陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

ジョン・チーヴァー 「泳ぐ人」その2.

2006-07-08 22:36:53 | 翻訳
「泳ぐ人」その2.

 肩にかけていたセーターをとるとプールに飛びこんだ。ネディはプールに飛びこまない連中を自分でも理由がよくわからないままに軽蔑していたのだ。ストロークのたびに息継ぎをしてみたり、四回に一回の息継ぎにしてみたり、という不規則なクロールで、頭の中で、1、2、1、2、と数えながらばた足で泳ぐ。長距離を泳ぐのに向いているストロークではなかったけれど、泳ぎをコントロールするのは、スポーツにいくつかの規則を押しつけることでしかなく、ネディの中ではクロールで泳ぐことは慣習に従うことになるのだった。緑色の水に抱かれ、身を預けることよりも、自然状態のおもむくままのほうが、いっそう楽しいように思え、水着さえもつけずに泳ぎたかったのかもしれないが、そんなことは自分の計画を考えれば不可能だった。奧の縁をよじのぼって――ネディは梯子を使ったことがなかった――庭の芝生を横切っていった。ルシンダが、どこへ行くつもり、と声をかけたが、それには、泳いで家に帰るんだ、と答えたのだった。


 頼るべき地図も海図も頭の中にあるものでしかなかったけれど、大丈夫、よくわかっている。まず、グレアム家、ハマー家、リア家、ハウランド家、クロスカップ家の順だ。それからディトマー通りを渡ってバンカー家に行き、しばらく陸路を行ってから、レヴィ家、ウェルチャー家、それからランカスターの公営プールだ。それに続くのは、ハローラン家、サックス家、ビスワンガー家、シャーリー・アダムスの家、ギルマーティン家、それからクライド家。気持ちのいい日だし、この世界は、慈悲のごとく、恵みのごとく、水にあふれている。胸は高鳴り、芝生を踏む足は小走りになった。生まれて初めての道をたどって家に帰ることで、自分が巡礼に、あるいは探検家に、運命づけられた人間のように思え、その道のいたるところで数多くの友を得るのだと確信する。友はルシンダ川に沿って並んでいるのだ。

 ウェスタヘイジー家とグレアム家を隔てる生け垣までやってきたネディは、満開のリンゴの木の下を歩いていき、ポンプやフィルターが格納されている物置の傍らを過ぎて、グレアム家のプールに着いた。
「あら、ネディ」ミセス・グレアムが言った。「あら、驚いた。午前中ずっとあなたに電話してたのよ。こちらへいらして。お飲物を差し上げるわ」

そこでネディは、いかなる探検家でもそうするであろうように、あくまでも目的地に到着することを望むなら、歓待の儀礼と原住民の伝統は、外交的見地から対処しなければならない、と考えた。奇妙なことをやっていると思われたくなかったし、グレアム家の人々にたいして失礼にあたることはしたくはないが、長居をするつもりもない。プールを端から端まで泳いでから、降り注ぐ日差しのなか、グレアム一家に加わる。まもなくコネティカットから山のように友人たちが到着したので、彼らのおかげで助かった。再会を喜びあう連中の大騒ぎのおかげで、そこをうまく抜けだすこともできたのだった

ネディはグレアム家の正面にまわって、とげのある生け垣をまたいで越えると、ハマー家の空っぽの駐車場を横切った。バラの手入れをしていたミセス・ハマーが顔をあげて泳いでいるネディの方を見たけれど、それがだれなのかまでは、はっきりとはわからなかった。リア家の人々は、リビングルームの開け放った窓から、ネディの立てる水音を聞いた。ハウランド家とクロスカップ家は留守だった。ハウランド家を離れてディトマー通りを渡り、バンカー家に向かう。家までまだ距離はあったけれど、パーティのざわめきが聞こえていた。

 水が反射させた話し声や笑い声は、宙にそのまま漂っているかのようだ。バンカー家のプールは小高くなっていて、階段を使ってネディがテラスに上がると、そこには二十五人から三十人の男や女が酒を飲んでいた。水の中にはラスティ・タワーズがただひとり、ゴムボートに乗ったまま浮かんでいた。ルシンダ川の岸辺の、なんと美しくみずみずしいことか。羽振りの良さそうな男女がサファイヤ色の水のまわりに集い、白いお仕着せに身を包んだ仕出し屋は、よく冷えたジンを配っている。頭上では赤いデ・ハヴィランド社製の練習機が空をぐるぐる回っており、どこかブランコに乗った子供があげる歓声のようでもあった。つかのま、この光景に対するいとおしさがこみあげてきて、集まっている人々に寄せる温かい思いが胸を満たした。まるで触れることさえできるかのように。

ネディを見つけたイーニッド・バンカーが、すぐに大声をあげた。
「だれかと思ったら! ああ、驚いた。ルシンダがあなたが来られないって言ったときは、死んじゃいたくなったけど」
イーニッドは人混みをかきわけながらそばに来てキスすると、バーの方へ引っぱっていった。八人から十人の女性とキスしたり、多くの男と握手したりするために立ち止まるので、その歩みは遅々としたものだったが。これまでに百回ほどパーティで会ったことのあるバーテンダーが、にこやかにジン・アンド・トニックを渡してくれ、自分の航海を遅らせるような話につかまらなければいいが、と思いながら、ネディはしばらくバーにいた。

人に取り囲まれそうになったネディは、プールに飛びこむと、ラスティのゴムボートに当たらないよう、端の方を泳いだ。プールの向こう側まで泳ぐと、にこやかに笑いかけるトムリンスン家の人々を通り過ぎて庭の小道をジョギングしていった。砂利が足の裏に傷をつけたけれど、そのほかには不愉快なことはなにひとつなかった。

 パーティのざわめきはプールのまわりだけで、家の方に向かうネディの耳には、明るい、水の音のような声のざわめきも遠ざかり、こんどはバンカー家の台所から、ラジオの音が聞こえてきた。そこでだれかが野球中継を聞いているらしかった。

日曜日の午後である。ネディは駐車してある車の間を通って、アールワイヴス通りと車寄せを隔てる草むした境界を下っていった。路上で水着姿でいることを見られたくはなかったけれど、車も通らず、レヴィ家の私道までもすぐだった。「私有地」と看板が出ており、ニューヨークタイムス専用の緑色の新聞受けがある。

大きな屋敷のドアも窓もすべて開け放ってあったが、人の気配が感じられない。犬の鳴き声さえきこえない。プール目指して、家の横手に回っていくと、レヴィ家の人々がついいましがた、ここから出ていったことを知った。コップや瓶、ナッツが載ったお皿がテーブルの端、奥まったところに置いたままになっている。そこには更衣室や見晴らし小屋もあり、日本の提灯が下がっていた。プールで泳いだあと、ネディはグラスを取りあげて、酒を注いだ。飲んだのも、四杯目か五杯目になっていたが、ネディはすでにルシンダ川のほぼ半分を制覇していた。疲労はあったけれど、自分が清められ、この瞬間、ひとりきりでいることがうれしかった。なにもかもが愉快だった。

(この項つづく)