浄心庵・長尾弘先生「垂訓」

八正道と作善止悪

「御垂訓」

2022-12-31 00:01:40 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

 恩師のご著書「講演集」より


               講演集、 三

            土地の因縁、地神様

よく、土地をお払いしてほしい、
事故が起こるのを止めてほしい、
幽霊が出ないようにしてほしい、
それはそれはいろいろ言ってこられます。
が、それは必要に応じて全部与えられます。
望み通りにしていただけますね。
土地の因縁の中には、いろいろ種類があるのです。

よく拝み屋さんに頼みますと、
地神さんがいられるから祀りなさいと言います。
あの地神さんというのは、人の執念です。
低級な霊能者が見ますと、
人の執念が蛇に見えるのですね。
それを地神様というのです。
土地というのは、次々持ち主が変わっています。
先祖代々からずっとその土地を
持っておられる方というのは、
恐らく一軒もありません。


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「御垂訓」

2022-12-30 00:06:29 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

恩師のご著書「講演集」より


             講演集、 三

        見えないものの存在

それと同じように、見えない世界に、
私たちのこの肉体が無くなった後の意識、
その人がもっている心があるのです。
本当なら、「成仏」と言いまして、
生まれてくる前に住んでいた世界に
帰らなければならないのです。
そこは極楽或いは天上の世界と言います。
ところが、そこへ帰れないで、この世に残しているその思いが、
見ることはできないけれども、
霊として現実にいっぱいおられるのです。

病院などへ行きましても、
もし自分の心ができていないのに、
霊視してそういう世界が見えますと、
もう恐ろしくてそこにはいられないはずです。
病院には死んで迷っている人がいっぱいおられます。
病院は自分を助けてくれる所、
ここにいれば、病気を治してくれると
思ってそこで死んだ人が、「ここにおったら助かるのだ、
治してもらえるのだ」と思って、ウロウロしているのです。

ところが、普通は見えません。
触れることもできません。
だから、どこの病院に行きましても、
必ず怪奇現象の起きる部屋が
二つや三つはあるはずです。
部屋へ入ったら、誰かが枕元に立ちにくるとか、
ドアを開けに来るとか、
そういうことはどこの病院にでもあるのです。
それは皆、亡くなった人の意識が残っているからです。


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「御垂訓」

2022-12-29 00:12:37 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

 恩師のご著書「講演集」より


             講演集、 三

        見えないものの存在

一番いいのは、掃除機を持ってきて、
バーッとゴミをみな吸い取ってしまって、
然るべく処置をしてしまうことです。
こうすれば、もう出てきません。
私の場合は、
掃除機でそういうゴミを全部吸い上げてしまいますから、
後がうまくいきます。
私たち人間は、この世に生きさせていただいて、
肉体或いは物質の中で、
ただこの世だけが総てだと思って暮らしてきましたが、
この世だけではないということです。

目には見えない世界があります。
目には見えないから、
「この空間に何かあるのですよ」と言いますと、
「この空間には何もない」と普通は言います。
しかし、目に見えないこの空間の中にも、
ラジオの電波、テレビの電波など、
いろいろな電波が飛び交っています。

私たちの目に見えないだけで、現実にはあるのですね。
もっと分かり易いのは、部屋を閉めて、夏にクーラーをかけますと、
もうどんどん水が出てきます。
この空中に水がいっぱいあるのです。
水と言えば語弊があります。
水の原子(H2O)が、もういっぱい充満しているのです。
熱作用によって水が分散して軽くなって、
空中にいっぱいあるのです。
ところが、私たちはそれを見ることはできません。


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「御垂訓」

2022-12-28 00:18:41 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

恩師のご著書「講演集」より


             講演集、 三

        見えないものの存在

先の続き・・・

それは人の執着です。
これをゴミに譬えてみますと、拝み屋さんが来て、
「ここを祀りなさい」と言って、
地祀り或いは棚祀りをすることは、
ゴミを掃除してゴミ箱に入れて、
屋敷の側に置いているのと同じことです。

