鳥のように座っている時である。目的地に向かって進む車内では、人は旅行案内書、新聞、読みかけの長編小説の終わりの何章か、そして時事的なパンフレットを読む。歯痛の時にはロマンチックな文学を好むが、鼻かぜの時にはそれを軽蔑するだろう。なにかを、たとえば手紙とか誰かの訪問を待っている時には、短編小説、たとえばチェーホフの作品が一番好ましい。

えらく長々と引用したのは、非常に共感できる箇所が多々あるからだ。

肉体が疲労しているときには、確かに、読み応えのあるものを読みたくなる。難解ではなく、むしろリーダブルなのだが、軽く読み流せないようなもの、体育会系の読み物だ。チャペックがいう「ホラー物」はどんなものを指しているのか、ちょっとよく分からないのだけれど、航海小説、というのは非常に納得がいく。そういえば、大掃除のあとでチャールズ・ジョンソンの『中間航路』を読んだっけ。わたしが歴史小説を読むのもこんなときかもしれない。

ただ、文章を大量に書いたり、推敲作業をしたあとは、たいてい脳が酸欠になっているので、そんな体力がいるようなものは読めないし、ストーリーの把握さえ困難になっている。そういうときは、もうはっきりいって、アイスクリームの原材料名を読むぐらいのことしかできない。ブルーベリー果肉、ブルーベリー果汁、とあるのは、別々に入れているということなんだろうな、という以上の推理ができなくなっている。

ところが、こういうときによく知っている探偵小説を読み返すのが、効くのだ。おそらく、こんな人はいないんじゃないか、とも思うのだけれど(笑)、江戸川乱歩だの坂口安吾の捕物帖だの横溝正史だの、あるいは都築道夫の捕物帖でもいいのだけれど、すでに何度も読み返して良く知っているものをぼけー、と眺めるのがいい。実に効く。全身を脱力させて、よく知っている展開に身を任せる。確実に癒される(笑)。わたしはもう何度こうやって「おりんでございます、お庄屋さんのところへ 戻ってまいりました」と読んだだろうか。

心配事があるときは、いっそ集中しなければならない、ノートを取りながら読まなければならない本の方がいいような気がする。旅行記であろうが、歴史小説であろうが、そこまで心を心配事から引き離してはくれないだろう。そうなれば、いっそ、全力で取り組まなければならないことに集中した方がいい。

急病に罹った時、というのは、たいてい風邪を引いて熱が出ている状態なのだけれど、それほどひどくなければ、確かに探偵小説や、あるいはSFなどはいい。それも、できればあまり出来の良くないもの。普段だったらバカバカしくなるようなものも、熱のおかげで、結構おもしろく読めたりする。

チャペックがいう「目的地に向かって進む車内」というのは、おそらく旅行のことなのだろうけれど、ほどよく空いた電車の中で読む、というのは、読書環境としてはかなり良い部類ではないのだろうか。それは、むしろ自宅で机に向かってする読書より頭に入りやすかったりする。わたしはポール・ヴァレリーもミラン・クンデラも、その著作のほとんどを電車の中で読んだ。

あるいはこんな読書もある。
わたしは寝る前に、『今昔物語』や『宇治拾遺物語』、『古事記』や『日本霊異記』、あるいは『千一夜物語』などのごく短い物語をひとつかふたつ読んで寝るのが好きだ。

昔は長編をベッドに持っていって、エイミィ・タンの『キッチン・ゴッズ・ワイフ』上下巻やポール・セローの『Oゾーン』、これも上下巻なんかを一気に読み終えて、気がついたら外が明るくなっていた、とか、よくやったものだ。学生の頃ならいざしらず、いまはとてもではないけれど、そんなことをやっていては身体がもたない。加えて、あまり読み終わって衝撃が強いものも眠れなくなってしまう(アゴタ・クリストフの『悪童日記』を読んだ後は、しばらく胸の動悸が収まらなくて眠れなかった)。

むちゃくちゃおもしろい、というわけでもなく、衝撃も受けず、短いもの。
これは小さい頃の寝る前の「おはなし」そのものである。結局わたしは小さい頃と同じことをやっているのかもしれない。

ただし、なにかを待っているときにチェホフなんぞを読んだ日には、誰が来ることになっていようと、確実に忘れて読みふけることは間違いない。
なにかを待つときは何を読んだらいいだろう?

軽いもの? エッセイ? うーん、何を読んでいても忘れそうで、コワイ。でも、これはまた別のもんだいなのかもしれない。

(※明日にはたぶん「電話」、サイトにアップできると思います。お楽しみに)