先日カウンセリングを受ける機会があった。
希望したわけではなかったのだが、せっかくの機会だから、どんなものか一度体験してみたら、ということになったのだ。
カウンセリングで相談しなければならないことなどちっとも思いつかなかったのだけれど、カウンセラーに会うのは初めてである。カウンセリングというのはどんなものなのだろう、カウンセラーというのは、どういった感じの人なんだろうと、内心、興味津々という感じで、カウンセリングに臨んだのだった。
予定された当日、部屋に入っていくと、きちんとした感じの、どこか小学校の先生を思わせる感じの中年の女性がいた。
最初に向こうから簡単な自己紹介があった。自分がいままでどんなことをやってきたか、どんな訓練を受けてきたか、と話すので、ついいいチャンスだとばかり、臨床心理士と精神科医がどのようにちがうか、とか、交流はあるのか、とか、精神科医についてどのように考えているかを聞いてみる。もうちょっと詳しく聞きたかったのだけれど、「限られた時間ですので」と、その話は打ち切られてしまった。
そこからこちらの仕事の話をする。
「ええ、仕事はおもしろいです。いろいろやりたいこともありますし」
「やりたいことがいろいろおありなんですね」という調子で、語尾をいちいち引き取って繰り返すのは、それがひとつのパターンでもあるのだろうか。なんにしてもあまりにそれが続くので、ちょっとイライラしてしまった。
悩みありませんか、とは、さすがに聞いてこなかったけれど、ふつうはそういうことを話すんだろうな、とは思った。けれどもこちらからその人に言うべきことばも見つからない。
結局は、当たり障りのない話をして、時間になったのだった。
途中、向こうから「わたしの経歴が気になりますか?」と聞かれ、「いえ、カウンセラーの方にお会いするのは初めてなので、どんなことをやってらっしゃったんだろう、って、すごく興味があったんですよね」と答えたのだけれど、いまから思うとそれはわたしが相手のことを信頼していないから、いわゆる「悩み」に類することを話さないのだと思ったのかもしれない。だが、わたしはほんとうにそういうことが知りたかったのである(そうしてこのサイトを何度もご訪問してくださっている方なら、わたしがほんとうにそう思っていたのだと納得してくださるでしょう)。
最後に「何でもお話に来てくださいね、話すだけでラクになりますから」と言われたのだけれど、おそらくお話には行かないだろうと思う。
もちろん、カウンセリングが必要な人や、現実に効果がある人もいるのだと思う。このわたしにしても、もしかしたら、カウンセラーや精神科医に話を聞いてもらう必要が出てくるときが来るのかもしれない。
けれども、いまわたしはその必要を感じていない。
その昔、アメリカ人と話をしていたときのこと。日本が大好きで、日本人はすばらしい、が口癖の彼は、アメリカ人は、みな自分勝手で、自己中心的で、他人はだれでも競争相手としかみなさない、と言うのだった。だからたとえ友だちであっても弱みは見せられないし、相手も自分の悩みなど聞いてくれない。
けれども日本人は、いっしょうけんめい話を聞いてくれて、あなたは悪くない、と言ってくれる。こんな温かい心のもちぬしばかりの日本には、精神科医など必要ないだろう、と言うのだった。彼の思うところでは、どうやらアメリカでは、人に話を聞いてもらおうと思ったら、お金を払わなきゃいけないらしかった。
彼の予想に反して、日本でも徐々にカウンセリングが一般的になってきた。
これはひとつには、やはり人間関係が希薄になって、自分の弱みやネガティヴな話を平気でできる関係を築くのがむずかしくなってきている、という側面もあるのかもしれない。
それを職業とする人が出てくるのにも、一定の根拠があるのだろうと思う。
もちろん、話をすることによって、自分の感情を客観的に眺めることもできるし、自分が直面する現実に秩序を与えることもできる。けれども、それは解決ではないだろう。解決しようと思えば、何らかの行動が必要になっていく。その行動がとれるのは、どんなえらいカウンセラーや精神科医でもなく、自分しかいない。
さまざまな不安はあるし、現実に問題も抱えている。それでも、それがあるのが、当たり前なんじゃないだろうか。むしろ、不安がない、何の問題もない、なんてことが、ある程度の年齢を重ね、それなりにいろんなことをやっている人間にありうるのだろうか。
不安のない状態を「あたりまえ」とすると、どんな些細な不安であっても、それは「悪しき状態」になってしまう。けれども、わたしたちは究極の不安、自分が、死に向かって一歩ずつ歩んでいっている、ということから、逃れることはできない。つまり、不安のない状態など、仮想されたものでしかない。
さまざまな不安があり、問題を抱え、それでもたちまち行動しなければならないわけでもない、そんなあやふやな状態にいながら、それでも楽しいことを見つけ、喜んだり、うれしくなったり、おもしろがったりする。そういうさまざまな要素が入り交じっているのが、日常ということなのだろう。
わたしはそんな日常を大切に思うし、そんな話をしていきたい人もいる。
