先週のリエゾン演奏会以降まったく楽器を吹いていなかった。
それまでソプラノとバリトンをずっと吹いていたので、実は右手首の腱が悲鳴をあげていたのだが、それもすっかり治ったようだ。
ただ首や肩のじんわりとした凝りは相変わらずで、おそらくこれは一生続くのではないかと思う。
学生の頃は肩凝り知らずだったにも関わらず。
一週間も楽器にさわらなかったというのはあまり経験の無いことだったが、来週は音教の本番もあるので少しずつ再開していきたい。
そしてこの一週間は何をしていたかというと、もっぱらフランス語の勉強をしており、忘れていた語彙を思い出したり新しく覚えたりと、もどかしい日々を過ごしていた。
私は未だ初級のレベルを抜け出してはいないが、外国語には単語一つ一つの意味を学んでいくレベルを過ぎると、そこから状況に応じた語彙を選び、文法や語順等のフレーズを意識することになるのではないかと思う。
母国語の言語力というのも重要になってくるし、母国語をそのまま外国語に変換するのではなく、外国語そのものの視点にシフトしなければならないのだろう。
昨日書いた「サンフランシスコ」では、そうした語彙の選び方やそのアクセントを旋律や和声に乗せるセンスの良さに驚いた。
実はその点では楽器の練習や本番にも共通した意識を持っており、一つ一つの奏法のポイントを考えながら練習しつつ、演奏の際にはそれらのポイントを無意識な身体の動きに委ねて、その場の状況に応じた流れを意識していく。
無意識に動く範囲を広げていければ、リードの変化や楽器の持ち替え、会場の響きに動じることもなく、更には演奏の様々なアクシデントにも対応できるのではないかと思う。
その流れをどの様に感じて進めていくかはスタイルに乗せたその人のセンスによるもので、先日のリエゾンではそのスタイルやセンスの部分をずいぶん学び、また触発されたものだった。
それまでソプラノとバリトンをずっと吹いていたので、実は右手首の腱が悲鳴をあげていたのだが、それもすっかり治ったようだ。
ただ首や肩のじんわりとした凝りは相変わらずで、おそらくこれは一生続くのではないかと思う。
学生の頃は肩凝り知らずだったにも関わらず。
一週間も楽器にさわらなかったというのはあまり経験の無いことだったが、来週は音教の本番もあるので少しずつ再開していきたい。
そしてこの一週間は何をしていたかというと、もっぱらフランス語の勉強をしており、忘れていた語彙を思い出したり新しく覚えたりと、もどかしい日々を過ごしていた。
私は未だ初級のレベルを抜け出してはいないが、外国語には単語一つ一つの意味を学んでいくレベルを過ぎると、そこから状況に応じた語彙を選び、文法や語順等のフレーズを意識することになるのではないかと思う。
母国語の言語力というのも重要になってくるし、母国語をそのまま外国語に変換するのではなく、外国語そのものの視点にシフトしなければならないのだろう。
昨日書いた「サンフランシスコ」では、そうした語彙の選び方やそのアクセントを旋律や和声に乗せるセンスの良さに驚いた。
実はその点では楽器の練習や本番にも共通した意識を持っており、一つ一つの奏法のポイントを考えながら練習しつつ、演奏の際にはそれらのポイントを無意識な身体の動きに委ねて、その場の状況に応じた流れを意識していく。
無意識に動く範囲を広げていければ、リードの変化や楽器の持ち替え、会場の響きに動じることもなく、更には演奏の様々なアクシデントにも対応できるのではないかと思う。
その流れをどの様に感じて進めていくかはスタイルに乗せたその人のセンスによるもので、先日のリエゾンではそのスタイルやセンスの部分をずいぶん学び、また触発されたものだった。