文章を作るときは、たいていいつも書いては書き直し、書いては書き直し、それから順序を替え、挿入し、また戻って書き直し……ということをやっているので、パソコンがなければほんとうに困ってしまう。
わたしはつねづね、パソコンのもっともすばらしい機能は、この文章の推敲が簡単にできることではないか、と思っているぐらいだ。
ただし、紙と鉛筆でなければならないものもある。
まず、翻訳。
一文が長く、入り組んだ構造の文を訳すとき、主語と述語のペア、先行詞と関係詞のペア、その他、とにかく構造を見つけるとき、というのは、わたしはかならず紙と鉛筆が必要だ。
まず英文を書いて、そこに丸だの矢印だのSだのVだの書き込んで、構造を明らかにする、そのプロセスを経なければ、入り組んだ文章は訳せない(ただ英語ができないだけかも)。
あるいは、文章を書くときの、一番初期の段階、アウトラインを考えるメモを作るのも、紙と鉛筆が必要だ。これもどういうわけかパソコンではできない。
あと、その本の種類によっては読みながら、見取り図を取っていくために、ノートを作ることもあるのだけれど、これもパソコンではできない。やってみたこともあるのだけれど、うまくいかない。
この三つに共通するのは、言葉以外の要素、矢印、囲み、アンダーライン、二重線、波線、こういうものが重要だということ。
さらにそれだけではなく、どれも文章にする前の段階のものである、ということ。
つまり、文章にする前の段階で、考えを煮詰めていく助けとして、こういうものを手を使って書きたくなるのだ。
筆記具もなんでもいいわけではない。フェルトペンやボールペンでなくて鉛筆、紙に鉛筆がひっかかる感じがほしいのだ。
石川九揚の『筆蝕の構造』(※「蝕」『むしばむ』の旧字体)に、このような部分がある。
この指摘は非常におもしろい。パソコンのキイを叩くことは、むしろ「話す」の延長にあるという指摘ももちろんおもしろいのだけれど、書くことは、まず〈筆蝕〉なのだ、という点に、目を開かれる思いがする。
紙と鉛筆を使わなければ書けないメモを考える。
前、書きながら考えることについて文章を書いたのだけれど、もっと正確にいうと、考えるというのは、この〈筆蝕〉から始まるのかもしれない。
また考えてみよう。
わたしはつねづね、パソコンのもっともすばらしい機能は、この文章の推敲が簡単にできることではないか、と思っているぐらいだ。
ただし、紙と鉛筆でなければならないものもある。
まず、翻訳。
一文が長く、入り組んだ構造の文を訳すとき、主語と述語のペア、先行詞と関係詞のペア、その他、とにかく構造を見つけるとき、というのは、わたしはかならず紙と鉛筆が必要だ。
まず英文を書いて、そこに丸だの矢印だのSだのVだの書き込んで、構造を明らかにする、そのプロセスを経なければ、入り組んだ文章は訳せない(ただ英語ができないだけかも)。
あるいは、文章を書くときの、一番初期の段階、アウトラインを考えるメモを作るのも、紙と鉛筆が必要だ。これもどういうわけかパソコンではできない。
あと、その本の種類によっては読みながら、見取り図を取っていくために、ノートを作ることもあるのだけれど、これもパソコンではできない。やってみたこともあるのだけれど、うまくいかない。
この三つに共通するのは、言葉以外の要素、矢印、囲み、アンダーライン、二重線、波線、こういうものが重要だということ。
さらにそれだけではなく、どれも文章にする前の段階のものである、ということ。
つまり、文章にする前の段階で、考えを煮詰めていく助けとして、こういうものを手を使って書きたくなるのだ。
筆記具もなんでもいいわけではない。フェルトペンやボールペンでなくて鉛筆、紙に鉛筆がひっかかる感じがほしいのだ。
石川九揚の『筆蝕の構造』(※「蝕」『むしばむ』の旧字体)に、このような部分がある。
人間が手にした道具である尖筆の尖端が紙に触れて、そこに〈触〉と〈蝕〉つまり〈筆蝕〉が生じる。〈筆蝕〉が生じるか否かが、「書く」か「話す」かを分ける境界線である。尖筆の尖端が紙に触れるか否か、さらにその動きが痕跡を残すか否かという差が「書かれた言葉」と「話された言葉」という決定的な差を生む。…
パソコンのキイを叩く、あるいはキイに触れることは、書くことと同じように手を使うが、筆記具=尖筆の尖端が紙に触れることによって生じる〈筆蝕〉が不在である。このため〈筆蝕〉に導かれている「書くこと」は完全に切れている。(p.59-60)
この指摘は非常におもしろい。パソコンのキイを叩くことは、むしろ「話す」の延長にあるという指摘ももちろんおもしろいのだけれど、書くことは、まず〈筆蝕〉なのだ、という点に、目を開かれる思いがする。
紙と鉛筆を使わなければ書けないメモを考える。
前、書きながら考えることについて文章を書いたのだけれど、もっと正確にいうと、考えるというのは、この〈筆蝕〉から始まるのかもしれない。
また考えてみよう。