陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

この話、したっけ~病院の風景 その4.

2006-05-06 22:47:34 | weblog
4.病院で働く人々

病院の夜は早い。消灯時間を過ぎると、真っ暗になる。
眠れない夏の晩、窓を開けて、病院の看板を照らす白色灯をスタンド代わりに、本を読んでいた。
目の前を環状線の高架が走り、車が通るたびに、ビュン、と音がしてコンクリートの壁が振動する。そのコンクリートを、わたしの病室の真下にある救急の赤いライトが、くるくる回りながら照らしていた。

ふっとタバコの煙がただよってきて、窓から見下ろすと、救急のライトの下で、白衣姿の男性が三人、地べたにしゃがんでタバコを吸っていた。ちょうどコンビニの前でたむろする高校生そっくりの格好で、車が通りすぎるときの風に乗って、話し声が運ばれてきた。

突然、三人ともいっせいにタバコを缶に投げ捨てて立ち上がった。微かに聞こえる救急車の音が、だんだん近くなる。三人とも道路まで出て、救急車を待ちかまえていた。しゃがんでいたときは丸まっていた背中が、いまは空気を吹きこまれでもしたように、緊張感がみなぎっていた。

間もなく、救急車がバックで入ってくる。車から降りてき救急隊員と話をする人、後ろの扉を開けて、ストレッチャーを押す人、奥から看護婦さんも走って出てきた。

そのときの情景は長く心に残った。後にアン・タイラーの『アクシデンタル・ツーリスト』のこんな一節を読んだとき、改めてよみがえってきたのだった。

あのときは冬だったんだけれど、窓辺に建って外を眺めていると、自分が今暖かくて安全なところにいるってことが、なんだかとっても嬉しくなってきたりしたものよ。よく救急病棟の入り口を見おろして、救急車がやって来るのを見てたわ。もし火星人がたまたま救急病棟の近くに着陸したら、その火星人はなんて思うだろうなんて考えたことない? 火星人は、救急車がサイレンを鳴らして飛び込んで来ると、みんなが機敏にそれに対処して、救急車のドアを開け、担架を持ち上げて急いで運ぶのを見るわけよ。“なんとなんと”って火星人は言うでしょうね。“なんて甲斐甲斐しい惑星なんだ。なんて甲斐甲斐しい生きものなんだ”って。火星人は、わたしたちがいつもそんなふうにしてるわけじゃないとは思わないの。で、“なんて甲斐甲斐しい種族だろう”って言うわけ。

* * *

中学のときだった。
夜中、眠れないまま横になって、自分の抱えている病気のことや、家族のこと、これからのことなど、いろいろ考えていると、ふいに不安に胸が押しつぶされそうになって、横になっていられなくなったことがある。

起きあがって、階段を下りて、玄関脇の自動販売機の明るい光に引き寄せられるように、そちらへ歩いていった。そこへ、奥から白衣姿の男性が歩いてきた。

わたしはその検査技師さんを知っていた。
小学校のときの同級生のお父さんだったのだ。何度か家へ遊びに行って、夜勤明けか何かで家にいるそのお父さんと一緒に、モノポリーや人生ゲームをやったこともあった。血液検査に行ったときに、向こうもわたしのことを覚えていて、いまは別々になってしまった中学のことを話したり、その子が入っているクラブの話を聞いたりもした。

友だちのお父さんは、わたしの分のジュースも買ってくれて、誘われるままに奥の検査室に一緒についていった。そこで、たぶん、顕微鏡をのぞかせてもらったりしたのだと思う。
ジュースを飲んで、ちょっと話をして、それからわたしは自分の病室に戻ろうと、その部屋を出た。非常灯だけがともる暗い廊下で、検査室を振り返ると、腰の高さにある横長い磨りガラスがはまった窓から、検査室のオレンジ色の灯が、あたりを照らしていた。

わたしが寝ているあいだも、あの子のお父さんはそこにいるのだ、と思った。
ほかにも、この病院のなかには、さまざまな人が起きているのだ、と。
そんなふうに、みんな起きていて、そういう人たちが、わたしを遠くから守ってくれているのだ、と思った。
だから、わたしは生きていける。わたしは大丈夫。

いまでも、わたしは暗い廊下を照らすあのオレンジの灯が、遠くでわたしを守ってくれているのだと、どこかで思っている。

(この項終わり)