だけど、それはカウンセラーではない。
希望したわけではなかったのだが、せっかくの機会だから、どんなものか一度体験してみたら、ということになったのだ。
カウンセリングで相談しなければならないことなどちっとも思いつかなかったのだけれど、カウンセラーに会うのは初めてである。カウンセリングというのはどんなものなのだろう、カウンセラーというのは、どういった感じの人なんだろうと、内心、興味津々という感じで、カウンセリングに臨んだのだった。
予定された当日、部屋に入っていくと、きちんとした感じの、どこか小学校の先生を思わせる感じの中年の女性がいた。
最初に向こうから簡単な自己紹介があった。自分がいままでどんなことをやってきたか、どんな訓練を受けてきたか、と話すので、ついいいチャンスだとばかり、臨床心理士と精神科医がどのようにちがうか、とか、交流はあるのか、とか、精神科医についてどのように考えているかを聞いてみる。もうちょっと詳しく聞きたかったのだけれど、「限られた時間ですので」と、その話は打ち切られてしまった。
そこからこちらの仕事の話をする。
「ええ、仕事はおもしろいです。いろいろやりたいこともありますし」
「やりたいことがいろいろおありなんですね」という調子で、語尾をいちいち引き取って繰り返すのは、それがひとつのパターンでもあるのだろうか。なんにしてもあまりにそれが続くので、ちょっとイライラしてしまった。
悩みありませんか、とは、さすがに聞いてこなかったけれど、ふつうはそういうことを話すんだろうな、とは思った。けれどもこちらからその人に言うべきことばも見つからない。
結局は、当たり障りのない話をして、時間になったのだった。
途中、向こうから「わたしの経歴が気になりますか?」と聞かれ、「いえ、カウンセラーの方にお会いするのは初めてなので、どんなことをやってらっしゃったんだろう、って、すごく興味があったんですよね」と答えたのだけれど、いまから思うとそれはわたしが相手のことを信頼していないから、いわゆる「悩み」に類することを話さないのだと思ったのかもしれない。だが、わたしはほんとうにそういうことが知りたかったのである(そうしてこのサイトを何度もご訪問してくださっている方なら、わたしがほんとうにそう思っていたのだと納得してくださるでしょう)。
最後に「何でもお話に来てくださいね、話すだけでラクになりますから」と言われたのだけれど、おそらくお話には行かないだろうと思う。
もちろん、カウンセリングが必要な人や、現実に効果がある人もいるのだと思う。このわたしにしても、もしかしたら、カウンセラーや精神科医に話を聞いてもらう必要が出てくるときが来るのかもしれない。
けれども、いまわたしはその必要を感じていない。
その昔、アメリカ人と話をしていたときのこと。日本が大好きで、日本人はすばらしい、が口癖の彼は、アメリカ人は、みな自分勝手で、自己中心的で、他人はだれでも競争相手としかみなさない、と言うのだった。だからたとえ友だちであっても弱みは見せられないし、相手も自分の悩みなど聞いてくれない。
けれども日本人は、いっしょうけんめい話を聞いてくれて、あなたは悪くない、と言ってくれる。こんな温かい心のもちぬしばかりの日本には、精神科医など必要ないだろう、と言うのだった。彼の思うところでは、どうやらアメリカでは、人に話を聞いてもらおうと思ったら、お金を払わなきゃいけないらしかった。
彼の予想に反して、日本でも徐々にカウンセリングが一般的になってきた。
これはひとつには、やはり人間関係が希薄になって、自分の弱みやネガティヴな話を平気でできる関係を築くのがむずかしくなってきている、という側面もあるのかもしれない。
それを職業とする人が出てくるのにも、一定の根拠があるのだろうと思う。
もちろん、話をすることによって、自分の感情を客観的に眺めることもできるし、自分が直面する現実に秩序を与えることもできる。けれども、それは解決ではないだろう。解決しようと思えば、何らかの行動が必要になっていく。その行動がとれるのは、どんなえらいカウンセラーや精神科医でもなく、自分しかいない。
さまざまな不安はあるし、現実に問題も抱えている。それでも、それがあるのが、当たり前なんじゃないだろうか。むしろ、不安がない、何の問題もない、なんてことが、ある程度の年齢を重ね、それなりにいろんなことをやっている人間にありうるのだろうか。
不安のない状態を「あたりまえ」とすると、どんな些細な不安であっても、それは「悪しき状態」になってしまう。けれども、わたしたちは究極の不安、自分が、死に向かって一歩ずつ歩んでいっている、ということから、逃れることはできない。つまり、不安のない状態など、仮想されたものでしかない。
さまざまな不安があり、問題を抱え、それでもたちまち行動しなければならないわけでもない、そんなあやふやな状態にいながら、それでも楽しいことを見つけ、喜んだり、うれしくなったり、おもしろがったりする。そういうさまざまな要素が入り交じっているのが、日常ということなのだろう。
わたしはそんな日常を大切に思うし、そんな話をしていきたい人もいる。
だけど、それはカウンセラーではない。