「泳ぐ人」その6.
「ビスワンガーさんのお宅に行ったら、きっとお酒が飲めると思うわ」とヘレンが言った。「あのひとたち、そりゃたくさん持ってるから。ここからだって聞こえるでしょ、ほら!」
ヘレンが顔を挙げると、道を越え、芝生を越え、庭を越え、木立を越え、敷地を越えて、水を渡って届くきらめくようなざわめきがふたたび聞こえてきた。
「さて、ひと泳ぎするとしよう」そう言いながら、この行程について自分がどう考えようと、選択の余地などないのだ、とネディは感じていた。サックス家の冷たい水に飛びこんで、あえぎ、溺れそうになりながら、自分の進路に従ってプールの端から端まで泳ぐ。
「ルシンダもぼくも、ふたりにはずっと会いたかったんだ」ネディは顔はビスワンガー家に向けたまま、肩越しにそう言った。「長いこと連絡しなくてすまなかった。すぐにまた電話するから」
ビスワンガー家に向かって敷地をいくつか横切っていると、バカ騒ぎが聞こえてきた。あそこならネディに飲み物を出すことを晴れがましく感じることだろうし、喜ぶにちがいない。ビスワンガー家では、ネディとルシンダを年に四回、六週間も前から招待してくれるのだ。いつもはねつけられているにもかかわらず、招待状を出し続ける彼らは、社会の厳然たる非民主的現実を決して理解しようとしない。カクテル・パーティで物の値段を取りざたし、ディナーの席で市場の動向の情報交換を行い、ディナーが終われば、女性を交えた席で猥談を始めてしまうような連中なのだった。
彼らはネディの仲間ではなかった――ルシンダの出すクリスマスカードのリストにさえ入っていなかった。ビスワンガー家のプールに向かって歩を進めながら、ネディは冷淡で、恩着せがましく、少々不安でもあった、というのも、一年で一番日の長いころではあったが、あたりは徐々に暮れてきていたからだ。ネディが着いた頃は、パーティも最高潮に達していた。グレイス・ビスワンガーは言ってみれば検眼師と獣医と不動産屋と歯科医を誘うようなパーティの主催者である。だれも泳いではおらず、プールの水に反射する夕日は、冬の日の輝きのようにも見えた。バーがあり、ネディはそちらへ歩いていった。グレイス・ビスワンガーが気がついてやってきたが、その顔にはネディが当然のごとく予想していた親しみなど微塵もなく、敵意が浮かんでいたのだった。
「ま、このパーティにはなんでもあるんだけど」と大きな声を出す。「招かれざる客までね」
自分がこんな女に社会的な打撃を受けるわけがない――そんなことは疑いの余地もないし、事実、ネディはひるまなかった。「招かれざる客の一人として」と礼儀正しく言った。「わたしは一杯の酒ぐらいの値打ちはあるのでしょうか」
「勝手にすれば。あなたたちは招待状なんかどうでもよかったんじゃないの」
グレイスは背を向けて客の中に入っていった。ネディはバーに行ってウィスキーを一杯頼んだ。バーテンダーは出してくれたがその出し方がずいぶん乱暴だった。ネディの世界では、仕出し業者であっても社会的な評価を受けるものであり、たとえ臨時のバーテンダーが原因でも断られることは、その社会的評価にダメージを被ることになる。あるいは単にその男が新米で無知なだけなのか。そのときグレイスが背後でしゃべっている声が聞こえた。「あの人たち、たった一晩で破産しちゃったのよ――所得の他は何もかもなくしちゃったの――だから、日曜日に一杯飲みに来て、ウチに五千ドル貸してくれ、なんて言うわけ……」グレイスはいつも金の話だ。エンドウ豆をナイフで突き刺して食べるよりひどいじゃないか。ネディはプールに飛びこむと、端から端まで泳いで、そこを後にした。
