陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

ジョン・チーヴァー 「泳ぐ人」最終回

2006-07-13 22:19:56 | 翻訳
「泳ぐ人」最終回

暗い芝生に出ると、菊かマリゴールドの匂い――いずれにせよ、確かに秋の香――が夜の空気に混ざって、ガスのようにはっきりと漂っていた。頭上を見上げると星が出ていた。なぜアンドロメダやケフェウス、カシオペアが見えているのだろう? 真夏の星座はどうしたのだ? ネディは泣き始めていた。

 おそらく大人になってから泣いたのは初めてだったろう。こんなにも惨めで、寒くて、疲れ果て、途方に暮れたことは、まちがいなく、初めてのことだった。仕出し屋のバーテンダーも、かつてはネディの膝に取りすがってズボンを涙で濡らした愛人も、どうしてあんなに無礼な態度を取ったのか、理解できなかった。あまりに長い距離を泳ぎ、長い時間、水に浸かっていたので、鼻も喉も水のせいで痛くなっていた。いま自分に必要なのは、一杯の酒と、友だちと、清潔で乾いた服だ。道路を渡ってまっすぐに自分の家に帰ることもできたのだが、ネディはギルマーティン家のプールに向かった。

ここでは、生まれて初めて、飛びこまずに階段を使って氷のような水に入り、子供のころに習ったような気がする横泳ぎでひょこひょこ泳いでいった。クライド家に向かう途中、疲労のあまりふらふらになったネディは、プールの長さを歩いて進み、何度も立ち止まっては、腕を縁に置いて休みながら進んだ。はしごをのぼるときには、家まで戻るだけの体力が残っているのだろうかと思った。ネディは自分がやりたかったことをやった、つまり、地区を泳いでわたったのだ。だが疲労困憊して頭がぼうっとして、満足感すらもよくわからなかった。身をかがめて門柱につかまって体を支え、自分の家の車寄せを見上げた。

 家は暗かった。みんなベッドに入るほど、遅い時間なのか。ルシンダはウェスタヘイジー家で晩ご飯の時間まで一緒にいることにしたのだろうか。娘たちも母親とそこにいるのだろうか、それともどこかへ行ったのか。いつも日曜日はそうしているように、どんな招待も断って、家で過ごそうとみんなで決めたのではなかったか。ガレージのドアを開けて、なくなったのはどの車か確かめようとしても、扉には鍵がかかっていて、ドアの取っ手の錆が手についた。家に近づいていくと、先ほどの雷雨のせいで、雨樋が外れているのが目に止まった。雨樋は、ちょうど傘の骨のように玄関のドアに垂れ下がっているが、ともかく明日の朝に直せばいい。家には鍵がかかっていたので、馬鹿なコックかメイドが鍵をかけたにちがいない、と思った。だがそこでメイドもコックも雇うのをやめて、ずいぶんになることを思い出した。ネディは怒鳴った。ドアを叩き、肩をぶつけてなんとか破ろうとし、それから窓をのぞいてみると、家の中は空っぽだった。

The End



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