陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

この話、したっけ ~わたしが出会ったミュージシャンたち その2.

2006-05-29 22:31:22 | weblog
2.タイコの達人

中学に入って、ブラスバンド部に入部した。何か新しいことがやりたかったのだが、それほど肺活量も必要なそうなフルートを始めたのである(じき、とんでもない間違いだったことに気がつくが)。

演奏の中心は高校生で、かつて人数がもっと多くて華やかだったころは、中学の一年、二年はもっぱらパート練習だけだったらしいが、わたしが入ったころには、女の子が多い木管楽器はそれなりに頭数は揃っていたものの、金管は人手不足で、打楽器は余ったパートから交替で人を出すような具合だった。

ただし、対外的な活動こそ、ずいぶん小規模になってはいたけれど、学内的には新入生歓迎だの文化祭だの、なんのかんのと演奏する機会も多く、学内的には花形の部のひとつだった。なかでも、秋の運動会は、入場行進の演奏や校歌、応援歌から優勝旗授与の「見よ 勇者は帰る」まで、さまざまな演奏を一手に引き受けていたのだ。

パートの割り振りが始まった。フルートはそんなに人数はいらない、行進曲のドンドンいうだけの単調な大太鼓なぞ、一年で十分、ということで、わたしが大太鼓にまわされることになった。もうひとり、シンバルは、そのとき口内炎で楽器が吹けなかった副部長がやることになった。そうして、打楽器隊のリーダーは、それまで顔を見たこともない柳原先輩という人に依頼することになったのだ。

柳原さんは、高三で、部は引退していたのだけれど、大学は推薦ですでに決まっており、大学生のお兄さんと一緒にバンドでドラムを叩いているという話だった。
いざ、運動会の練習が始まって、柳原さんが来て、わたしはすっかり驚いてしまった。
髪は背中まで垂らし、口ヒゲははやしているし、ガリガリに痩せて、レザー・パンツをはいているし、おまけに近くへ行くとタバコ臭い。13歳のわたしからすれば、まったくの大人で、口をきくのも怖かった。

この人と一緒にやるのか、とドキドキしていたら、一緒になどやらないのだった。
まず、バチの持ち方から始まって、叩き方に入る。
これが大変だった。「一点」で「タイコの面に垂直に落とす」を延々とやらされたのである。
「落とす」
「はいっ」ドンッ。
「駄目、もう一回」
「はいっ」ドンッ。
「駄目駄目、面でベタッと落ちてる。もう一回」
「はいっ」ドンッ。
「手首を使うな、肘から落とす。もう一回」
「はいっ」ドンッ。
「当たった瞬間に引く」
「はいっ」ドンッ。
「一点で」
「はいっ」ドンッ。
「速く」
「はいっ」ドンッ。
「駄目、肘に力が入ってる。力は入れない」
「はいっ」ドンッ。

たぶん、最初の三日間は、リズムも何もなく、ひたすら「落とす」「はいっ」ドンッ、をやっていたような気がする。渡された譜面が四分音符ばっかりで、ドンドン叩けばいいんだな、と思っていたわたしは、まさかこんな羽目になるとは夢にも思わなかった。

そこからやっと音を消すときの左手の使い方、音を止めるときの叩きかたを教わって、そうなると全体練習が始まるのだった。

ところが柳原さんは、全体の音を聞くな、自分のスネアに合わせろ、という。

ブラスバンドに入って最初に感じたのは、自分の吹く楽器の音が、ほかの楽器と合わさって音楽を作っていくことの楽しさだった。それまでピアノで自分の音だけを聞いていたわたしには、新鮮な感動だったのだ。

それを聞くな、と言われて、わたしはびっくりした。柳原さんは、全体の音に引きずられている、自分の叩くスネアにだけついてこい、というのだ。リズムセクションというのはそういうものだ、と。

当時、ブラスバンドで花形だったのは、もちろん第一トランペットだったのだけれど、全体の音を決めていたのは、トロンボーンだった。トロンボーンを吹いていたのは南さんという人で、やたらに濃い眉から「赤鬼」と呼ばれていたのだけれど(下級生も「赤鬼先輩」と呼んでいた)、ものすごく音量のある、時にバリバリと音を割るほど大きな音を出して吹く人がいたのだ。
ちょうどわたしの真後ろがこの赤鬼先輩で、段に立つと、ちょうどベルのところがわたしの頭の上にくる。そうでなくても大音量の赤鬼先輩は、野外だからいっそう張り切って、ここぞとばかりに吹きまくるのである。わたしが全体に引きずられる、というより、指揮者の部長も含めて、全体が赤鬼先輩のトロンボーンに引きずられていたのだった。

ところがそれを聞くなという。
そう思って聞くと、柳原さんのスネアのリズムは、微妙にちがうのだ。トロンボーンのリズムが少し後ろへ重心が残る感じなのに対して、まさにその瞬間、という感じがする。加えて、陰気な外見とは裏腹の、芯は固いけれど華やかな音なのだった。
メトロノームに合わせるのには慣れていた。けれども、メトロノームではなく、人の音に合わせる。これはずいぶん感じがちがった。
それでもメトロノームに合わせても楽しくもなんともなかったけれど、人に合わせる、まさに自分のリズムが相手のリズムと一致する、その瞬間は、ひとりでピアノを弾いているときには決して得られない快感があった。
だからわたしは、確かにトロンボーンとは微妙にちがうリズムを、音の洪水の中からかきわけるようにして拾い上げ、ついていこうとした。
なにしろ、ちょっとでもずれると、その瞬間、後ろを振り返って、キッ、とにらまれる。単調な四分音符の連続のはずが、異様にスリリングなのだった。

一方、副部長のシンバルは、これまでにも柳原さんとのマッチングは経験済みだったらしく、ステディで、譜面にある強弱記号やアクセントに正確で、正確なだけに心地の良い音を出している。となると、パーカッション隊のハーモニーを乱す可能性があるとしたら、わたししかいないのだ。練習といっても毎回、冷や汗を流しながらやってたのだった。

確か、行進曲を四曲、あとはなにやかやと、全体で十曲ほど練習したのだと思う。
運動会の当日がどうだったか、いまではもうまったく覚えていない。
ただ、あっという間に終わって、大太鼓を部室に持って帰ろうとしたら、柳原さんが代わりにかついでくれて、わたしはスネアをそっと持って帰ったのを覚えているくらいだ。

もうひとつ覚えているのは、運動会が終わってから数日後、学内で柳原さんと偶然出くわしたことがあった。頭を下げて挨拶したら、照れくさそうな顔で顎を引いて応えてくれたのだけれど、通り過ぎたあと、一緒にいたほかの上級生がうわーっと冷やかしの声をあげていたのが聞こえた。
一ヶ月、放課後は毎日一緒にいたのに、私語を交わすこともなかった。
下の名前も知らないままだった。
それでも、リズムはメトロノームとはちがうのだ、生きた人間によって作り出されるのだ、そうして、そのリズムは、伝わっていくと、人の内側に同じリズムを生み出していくのだ、ということをわたしはそのときに初めて知ったのだった。
太鼓はアフリカでは昔、伝達の手段だったという。確かに、わたしはそのときに、音楽というのはコミュニケーションなのだ、ということを知ったように思う。

柳原さんがいまどうしているのか、いわゆるミュージシャンになったのかどうか、わたしは知らない。それでも、わたしのなかでは高校の上級生ではなくて、ひとりのミュージシャンだ。

(この項つづく)