浄心庵・長尾弘先生「垂訓」

八正道と作善止悪

「御垂訓」

2020-10-31 00:33:01 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓
 
 恩師のご著書「講演集」より

         講演集、 二

      東京・沖縄の旅にこと寄せて――幸せになる為には


先の続き・・・

質疑応答

質問 長い間商売をしてきたのですが、息子の代でやめたので、おばちゃんが
     気落ちしていますが、どう慰めたいいでしょうか。

―――「老いては子に従え」という言葉があります。
今の世相で脱サラといってサラリーマンを止めて商売されている方があります。
ところが、せっかく親から頂いた商売を止めて勤めをする人もあります。
世はさまざまでいいのです。
おばあちゃんがそういうことで、嘆き悲しんおられるそうですが、
もう若い者にすべてを委せなさい。
おばあちゃんが自分で商売ができるのならやってもらったらいいけど、
もうお年なら商売はできないでしょう。
できないことに嘆き悲しんでいたら、自分自身が不幸です。
「ご先祖様に申し訳ない」と言うけれど、
死んだらそんなことは関係のないことです。
商売するとか、サラリーマンになるとかは、
この世の修行の一課程であって。
そんなものはほんとうの目的とは違うのです。

その中を通して自分の魂の修行をさせてもらっているのですから、
おばあちゃんに、
「もう商売は息子にあげたのだから息子が潰そうと大きくしようとそんな
ことは息子さんに委せなさい」と言ってあげて下さい。
おばあちゃんは自分の心の苦しみが少しでも少ないように、
嘆き悲しんでいたら、自分が辛いはずですから、それよりも
「日々の生活の中で有り難いなあ、
結構だなあと喜びの時間を持つようにして下さい。
さもないと死んだら地獄へ行きますよ」と、このように言ってあげて下さい。
自分の心を苦しめますと、地獄へ行きます。
もちろん人を苦しめても地獄へ行きます。
人も苦しめたら、その報いとして自ら苦しめられますから、
やっぱり同じように苦しむのですね。
自分を大切にしなくてはいけません。

自分を苦しめるというのは、自分の身体を棒で叩いたり、
焚き火の中に入れたりして、
自分を苦しめるという意味ではないのですね。
怒りや妬みや謗りや愚痴や憎しみなど、
T教では八つの埃と言っていますが、
八つどころではありません。
取越し苦労、嘘、盗み、貪欲、足ることを知らぬ欲望、
それらの心を持った時、
自分の心は必ず苦しい筈です。
その苦しみこそ私たちが地獄へ行く材料となっております。
自分を苦しめることは自分の心の在り方です。
人に善きことをした後、相手からお礼の言葉を求めても、又、
人と比較しても心に苦しみが生じます。
思いを変えたら、一瞬のうちに心が軽くなります。
これが法の持っている力です。
「ああ、自分は愚かだった」と思った時に、苦しみが消えます。
人間、腹が立つのは当たり前で、
肉体を頂いている限り甘い誘惑を受ければ心も動きまし、
愚かな失敗をする場合もあります。
しかし、早く思いをチェンジすることですね。
切り替えが早ければ早いほど、心の苦しみが少なくなっていきます。
「こんなに腹を立てていたら自分が損だ」「私にこんなことがあったから、
あの人が腹を立てたのだなあ、申し訳なかったなあ」とお詫びの心を持つと、
心がすっと軽くなります。



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「御垂訓」

2020-10-30 00:00:59 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

恩師のご著書「講演集」より

           講演集、 二

    東京・沖縄の旅にこと寄せて――幸せになる為には


先の続き・・・

質疑応答

質問 息子夫婦と姑として、その間で苦しんでいます。

――― 私たちは人の心を変えることはできないのです。
なぜかというと、自分の心さえなかなか変わらないし、
変えようと思えばすごい努力と勇気とが必要です。
先程懺悔させてもらいましたが、皆さんの前でこういうことを言うのは
勇気が要ります。
自分のすべてを捨てないと言えません。
それを、努力と智慧をもって自分を変えた時、
己を捨てて必死になって努力している姿を見て、周りが変わるのです。

電話を通してでも、声の波動によって、
息子さんにはお母さんが変わられたということが分かるのです。
自ら変わった時、言葉から波動が出ています。
それと愛に満ちた言葉づかいによって、息子さんの心を変えていきます。
自分の心を変えないでいて、神様に相手の心を「どうぞ変えて下さい」と言えば、
お母さんの愛としては神様は受け取って下さいますけれど、これはまず
お母さん自身が変わっていって下さい。
そのように頑張ってみましょう。


