一昨日サイトにアップした「何かを書いてみたい人のために」で、一部おかしなところがあったので、その部分を訂正して書き直しました。
7.の実践編のそのまた一部、叙述か描写か、というところで、かなり細かいところなので、アナウンスする必要もないのかもしれませんが。
一応、更新情報も新しくしてあります(こっちはいやに長くなっちゃいました)。
お暇なとき、またのぞいてみてください。
今日、帰りに図書館に寄ったんです。
カウンターのところで大声で職員に文句を言い立てている人がいました。読みたい本がないという、ただそれだけの話なのですが、
「何で市民が読みたい、思うたときに、すぐに応えられないのか。おかしいでしょう」
と、まとめていえばそれだけのことを、窓口の女性にたいして居丈高に繰り返しているんです。
「あんたじゃ話にならん。館長を呼んでください」
わたしはその場を通り過ぎてすぐに中に書架のほうに行ったので、その後どうなったかはわかりませんが、しばらくその声は奥の方まで聞こえていたような気がします。
たまにそんな具合に、妙にコミュニケーションスキルが低い人を見かけることがあります。簡単に解決できるはずのことが、その人がいるばかりに、おかしなことになってしまう。そうして、本人はまったくそのことに気がついていない。一概には言えないのでしょうが、ある程度の年配の男性に多いように思います。
こういう人は、自分が揉め事を起こしている、と気がついているんでしょうか。
おそらく、そうではなくて、正義感でいっぱいなんでしょう。自分がいいことをやっている、という自信がなければ、あんなにいつまでも自己主張なんてできないように思います。
残念ながら、その「正義」は、自分のなかでしか通じない。
そのことになんで気がつかないのか。
相手の困った顔、まわりの奇異の視線、気がついているから、いっそう居丈高になる。自分は正しいのに。間違っているのは、相手なのに。
どうも「正しい-正しくない」の価値判断が、事態をややこしくしているケースが少なくないように思います。
このおじさんの理屈「図書館は市民のニーズに応えるべきだ」が別に間違っているわけではない。
ただ、それを主張する場面、言い方、そうして、相手が「他館から借り受ける」と言ってもなお言い張ること、つまり表現方法において、問題があるわけです。
だけど、「自分が正しい」と思っちゃうと、何も見えなくなってしまう。
わたしたちは行動をするとき「正しい-正しくない」をひとつの(そうして大きな)判断規準にしているわけですが、それもあくまで自分のモノサシなんだ、場によって変わってくるものだし、相手のモノサシはちがうかもしれない、ということを、頭に入れておいたほうがいい。
「自分は正しい」と思っている人ほど、厄介なものはないような気がします。
ということで、「泳ぐ人」、始まったかと思ったらおやすみにしてすいません。
明日はちゃんと続きを載せますので、また遊びに来てくださいね。
ちょっとずつ読みたくない方は、5日ぐらい先にのぞきにきてみてください。
それじゃ、また。
7.の実践編のそのまた一部、叙述か描写か、というところで、かなり細かいところなので、アナウンスする必要もないのかもしれませんが。
一応、更新情報も新しくしてあります(こっちはいやに長くなっちゃいました)。
お暇なとき、またのぞいてみてください。
今日、帰りに図書館に寄ったんです。
カウンターのところで大声で職員に文句を言い立てている人がいました。読みたい本がないという、ただそれだけの話なのですが、
「何で市民が読みたい、思うたときに、すぐに応えられないのか。おかしいでしょう」
と、まとめていえばそれだけのことを、窓口の女性にたいして居丈高に繰り返しているんです。
「あんたじゃ話にならん。館長を呼んでください」
わたしはその場を通り過ぎてすぐに中に書架のほうに行ったので、その後どうなったかはわかりませんが、しばらくその声は奥の方まで聞こえていたような気がします。
たまにそんな具合に、妙にコミュニケーションスキルが低い人を見かけることがあります。簡単に解決できるはずのことが、その人がいるばかりに、おかしなことになってしまう。そうして、本人はまったくそのことに気がついていない。一概には言えないのでしょうが、ある程度の年配の男性に多いように思います。
こういう人は、自分が揉め事を起こしている、と気がついているんでしょうか。
おそらく、そうではなくて、正義感でいっぱいなんでしょう。自分がいいことをやっている、という自信がなければ、あんなにいつまでも自己主張なんてできないように思います。
残念ながら、その「正義」は、自分のなかでしか通じない。
そのことになんで気がつかないのか。
相手の困った顔、まわりの奇異の視線、気がついているから、いっそう居丈高になる。自分は正しいのに。間違っているのは、相手なのに。
どうも「正しい-正しくない」の価値判断が、事態をややこしくしているケースが少なくないように思います。
このおじさんの理屈「図書館は市民のニーズに応えるべきだ」が別に間違っているわけではない。
ただ、それを主張する場面、言い方、そうして、相手が「他館から借り受ける」と言ってもなお言い張ること、つまり表現方法において、問題があるわけです。
だけど、「自分が正しい」と思っちゃうと、何も見えなくなってしまう。
わたしたちは行動をするとき「正しい-正しくない」をひとつの(そうして大きな)判断規準にしているわけですが、それもあくまで自分のモノサシなんだ、場によって変わってくるものだし、相手のモノサシはちがうかもしれない、ということを、頭に入れておいたほうがいい。