リストにあるつぎのプールは、最後から三番目、ネディの古くからの愛人であるシャーリー・アダムズの家だった。たとえビスワンガー家で傷を負ったとしても、ここでなら癒されるはずだ。愛――実際には性的な乱痴気騒ぎというようなものだったが――は究極の万能薬であり、鎮痛剤であり、足の運びに弾みを取り戻す色鮮やかな錠剤であり、心に宿る生きる喜びだった。ふたりは先週も、先月も、昨年も情事を持った。ネディにははっきりとした記憶はなかったが、終わりにしたのは彼の方だった。彼の方が優位な立場にあったから。プールを囲む壁にしつらえた入り口から中へ足を踏み入れながら、ネディはうぬぼれ以外の何ものをも感じてはいなかった。ある意味で、自分のプールであるとも言えるのだ。恋人、ことに不倫相手として、自分の愛人の所有物を、神聖な婚姻関係では知り得ない支配力を駆使して楽しむのだ。
シャーリーはそこにいた。真鍮の色をした髪はそのままだったけれど、彼女の姿、あかりのついたプールサイド、セルリアンブルーの水の傍らのシャーリーを見ても、心の底から思いでがよみがえってくるようなことがなかった。かつては確かに、とネディは考えた、お手軽な情事だったのだ。終わりにしたとき彼女は泣いていたけれど。シャーリーが自分を見て当惑したような顔をしていたので、ネディは、まだ傷ついているのだろうか、と考えた。また――神よ、許したまえ――泣くんだろうか?
「何がお望み?」
「地区を泳いで横断しているんだ」
「ああ、もう、いい加減に大人になったら?」
「どうかしたのか」
「お金だったらもう一セントだってあげるつもりはないわ」
「一杯飲ませてくれないか」
「そんなことをするつもりはないの。わたし、一人じゃないから」
「さて、泳ぐとしよう」
ネディはプールに飛びこんで泳いぎ、端について身体を引き上げようとして、腕にも肩にも力が残っていないことに気がつき、梯子まで水を掻いて進んでからそこを昇った。肩越しに振り返ると、灯りのついた浴場に若い男の姿が見えた。
(次回最終回)
「ビスワンガーさんのお宅に行ったら、きっとお酒が飲めると思うわ」とヘレンが言った。「あのひとたち、そりゃたくさん持ってるから。ここからだって聞こえるでしょ、ほら!」
ヘレンが顔を挙げると、道を越え、芝生を越え、庭を越え、木立を越え、敷地を越えて、水を渡って届くきらめくようなざわめきがふたたび聞こえてきた。
「さて、ひと泳ぎするとしよう」そう言いながら、この行程について自分がどう考えようと、選択の余地などないのだ、とネディは感じていた。サックス家の冷たい水に飛びこんで、あえぎ、溺れそうになりながら、自分の進路に従ってプールの端から端まで泳ぐ。
「ルシンダもぼくも、ふたりにはずっと会いたかったんだ」ネディは顔はビスワンガー家に向けたまま、肩越しにそう言った。「長いこと連絡しなくてすまなかった。すぐにまた電話するから」
ビスワンガー家に向かって敷地をいくつか横切っていると、バカ騒ぎが聞こえてきた。あそこならネディに飲み物を出すことを晴れがましく感じることだろうし、喜ぶにちがいない。ビスワンガー家では、ネディとルシンダを年に四回、六週間も前から招待してくれるのだ。いつもはねつけられているにもかかわらず、招待状を出し続ける彼らは、社会の厳然たる非民主的現実を決して理解しようとしない。カクテル・パーティで物の値段を取りざたし、ディナーの席で市場の動向の情報交換を行い、ディナーが終われば、女性を交えた席で猥談を始めてしまうような連中なのだった。
