古希からの田舎暮らし

古希近くなってから都市近郊に小さな家を建てて移り住む。田舎にとけこんでゆく日々の暮らしぶりをお伝えします。

土手のリコリスが咲きました。

2010年10月07日 03時29分43秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から

 休耕田をお借りして畑づくりに精を出しすようになって三年目になります。一反三畝は広すぎて雑草がすごい勢いで生い茂るし、土手の草刈りも手がかかるしはじめは途方に暮れました。しかし土手の内側に遊歩道をとり、畝間も広くとって、いまではちょうど気持ちよく使いこなせる広さだと感じています。
 畑のそばの小山。畑に接する小高い村の墓地とクヌギ林。家家の散在する田舎の遠望。畑のたたずまいがいい。家のすぐ近くなので毎日畑の手入れや草刈りができます。野菜の生長とともに畑への愛情も育ってきます。今年の冬はリコリス(彼岸花/曼珠沙華)の球根を土手の肩に植えました。数年後には村の人たちがお彼岸の墓参りをする頃、眼下の畑が赤いベルトで縁どられていますようにと。
 今年は花が咲くと思っていませんでしたが、お彼岸から二週間が過ぎてポツポツ咲きはじめました。500球植えたリコリスの半分ほどは茎を伸ばし、花が咲きそうです。写真は西側の土手です。こんなに咲くのなら土手の肩だけでもお彼岸の頃に草を刈ればよかった。刈りたての土手にリコリスだけが並んで咲いている景色を、来年は目ざします。
 六日はぼくの誕生日です。七十三歳になりました。きのうは片付けをするつもりで裏山に行きました。九十七歳の母・妙子さんが先に来て、地面に散らかる竹の小枝を花バサミで細かく切っています。この冬、母がせっせと刻んだ小枝を掘り起こし、掻き寄せ、竹薮に運んで捨てながら考えました。
 少し前のブログに書きましたように、母は長生きしないだろうと子等は思い、本人もそう思って生きてきました。医者に肝硬変といわれ死を覚悟した母に「員数外の家族になってしまった」と手紙で告げられたのは二十二歳のときでした。あれから50年がすぎました。人間の一生にとって短くない年月です。
 同い年の知人のお父さんが九十五歳で亡くなりました。その後彼と食事をしたとき、こんな話をしました。「わしはいろいろ親不孝もしたけど親孝行もたいがいしっかりやってきた。あと何が足らんから親父はまだこの世にしがみついとるんやろ。あれこれ考えて、『そうや。親父に対する感謝が足りんのかもしれん』と思い当たった。それで毎日感謝の念を心に呼び起こすことにしたんや。そうしたらしばらくして親父が死んだ。大往生や」
 親不孝の話ではありません。親はどう往生し、自分はどう死ぬかという真剣な話です。この話は実によく胸におさまりました。そこできのうぼくも考えてみました。「親孝行や感謝は、こっちも古希を過ぎたしこれくらいでこらえてもらおう。老後の生き方のお手本を示し、気づきをうながすために生きてくれているのならそれも学んだことにしよう。あと何が足りんのだろう」
 妙子さんは高齢になっても自分で寝起きし、用意してある食事を自分でレンジであたためて食べ、便所に行き風呂に入り、衣服を管理して着替え、足腰の痛みもなく医者にかかることもなく、本を読み裏山を散歩します。立派です。
 仕事をしながら考えましたが思い当たりません。『生きる』に関して、人間があれこれ解釈しようとするのは不遜なことかもしれません。ただ言えるのは『どんな人間も一瞬一瞬を一生懸命生きている』。その人間の寿命とか生きる意味を仕切るのは神の領域ということにしておきます。
 
 
コメント
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