陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

ジョン・チーヴァー 「泳ぐ人」その5.

2006-07-11 22:29:32 | 翻訳
「泳ぐ人」その5.

 水面を渡る声の響き、まぶしい光とどきどきする気持ちが生みだすまぼろしは、公営プールもバンカー家のプールと同じだったけれど、こちらの方がずっと騒々しく、がさつな声やキンキン声もたくさん混ざっていた。混み合う囲いのなかに入ったネディの目の前に規則が掛かっていた。
・泳者はプールに入る前にシャワーを浴びること
・泳者は槽に入ること
・泳者は認識票をつけること

ネディはシャワーを浴び、濁って冷たい液体に足を漬け、プールサイドまで歩いた。塩素の臭いが鼻をつき、プールは台所の流しのように見える。

救助員がふたり、左右に分かれた監視台から、ほぼ一定の間合いを置いて警笛を吹いては場内放送を使って、泳いでいる人々をあしざまに罵っていた。バンカー家のサファイア色のプールを懐かしく思い出しながら、自分が汚染されるような――自分の羽振りの良さや、魅力のようなものが、この淀みで泳ぐことで汚されてしまうような気がしたのである。だがそこで、自分が探検家であり、巡礼でもあることを思いだして、これは単にルシンダ川の淀みにすぎないのだ、と考えた。

嫌悪感を押して、塩素のなかに飛びこむと、人にぶつからないように頭を水の上に出して泳がなければならなかったが、それでも人には突き当たる、水をはねかけられる、押されもする。浅くなった端までたどりついたところで、救助員がふたりそろってがなりたててきた。
「おい、こら、認識票をつけてないじゃないか、すぐプールから出るんだ」
ネディはプールから出たが、救助員が引き続き見ている様子もなかったので、日焼けオイルや塩素の臭いのたれこめるあたりを抜け、風除けフェンスから外へ出て、ハンドボールコートを突っ切った。道路を渡って、木の茂るハローラン家の敷地に入る。木々は手入れがされておらず、足下が不安定で歩きにくかったが、やっと芝生とプールを囲んでいる刈り込んだ生け垣のところにたどりついた。

 ハローラン家とは親しく行き来していた。巨万の富を抱えた初老の夫婦で、共産党員ではないのかという疑いがかけられていたらしい。ふたりは熱心な改革論者ではあったけれど、共産党員ではなかった。にもかかわらず、告発を受け、ときには破壊活動の疑いであったこともあり、それをふたりはおもしろがり、楽しんでもいたようだった。プールのまわりの生け垣が黄色くなっていて、ネディは、ここのもレヴィ家のカエデのように枯れている、と思った。
ハローラン夫妻に、こんにちは、こんにちは、と声をかけて、自分の来たことを知らせ、ふたりの生活に侵入したことを弁解しようとした。ハローラン夫妻は、ネディはその理由を聞いたことはなかったけれど、水着をつけない。確かに、説明がなくても何ら問題はない。水着を着ないことも、ふたりの妥協を許さぬ改革に対する情熱の一部なので、ネディも礼儀正しく水着を取ってから、生け垣の戸をくぐった。

 白髪で穏やかな表情で、でっぷりと太ったハローラン夫人は、タイムズを読んでいた。ハローラン氏の方はひしゃくで水に散ったブナの葉を掬っている。ネディの姿を見ても、驚いたようすも気分を害したようすもない。おそらくこのプールはアメリカ国内でももっとも古い部類だろう、自然石で作られた長方形のもので、小川から吸水されていた。フィルターもポンプも通していない水は、くすんだ金色をしている。

「泳いでこの地区を横断しようと思ってるんです」ネディが言った。

「おやまあ、そんなことができるなんて」ハローラン夫人は驚いただった。

「ええ、ウェスタヘイジー家から始めたんです。6㎞ほど来ました」

ネディは水着を深い方に置いておき、浅い方に歩いて行って、そこに向かってまっすぐに泳ぎ始めた。プールから上がろうとしていると、ハローラン夫人の声が聞こえた。
「ネディ、いろいろうまくいかなかくて残念だったわね」

「うまくいかなかったって? どういうことか、よくわからないのですが」

「あら、あなたが家を売って、それで、お気の毒なお嬢さんたちが……」

「家を売った記憶はありませんよ。娘たちも家におりますし」

「そう」ハローラン夫人はため息をついた。「そういうことなのね……」夫人の声にはこの季節にはふさわしくない憂鬱なニュアンスがこもっていたので、ネディは快活に言った。
「プールを使わせてくださってどうもありがとう」

「ええ、そうね。行程を楽しんでらして」そうハローラン夫人は言った。


 生け垣を越えたところで、ネディは水着を身につけ、紐を結んだ。水着が緩くなっているので、まさかこの午後のあいだに痩せたわけでもあるまいに、と不思議に思う。寒くなってきたし、疲れてもいた。おまけに裸のハローラン夫妻や濁った水のことを思うと、気分が沈んでくる。泳ぐことは体力的にきつくなってきていたけれど、このようなことになるなどと、その朝手すりを滑り降り、ウェスタヘイジー家で日向に座っていた自分にどうして予測できるだろうか。腕は水を掻くのがむずかしくなっていた。脚はゴムにでもなったようで、関節が痛んだ。最悪なのは、骨の髄まで冷えて、もう二度と暖かくならないのではあるまいか、とまで感じていることだった。木々の葉が落ち、木を燃やす煙のにおいが風に乗って運ばれてくる。この季節にだれが焚き火などしているのだろう?

 一杯やりたかった。ウィスキーを飲めば暖まる、残りの行程をやり遂げることもできるし、泳いで地区を横断するのが独創的で勇敢な行為であるという気持ちをよみがえらせてもくれる。海峡横断泳者はブランディを携えているのだ。気つけ薬が必要だった。ハローラン家の屋敷の前の庭を横切り、小道を進んでいった。そこには夫妻が一人娘のヘレンのために建てさせた家があり、ヘレンはそこに夫であるエリック・サックスと暮らしていた。サックス家のプールは小さく、ヘレンとヘレンの夫はそこにいた。

「あら、ネディ」ヘレンが言った。「母のところにお食事にいらしたの?」

「正確にはそうじゃないんだ。確かにご両親のところにはうかがったんだけどね」
説明はこれで十分のようだった。「おじゃまして申し訳ないのだけれど、冷えるんで、一杯いただけないかと思って」

「もちろんそうしたいところなんだけど、この家にはそんなものは何もないのよ、エリックが手術を受けてからというもの。もう三年になるかしら」

自分は記憶喪失にでもなったのだろうか。痛ましい出来事、自分が家を売ったり、娘たちがトラブルに巻き込まれたり、友人が病気だったり、といったことどもを忘れることで、覆い隠そうとする自分の才能なのだろうか。ネディの目はエリックの顔から腹部へとすべりおち、そこに血の気のない色合いの縫合の傷跡が三つ、そのうちふたつは少なくとも三十センチはあるものを見た。臍が取り除かれても、とネディは考えた、よく動く外科医の手は、夜中の三時の就寝点呼のときのように、臍のないところに新たに臍を作るのだろうか、誕生にはつながらない、継承ということとは何ら関係のない臍を。

(この項つづく)