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「御垂訓」

2020-10-29 00:48:44 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

恩師のご著書「講演集」より

           講演集、 二

    東京・沖縄の旅にこと寄せて――幸せになる為には


先の続き・・・

沖縄に行かせてもらった時、
あわよくばUFOの写真を撮ってきますと約束しましたが、
あまりに忙しくてUFOにお会いすることができませんでした。
私はタバコ一服、水一滴頂く暇がありませんでした。
東京でも汗を拭き拭きでしたが、沖縄はもっときつかったです。
部屋へ帰りますと、近くの部屋の方が来てくれまして、
休ませてもらったのは二時間半から三時頃、
朝は早く起きなくてはいけないし、

ちょっとしか寝ていない上に前日多くの方達の治療をしましたので、
朝起きると瞼がこんなにたるんでいました(笑い)。
鏡を見てびっくりしまして、「しっかりしなさい」と言いましたら、
スーッと消えてくれました。
「こんなことでは人の前に出られません。調和して下さい」と言いますと、
普通の顔になってくれました。
しかし嬉しいことがあったのです。

帰りに水族館で海底の魚の見える所に連れていってもらいました。
自然というのは有り難いもので、
行く先々で学ばせてもらうことができますね。
海はあんなに広いと思いますけど、珊瑚礁の魚は、
そこで生まれて育ってそこで死ぬそうです。
よそへ行かず一生をそこで終わるそうです。
こんなに大きい鯛がいます。

餌の麩を岸から投げると、魚が取り合いをして食いついてきます。
鯛や細長い魚や透き通った魚などがよく見えました。
こんな所で漁師がその魚を全部獲ってしまったら後、魚が育たないそうです。
「もう時間がありません」と言われて、パーッと走って運動会のような旅でした。
しかし、人さまの喜びを頂いて数えきれないほどのたくさんの方が喜び、
そして感激して下さいましたが、特に沖縄では自分が分からない程抱きついて
ワンワン泣いておられて、それは大分長い時間でした。
何人も何人も抱きついて泣いておられました。
魂の触れ合いに恥じも外聞もありません。

男同士が抱き合って泣いていたり喜んだりしましたね。
一般の社会で男同士が抱き合って泣いていたら、
気が狂っていると思われるでしょうけれど。
かつて、今から十年前、私は山の中で反省させてもらったのですけど、
その高い背丈の髯の濃い方が心を開かれました。
その時私も心を開かせていただいたのですけど、
帰りの別れ際にその大きい方が私を抱いてくれます。
私もくらいついてその髯の濃い人とハハハ、
頬ずりして喜び合ったことがあります。

後になって考えると、少しおかしかったのと違うかな、
そんな変な趣味は無いはずなのになあと思ったことがありましたね。
それは魂の触れ合いです。
肉を超えた魂の触れ合いの感動が起きるのです。
女の方も、男の方も関係ありません。
どうにもならない感動ですね。
こんなことは内緒にしておかなくてはいけませんが(笑い)。
しかしそういう感動に包まれるものです。



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「御垂訓」

2020-10-28 00:02:48 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

恩師のご著書「講演集」より

          講演集、 二

   東京・沖縄の旅にこと寄せて――幸せになる為には


先の続き・・・

霊的に神の啓示を受ける場合、突然その人の心の状態によって、神と悪魔とが
入れ替わる場合が起きるのですね。
受信機のチャンネルを怒りの世界へ向けたら、怒りの世界から入りますし、
増上慢になれば増上慢の世界から入ります。
喜び、安らぎ、愛のほうへ向けたら、光の天使が入ってくるのです。
安らぎ、喜び、愛の心の持続ということは、我々にとって難しいことです。
しかし無償の愛の実践を通してのみ、安らぎと喜びが持続できます。
過去世に聞いたからといって、調和されている方は殆どありません。
腹の立つ時は腹を立てておられますから、そぅの時に悪魔がちゃんと入っています。
このB先生の本の中にもそのことが書いてあります。

「過去世を開いた為に自分が偉いという増上慢となり、
そのために遠くへ去っていってしまった」と、
私にもそういう体験があります。
心の窓を私の縁によって開きながら、私を非難、誹謗した人がありました。
私はその人を開かせておきながら、私が自分自身開いていないことにしていますから、
開いた人は自分のほうが偉いと思ってしまって、それでこういうことが起きます。
増上慢はまさに魔の餌食となってしまいます。
今日ここに来ていただいていますMちゃんとお姉ちゃんと僕の三人は
おばあちゃんが高石におられるのですけど、お孫さんたちは千葉に住んでおられます。
去年高石でお話をさせてもらいました時も、この子らが来ていたのです。
お話のあと、金がいっぱい出てきましてね。

