陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

この話、したっけ~病院の風景 その3.

2006-05-05 22:28:26 | weblog
わたしの経験では、病棟は、階やブロックで男性の病室と、女性の病室がまったく隔たっているところが多かったけれど、一度、小規模の病院に入院したことがあって、そこは、廊下を隔ててすぐ向かいが男性の病室だった。

病院の生活というのはまったく単調なものだ。
朝の検温があって、外来が始まる前の時間に検査を受ける。それから回診があって、あとはもうすることがない。
三度の食事はこうした毎日のなかでの、ささやかな楽しみなのだった。

食事はいつもステンレスの大きなカートで運ばれてくる。
その病院では、エレベーターからカートが出て来るや、毎度、牢名主のようなおじさんの「メシが来たぞ~」という怒鳴り声が、あたりに響くのだった。
もちろん病室まで賄い婦さんが運んでくれることになっている。だが、そのおじさんの声で、立ち居に不自由のない入院患者の多くは、ぞろぞろと病室から出てきて、自分の名札がついたお盆を持って、病室に帰っていくのだった。なかには点滴スタンドをずるずる引きながら、片手でお盆を運ぶ人もいる。そんな人には、その知らせを告げるおじさんが、手助けをするのだった。

おそらくお盆に載った名札を見ているのだろう、そのおじさんは、ほとんどの患者の名前を知っているらしかった。食事がすんでお盆を返し、それから歯を磨きに行きかけたとき、おじさんに呼び止められたことがある。
「* * さん、あんた、学生か」
たぶんそこに来て、三日目かそこらだったのだと思う。職員でなく、自分の名前を知っている人間がいることに、わたしはひどく驚いたのだった。
どこの大学か、と聞くので、なんで答えなきゃいけないんだろう、とは思ったが、なかなかうるさ型のようにも見えるおじさんに逆らうのもめんどくさいので、とりあえず答えておいた。
そこならよく知っている、うちのところの若いモンも、そこを出たやつがおるからな、と、自分が会社の経営者であることをどうやら言いたいらしかった。わたしが何も言わないので、自分の会社が何をやっているか、どういうところと取引があるのか、と、話しはじめた。
困ったなー、まだまだ話を聞かなきゃならないのかなー、と思っていると、通りかかった看護婦さんがわたしを救出してくれた。「ほらほら、××さん、若いお嬢さんを困らせちゃダメよ」
それからわたしと並んで歩きながら
「××さんは、ここ、長いからね。悪い人じゃないんだけど、退屈してるのよ」

エレベーターホールの一角には、本来はお見舞いの人のためのものなのだろう、自販機やソファが置いてある一角があった。そこには例の牢名主や、ほかにもどこが悪いのか、どう見ても元気そうな若い男性が数人、「とぐろを巻く」ということばがまったくふさわしい様子で、よくたむろしていた。傍を通りかかると、ぶしつけな目でこちらをじろじろ見る。それがいやで、検査のときもなるべく階段を利用して、その近くには近寄らないようにしていた。

あるとき、廊下の向かいから、男の怒鳴り声が響いてきた。病室からのぞいてみると、崩れたスーツ姿のふたりの男と、例のエレベーターホールでとぐろを巻いているメンバーのひとりが、あわやつかみ合い、という状態になっている。とぐろの両腕を、後ろから抱えているのが牢名主だった。

そこへ、事務の唯一の男性である事務長が走ってやって来た。
わたしが入院の手続きをしたのがそのお兄さんだった。何となくフェミニンな感じのする男性で、女性の多い職場で働くとそうなるのかな、と思った。
「ここと、ここに記入してくださいね」という、穏やかな物腰の、自分とそれほど年も違わない相手の名札に「事務長」とあるのを見て、驚いたのだった。

ところが、そのフェミニンな事務長は、毅然とした態度で見舞客に向かって出ていくように告げ、ワシはそいつに用があるんじゃ、という相手に対して、胸と胸、鼻と鼻がふれあわんばかりの位置まで迫り、にらみ合ったのだった。「警察を呼びますよ」という宣告に、相手は顔を伏せ、奥に向かって「また来ちゃるからな」と捨てぜりふを残して帰っていった。その捨てぜりふに、また何か言い返し、あとを追いかけていこうとするとぐろにたいして、牢名主が「おまえも落ちつかんか」と宥めていた。

実は、そんな騒ぎを見たのも生まれて初めてだったわたしは、やるじゃん、と感心して、事務長の方を見た。事務長は、そこに立ったまま、自分のぶるぶる震えている両手を見ていた。

(この項明日最終回)