浄心庵・長尾弘先生「垂訓」

八正道と作善止悪

「御垂訓」

2018-01-30 23:46:08 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

    恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


         第五章 心の曇りをとるための反省

         反省とは自分を離れてものを見る訓練

先の続き・・・

相手の立場に立ったら、奥さんはご主人より早く起きて弁当をつくり、
ご主人や子供を送り出し、今度は掃除、洗濯、買い物をして、夕食を用意して、
と、たいへんな一日のはずです。
女の人はその一日の間にこれだけのことをしてくれるのだなあ、
と奥さんの苦労や努力がわかったならば、
ご主人の口からは「ああ、女の人も御苦労さんだなあ。
あんた無理せずに、適当に一服しなさいよ」と、いたわりの言葉も出て来るものです。
また、奥さんのほうも、「私は家の用事をバタバタと精一杯しているのに、
帰ってきたら洗濯物くらいちょっと取り入れてください」と言って、主人を
こき使おうとしますが、これが御主人の身になって考えますと変わってまいります。
「男が一歩家をでたら、外に七人の敵がありで、ずいぶんと御苦労さんなことです。
毎日会社に通うてもらって、
そのおかげさんで私たちはこうして生活させてもらって有難いことだなあ」と思えば、

ご主人が帰って見えたら、「ああ、御苦労さんでございました。
お疲れさまでございました」という言葉が出てくるはずです。
自分を中心にして見ると、お互いに不平不満ばかりを言い合うことになります。
常に相手の立場に立って見させてもらう訓練を日々怠らないことが大切です。
そうすると、感謝の思いが出て来るようになってまいります。
人間の心は一つのことを同時に思えぬ構造になっています。
喜びの思いと怒りの思いは同時に存在できません。
この法則を利用して自らの心を苦しめないようにするには、
常に感謝の心でいることです。
感謝している時は、自らを苦しめるあらゆる想念が入ってこなくて済むのです。
感謝は光ですから、その中で心のスモッグである業の思いも消されてしまいます。
何事にも感謝せよとは、すべての宗教の教えるところですが、
その理由は実はここにあったのです。


              ~ 感謝・合掌 ~




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「御垂訓」

2018-01-29 22:23:59 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

     恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


           第五章 心の曇りをとるための反省

         反省とは自分を離れてものを見る訓練

先の続き・・・

この時は自分の思いを離れて、第三者的な目から見て判断し、
神様に自分の想念をあずけて心静かに祈り、
その中から出て来る正しい直感にしたがうのが最もいいでしょう。
自分がなんとかしなくてはという焦りや力みがあれば、必ず間違います。
そして、せっかく助けてあげたのに、あの人はなんて恩知らずなんだなどと
不平不満や愚痴が出て来ます。
どうしても私たちは自分中心でものを考えがちですが、
肉体の五官にとらわれた見方から、
自己を離れた正しい見方に変えていく訓練を積むことが大事です。
常に「してあげる」とか「してやる」というにではなく、
「させていただく」とか「させてもらう」という心で行うことです。
「あげる」「やる」ではたとえ善いことをしても、
文字どおり徳を逃がしてしまいますが、「いただく」「もらう」という心構えだと、
善い行いは自分自身の徳として積まれることになり、それがまた自分の霊格を高め、
運命としてもいいことが万倍にもなり、自分に返ってくることになります。

ですから、「させていただく」という態度を常に忘れなければ大きな間違いはありません。
こうした謙虚さは、いつも感謝に満ちた心でいることにもつながってきます。
ご夫婦の間でもそうです。
ご主人は一生懸命に働いて稼ぎ、奥さんは結構に暮らさせてもらって、
それでいながら、「私は嫁さんだから主人が養ってくれるのは当たり前」と、
感謝をしないでいると、ご主人がありがたい存在だということを忘れてしまいます。
もちろん、ご主人にも同じことが言えます。
奥さんが家庭の中で掃除、洗濯などの家事、そして留守中のおつきあいなど
いっさいをやってくださり、ご主人はそれに大いに助けられているのに、
それを「おれが働いて不自由な目にも遭わせず養ってやっているのに、
毎日何をしているのか」などと奥さんに対して好き勝手な言葉を吐いたらどうでしょうか。


