陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

アンブローズ・ビアス 「月明かりの道」 その2.

2006-05-19 22:28:14 | 翻訳
その2.ジョエル・ヘットマン・ジュニアの陳述文(後編)

 わたしは学業を放擲し、父の下に留まりました。父は、当然ではありますが、まったく別人のようになってしまいました。元来、落ち着いた寡黙な人間だったのですが、いまや深く落胆し、自分のうちに閉じこもるもようになり、なにがあっても意識を外に振り向けることができなくなったのです。とはいえ、物音、足音がしたり、急に扉がばたんと閉まったりすると、つかのま、耳をそばだてるのでした。それは注意を引かれたというより、不安におののいた、といったほうが良いのかもしれませんが。感じたことがどんな些細な出来事であったとしても、父はあきらかにぎくりとし、蒼白になることさえあり、そうなるときまってそのあとは、いっそう深い絶望の淵に沈み込んでしまったのです。おそらく父は、いわゆる「ノイローゼ」のような状態にあったのだと思います。わたし自身は、その当時、若かったこともあって、ともかく、若さというのはたいしたものでした。若いということが、いかなる傷をも癒す薬となっていたのです。ああ、わたしがいまふたたび、あの魅惑の世界に住むことができるなら! 悲嘆ということを知らないばかりか、喪失の重みを量ることさえできなかったのです。打撃の大きさを、正確に理解することなど、できようもなかったのです。

 あるばんのこと、そのおぞましい出来事から数ヶ月がたっていましたが、父とわたしは市街地から家へ一緒に歩いて帰っていました。東の空から満月がのぼって、三時間ほどが経ったころだったと思います。あたり一帯、夏の宵の厳かな静けさがたれこめていました。聞こえるのは、わたしたちの足音と、途切れることなく鳴き続けるキリギリスの声だけ、並木が道に人を寄せつけまいとするかのような黒い影を落としていて、それが途切れる狭い部分だけが、ぼおっと白く浮かび上がっていました。家の門にさしかかったところ、門の前は闇に沈んで、灯りもなかったのですが、父は突然立ち止まり、わたしの腕をつかむと、ほとんど声にはならない、吐息だけのような声でこう言ったのでした。

「おお、あれはなんだ?」

「何も聞こえませんが」

「見えるだろう? あれを見ろ!」そう言って、道の前方をまっすぐ指さしたのです。

「なにもありゃしません。おとうさん、家に戻りましょう。お父さんは加減が良くないんですよ」

 父はそのときにはもうわたしの腕をふりほどいて、月に照らされた道のまんなかに、身をこわばらせて突っ立ったまま、常軌を逸した者のように虚空を見つめていました。月明かりの下で見る父の顔は蒼白で、言葉にできないほどつらそうな表情を顔に貼りつけていたのです。わたしは袖口をそっと引っぱりましたが、父はわたしの存在など、忘れてしまっていました。やがて父は一歩一歩、あとずさりをし出しました。ほんの一瞬も、自分が眼にしているもの、あるいは、眼にしているはずの何ものかから目を離そうとしないまま。わたしは父のあとをついていこうとして半身を後ろに向けたのですが、どうしていいかわからないまま、その場にたちつくしていました。恐怖に襲われた、とも思えないのです。ただ、身体に感じた、突然の冷気がそれでないとしたら、なのですが。氷のような風が頬を撫で、頭のてっぺんからつま先まで、すっぽりと包み込まれたように思いました。その冷気に髪もなぶられるのを感じたほどです。

 そのとき、家の二階の窓から突然灯りが差してきて、わたしはすっかりそれに気を取られてしまいました。召使いのひとりが、凶事のいかなる予兆を感じたのかはわかりませんが、目を覚まし、言いようのない衝動に駆られて、ランプに灯をともしたのでした。つぎにわたしが父を振り返ったときには、その姿はなかったのです。それから長い歳月が過ぎましたが、父の運命がどうなったかを告げるかすかな声さえ、だれも知らない王国とわたしたちを結ぶ推測という名の国境からは、聞こえてはこなかったのでした。

(この項つづく)

(※ katydid を辞書でひくと、キリギリスと出ているんですが、キリギリスって夜鳴くんですか? これ、スズムシとかコオロギとかじゃないかな、と思うんですが、夏の夜に、キリギリス、鳴くんでしょうか。ごぞんじのかた教えてください)


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