こうしてこの子たちが手を降りますと、キラキラになるのです。
「もう一回振って」「もう一回振って」と、大の大人が周りに寄って言いました。
この子供さんが手を開くと、金がパアーッと出まして、家に帰られてからも
ずっと出ていたそうです。
この子供さんも神様のご用をしてもらうように、また人さまを救うてもらうように、
大きくなったら頑張って下さい(笑い)。
こういう幼いお子さんは心に曇りが少ないのです。
ですから、素直に私のような者にも「のの様、のの様」と慕っていただきますと、
そのような奇跡をあらわします。
信じるものは救われます。
そして神のご加護を頂けます。


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「御垂訓」

2020-10-27 00:07:40 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓
 
 恩師のご著書「講演集」より

          講演集、 二

      東京・沖縄の旅にこと寄せて――幸せになる為には


先の続き・・・

また、霊的現象で心の綺麗な方には天上界から光の天使が入ってくれます。
そして習ったこともない外国の言葉でお話をなさいます。
気を付けないと恐いのは、人は常に心の安定を保つことは難しいことです。
都合の悪い時には心が揺れ動きます。
もっと都合が悪ければ腹が立ってきますし、恨んだり謗ったりします。
いろいろとその時の人生の過程で出会いが始まり、
その出会いによって出来事が起きます。
出来事の都合がいい時は心が安定していますが、都合悪い時は心が波立ちます。
この波立った時が恐いのです。

例えば素晴らしい霊能力者の先生が亡くなられて間もない頃のことです。
先生の長女のA様に光の天使様が入ってこられて講演された時、何千人という
その場に集まっていた人たちは、ワンワンと大声を出して感激して泣きました。
まさに神の言葉が出てきたのです。

しかし、先生が亡くなられたあと十か月ぐらい経ってから、
ボチボチと何やらおっしゃることが正法から外れてきました。
二十歳そこそこの若いお譲ちゃんに光の天使長という天使が入られて、
もう周りも「天使様、天使様」と言って持ち上げ、
ご本人もご自分の名前を使わずに、
天使の名を名乗っておられました。

今もその当時の月刊誌が残っておりますが、
そのうちに増上慢になれば恐ろしいことです。
同じように「私は天使○○でございます」と言って入ってきても、
それは悪魔とちゃんとすり替わっていることがあるのです。
しかし、これを見破ることができないのですね。

本人も分からないし、周りも分からないのです。
サタンというのは絶対にばれないようにして近づいてきます。
そして人の心を誘惑します。
ばれるようなことをしたら「ああ、サタンだ」と、すぐ分かります。
しかし本人も周囲も気付かない間にサッと入れ替わるのですから、
そこが霊的現象の最も恐ろしいところです。


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「御垂訓

2020-10-26 00:09:14 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓
 
        恩師のご著書「講演集」より

             講演集、 二

        東京・沖縄講演のお土産話――懺悔と告白


先月お集まりいただきました後、東京に招いていただいて横浜、東京に参りました。
東京では約百六十人ぐらいお集まり下さって、皆さんに大変喜んでいただきました。
昨日と一昨日とは沖縄へ招いていただき、昨夜九時半にこちらに帰ってきたところです。
沖縄も大変な盛況でございまして、四日間に亙る「心の研修会」を開いておられて、
お見えになっている方は二百四、五十人でした。
東京でも沖縄でも信じられない奇跡を見せていただきました。
東京ではいろんな超能力の先生方が集まっておられたのですけど、皆さん、
とてもびっくりされました。

こんなわけで、あちらへ飛びこちらへ飛び、飛び回らせていただいております。
今日は、そのお土産話をさせていただきたいと思います。
東京へはこちらから総勢十二名で参りました。
私たちは横浜で一泊、翌日東京まで送っていただき、S先生お世話の会場へ参りました。
世の中には、いろいろと不思議な先生方がおいでになるもので、或る先生は
離れた場所から相手の方に手を動かして身体の悪い所を取り除くようにされますと、
病気が治ったり、ムチ打ちも治るし、腰痛も、腰の骨の曲がったのも
真っ直ぐになって治るということです。
又、水晶といえばすごく堅い石ですが、或る先生は念力で、手も触れないで、
大きな水晶の原石に穴をあけられたそうです。