            ~ 感謝・合掌 ~



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「御垂訓」

2018-01-28 23:32:44 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

お写真は海外の学びの友の方達と恩師(故)長尾弘先生です。

    恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


          第五章 心の曇りをとるための反省

         反省とは自分を離れてものを見る訓練

私たちがどれほど「私は間違っていない、
私は正しい」と主張したとしても、
肉体の五官を持って生活している以上、
最初から現実を見る目に色眼鏡がかかっているのは避けられません。
ということは、自己保存と自我我欲の目で見る為に、
ありのままには現実が見えてこないということです。
では、どうしたらこの自己中心的な視点をもたらす色眼鏡を
外せるのでしょうか。
それは相手の立場に立って見ることによってです。
そして、
善意の第三者の立場から相手と自己を客観的に公平に見ることです。
そらに、天の立場、
神の目からあらゆる物事を見られるところまで行くように、
練習を積み重ねていきます。

なぜ、ここまで行く必要があるかと言いますと、
たとえばあまり情けが深すぎて相手に感情移入しすぎても、
かえってその同情が仇となり、冷静な状況判断を誤り、
相手の人ともろともに滝壺の中へ、
などということになりかねないこともあるからです。
何しろこの世は厳しく危険な修行場ですから、
ちょっと油断したすきに波にさらわれかねません。
相手の言うに言われぬ悲しみや苦労を聞いてあげ、
受け止めてあげるやさしさは必要ですが、
どうにも簡単には脱することのできない深い業因縁の渦中に相手の方が
いる場合などは、
自分までいっしょにその中に入ってしまってはなりません。
だいたいに神様がおやりになることを自分がしてあげるなどと思いあがり、
下手に手を差し延べる日には、とんでもないことになりかねません。
相手が一日も早くそこから脱して幸せになるのを心から祈り、
できることはさせていただくしかありません。


           ~ 感謝・合掌 ~



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「御垂訓」

2018-01-28 00:10:49 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

     恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


          第五章 心の曇りをとるための反省

          子供の問題はまず親の反省から

先の続き・・・

この反省をしていくと、心の世界の無限なまでの広がり、
広大さというものがわかってまいります。
それとともに、己れがそれまで信じてきた自分というもののちっぽけさ、
狭さ、浅さ、未熟さもわかってまいります。
それらが自分、自分と思っていたけれど、
実は本当の自己はそんなものじゃなかったんだ、
ということまでわからせてもらえます。
反省というと、何か見たくない自分を無理に見せられるような強制感を覚え、
自己嫌悪に陥るのが関の山だと思い違いしている方が
案外おられるのではないでしょうか。
怖くて自分の内面なんか見られないと。
しかし、反省とは自分を知り、愛し、大切にすることです。
反省において発見の喜びのような感情がともないますと、
反省と悔い改めは何も自分を責め裁くためでも罪悪感を自分に
植え付けるためでもなく、これまで気付かなかった自分を知り。

未来の自分を新たに創造していくたいへん楽しく希望の持てる行為だと
体験的にわかってまいります。
そこに反省が内的な旅であり、冒険であり、
自己創造であるとも言える所以があると思います。
我が子が鏡となってくれ、自己の欠点や思い癖を反省する機会が
与えられましたのを生かし、古い自分から脱皮して、
もっと好ましい神様の御心によりかなった自己へと成長していくことができたわけです。
なんと有難いことでしょうか。
お釈迦様が人類の遺産として遺してくださった真理のみ教えと、
それをまた私に伝えてくださった高橋信次先生との出会いと、
そしてその有難さが理解でき、
実践させていただける自分自身の魂に深い感謝の念を禁じえません。

これで手記は終わっています。
この心の友は、人間知ではどうすることもできない苦悩の中で、
誰にも相談できないでいたわけですが、
目に見えない神との対話を通して自らを反省することへと導かれていったようです。