うまいこと管理しないとまた出てきます。
神主さんが来て、「祓い給え、清め給え」とやったら、
塵叩きでゴミを払っているようなもので、
その時は、なるほど綺麗になるけれど、
また、そのゴミはそこへ落ちます。



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「御垂訓」

2022-12-27 00:28:15 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

 恩師のご著書「講演集」より


             講演集、 三

        見えないものの存在

死んでから、蛇の姿になり、
或いは狐の姿になって迷っている方がいっぱいあります。
ほんとうは蛇とか狐とか或いは狸とか、そういうものは、
人を化かしたり祟ったりはしないのです。
そういう意識になり下がった人の意識が災いを起こします。
そういうことが分からないものですから、
「これはえらいことだ、祀れ」
「これは供養しなくてはいけない」ということになるのです。
地神さんというのは、大体蛇の姿を見せます。


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「御垂訓」

2022-12-25 23:52:43 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

    恩師のご著書「講演集」より


            講演集、 二

   尽くせば相手も自分も救われる―――お年寄りへの愛

先の続き・・・

度々なので、
「これではかなわないから、
名札と電話番号を服に縫い付けあげて下さい」と頼みました。
すると、思いもかけない遠い所から電話が掛かってくるのですね。
だんだんと呆けが進みますと、もう遠い所へは行けなくなって、
近所をうろうろしておられました。
冬の寒い時には、「おじいちゃん、家の中にお入りなはれ、
こんな寒い外をうろうろしないで、
一服してストーブの側に坐りなはれ」と言って、
タバコに火をつけてあげますと、喜んで吸っておられました。
夏になっても、冬のオーバーを着て歩いておられるのですね。
「この暑い中を、どうぞ中に入ってタバコでも一服しなはれ」と、
又タバコに火をつけて一服してもらいました。
こうしておじいちゃんが、目につけば、
必ず家の中へ入ってもらっていました。
呆けの進行の最中におじいちゃんがおっしゃるのですね。
「お前ら偉そうに言うてもな、
織屋の兄さんにものが言えるか、言えるのは
俺だけやぞ」と。

おじいちゃんにしてみたら、
織屋の兄さんをすごく偉い人のように思っているのですね。
だんだんと呆けが進行して、
あの火事のあった家に雨垂れをためるかめがあったのですが、
夏のことですから水が真っ青になって腐って、ボウフラが湧いているのを、
オーバーを着たままで、その水を手ですくってガブガブと飲まれるのです。
そこのお宅の人がびっくりして飛んできて、
「おじいさん、あんな水を飲んでる、
腹痛が起きるよ」と心配されましたが、腹痛は起きないです。
当時家族七人分のおかずと御飯をいっぺんに
ぺロと食べてしまわれるのですから。


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「御垂訓」

2022-12-25 00:19:07 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

        恩師のご著書「講演集」より


            講演集、 二

   尽くせば相手も自分も救われる―――お年寄りへの愛

尽くすことによって、尽くされた相手の方が救われます。
そして自分自身も救われます。
こんな年寄りは早く死んでしまったらいいのにと思ったら、
よけい長生きされます。
そうなっているのです。
ついには、呆けて何も分からなくなっても、
まだ生きていられます。
だから、尽くさせてもらったら、
その時がきてサッと引き取ってもらえます。
年寄りに物を惜しんだらいけません。
人間は、食べるだけ食べなくては死にません。

もし呆けでもきますと、六人分、八人分の御飯は
いっぺんに食べてしまいます。
おかずでも、じゃがいもの煮っころがしを
家族七人分を大鍋に作っていても、
おじいさん一人でいっぺんに食べてしまって、
知らん顔しておられるのですね。

現実にはそんなに食べられるはずがないのに、
食べられるのです。
これは私の家から三軒向こうのおじいさんのことです。
もう亡くなられましたが、呆けてよく迷子になられました。
お嫁さんが私の家で働いておられましたので、
私が車で探し回って見付けては
連れ戻しておりました。