彼らはネディの仲間ではなかった――ルシンダの出すクリスマスカードのリストにさえ入っていなかった。ビスワンガー家のプールに向かって歩を進めながら、ネディは冷淡で、恩着せがましく、少々不安でもあった、というのも、一年で一番日の長いころではあったが、あたりは徐々に暮れてきていたからだ。ネディが着いた頃は、パーティも最高潮に達していた。グレイス・ビスワンガーは言ってみれば検眼師と獣医と不動産屋と歯科医を誘うようなパーティの主催者である。だれも泳いではおらず、プールの水に反射する夕日は、冬の日の輝きのようにも見えた。バーがあり、ネディはそちらへ歩いていった。グレイス・ビスワンガーが気がついてやってきたが、その顔にはネディが当然のごとく予想していた親しみなど微塵もなく、敵意が浮かんでいたのだった。
「ま、このパーティにはなんでもあるんだけど」と大きな声を出す。「招かれざる客までね」
自分がこんな女に社会的な打撃を受けるわけがない――そんなことは疑いの余地もないし、事実、ネディはひるまなかった。「招かれざる客の一人として」と礼儀正しく言った。「わたしは一杯の酒ぐらいの値打ちはあるのでしょうか」
「勝手にすれば。あなたたちは招待状なんかどうでもよかったんじゃないの」
グレイスは背を向けて客の中に入っていった。ネディはバーに行ってウィスキーを一杯頼んだ。バーテンダーは出してくれたがその出し方がずいぶん乱暴だった。ネディの世界では、仕出し業者であっても社会的な評価を受けるものであり、たとえ臨時のバーテンダーが原因でも断られることは、その社会的評価にダメージを被ることになる。あるいは単にその男が新米で無知なだけなのか。そのときグレイスが背後でしゃべっている声が聞こえた。「あの人たち、たった一晩で破産しちゃったのよ――所得の他は何もかもなくしちゃったの――だから、日曜日に一杯飲みに来て、ウチに五千ドル貸してくれ、なんて言うわけ……」グレイスはいつも金の話だ。エンドウ豆をナイフで突き刺して食べるよりひどいじゃないか。ネディはプールに飛びこむと、端から端まで泳いで、そこを後にした。
リストにあるつぎのプールは、最後から三番目、ネディの古くからの愛人であるシャーリー・アダムズの家だった。たとえビスワンガー家で傷を負ったとしても、ここでなら癒されるはずだ。愛――実際には性的な乱痴気騒ぎというようなものだったが――は究極の万能薬であり、鎮痛剤であり、足の運びに弾みを取り戻す色鮮やかな錠剤であり、心に宿る生きる喜びだった。ふたりは先週も、先月も、昨年も情事を持った。ネディにははっきりとした記憶はなかったが、終わりにしたのは彼の方だった。彼の方が優位な立場にあったから。プールを囲む壁にしつらえた入り口から中へ足を踏み入れながら、ネディはうぬぼれ以外の何ものをも感じてはいなかった。ある意味で、自分のプールであるとも言えるのだ。恋人、ことに不倫相手として、自分の愛人の所有物を、神聖な婚姻関係では知り得ない支配力を駆使して楽しむのだ。
シャーリーはそこにいた。真鍮の色をした髪はそのままだったけれど、彼女の姿、あかりのついたプールサイド、セルリアンブルーの水の傍らのシャーリーを見ても、心の底から思いでがよみがえってくるようなことがなかった。かつては確かに、とネディは考えた、お手軽な情事だったのだ。終わりにしたとき彼女は泣いていたけれど。シャーリーが自分を見て当惑したような顔をしていたので、ネディは、まだ傷ついているのだろうか、と考えた。また――神よ、許したまえ――泣くんだろうか?
「何がお望み?」
「地区を泳いで横断しているんだ」
「ああ、もう、いい加減に大人になったら?」
「どうかしたのか」
「お金だったらもう一セントだってあげるつもりはないわ」
「一杯飲ませてくれないか」
「そんなことをするつもりはないの。わたし、一人じゃないから」
「さて、泳ぐとしよう」
ネディはプールに飛びこんで泳いぎ、端について身体を引き上げようとして、腕にも肩にも力が残っていないことに気がつき、梯子まで水を掻いて進んでからそこを昇った。肩越しに振り返ると、灯りのついた浴場に若い男の姿が見えた。
(次回最終回)