「自分は正しい」と思っている人ほど、厄介なものはないような気がします。
ということで、「泳ぐ人」、始まったかと思ったらおやすみにしてすいません。
明日はちゃんと続きを載せますので、また遊びに来てくださいね。
ちょっとずつ読みたくない方は、5日ぐらい先にのぞきにきてみてください。
それじゃ、また。
幸い勝手をしった先客に導かれて、片隅の事務室で運送屋と伝票をやりとりするのが主な仕事という様子の事務のおばちゃんにお願いすれば買えると分かり、先客の後ろについて待っていました。順番が来て「醤油ください」と私。醤油しか売っていない所でしたが(諸味も売っていたかな)。一升かどうか、量と本数の確認があって、その後に「濃口ですか、淡口ですか」と聞かれました。『へっ?( ̄_ ̄;)』
醤油は食卓にいつもありました。しかし、こだわりの料理屋でも2種類の醤油を並べているのは記憶にありません。(当時で20年以上生きてました) 醤油にそんな分類があったとは初耳で、一瞬頭が真っ白とまではいかないにしても、半分近くまで脱色された感覚になりました。「普通の方を」と言って後、眉をひそめるおばちゃんとの無言の数秒間は、何かを瞬間的に醸造してしまうほど密なものでしたが、もうその先はいいとして……
あらゆる文章は描写か叙述、と教えていただいて『へっ?( ̄_ ̄;)』
この驚きと似たものを以前も何かで体験したぞ、なんだっけ、なんだっけ? そうだ! 醤油のときだ!となったわけですが、――で(醤油はどうでもいいのですが)、描写か叙述をどう使い分ければ(或いは配分すれば)いいのだ?と最初から疑問に思っていて、質問しようかなと迷っていたのでした。今回の書き直しで少し分かりました。(少し?)
その部分にとても注目していた読者もいたよ、ということをなんとなく伝えたくなって関係のない話を大量に混ぜて長々と書いてしまいました。では。
とくに小説に限れば、叙述と場面、という分け方の方が一般的かもしれません。
これは、出来事がおこるところを「場面」とし(戯曲でいうところの「場」です)、それを繋ぐ部分を叙述(ときには「橋」)とするわけです。
たとえば醤油の分類にしても、普通は濃い口、薄口、さいしこみ、たまり、白、という分類の仕方が一般的かもしれませんが、ニョクマムやナンプラーも加える分類のやり方、ことによったら、ニンニク醤油、牡蠣醤油、といった分類のやり方も可能でしょう。
分類というのはあくまでも論を進めていくための手段であって、そのやり方というのは恣意的なものです。分類することが目的なのではありません。
これは「線を引く」ということともからんでくるわけですが、線というのは、どういうふうに引いてもいいんです。
どうかそういうものとしてご理解ください。
書き込みありがとうございました。
おすすめの書籍「文章表現四〇〇字からのレッスン」は図書館で背表紙を見た記憶があります。今度借りてみようと思います。
メールやこういうコメントのやりとりを別にすれば、出先で撮影したデジカメの画像に添える文をときたま書いている程度の私です。ここでの「書く」とは切り口がやや違うかと思いますが、私が書くときに意識して避けていることが二つあります。(絶対ではないけど)
・「言葉では表現できない」「筆舌に尽くしがたい」という手の表現を使わない。
言葉を武器に課題に向かって、さぁ書き暴いてやろう!
という立場にあって、これでは敵前逃亡もいいところ。
それ相応のところで用いられるならいいが、一般的には
安直に使われすぎている。
「すごく」「とても」が目立つ文も同罪である。
・「断腸の思い」など、一般に大多数が未体験の事柄の慣用表現や比喩は使わない。
慣用句を再度、語に展開するのが間違いなわけですが、
それを含めたうえで、表現方法として選択したくない。
うっかり似たことをしているときもありますが、見直して気付けば「やめやめ」と書き直しています。
本を読むことも。
何かを書くことも。
あるいは、音楽を聴くことも、絵を見ることも。
誰にも参加できる、開かれたゲームだと。
だけど、それにはいくつかのルールがある。
ゲームそっちのけでルールのお勉強をする必要はないけれど、ルールを知っておけば、理解の度合いに応じて、ゲームを楽しむことができる。
自分は縛られるのはいやだ、と、勝手にルールをねじ曲げても、だれもついてきてくれないから、それではやっぱりゲームにならない。
それでも、ルールに沿ってゲームに熟達していくうちに、みんなが楽しめる新しいルールを思いつくかもしれない。
そうしたら、こんなふうにしたらどうだろう、って提案することはできる。
もともとのルールに沿いながら、そこに自分の解釈を加えて、ほら、こんなふうにやると、もっと楽しいよって。
そういうもんだと思うんです。
ルールを学ぶことのうちには、それを自分の「身」につけていく、というプロセスは必ずあると思うし、その人の「身」を通して、人によって、少しずつちがうものになっていく、というのも当然だ。
いろんなプレーヤーがいて、ルールの解釈もさまざまにあって、のほうが、ゲーム自体、いっそう豊かに、スリリングになるはずだ、と思っています。
柳沼重剛は『英文学こぼれ話』(岩波同時代ライブラリー)のなかで、「文学は素人が立ち入れる場所にしか成立しない」と書いているのですが、わたしはこの言葉をこんなふうに解釈しています。
ゲームをしながら、こんなふうにするともっと楽しいよ、という自分なりのルール、これからも考えていってください。