又、目の中に指を突っ込んでかきまぜて治す方など、
いろいろと超能力の先生方が六、七人お見えになっていたそうです。
私が寄せていただくということを聞かれて、
それではどんな人間か見てやろうということでこられたようです。
前日、横浜で或る人から、「○○先生、××先生はこういう能力を持っておられます」と聞いて、
「私は出来ていないから行くのは嫌だなあ、そんな偉い先生方の前へ出るのはかなわないなあ、
恥ずかしいから手拭いを一本貸してもらって、
頬かむりして行きたいなあ」と、皆様と笑いながら話しておりました。
一緒にいっていただいたY先生が、「長尾先生、そんな偉い人ばっかり来ておられたら、
皆ひとまとめにして度肝を抜いてやって下さい」と言われるのです(笑い)。


昨日ご報告しました恩師のブログ「御垂訓」には恩師が書き残されたご著書や
解説されたご著書、その他ラジオ放送での「心の扉」などの全てを転載投稿して
あります。(下記)
◆真理を求める愚か者の独り言
◆ご講演集の一、二、三
◆思いの中に生きる
◆歌集
◆ラジオ放送での「心の扉」
◆反省・瞑想・禅定の「自己をみつめる」
◆恩師が解説されたマクドナルド・ベイン著「心身の神癒」
◆恩師が解説された中村元著「ブッタのことば」
◆恩師が解説された高橋信次著の「心行」上、下
当ブログ開設より延べ日数の4,367日間でこのブログに訪問して頂きました延べ
人数は実に42万人以上で一日平均101人であり、また閲覧して頂きました延べ
回数は121万回以上一日平均293回となっております。
これも皆さまのお陰様まさにナマステでございます。
それと同時に恩師がお亡くなりになられて10年以上にもなりますが未だに
多くの方々に慕われておられる恩師の偉大さに感服しご尊敬の念を新にしております。
皆様、今後ともこのブログ「御垂訓」を宜しくお願いいたします。
ありがとうございました。

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「御垂訓」

2020-10-24 23:55:00 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓
 
恩師のご著書「講演集」より

               講演集、 二

        自ら過去世を明かしてはならない


又、ある所に行きますと、私の目からパァ―ッと光が射したのです。
光を入れた方は「何とも言えないきれいな光が見えた、あれはE・Tだ」
と言います。
それで「E・Tって何ですか」と聞くと、宇宙人だそうです。
いろいろとあだ名をつけて下さいます。
中には魔法使いだとか日本昔話しの神様だとか。
ある方は、「先生の正体は何でございますか」と、
もう何日も一生懸命尋ねて祈られたそうです。
すると、私が面白い白人の服を着て、体はもっと大きくて、
ボロみたいなものを纏ってね、
腰を縄でくくって、変な木の杖をついて出てきたのだそうです。
それでその人がね、「先生、どなたですか」って聞くと、
私が「アブラとハム」と言うたのですって。

その人は四国の人ですけど、「先生ね、昔は油屋をやっていたのだそうな、
何か知らないけどアブラとハムって言うてましたよ・・・」
こうして油屋にされてみたりね。
その場に集まっていた人が「アブラハム、
それはキリスト教の聖書の中に書いてある人だ、
ヘエー先生はそんな人だったのですか」と言っていたそうです。
しかし、そんなものには捉われません。
又そんなものは私に関係ありません。
人は何とでも言います。
しかしたとえ過去は誰であっても、もし今生間違っておれば、
過去を恥ずかしめます。
自分の過去は尊いものです。
その尊い過去世をなぜ明かしてはならないかというと、
それは肉体を頂いておれば、つい過ちを犯すからです。
そして尊い過去を傷付けます。

だから、自分の過去は明かさないという重荷を自ら背負うのです。
それよりも今、今生で今のこの一時、一時をいかに生きさせてもらうか、
そしてできることなら、自ら神の使いであるという証をしたらいいのです。
行いの中に、或いは説法の中に、自分は神の御使い、
私こそ神の御使いであると証明しなくては、
自分の過去を言うばかりであれば、これは通用しません。
行いと、説法、言葉をもって神の人、
神の御使いとしての証しを立てていきたいと思います。
その時、神は願うことなしに、証をされます。
「この者は私の使いである。この者は私の出した御使いである」ということを
神様は証明してくださいます。
至るところでその証を立てられます。
望むことはありません。

神は大自然の意識であり、自然のままに現わされます。
どうぞ皆様も神の御使いとして、そして神様の投網を持って、
神様のよい魚を取り上げるようにひとつ努めて下さい。
小さい魚は逃げても構いません。
縁なき衆生は度し難しで、どれほど救いたい、どれほど幸せになってほしいと
私たちが願いましても、縁のない方を救うことはできません。
ですから、縁ある方、神様の投網にかかる方をどうぞ神の国に
引き上げてさしあげてください。
どうも長い時間、ありがとうございました。