             ~ 感謝・合掌 ~



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「御垂訓」

2018-01-26 23:29:40 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

    恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


             第五章 心の曇りをとるための反省

             子供の問題はまず親の反省から

先の続き・・・

しかし、
これは反省をさせてもらうことのよってしかできないことです。
無自覚にいつもどおりに考え行動することを、
ちょっとスットプしてみるのです。
いったん反省に入り、相手の立場に立ってみると、
改めて相手の置かれた状況、気持ちや心遣いがわかっていきます。
それと同時に、自分自身のそれまでの自己中心性にはじめて
気付かされます。
たとえば、思いやりが足りなかった自分。
自分さえよければいいとか、自分のことで精一杯、
忙しく人のことなんかかまっていられないというのを正当化していた自分。
自分にとって嫌なことをすべて相手の欠点と決めてかかっていた自分。

相手に対するマイナスイメージを固定したままずっと変えないで、
歩み寄ることもしなかった自分。
自分が正しいと信じたこと以外には耳も貸さぬ頑迷な自分。
こうした自分というものに気づきます。
ここでまた反省が深まり、「自分がわるかった。
もう今までの自分を捨てて、新しい自分に生まれ変わろう」と、
悔い改めの心が育ってきます。
反省するごとに、これまで気付いていなかった部分に光が当てられ、
この領域がどんどん拡大していき、また深さも深まっていきます。


             ~ 感謝・合掌 ~



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「御垂訓」

2018-01-25 23:56:55 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

     恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


             第五章 心の曇りをとるための反省

              子供の問題はまず親の反省から

先の続き・・・

ちょうど、
二月の凍てつくような寒空に冷たいお月様がこうこうと照り冴え渡っていました。
もう家にじっとしていられなくなった私は、子がどこへ行ったかもわからないのに、
駅まで迎えに行きました。
地域の役員をさせてもらい、顔が広かったので、「○○さん、こんばんは」とか、
「何をしているのですか」とか、声をかけて来られる方がいます。
「いや、ちょっと」言ってごまかしているのも辛いので、
電車が来る度にホーム近くに駆けていって、
陰に隠れて電車から降りて来る人々の中に我が子がいないかと探し、
降りる人が一人もいなくなると、線路沿いに駅を離れます。

青少年指導員などもやっておりましたから、
夏休みの非行対策に学校の先生と連絡を取りつつ、巡回するのです。
「泥棒を捕えてみれば我が子なり」となっては格好がつきません。
私はヒヤヒヤしながら巡回していました。
遮断機の音がチンチン鳴ると、駅のほうに走り寄る。
終電までそれを繰り返していました。
その時、お月様を見ながら、本当に辛いなあと、つくづく思いました。
しかし、この苦しい体験も今にして思えば、自分が反省することにより、
自らのわるい癖、欠点に気づいてこれを修正するための貴重な試練の機会であり、
子供は私にとってはその意味で有難い恩人であったのでした。

私たちは都合のわるいことはすぐ人のせいにしてしまいがちです。
「自分は正しいのにあの人がわるいからこんなことになるのだ」と、
自分を正当化してしまいます。
そうやっている限りは、なんとかして相手の間違いを改めさせようとして、
抵抗する相手を力づくで自分のいいように変えさせようとしますから、
自分のわるいところには気付かないばかりか、
相手が変わらないと言って嘆き、またイライラしたり、怒ったりします。
結局、自分の心を苦しめることになります。
また、相手の心にも苦しみを与えていることになります。
それを今度は相手の立場になり、また両者を公平に見られれば、
お互いに救われます。


                ~ 感謝・合掌 ~



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「御垂訓」

2018-01-25 01:57:43 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

    お写真は恩師ご自身の「書」の作品「道」の前にて。


    恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


           第五章 心の曇りをとるための反省

           子供の問題はまず親の反省から

先の続き・・・

早く帰ってくると、自分も気持がいいですから、
「パパ、ただいま」と、元気な声で言ってくれます。
私も「ああ、よう帰ったな」と言って、
それまでの心配な状態はなくなっていきました。
この子もお陰様で大学に行かせてもらい、
もったいない所に嫁がせていただき、子供も授かり、
幸せに暮らしています。

