陰陽師的日常

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アンブローズ・ビアス 「月明かりの道」 その1.

2006-05-18 22:05:55 | 翻訳
今日からアンブローズ・ビアスの短編「月明かりの道」を訳していきます。
原文はhttp://gaslight.mtroyal.ab.ca/moonltrd.htmで読むことができます。


アンブローズ・ビアス
月明かりの道


1.ジョエル・ヘットマン・ジュニアの陳述文

 わたしほど運の悪い人間もいないでしょう。資産はある、まずまずの教育も受けている、身体の健康状態も申し分ない、ほかにも有利な条件はいくつも揃っていて、似たような境遇の者からは重きを持って扱われ、境遇の劣る者からはうらやましがられてきましたが、実際、ここまで順風満帆でなければ、公的な生活と私生活の落差を骨身にしみるほど思い知らされることもなかっただろう、と、折に触れて考えたものです。暮らしに事欠き苦労し、なんとかする必要に迫られていたならば、わたしにつきまとう、考えても疑ってもきりのない、あの陰惨な秘密を忘れることもできるだろうに、と。

 わたしはジョエル・ヘットマンとジュリアの間に生まれたひとり息子です。片や豊かな地方郷士、片や美しく洗練された女性として夫から情熱的に愛されている。そこに嫉妬と強烈な独占欲があったことはいまのわたしには理解できます。わたしたちの家は、テネシー州ナッシュヴィルから数キロ離れたところ、街道から少し奥まったところ、木や灌木に囲まれて、大きくて均整を欠くどの建築様式にもあてはまらない屋敷としてありました。

 この書面でわたしがしたためようとしているのは、わたしが十九歳、イェール大学の学生であったころの話です。わたしはある日、父からの電報を受けとりました。それには緊急事態発生とだけあり、何の説明もなかったけれど、それに従ってすぐに家路につきました。ナッシュヴィルの駅には、遠縁にあたるものが出迎えてくれ、わたしが帰宅するよう求められたわけを教えてくれました。母が惨殺された、というのです。なぜ母がそんな目に遭ったのか、あるいはだれの手にかかったのかも、憶測すらできなかったのですが、情況は以下のようなものでした。

 父は翌日の午後帰宅する予定で、ナッシュヴィルに出向きました。ところがとりかかった仕事に支障が起こり、発ったのは当日の夜更け、家に戻った頃には、ちょうど夜明け前になっていたようです。検死審問での父の証言では、鍵も持っておらず、眠っている召使いを起こすのもしのびなかったために、確たる理由もなく、家の裏手に回ったというのです。家の角を曲がったところで、扉がそっと閉まる音が聞こえ、暗がりにぼんやりとした人影が浮かび上がったかと思うと、すぐにまわりの木立のなかにかき消えてしまった。急いであとを追いかけ、地面をざっと調べたあげく、この侵入者は召使いのだれかにこっそりと会いに来たのだけれど、首尾をとげることができなかったのだろう、と考えて、父は鍵のかかっていないドアからなかに入り、妻の部屋のある二階に上がっていったのでした。部屋のドアは開いており、暗い部屋の中に一歩足を踏み入れたとたん、床のなにか重いものに躓いて、頭から倒れ込んでしまったのでした。詳述は避けてもかまわないでしょう。ともかく、それは気の毒な母で、なんと人の手で首を絞められ死亡していたのでした。

 家のものはなにひとつ盗まれてはいませんでしたし、召使いのなかにも、物音を聞いたものはいませんでした。死亡した母の喉元に残ったおぞましい指紋――おお、神様、あの指紋のことなどどうか忘れさせてください――を除けば、犯人はいかなる痕跡も残してはいなかったのです。

(この項つづく)


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