※ ご報告
恩師「長尾弘」先生のご命日(10-25)にあたり、
当ブログの開設日より現在までのトータル訪問者数、並びにトータル
閲覧回数をご報告申し上げます。
ブログ名:垂訓 URL:http://blog.goo.ne.jp/hanatenzen 
開設日:(2008-11-11)から本日現在(2020-10-24)
までの4,329-182=4,147日間で: 
(不可抗力で投稿できなかった日数を182として計算しています)

トータル訪問者数:420,166名    一日平均:101名
トータル閲覧回数:1,213,843回    一日平均:293回

多くの皆様の当ブログへの訪問ならびに閲覧ありがとうございました。
恩師「長尾弘」先生も天上界で大変喜んでおられることとご拝察致します。
これを励みとしまして尚一層、皆様に喜んで頂けますよう
ブログの更新を頑張ってやっていかねばと心新たにしております。
皆様どうか今後とも宜しくお願い致します。

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「御垂訓」

2020-10-24 00:08:13 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

    恩師のご著書「講演集」より

             講演集、 二

       自ら過去世を明かしてはならない


過去世については、言わなくてよろしい。
過去世みたいなものは、たとえいくら過去において偉かったとしても、
今生で呆けていましたら、それは駄目です。
過去世が何であったとしても、そんなものは関係ありません。
自分の過去世の分かる人は、
同時にこれを絶対に人に明かしてはならないという重荷を自ら背負いなさい。
私の過去世が何者であっても、これが何の利益になりますか。

それよりも今の私が、この言葉と行いと思いによって、私は正に神の御使いで
あるという証明をしたらいいのです。
私は神の御使いとして、思い、言葉によってそれを示すことができます。
過去世のようなものに捉われる必要は何もありません。
今、自分が神の御使いとして生きたらいい、証明したらいいのです。
自らの過去よりも立派に生きなくてはいけません。

もしそれよりも現在を落としてしまったら、自分の過去に傷を付けます。
その為に、過去の己を明かさないという重荷を自ら背負っていただきます。
ある方は「先生はいったい何者さんでございますか」と言われます。
「私は、あの田舎者でございます」「いや、ほんとうは何者ですか」
「ほんとうは私です」と言っています。

「いや、人間だったら、先生のようにはできない」と言うのですね。
リウマチで何十年間動けなかった方が、その場で治って動き出して歩き出され
たのです。
するとそのお姉さんが「先生は何者でございますか、こんなこと、
人間だったらできません」
「いや私は私です」あまり不思議なことが起きますとね、
このように聞かれます。

先日も娘さんが腹痛で七転八倒し、
「しっかりしなさいよ。もう二十分ほどで着くから」
「もう十分ほど頑張りなさい」と言って、
車の後の席でお母さんが娘さんを抱きしめて、
やっと着いたというので、両親がその娘さんを
抱きかかえて連れてきましてね。

その娘さんを寝かせて、私は立ったままで光を入れさせてもらいました。
すると、お父さんは自分の娘が、今いうのでおどろいて、私のそばに来て、
「先生はインベイダーですか」って言われました。
インベイダーと言うのは侵略者のことですね。
「インベイダーか」っておっしゃるのです。
これは悪意ではなく、地球人ではあり得ない出来事に驚いて、
そのような表現をされたのだと思います。



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「御垂訓」

2020-10-23 01:57:17 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

      恩師のご著書「講演集」より

            講演集、 二

       神様の投網をこの世に放つのが使命


先の続き・・・

神様もまた、目覚めた優秀な人材というか、神の使いをしてくれる人を、
鵜の目、鷹の目になって探してくれます。
私は全国を歩かせてもらって、
神様の投網をさげて歩かせてもらっているのです。
一切の求める心なしに、あちらこちらに神様の投網を打ってきます。
私の網にかかる人は魂の成長した大きな心の人で、
その方が残ってくれます。
小さい魂の雑魚は網の目からみな逃げます。
そして一回一ケ所で網を打っても、残ってくれるのは僅か何十人です。
極端な方は、病気だけ治ったら話しを聞かずに帰られます。
この間尼崎に行きますと、
四カ月も熱が続いて下がらないという方が見えていました。
お医者さんに五、六軒かかったけれども、原因が分からない。
その六十代のおばあちゃんを家の人が連れてきて、
控室で寝かせています。
大阪でのお話を済ませてそこに行きましたら、
もうその病人さんが待っています。
自分でひっくり返ってムチ打ちになったそうです。
「ムチ打ちと、熱が下がらなくて苦しい」
「はいはい、それじゃちょっとお願いしましょう」
と言って光を頂きました。