上の子も幸せな結婚をして、やはり子供を授かり、
幸せにさせていただきました。
いい子であったからこそ、このような結果が生まれたのです。
原因結果の法則から見ても、もし子供が本当にわるい子であれば、
現在のように人の羨むような結構な生活が送れるはずはないと思います。
それでは、私に苦しみが与えられたのは、
いったいなんだったのでしょうか。
それは、子供が親に心配をかけることによって、
私の持っているわるい癖や欠点を正してくれようと、
親不孝という子供としては最も深い罪を自ら背負ってくれていたのです。

それによって、愚かな人間である私は目覚めを与えられました。
つまり、子供にはなんの罪もなく、わるいのは私のほうだったのです。
すぐに腹を立てる。
都合のわるい癖、欠点をなんとか直してやろうとして、
子は自らを犠牲にして、私に目覚めを与えてくれたのでした。
そのように思い、感謝の気持ちで子に手を合わせられるようになったのは、
鬼のようだった心を自然のうちに反省して、
直していただいたからです。


             ~ 感謝・合掌 ~





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「御垂訓」

2018-01-23 23:29:28 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

    恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


          第五章 心の曇りをとるための反省

          子供の問題はまず親の反省から

先の続き・・・

はじめは部屋で子帰りを待っていると、
ソーッと音をたてないようにして家に入ってきて、
或る時は。縁側から入り、泥棒のように抜き足、
差し足で自分の部屋に上がっていきます。
私は子供が帰ったことも知らないで、
朝まで待って腹を立てているのです。
朝になり、二階から子供が下りて来ると、
私はまたさらに腹が立ってきて、

「帰っているならいると言えば、
こんなに心配しないのに」怒ります。
それがだんだんと私のほうが変わってまいりますと、
今度は子供の方も変わってまいります。
そして、帰りが遅くなっても、私の部屋の戸を開けて、
「ただいま、パパ、ごめんなさい。
遅くなりました」と言ってくれるようになりました。
そのような生活を続けて、二年ほどはかかりましたが、
だんだんといい子になってくれました。


       ~ 感謝・合掌 ~




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「御垂訓」

2018-01-22 23:44:30 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

     恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


          第五章 心の曇りをとるための反省

           子供の問題はまず親の反省から

先の続き・・・

子供の為を思い、なんとか子供に幸せになってほしい、
間違いなく育ってほしいという強い願いを持って、
親の愛情ゆえに一生懸命に言うのですが、言われる側にとっては、
都合がわるいのです。
「盗人にも三分の理」と言いまして、盗人でも、
厳しく怒りますと文句を言います。
子供も同じことでして、あまり親がやかましく、
子供のためを思って叱ったり文句を言ったりして言い聞かせたなら、
やはり子供にとっては都合がわるいということになってきます。
後になってわかったことには、
深夜喫茶とかいうのは一晩中店を開けているそうです。
そういう所に友達どうしが集まっていろいろと話をしていたら、
すぐ夜は明けるそうです。
そういうことが続いていたようです。

友達どうしでたあいもないことをワイワイしゃべりながら遊んでいたら、
誰も文句は言いませんし、それはものすごく都合がいいはずです。
ところが、家に帰ってきたら、親は小言を言い、叱りつけ、
あるいは殴ったりします。
それはものすごく都合が悪いことに決まっています。
だから、都合のいいほうへ、いいほうへと流れていくのは当然です。
そして、文句を言っていたお思いが神様にすがるようになります。
「なんとかこの子が外にいるよりも親のそばにいるほうが、
都合がいいようにならなくてはいけない。
そのために叱ってはいけない。

叱るのはいいとしても、絶対に怒ってはいけない」ということがわかりました。
それから、いくら帰りが遅くなろうが、幾晩家を空けようが、帰ってきたら、
「ああ、よう帰ってきたな。よう帰ってくれた。早くお休み。
そして、できたらもうこんな心配はかけないでほしい。
まず、あんた自身を苦しめてはいけない」と言って、
これまでのように怒るのはいっさいできなくなってきました。
そうしますと、子供にとって都合がよくなってきたのです。
今迄気が狂ったようになって、我が子のために思って言っていたことを、
子供はよく知っています。
それが全然怒らなくなり、自分を大切にしてほしいということだけを頼んで、
早くお風呂に入りなさい、早くおやすみなさい、
と言っていますと、
子にとってだんだんと親の存在は好都合になってきたのです。