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「御垂訓」

2022-12-24 00:09:33 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓
 
恩師のご著書「講演集」より


            講演集、 二

            「お陰様で」

先の続き・・・

また、あのお日様の熱や光に対して、
心から感謝できましたか。
これも、なかなか私たちにはできません。
私たちの目を楽しませてくれる花、
こうして花を生けて下さる方の私たちのへの思いやり、
すべてはお陰様の中に生きさせていただいております。
当たり前のように思っているので、有難さが分かりません。
お日様も照って当たり前、しかし無かったらどうしますか。
常に「もし無かったら」と思わせていただいた時、
有難さが身にしみてきます。
夫婦の間もそうです。

健全に守っていただいている間は喧嘩ばかりして、
亡くなった時、
ああ、えらいことをしたと言って、
相手が死んでから一生懸命お墓にお参りして、
お父ちゃんお父ちゃんと言っておられる方があります。
生きていた間はさんざん意地悪をして―――。
しかし十分に尽くさせていただいた時には
お墓へお参りしなくていいのです。
生きている時に満足を与えていたなら、
お墓へもお仏壇へもお参りしなくても、
うらめしやと出て来られることはありません。

本当に尽くし抜いた時は、
絶対に夢に出て来られることはありません。
夢ばかり見るのは、自分の良心が、
尽くしていない分だけ自分を責めて、
夢を見せるのです。
死んだ人が夢の中に出て来て、
こわい夢でうなされたというのは、
完全に自分の良心が自分を責めているのです。

そういうことがないように、
生きている間によく尽くすことですね。
そして、死んでしまってからも何の悔いも無いように、
死なれた時も思いを残さないように、
又あとに残された者も思いを残さないように、
日々に十分、お互いに尽くし合っていくことですね。
そうすれば悔いは残りません。



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「御垂訓」

2022-12-23 00:44:47 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

  恩師のご著書「講演集」より


            講演集、 二

            「お陰様で」

私たちは「お陰様で」という感謝の心を忘れております。
あって当たり前、してもらって当たり前、すべてが当たり前と、
思い違いをしております。
お陰様で、お陰様で、どんなことでもお陰があって今があるのです。
そのお陰様を忘れ去って当たり前になっていくのですね。
当たり前という思いの中から感謝を忘れます。
「私には感謝するような幸せなどありません」とよく言われます。

考えてみますと、こうして生きさせていただくのも、
目に見ることはできませんけれど、
現実に空気を与えられているからです。
もし空気が無く、空気中の酸素が無かったら、
三分以上生きられる人はありません。
全部の人の息は止まります。
この与えられた空気に対して、
「有難いなあ、このように目で見ることのできない酸素や窒素など、
空気中にいろんなものがあって、
私たちは苦しみなしに生きさせていただける。
ありがたいなあ」と心から感謝できた方は一度手を挙げてみて下さい(笑い)。


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「御垂訓」

2022-12-22 00:05:15 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

         恩師のご著書「講演集」より


           講演集、 二

        「愛」は神ご自身である

先の続き・・・

「南無妙法蓮華経」を一日一万回唱えたらご利益があるといって、
ある熱心な方が実践されたのです。
普通は線香を一本立てて、
それが燃えつきる間に約五百回唱えられるので、
線香を二十本用意して、
一本五百回ずつ二十本で一万回唱えるのです。

その方は熱心な方ですから、
数を読み間違えたら勿体ないというので、
数の読み取り器を掌中に入れて唱え続けたら、
四時間かかったというのです。
四時間も坐ってそんなことをするよりも、
家の中を掃除したり家族の為に奉仕
するほうがどんなにご利益があるか分かりません。


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「御垂訓」

2022-12-21 00:20:41 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

   恩師のご著書「講演集」より


              講演集、 二

           「愛」は神ご自身である

今朝も韓国の或る牧師さんが上手な説法を
しているのをテレビで見ましたが、
「祈りなさい、一日最低一時間祈りなさい。
祈っている時だけは神に通じます」
と説法されていました。
それを聞いて不思議だなあと思いました。

