31日はハッピーハロインですのでテンプレートを一日だけ交換してみました。
ヒューマン&トラスト研究所が大井町に移転する前は川崎に本部がありました、そこでの活動は9年間でした、10月のハロインの時季になると町を挙げての大賑わいでした。特にパレードは日本一を誇る仮装集団が列をなして、街を練り歩き騒音の町と化していたものです。
大井町で開催されたハロインイベントは今年は10月28日と29日で行われていましたが、生憎の台風通過で大雨となり人はまばらでした。
コロラドにある西洋レイドウレイキ本部のフォーベス智香マスターはこの時季なると子供たちに配るお菓子詰めで大忙しと聞いています。
ハロインの話はそれぐらいにして、私にとって10月31日は亡き父の祥月命日であり、特別の日であります。
朝の瞑想と遠隔ヒーリングの後で天界にいる父の顔を心に浮かべ写経して父の戒名である青岳文隆居士のご冥福をお祈りいたしました。
亡き父武文は長野県の北信出身で山之内村といえば志賀高原に向かう山間部の育ちです、多くの家族で四男一女の長男として生まれました。
学生時代は剣道や水泳で名をはせたスポーツマンで勉強もできたそうです。
戦時中は陸軍です、終戦後母と出会い東京に活路を開きました、何もない世の中で生き抜くために鉄工の道で活躍して連日徹夜仕事をしていました。そのような時に母から父の仕事場に着替えを持っていってくれと頼まれ幼い私は3歳の「初めてのお使いを」した経験があります。
誰だかわからないような油まみれの作業服を着て、幼い私を迎えてくれた時、初めて父親の懐に飛び込んだことを今でも懐かしく思い出します。
晩年は独立して会社を経営しており、子供への期待は増して厳しい父親となりました。
思い通りにならないと良く叱咤激励で思いっきり「殴られました」今ではDVですが、昔はそれを躾と言っていました。
男同士はいつの間にか離反して、それぞれの道を歩みます。丁度10月は私の誕生日で母が祝いの会を開いてくれて、疎遠だった父親とも喜びを分かち合いました、いままでのわだかまりが一気に晴れるような祝いの席だったと記憶しています。
宴は終わり父親は早くに就眠して、私も寝室に移動してしばらく時が経った時、母親の父を呼ぶ絶叫の大声で父親の元に行くと脳出血を起こしていました。救急搬送して病院で治療をしてもらいましたが、深夜の事でもあり医師の処置を終えてから父親はその病院が人生最期を迎える場となってしまったのです。そこでの7日間に及ぶ看護は家族だからできる「手を取り合うことも出来る」父の身体に触れるヒーラーとしての始りだったと振り返ります。少し意識が戻って来たと思いましたが、残念ながら31日の明け方父は光に包まれて最期を迎えました。
魂が身体から抜けていく瞬間を父親は見せてくれたようなありさまを今でも鮮明に映像が浮かびます。
父親は62年の人生でした、臼井先生そして林先生も同じ年代で人生を終えておられます、亡くなり方は色々ですが、私もその年代まで生きる目標をいただいてレイキライフに勤しみました。
このように10月31日は私にとって亡き父の命日であることはこれからも生命ある限り忘れることがないでしょう。
父親と心の会話をしました「お陰さまでレイキと共に生き、心身ともに健康に過ごして、今年68歳となりました」ここまで活き活きと人生を生かされていることを心より感謝申し上げます。天界にいらっしゃる皆様いつも見守っていただきありがとうございます。
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