             ~ 感謝・合掌 ~



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「御垂訓」

2018-01-21 23:55:53 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

     恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


             第五章 心の曇りをとるための反省

        子供の問題はまず親の反省から

先の続き・・・

神様に不満の思いを抱き、文句を言っている時の自分の心は、鬼の心同様です。
子が帰ってくれば、頭からどなりつけ、殴ったりしました。
しかし、神様に「私のもとに子供をどうぞ返してください」と、
自分からお願いした時、子供が帰ってきて、顔を見せてくれた時は、
神様に対して、「よく私のもとへ返していただきました。
感謝いたします」と言って、心から神様にお礼を申し上げました。
そして、子供に対しては、「よう帰って来てくれた」という言葉を
かけるようになります。
幾晩か、家を明ける時もありました。
それでも、帰ってきたら、「よう帰ってくれたなあ」と言い、
いくら遅くても、風呂を沸かしてちゃんと入れるようにしておいて、
「早くお風呂にお入り。こんな無理をして体をこわしたらいけないから、
少しでも休まないといけない。
早く寝なさいよ」と言うように変わってきました。
それまでの鬼のような心はまったく消えてしまいました。

感謝と喜びの心になっていきました。
夜も寝ないで神様に文句を言っていた頃をふりかえりますと、
「なぜ家を出て行くのか。
なぜ帰って来ないのか。こんな子に育てたはずはないのに、
なぜこのように私のもとから離れようとするのか」という心でした。
この心を反省していきますと、これは自己中心的な心で地球上の全人類、
いや人間ならずとも動物、植物すべてが持っている心なのです。
それは、「自分にとって都合に悪いものはみな嫌い。
自分にとって都合のいいものはみんな好き」という心です。
私にとって自分の言うことを聞かない子供の行状が都合のわるいものだったように、
子供の立場に立った時、自分のことを思って言ってくれる言葉でも、
何回も言われると子供にとって都合がわるいことになります。
うるさいことでしょう。
まして、怒鳴ったり暴力をふるわれたら、最悪と思うでしょう。
都合のわるいところから逃げ出すのは当然のことでした。


            ~ 感謝・合掌 ~




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「御垂訓」

2018-01-21 00:05:08 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

    恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


           第五章 心の曇りをとるための反省

       子供の問題はまず親の反省から

先の続き・・・

「しまった。うえらいことをした。お尻を叩かれ、
お尻をかばった手の指は折れてはいないだろうか。
お尻は切れていないだろうか」と思うと、
もういてもたってもおれず、
子供の部屋に上がっていきました。
「怪我はしていないか。指は大丈夫か」と言って、体を見ますと、
有難いことに指も折れていません。
「もう二度とこんな思いをさせないでほしい。
もうこんなことは二度としたくないから」
と、頼むように話しました。
しかし、聞いてはくれません。
やはりまた、朝まで我が子の帰りを待つ時もありました。
どこへ行っているのだろうか。

わるい男とつきあっているのではないだろうか。
男女の間違いを起こすのではないだろうか。
それこそ取越し苦労から、心配、不安、苛立ちと、
これほど思っているのに、
いったい何を考えているのだろうかと
怒りの心をどうすることもできない自分の思いを神に訴えました。
「神様、私をどこまで苦しめたら気が御済みになるんですか。
私に与えられる苦しみは、どんな苦しみでもお受けします。
子供を通して私を苦しめないでください」
神様に抗議し、文句を言って、時間を過ごしました。
しかし、そんな頼みごとを神様も聞いてくださいません。

何カ月かそういう生活が続きますと、
神様に文句を言うのもあきらめてしまい、
今度は頼みに変わってきます。
まさに苦しい時の神頼みです。
「神様、どうぞ子供がどこにいてくれるかはわかりませんが、
あの子に事故がないように、
過ちがないように、守ってください。
どうぞ、あの子に間違いがないように守ってください」と、
もう必死でお願いしました。
そして、「もし、許していただけるのでしたら、
一時も早く私のもとに子供を返してください」と言って、
泣いて夜を明かしたことも幾度かありました。