見ると、えらく肥えているのに、胃が骨盤の底にきていますから、
「胃は正しい場所に上がりなさい、
そして熱は下がりなさい」と言いますと、
忽ち熱が下がって冷たくなりました。
「先生、私ムチ打ちなんです」
「はいはい、それじゃ治しましょう」
ムチ打ちが治りますと、お話が始まった時、
スーッと帰ってしまってもうそこにおりません。
ああいうのは雑魚です。
神様の投網に折角かかっているのに、サーッと逃げているのですね。
「あの人、何しに来たのでしょうね。
体を治してもらいにだけ来たのですね」
と言って笑ったのですが、そういう人はいっぱいあります。
ただ助けてもらって、治ったらもう関係ないのです。
しかしそういうことに懲りないで、
相変わらず神様の投網をして歩いているようなものです。
そうして縁があってかかってくれる方の魂は大きく育った魚です。
大きな魚、わざわざ遠い所からこうして来ていただく皆さんは、
ほんとうに魂の大きい魚だと思います。
ありがとうございます。

ですから私は、話を聞いてくれない方はしょうがないなあとは思いません。
要は治ってくれればいい、話を聞こうが聞くまいが関係ない。
だけれど、できることなら話を聞いてほしいものです。
折角来ているのに、
病気だけが治ればサーッと帰ってしまっては愛想がありません。
どうぞ皆さんは神様の神理の投網を持っておられるのですから、
世の中に向けて、神理の網を放ってください。
かかる方もあるし、逃げる方もあります。
逃げる人が多いですよ。
そして一人でも救い上げて下さい。
そして正しい神理の道に導いてあげてください。
それが私達の使命です。
難しいことは要りません。
まず、自分が救われる、自分が安らぎをいただく、
そして次にその安らぎを人々にお伝えしたらいいのですね。


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「御垂訓」

2020-10-22 00:04:59 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

恩師のご著書「講演集」より

          講演集、 二

        「仕事」の本来の意義


先の続き・・・

この話しをしますと、
「そんなことを言ったら、生きていけない」とおっしゃるから、
その方に言ったのです。
「考えてみなさい。企業を一つ例に取ってみましょう。
どんな企業も必ずピラミッド型になっていて、会長・社長・部長・課長・係長、
そして下があります。
企業というものは必ず優秀な人材をもとめていて、しょうもない奴は求めていません。

会社の為に頑張って役に立ってくれる人材を、鵜の目、鷹の目で、
新入社員の中から探しているわけです。
その中にあって、ちょっとしんどいから代わろうかとか、
油を売ってやろうかとか、えらい目をさせておいて、
給料が少ないなどと文句を言っておりますと、これは駄目だな、
役に立たないなと、選別されていきます。
それに対して、私は仕事を通して生きさせてもらっている、
そのご恩返しをさせていただくのだという思いをもって仕事をしますと、
人が見ていようが、見ていまいが関係なく、陰日向なく、
ただ感謝・報恩で仕事に精出していますから、
それは上から見た時、忽ちに分かります。

ああ、ここに特異な人材がるなあと認められて引き上げられます。
やがて昇級の時期が来ましたら、
「ここに上げても大丈夫」と必ず引き抜いて用いられます。
しょうもない者に引き上げはきません。
そのようにして正しく仕事をした時、
必ず出世できるようになっているのです。
人に蹴落とされたり、そんなことはしません。
時代遅れでもありません。
ほんとうの正しい生き方を知らないから、人の足を引っ張ったり、
人の悪口を言って自分の心に砂を詰めたりしてしまうのです。
企業は必ず優秀な人材を求めています。」


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「御垂訓」

2020-10-21 00:04:18 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

         恩師のご著書「講演集」より

            講演集、 二

          「仕事」の本来の意義


人々の為にと言えば語弊があります。
漢字で「為」と書き、人の為と書くと「偽」となってしまいますから、
人の為ではない、我が為だと思って、人の為に尽くすことです。
尽くさせていただくのですね。
これは全部自分に返るのですから。
今、この方の為と思ってします。
その方が喜んでくれたら、その方から自分のほうに喜びが返ってきます。
家庭の中では夫婦の間、親子の間で、
或いは親しい方たちの間で尽くさせていただくのです。

「そんなに人の為ばかりを言っていたら、
このせちがらい世の中に取り残されて死んでしまいますよ」と
言って笑う人がありますが、しかしそんなことはありません。
仕事一つするにしても、「しっかり儲けて家を建てなくてはいけない」
「しっかり儲けてどこそこへ行かなくては」「車を買わなくては」と、
目的をいっぱい持っていますが、仕事の本当の意味は、
私たちが与えていただいた家であれ、
着る物であれ、頂く食べ物であれ、
すべては人さまの働いて下さった労働力を私たちは頂いております。