私は掌を合わせて神には祈りません。
信仰薄いというか、私ほど祈りをしない人間はありません。
「一時間毎日祈ることによって、
あなたの望むものを与えられます」という
のですが、私は自分の行いが信仰であり、
私の祈りだと思っております。
私の行動が祈り、実践が私の信仰、或いは祈りです。
一時間も坐って祈るならば、
その一時間を人の為に尽くしたほうがご利益が
あると思っています。
祈りによって信仰の証明は現れません。
ですから私は、神仏に手を合わせて祈ることはしません。


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「御垂訓」

2022-12-20 00:38:23 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

    恩師のご著書「講演集」より


              講演集、 二

           「愛」は神ご自身である

今朝もおっしゃっていただきました。
「愛を学ばせてもらいます」と。
先生は霊能力者であられると同時にすばらしい実践者です。
「もらうことは借金したことになるから、
もらうよりも出すほうに喜びを見付けなさい」と、
自らそのように行っておられます。
実践の話しをいろいろと聞かせていただいて、
すばらしいお方だなと私も感動いたしました。

こういうすばらしいお方は広い日本、世界中に
あまり多く出ておられないのですね。
宗教家或いは一般の人々から尊敬される大財閥の方、
何々権大僧正というような立派な方もいっぱいおられますが、
しかし生活の中に自らの神の心を行いと
しているのを現わす方は少ないです。



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「御垂訓」

2022-12-19 06:28:28 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

             恩師のご著書「講演集」より


              講演集、 二

           「愛」は神ご自身である

或る先生といろいろ話していますと、
先生と私とは全く同じ体験をしていることが分かりました。
ただ違いますのは、その先生はすばらしく、
私はすばらしくないということです。

私はただの凡夫です。
皆さんと何ら変わりません。
特殊な能力もありません。
特に霊的能力はゼロで、
見えない話せない聞こえないという凡夫の塊のような私です。

一番後ろに坐っていただいている別の先生は
すばらしい超能力者でいらしゃいます。
しかし、全くの凡夫の私がいろいろと不思議なことを見せてもらい、
そして先生たちが私のような者の話しを聞きたい、
その精妙なところを頂戴したいと電話下さったのです。


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「御垂訓」

2022-12-18 23:58:48 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

  恩師のご著書「講演集」より


           講演集、 二

        愛は海底の意識にも届く

先の続き・・・

上がってきなさい。
上がってきなさい。
上がってこないと家族の方、社会の方々が迷惑します」と
語りかけたのです。
一時間か二時間ぐらいした時に、
今、上がってきたという電話がありました。
十日間上がらなかった死体が、二時間足らずの間に上がってきました。
このことがえらい評判になっていたそうです。
偶然のいたずらか、神の御業か私にもわかりません。
しかし私は信じます。

不思議なことは行く先々で起こっております。
これは無償の愛です。
何ものも求めず、たださせていただく行為に、
見えない世界のエネルギーが働きかけて下さって、
信じられないことを見せていただけます。
こういう不思議な体験は数え上げるときりがありません。


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「御垂訓」

2022-12-18 01:00:15 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

          恩師のご著書「講演集」より


           講演集、 二

        愛は海底の意識にも届く

去年石川県へ行きましたあと、
一晩家で寝て翌朝早く瀬戸内海の家島へ寄せてもらって、
ここでも不思議なことがありました。
家島に着きますと、出迎えに来てくれた方が、
「今日で九日になるのですけど、
海にはまった人の死体がどうしても上がってきません。
漁師の方が出て探す一方、水上警察の船も出る、
町中総出であらゆる捜査をしているけれど、
死体が上がってこないのです。
死体が上がらないから葬式も出せません。

先生、この死体をどうか上げて下さい」と言われるのです。
「そんな無茶な、私はそんな力はありません。
しかし、私にできるだけのことはしてみましょう。
明日、舟を出して下さい。
大体落ちた辺りに連れていって下さい」と言って、
その翌日のことです。
ものすごくちっちゃい快速艇なので、
しがみ付いていないと海へ落ちてしまいます。
しがみ付きながら「この海にはまって死んだ方、
(私は名前も知らないのです)
あなたの為にどれほど多くの方が迷惑しているか知れません。
私は神の使いとしてあなたに命じます。


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