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「御垂訓」

2018-01-19 23:53:53 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

     恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


         第五章 心の曇りをとるための反省

     子供の問題はまず親の反省から

先の続き・・・

今から数年前に家内をくも膜下出血で亡くしました。
ある日突然、子供二人を残して他界してしまいました。
その時、下の子は中学三年生、上の子は高校三年生でした。
子供たちにしてみれば、突然母親を失ってしまい、
特に下の子は中学三年ですから一番心の揺れやすい年ごろでもあり、
心の不安定な日が続いたのです。
ちょうど次の年は上の子の大学入試、下の子は高校入学という時期でした。
下の子は寂しいのでつい友達の所へ遊びに行き、
しだいに夜遅くなるまで帰らないということが続きました。
家内がいてくれたら、「お前、留守番していてくれ、わしが探してくる」とか、
あるいは「お前のしつけがわるいから、こんなことになったんだ」とか言って、
喧嘩もできるわけですが、一人ぼっちになってしまうと、喧嘩相手もいません。
そうこうするうち、上の子は大学に合格し、寮に入りました。

下の子と私と二人きりになりますと、
夜、十時になっても十一時になっても午前零時になっても、
いっこうに家の玄関の戸はコトリともしません。
しいんと静まりかえる家の中で、
深夜まんじりともせずに何時間でも子の帰りを待っている男寡の
親の気持ちといったら、言い表しようもありません。
自分自身に与えられる苦しみで自分さえ耐えればいいというのならともかく、
我が子を通しての苦しみになりますと、
子供が立ち直ってくれない限りはどうにもなりません。

外出の時に下駄を履いていっていないのは知りながらも、
表で下駄の音がしたり、かすかな足音でもすると、
つい我が子が帰ってきたのではないかなどと思い、外に飛び出してみたり、
どこへ行ったかわからない子を探してあてもなく出歩いたりと、
本当にいろいろと辛く悲しい体験をさせてもらいました。
最初のうちは、夜遅くでも帰ってきた子を、
「何をしてたのか」とまるで鬼みたいな剣幕で叱りつけていました。
「言うことを聞かないなら、髪の毛をつかんで引きずり回すぞ」と、
おどしてみても、いっこうに聞きいれてはくれないのです。
「これだけ言ってもお前が聞いてくれず、口で言ってもわからないなら、
牛や馬のように体罰によるしかない。
もし今後、こういうことをしたら、姉さんの竹刀でお尻を叩くから」と
言いましても、「ハイ」と言うだけです。
それでまた相変らず夜遅く帰宅します。

約束した以上は私も約束を破った子に体罰を加えないわけにはまいりませんで、
「来い」と言って、竹刀を持って家の外へ出ると黙ってついて来ます。
「ごめん、今度からはしなから」と謝ってくれれば、
「もうしないでな」と言って済むことなのに、黙ってついて来るので、
やめるわけにはいきません。
「じゃ、向こうをむけ」と言い、竹刀でお尻を叩いてしまいました。
「痛い」と言って、本能的に尻をかばいます。
私は鬼みたいな心になっているので、一回では済まず、何回も叩きました。
「もういいから、お休み」と言うと、子供の部屋は二階にありますから、
泣きながら上に上がっていきました。


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「御垂訓」

2018-01-19 00:30:37 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

    恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


           第五章 心の曇りをとるための反省

        子供の問題はまず親の反省から

人生航路を航海し彼岸に到達するまでにはいろいろな
出来事を体験します。
浪一つない鏡のような海面を旅する日があるかと思えば、
暴風雨に遭い、今にも沈没しそうな日もあり、
深い霧に立ち込められて見動きのとれない日や、
やっと港にたどりつく寸前に暗礁に舟の底を割られて
沈没してしまう場合もあります。
人生とはまさに自然の姿そのままです。
魂を輝かせるには反省を通して己の心の癖、欠点を正して
いかなくてはなりませんが、その反省における気付きも、
格好の材料となる苦しい体験があってこそ可能になります。

