古希からの田舎暮らし

古希近くなってから都市近郊に小さな家を建てて移り住む。田舎にとけこんでゆく日々の暮らしぶりをお伝えします。

鳥取県の山奥は水がきれいでした。

2020年07月06日 22時00分09秒 | 古希からの田舎暮らし
 このたびは、1997年没の父(89歳)/2017年没の弟(行年68歳)/2019年没の母(行年107歳)の写真を持って、ゆかりの地を訪ねました。
〇 中国道院庄を出て、最初に訪ねたのは竹田村の木地山です。父は小学校の教員で、敗戦後朝鮮の学校から引揚げてきて、分校に勤務しました。その分校があった地です。この村には30軒ほど家があり、数十人の子どもがいて、分校に通っていました。どの家も〈小椋〉という苗字です。呼ぶときは苗字をつけないで名前で呼んでいました。いまはほとんど住民がいなくなり、ぼくと同級の人も都会で暮らしていました。やっと一人の住民と出会い、あいさつができました。
〇 もう一つ分校を訪ねました。廃村寸前の村です。いまでは分校も、そして本校も廃校になっています。父が病気あけに勤めた分校で、母も山に登って分校暮らしをしました。この分校も谷川にきれいな水が流れています。住民はほとんどいないようでしたが、軽トラックがとまったので声を掛けました。
「父が60年ほど前に、この分校に勤めていたものですから …… 」と言ったら「Y先生ですかな」といきなり父の名を言われてびっくりしました。聞けば「小学校のときに習った」というおじいさんでした。いろいろ村の様子をききましたが、ほとんど住民はいません。耕作放棄の田んぼは、夏草が盛り上がっています。
ぼく:「イノシシの被害はひどいですか」 住民の方:「イノシシはたいしたことないですけど、シカがよう出て、野菜が作れんですわ。今日もシカがワナにかかって、いつも渡してる人に、シカが掛かったって言ったですけど、今日は用があるけえ、捨てといていな」って。そこの橋から川に捨てました」

 道子さんはイヤといって見に行きませんでしたが、きれいな水ですし、写真をアップします。なんかゴッツイ話だな、と思います。

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♫『故郷の廃家』がこころのなかで鳴ってます。

2020年07月06日 03時41分05秒 | 古希からの田舎暮らし
 7月1,2日と故郷への旅をしてから、こころのなかで歌『故郷の廃家』が鳴っている気がします。

 シティーホテルに泊まった早朝、写真とカメラを持って、散歩に出ました。そして5時過ぎに上井駅前(いまは駅名が「倉吉」となっていますが「上井」と言わないと実感がありません)で撮った写真です。この駅前の感じ、長生堂という土産物屋、空気感、はむかしと同じです。しかし駅前のスーパーは無くなり、駅に入って驚きました。駅の改札口は2階の中央になり、エレベーター/エスカレーターがついています。駅の裏側は田んぼだったのに、出口ができて広場になり、タクシー乗り場があり、道がついています。
 我が家は戦後、引揚者ということで住所が転転と変わりました。かつて住んでいた家は一軒も残っていませんでした。空き地になっていました。
 いろいろと思い出しながら、こころのなかでは歌『故郷の廃家』が鳴っていました。

 幾年(いくとせ)ふるさと、来てみれば、
 咲く花鳴く鳥、そよぐ風、
 門辺(かどべ)の小川の、ささやきも、
 なれにし昔に、変らねど、 
 あれたる我家(わがいえ)に、
 住む人、絶えてなく。
 
 曲はアメリカの作曲家へイスですが、歌詞は日本人が作りました。なんかピッタリです。犬童球渓(いんどうきゅうけい)という人の作詞です。250曲ほど西洋の歌に作詞(訳詞)した人です。
 1879年(明治12年)球磨川渓谷生れで、「1943年人吉市で自殺」とあります。1943年というと昭和18年。日本があの戦争で負けようとしていたときです。どんな思いで …… 。
 球磨川というと、このたびの豪雨で川の氾濫したところですね。この歌の歌碑があるそうですが、この豪雨でどうなったでしょうか。
 
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