人と人が祈りあうこそ本当の祈りです。
お釈迦様の生誕日を花祭りと言いますが、お大師様の生誕日をあおば祭りと言います。
高野山東京別院で阿字観瞑想のご指導をいただいた千手院川上住職のお勧めで、昨日は自らの浄化を目的に相模地区の高野山真言宗の研修会に参加して参りました。
阿字観瞑想の実習後に高照寺の密住職による「高野山お百度まいり」の講演を拝聴しました。
3年前になりますが四国お遍路満願のお礼参拝した高野山のお話で、お話のその風景が眼に浮かび懐かしさが重なります。
お百度の修行では祈願に際しては私語は一切出来ない、産まれるも一人、死ぬも一人、この間は夫婦も兄弟もなし、ただただ一人になることの厳しい修行です。
修行中は欲を出してはいけません、でも願いをかけることは結構と言う世界です。
靈氣の奥儀でもそのようにしてより通路となるための術者が空や無の境地となることの大切さを高野山の教えから学が良い機会となりました。
臼井靈氣の修養の様を拝みや集団かとそのころマスコミは論評している記事がありますが、人と人が幸せを祈りあえてこそ真の拝みであるとレイドウレイキは思います。
お釈迦様の生誕日を花祭りと言いますが、お大師様の生誕日をあおば祭りと言います。
高野山東京別院で阿字観瞑想のご指導をいただいた千手院川上住職のお勧めで、昨日は自らの浄化を目的に相模地区の高野山真言宗の研修会に参加して参りました。
阿字観瞑想の実習後に高照寺の密住職による「高野山お百度まいり」の講演を拝聴しました。
3年前になりますが四国お遍路満願のお礼参拝した高野山のお話で、お話のその風景が眼に浮かび懐かしさが重なります。
お百度の修行では祈願に際しては私語は一切出来ない、産まれるも一人、死ぬも一人、この間は夫婦も兄弟もなし、ただただ一人になることの厳しい修行です。
修行中は欲を出してはいけません、でも願いをかけることは結構と言う世界です。
靈氣の奥儀でもそのようにしてより通路となるための術者が空や無の境地となることの大切さを高野山の教えから学が良い機会となりました。
臼井靈氣の修養の様を拝みや集団かとそのころマスコミは論評している記事がありますが、人と人が幸せを祈りあえてこそ真の拝みであるとレイドウレイキは思います。