ただ苦労だけして反省もしないのでは、
せっかくの体験も魂の向上のために生かせないと
いうことになってしまいます。
そもそも私たちが生まれてきた目的は、一人の例外もなく、
魂の進化向上のためですから、いろいろな苦しいこと、
辛いこと、悲しいことも、反省と悔い改めの好材料として
有難く受けていくと、人生が好転していきます。
反省で最も難しいのは自己中心的な見方を離れ、相手の立場に立ち、
さらには第三者の視点から自分と相手の双方を見ていくということでしょう。
特にこれが難しいのは相手が他人ではなく、自分の身内や家族の場合です。
今から十七年前、私の最も親しい心の友が体験された厳しい修行を通して、
自己を発見され、喜びと感謝の心境に到達された記録です。
以下はその友の手記です。


           ~ 感謝・合掌 ~



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「御垂訓」

2018-01-17 23:25:11 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

      恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


             第五章 心の曇りをとるための反省

         なぜ毎日の反省が必要なのか

先の続き・・・

翌日の晩にまた、
一日過ごさせてもらってから寝る前に自分を見つめてください。
こうしていますと夜もたいへんよく眠れるようになり、
翌朝も素晴らしい目覚めがいただけるようになってきます。
それは心の荷物を捨て、心が軽くなっていけるとともに、
神様の光が差し込み、それに満たされてくるからです。
二十数年、毎日同じことを繰り返しています。
「真の神への感謝を今日一日忘れなかったか、
肉体をこの世に持たれ、神と一体となられた光の天使に
感謝することができたか、先祖代々の諸霊の皆様に感謝し、
供養する心を忘れなかったか、両親に対して心配をかけたり、
親不孝することはなかったか、今日一日夫婦仲良くできたか、

子供には豊かな愛を平等に与えられたか、
自分の良心を裏切らなかったか」と、
毎晩、自分の心にチェック項目にしたがって見つめておりました。
このような心の掃除を毎日毎日休むことなく積み重ねますと、
心の苦しみの原因をつくることがなくなるにつれ、
知らない間に心が安らいでいきました。
毎晩毎晩同じことをして、「今日一日腹を立てなかったか」と
やっておりますと、私のようものでも、
もう腹を立てるのはアホらしくなってきます。


              ~ 感謝・合掌 ~



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「御垂訓」

2018-01-16 23:44:18 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

     恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


             第五章 心の曇りをとるための反省

        なぜ毎日の反省が必要なのか

先の続き・・・

言ってみれば、雑草がはびこるようにどんどん心の中に煩わしい思いが増殖していくのです。
たとえ、表面の意識からは忘れられたと思っても、潜在意識の中でまだ生き続けていれば、
また何かの縁にふれて、表面の意識に顔を出してくることになります。
そこで、早いうちに根絶やしにするつもりで草取りをする必要が出て来るわけです。
想念の法則によって、自分の発した思いは自分に返ってきて、自分の運命を形づくりますから、
自らの人生をよくしたければ、自らの発する想念に責任を持たなくてはなりません。
一例をあげると、反省するのにいい時間は寝る前です。
寝る前の最後の思考が、
次の朝起きた際の最初の思考として蘇ってくることはやってみればわかります。
死ぬ際でも同じことです。

どんな思いを持って死ぬかは重要です。
寝ている間も心の活動は続いています。
常に眠っている間中まったく夢も見ないで安らかな状態であるというのは、ニルヴァーナ
つまり涅槃に達した方に近い心ともいえるでしょう。
とにかく寝る前に自らの心を顧みて、安らかな心で眠りに入るのはいいことです。
夜寝る前に、今日一日の生活はどうであったかをふりかえり、苦しみの原因である心の作用、
そして喜びの原因となる心の在り方に関する何十項目かについて調べていくのです。

◆今日一日、腹を立てることはなかったか
◆愚痴を言わなかったか 
◆人を謗らなかったか
◆要らぬ不安恐怖に振り回されなかったか
◆両親の恩を感じ、その恩に対して万分の一でもお返しができたか
◆人々に心から慈悲を愛を与えたか
◆明日に我が身に死が訪れようとも、後悔のない一日を過ごせたか
◆明日に家族の誰かに死が訪れても、後悔のないように接することができたか

このように一つ一つ点検していきます。
もし何か反するものがあれば、「明日の生活に繰り返さないようにします。
神様、どうぞ私をお導きください。
明日からの生活を正してまいります」と誓って悔い改めることです。


             ~ 感謝・合掌 ~




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