陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

コンビニの話 ―あるいは祝10000―

2006-05-14 21:41:32 | weblog
以前住んでいたところは通りの向かいにコンビニがありました。

いまでこそ、早寝早起きが生活の軸となっているわたしなのだけれど、そこに住んでいる一時期は、さまざまな事情から、夜も昼もないような生活をしていたんです。

住宅街のはずれで、夜の十一時を過ぎると、窓から見えるよその部屋の灯りも少なくなる。十二時を回ると、明るい日のなかでは集合住宅が密集して建っているはずのあたりも、嘘のようにすっぽりと闇に覆われる。近所に木立に囲まれた小さな祠があったんですが、ベランダから眺めるその一帯の闇はいっそう濃く、暗闇が塗りつぶされたようにも見えました。

そこから別の方角に目を転じると、線路に沿って細い道が走っているのが見えました。十一時を過ぎると信号機は点滅信号になる。それをわたしは時計代わりにしていたように思います。その点滅する信号機の横断歩道を渡ったところにコンビニが、蛍光灯の白い灯が浮かび上がるようにありました。まるで、夜に航海する船が、灯台の灯を頼りにするように、一晩中明るいコンビニは、わたしの夜の道の道しるべだったんです。

夜中、ファックスを送りに行ったり(当時はまだメールでのやりとりも一般的ではなく、パソコンは使っていましたが、フロッピーで送るか、急ぎの用件ならファックスを使っていたんです)、修正液みたいな文房具も、ご飯のかわりのおにぎりも、あるいはアイスクリームも、わけもなくレーテの水を思い出させるエヴィアンも、特に食べたいわけではないけれどなんとなく口寂しいときにほしくなるようなゼリーやヨーグルトやジャンクフードも、全部そこで調達できる。ついでに電気代も電話代も払うことができる。買いもしないのに、お菓子の棚に妙に詳しくなって、新製品をすぐに見つけていたのも、この時期に限った出来事でした。

なんとか外に行ける程度の格好に着替えて財布をにぎりしめ、サンダル履きで階段をおりて通りを渡り、照明つきの水槽のようにも見える夜中のコンビニに向かいます。よく、立ち読みしている男の子たちがいました。話しているところを見たことはないのだけれど、いつ見ても同じ顔ぶれの三、四人の、あれは中学生なのか、それとも高校に入ったばっかりぐらいなのか、その年代の男の子たちが、微妙な間隔を空けて、マンガを読んでいたのでした。

明るい色に髪を染め、鼻にピアスをした十代ぐらいの女の子が、大きくなったお腹をさすりながら菓子パンを選んでいたのも、何度となく行きあいました。

店員も、学生風のお兄さんのこともあれば、もう少し年齢が上の男性だったこともありました。どの人も、とりたてて礼儀正しいわけでもないけれど、笑顔を貼りつけているわけでもない。そっけないわけでも、なれなれしくもなく、機械じみてもいない。決して近づくことのないその距離感は、まさにコンビニならではのもので、合計金額を告げられ、お金を払い、品物をもらい、「どうも」と言って、必要最小限の受け応えをすることは、さまざまなことで疲労が溜まっていたそのころのわたしには、たいそう心地よいものだったのです。

終電がアパートの前を通る時間も、深夜の保線工事用の車両が通る時間も、始発電車が通る音を聞いて、なんとなくほっとする時間も、すべて知っていました。
そうして、階段を下りて通りを渡りさえすれば、人に会うことができるコンビニは、灯台でした。

いまは、早寝早起き、ときどき新聞配達が来る時間の前に目が覚めちゃったりもしますけれど、健康的な生活を送っています。

でも、あのころのわたしのように、いろんな事情で夜中起きていて、起きているのが自分だけ、みたいな人も、いるのだと思います。

わたしのサイトはコンビニじゃありませんから、いらっしゃいませ、とも、ありがとうございました、とも言わないけれど。そうして、新製品はなかなか出ない、変わり映えのしない棚なのかもしれないけれど。

サイトのメンテナンスのとき以外は、いつでも開いています。
そんな夜は、またのぞいてみてください。
もしかしたら(笑)新製品が並んでいるかもしれません。

いままでどうもありがとう。
そうして、これからもよろしく。