陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

すいません、今日は翻訳はおやすみです

2006-07-07 22:48:42 | weblog
一昨日サイトにアップした「何かを書いてみたい人のために」で、一部おかしなところがあったので、その部分を訂正して書き直しました。

7.の実践編のそのまた一部、叙述か描写か、というところで、かなり細かいところなので、アナウンスする必要もないのかもしれませんが。

一応、更新情報も新しくしてあります(こっちはいやに長くなっちゃいました)。
お暇なとき、またのぞいてみてください。

今日、帰りに図書館に寄ったんです。
カウンターのところで大声で職員に文句を言い立てている人がいました。読みたい本がないという、ただそれだけの話なのですが、
「何で市民が読みたい、思うたときに、すぐに応えられないのか。おかしいでしょう」
と、まとめていえばそれだけのことを、窓口の女性にたいして居丈高に繰り返しているんです。
「あんたじゃ話にならん。館長を呼んでください」

わたしはその場を通り過ぎてすぐに中に書架のほうに行ったので、その後どうなったかはわかりませんが、しばらくその声は奥の方まで聞こえていたような気がします。

たまにそんな具合に、妙にコミュニケーションスキルが低い人を見かけることがあります。簡単に解決できるはずのことが、その人がいるばかりに、おかしなことになってしまう。そうして、本人はまったくそのことに気がついていない。一概には言えないのでしょうが、ある程度の年配の男性に多いように思います。

こういう人は、自分が揉め事を起こしている、と気がついているんでしょうか。
おそらく、そうではなくて、正義感でいっぱいなんでしょう。自分がいいことをやっている、という自信がなければ、あんなにいつまでも自己主張なんてできないように思います。
残念ながら、その「正義」は、自分のなかでしか通じない。
そのことになんで気がつかないのか。
相手の困った顔、まわりの奇異の視線、気がついているから、いっそう居丈高になる。自分は正しいのに。間違っているのは、相手なのに。

どうも「正しい-正しくない」の価値判断が、事態をややこしくしているケースが少なくないように思います。
このおじさんの理屈「図書館は市民のニーズに応えるべきだ」が別に間違っているわけではない。
ただ、それを主張する場面、言い方、そうして、相手が「他館から借り受ける」と言ってもなお言い張ること、つまり表現方法において、問題があるわけです。
だけど、「自分が正しい」と思っちゃうと、何も見えなくなってしまう。

わたしたちは行動をするとき「正しい-正しくない」をひとつの(そうして大きな)判断規準にしているわけですが、それもあくまで自分のモノサシなんだ、場によって変わってくるものだし、相手のモノサシはちがうかもしれない、ということを、頭に入れておいたほうがいい。
「自分は正しい」と思っている人ほど、厄介なものはないような気がします。

ということで、「泳ぐ人」、始まったかと思ったらおやすみにしてすいません。
明日はちゃんと続きを載せますので、また遊びに来てくださいね。
ちょっとずつ読みたくない方は、5日ぐらい先にのぞきにきてみてください。

それじゃ、また。