皆様が働いて下さって、それによって今、
自分が生きさせてもらっているのですから、
せめて自分のこの身を使って、そのご恩返しをしなくてはいけません。
そのご恩返しが即、仕事です。
仕事を通して、与えていただいた報恩の行為をさせてもらうのです。
それが仕事の意義です。

自分の勝手なことに使う為に仕事をするのは間違いで、
儲けるのが仕事のほんとうの意義ではないのです。
ご恩返しの為に仕事をするのです。
米一つ取ってみましても、
お米は私たちにとって欠くことのできない大事なものです。
このお米は八十八と書きます。

苗代を作り、籾を播き、田圃を耕し、
苗取りをして田植えをし、というように
八十八回手間がかかるので、「米」を八十八と書くのだそうです。
それだけお百姓さんが汗水流して作ったお米を、
私たちはいただいているのです。
私たちもせめて一滴の汗でも流してご恩返しをしなくては、
生きさせてもらっている価値がありません。
このご恩返しが仕事の意義ですし、
私たちは報恩の行為として仕事をさせてもらうことが大事です。


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「御垂訓」

2020-10-20 00:25:32 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

          恩師のご著書「講演集」より

             講演集、 二

       全財産上げても神は喜ばれない


先の続き・・・

そんなことがあるだろうかと思いますが、
河内の国分でこのお話をした時のことです。
固い蕾のチューリップを何十本か生けて下さっていましたが、
みな首を曲げていた蕾が、そのとたんに立ち上がって、
パーッと一斉に花が咲きました。
ワァーとその場で開いたのです。

二部屋向こうの鏡台の上に一輪ざしで生けてあった
チューリップも一緒に開きました。
見ておられた皆さんが喚声をあげて驚かれました。
自然現象であったとしたら、
蕾は必ず時間をおいて次々開いてくるはずです。
「ああこれが開いたなあ、ああ次はこれが開くなあ」と
いうように開くのが普通ですが、
同時に全部揃って開くのです。
これは、私が話させていただきましたことを、
神様が「その通りだ」といって
証明して下さったのです。

私の話は間違いないと神様が認めて下さったから、
こういう不思議な現証を見せていただけたのです。
もし間違っておれば、そんなことは起きません。
チューリップの蕾が一斉に開いても、
その中の一本だけが開く前はこうだったのですよと
教えるように首を曲げて、
もとの姿の証しとして残っていました。
正しい神理は、話す言葉の中に神の力が宿ります。

言霊です。
その言霊によって植物も動物もすべて反応してくれます。
神が証をして下さるのですね。
私にはそんな力はありません。
ただの凡夫ですが、しかし日々の生活で心の調和と
その実践が神様に通じます。
過去七年間毎晩坐って反省禅定をしました。

今年から坐らせていただくのは月・水・金になりましたけど、
(現在は月・火・水)最初は二、三人の方と始めたのが、
今では三十人、四十人集まってこられます。
そういうふうな心の調和、そして行いですね、
行いなくして神の道に入ることはできません。
正しい神理に叶った「祈り心」の生活です。


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「御垂訓」

2020-10-19 00:10:21 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

恩師のご著書「講演集」より

          講演集、 二

    全財産上げても神は喜ばれない


先の続き・・・

全財産を上げても極楽には行けません。
神様は財産はお受け取りになっていないのです。
仮に神様に文句を言ってみなさい。
神様は「私は何ももらっていません」と言われます。
上げたものは教会、
或いは教会の中におられる人間が掠め取って使われたのであって、
神様の許にはいっていません。
神様は、私たちよりもなお恵まれない不幸な方に、
たとえ僅かでもいい、無駄使いを少なくして、
その人達の為に役立てて下さいと御喜捨させていただいた時、

「あなたはよくしてくれます。あなたの行為を私は頂きます」と
言って下さいます。
それはなぜかというと、神様は「私は人を救いたい。人々を幸せにしたい。
しかし私はその行為を現わすことができない。
愛ゆえに身を滅した者である」と言われ、助けて上げたいと思われても、
それを現わすことができないのです。
神の御心は愛の思いでいっぱいです。
その神の御心を私たちが行った時、神様は「よくやってくれました。
私の思いをあなたが果たしてくれて、
ありがとうございました」と喜んで下さいます。
受け取って下さいます。


