陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

アンブローズ・ビアス 「月明かりの道」 その3.

2006-05-20 21:59:27 | 翻訳
II. キャスパー・グラタンの手記(前編)

 いまのところ、どうやらわたしは生きているらしい。だが、明日になればこの部屋で、ただ長々と、土塊と化したこの身を、何も感じぬまま横たえることになる、それがこのわたしなのだ。よしんばだれかがその厭わしい土塊の顔をおおう布を持ち上げるようなことがあったとしても、病的な好奇心が満たされるだけであろう。あるいは、それだけにとどまらず、「誰の死骸だ?」と尋ねる者もいるにちがいない。この手記の中で、自分にできる唯一の答えを記しておこう――キャスパー・グラタン、それでおそらく十分だろう。この名前が、正確には何年であったかよくわからない歳月のうち、二十年以上の長きに渡って、わたしのささやかな必要に応えてくれたのだ。そう、この名をつけたのはわたし自身なのだが、もうひとつの名を失ってしまったために、わたしにはその権利はあったといえよう。この世では、人は名前なしではいられない。相手の正体が判然としないときでも、名前さえわかっていれば、さほど困ることはない。数字によって把握される人間は確かに存在するが、それでも識別のためにはやはり不十分と言わざるを得まい。

 その証拠に、ある日、わたしがここから遠く離れた街の通りを歩いていたときのこと、ふたりの制服警官と行き会ったのだが、ひとりが半ば立ち止まってわたしの顔にしげしげと眺め入ったあげく、連れにこう言ったのだった。「あの男は767号に似てるな」その数字はひどくわたしには懐かしく、かつ、恐ろしくもあった。抑えようのない衝動に駆られて咄嗟に脇道に飛び込んで突っ走り、やがてへとへとになったころには、すっかり道のまわりは街を遠くはずれていた。

 その数字は忘れようがないばかりか、思い出すときはいつも、ぺちゃくちゃと卑猥なことを言い募る声や、うつろな笑い声、鉄の扉のガチャンと閉じる音が一緒によみがえってくるのだ。だからわたしは名を名乗る、たとえ自分でつけた名前でも、番号よりははるかにましだと思うからだ。だが無縁墓地に記載されるときには、わたしは両方とも持つことになるのだろう。なんと贅沢なことか!

 この覚え書きを見つけてくれた人に、いささかの配慮をお願いしたい。これはわたしの来し方を記したものではない。書くべきことが限られているため、そのようなものは記せないのだ。断片的な記憶をバラバラに寄せ集めることしかできず、それも一本の糸に連なる色鮮やかなあざやかな数珠のように、くっきりと順を追った記憶もあれば、突拍子もない奇妙な出来事が、ところどころ空白をはさみながら赤く彩られた夢のように浮かび上がる記憶、ちょうど、荒野で禍々しい魔女の燃やす火が、音もなくまっ赤にたちのぼっているようなものもある。

 此岸のほとりに立って、自分がこれまでたどってきた道を、最後に振り返る。二十年、血を流しながら歩いてきた足跡が、くっきりと刻まれている。貧困と心労のなか、道を誤り不安に苛まれ、重荷を背負ってよろめきながら歩いた跡なのだ。

孤立し、見捨てられ、暗鬱で、足取り重く

ああ、この詩人はわたしのことを予言していた――なんとあっぱれな、恐ろしいまでに見事な予言であろうか。

 イエスが最後に歩いた悲しみの道のような、わたしの来し方――罪の挿話が散りばめられた受難の叙事詩――その始まりを振り返っても、はっきりとしたものはなにも見えてこない。雲のなかから急に現れているのだ。わずか二十年分の道のりしかないが、わたしは老人なのだ。

(この謎の老人の正体は一体何ものであるのか? 明日あきらかになる…はず)