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「御垂訓」

2020-10-18 00:00:23 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓
 
恩師のご著書「講演集」より

              講演集、 二

          全財産上げても神は喜ばれない



ある方はT教を信仰されて亡くなりました。
ものすごく素朴な信仰をされましてね。
現在は違うそうですが、昔は「家も屋敷も上げてしまえ」と言って、
みな上げてしまえという時代があったようです。
その頃、その人は家も屋敷も田も畑もみな上げてしまったのです。
その息子さんが、お父さんの亡くなった後、法にご縁があって、
自分の意識を開いてあの世を見てこられるようになられたのです。
その息子さんはT教団の子として分教会の中で貧しい貧しい生活をして
成長されました。

その息子さんが、「お父さんはあんなに熱心な信者であったから、
さぞいいところにいっているだろうなあ」と思って、
光の世界をずうっと探し求めてこられたそうです。
ところが、上のほうにはどこにもおられないのです。
「まあ、あんなに物を上げても高い所には行かれないのだなあ」と思って、
天上界の低い段階を次々探していってもそこにもおられません。
「おかしいなあ、どこかにおられるはずだ」と思って、
今度は幽界からもっと下の世界、薄暗い世界へと探していきますと、
地獄の薄暗い所で、
向こうからお父さんが荷車を引いて廃材を荷車いっぱいに
積んでやってきました。
明治時代の人ですから荷車を引いているのです。

お父さんは自分の息子さんが、自分よりも歳がいっているので、
もう分からないのですね。
「死んだ後でお父さん、何をしているのですか。そんな所で」と声をかけると、
「あんたは、誰かいな」と、逆にお父さんがたずねます。
「僕や、○○だ」と言うと、「ああ、そうかいな。わしはな、
家も畠も田圃もみな上げてしもうて、
子供を育てるのに本当に申し訳ないことをした。
こんなことだったら、子供はちゃんと自分の家で育てて大きくすべきだった。
家がないということはこんなに辛いことだ。
何とか自分の家を建てようと思って、今こうして一生懸命働いているのだ」と、
このお父さんは地獄で材木を運んで家を建てようと思っているのです。


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「御垂訓」

2020-10-17 00:01:56 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

恩師のご著書「講演集」より

               講演集、 二

             償いの法則


善悪の行為が自分に返ってくる場合、時間に関係があります。
縁によって、つまりその相手との縁、
或いは出来事の縁などの縁生によります。
二十日大根は種を播いて二十日経過すればもう収穫が始まりますね。

豌豆や野菜は三カ月から五カ月ぐらい経てば収穫できます。
桃栗三年、柿八年といいます。
檜は四十年、五十年しなければ伐採はできません。
そのように早く現れる場合と、長い時間経って播いた種が返ってくる場合と、
いろいろあります。

播いてしまった悪い種は、
必ず成長して収穫されて自分の許に返ってきますから、
こいつ何とか自分の許に返らないようにしなくてはいけません。
その為には、良い行いをもってするしか、消すことができないのです。
「償いの法則」ですね。
一つの悪に対して、必ずその善の償いが要ります。
山林業をされる場合も、山の木を伐採して放っておくと、
のちに雑木に山になります。

伐採の償いとして次の苗木を植えておかなければいけません。
過ちに一つ気付いたら、それに返る罪の償いをして、
何か一つ良い行いを積んでいくのです。
一つの悪を犯して「ああ私は悪い、私はもう罪人だ」といって
自分を苦しめては、
神のご意志に背きます。

悪に目覚めた時に、その悪を土台として、良き行いを積めばいいのです。
あのジャン・バルジャンは、路傍に倒れて、
のたれ死になりかけていたところを神父さんに助けてもらい、
下男として働かしてもらいます。

恩を知っていれば、そこで恩返しをしなくてはいけませんのに、
ジャン・バルジャンは教会にあるお盆や燭台、
そのほかいろいろな金の装飾品をみな袋に入れ、
それをかかえて逃げてしまいます。
それを元手に大きい商売をして大富豪になりました。
しかし自分の犯した罪が、自分の良心を責めます。

そしてその償いとして、盗んだ燭台や道具以上の物を返し、
又多くの方々の救済に当たりました。
数限りない人々を、その償いとして救われたのですね。
この場合、たとえ神様の物を盗んでも、それによって目覚めて、今度は
大勢の人を救いました時は、神様は必ず喜んで下さいます。

「あなたは目覚めました。よくそのような気持ちになってくれました。
私の燭台を盗んだことは許しましょう」と言って許されるはずです。
神様がいちばん喜んで下さるには、神様の意志に沿った行為をした時です。
いくらお金を供えても、神様には必要がないのですから駄目です。
神様はおよろこびになりません。


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