浄心庵・長尾弘先生「垂訓」

八正道と作善止悪

「御垂訓」

2020-09-30 23:58:28 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

       恩師のご著書「講演集」より

             講演集、 二

        恐い生き神様の話し


先の続き・・・

Mさんは私のところにその写真を持ってこられたのですが、
可哀そうに心臓のところに穴があけてあるのですね。
五寸釘を打った穴がね。
私は、「あんばいしてあげましょう」と言って、
その穴をもとどおりにしておきました。
このような、人を呪い殺すということは、
もう昔の物語だと思っていましたが、
今でもあるのですね。
不思議なことは、名刺に僅か四文字「明来闇去」と
書かせていただきましたものが、霊的な世界から見ますと、
まぶしくて見えないのです。

ただ胸の内ポケットに入れているだけで、
その人の姿さえ光で見えなくなってしまって、
そして絶対に返さないと言っていた写真をハイと
素直に返してくれたのです。
正しく生きる者には光がります。
これは天から守っていただくのです。
Mさんはその当時の自分の出来事を詳しく
書いてここへ持ってきてくれました。


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「御垂訓」

2020-09-30 00:36:48 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓
 
 恩師のご著書「講演集」より

              講演集、 二

          恐い生き神様の話し


先の続き・・・

その生き神様と称する方は母子家庭で、中学生のお譲ちゃんと
小学校五年ぐらいのお譲ちゃんとその神さんであるお母さんとの家庭です。
親がああいうことをしていますと、子供にも移るのです。
親が間違った信仰をして霊的に通じますと、必ず子供に、孫にと、
遺伝のように伝わっていきます。
これは避けられません。
そこの下のお譲ちゃんは特にそういう霊感が強いのだそうです。
そして今の話しのMさんがその家の表に立たれますとね。
家の中で、「表に恐ろしい奴が来た、恐ろしい奴が来た」と泣き叫んでいる。
「恐ろしい奴が来た、まぶしい奴が来た」と泣き叫んでいるのです。

すると、お母さんの生き神様が出て来て、「ああ、Mさんですか、
まあ入って下さい」と言って、
Mさんが中に入りますとね、その小さい女の子が恐ろしい顔をして男の声で、
「お前は誰じゃ。まぶしくて見えない、早く帰れ」と言って逃げていくそうです。
Mさんが、いつもはおじちゃんと言って膝に乗ってきてひどくなついていた子が、
その日に限って逃げて歩くので、「なぜこの子はこんなこと言うのですか」と聞くと、
「今日は天で神さんが暴れてるからこんなにしますのや」とそのお母さん言ったそうです。
それで、「実は写真を返してほしいのです」と言いますと、「はい」と素直に取ってきて
返してくれたのです。
Mさんは私のところにその写真を持ってこられたのですが、可哀そうに心臓のところに
穴があけてあるのですね。

五寸釘を打った穴がね。
私は「あんばいしてあげましょう」と言って、その穴をもとどうりにしておきました。
このような、人を呪い殺すということは、もう昔の物語だと思っていましたが、
今でもあるのですね。
不思議なことは、名刺に僅か四文字「明来闇去」と書かせていただきましたものが、
霊的な世界から見ますと、まぶしくて見えないのです。
ただ胸の内ポケットに入れているだけで、その人の姿さえ光で見えなくなってしまって、
そして絶対に返さないと言っていた写真をハイと素直に返してくれたのです。


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「御垂訓」

2020-09-29 01:29:15 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

 恩師のご著書「講演集」より

                 講演集、 二

             恐い生き神様の話し


先の続き・・・

ところで、そのお宅の奥さんのお姉さんの家族もそこで信仰していたのです。
その姉さんのご主人は、もう退職していますが、
三十五年も刑事を勤めている人なのに、
そんなこわい刑事さんでも、ころっとその神さんにやられているのですね。
そして悪魔払いをしてやるから何万円持ってこいとか、
やれこの家に又悪魔が入っているから、
今度は何十万円で取ってあげるなどといって、
次々とお金をまきあげられています。
そして変なものが憑いているといって、
これは結局憑けられてしまったのですが、
その方が初めて私のところへ見えられた時は、
二人とも地獄の底の住人みたいな顔をしていました。
自分の周りが全然見えないで、
遙かに高いところにポコッと穴があいて空が見えているような、
生きながら自分の意識が地獄にいっているような有様でした。

そのお姉さんの大学四回生の子供さんも、そこにいっていたのですが、
ある日、帰ってきて言ったそうです。
「お母さん怖いで、どこの人か知らんけど、
神棚で男の人の写真が心臓に釘を打たれて、
先生が殺してやるのだと言って一生懸命拝んでいる、こわいで」と。
それで今度そこにいって写真をよく見たら、
なんと自分の妹の婿さんだったので、
もう地獄の底にいる心地がして、自分ながら頭がおかしくなって、
妹さんと二人で私のところにこられたのですね。

そして、今話したいきさつを聞かせてもらいました。
「あなた方は、そんなやさしい顔をしてなんと恐ろしい方たちだ。
私だったら、あなたたちのように恐ろしい人は
嫁さんにようなってもらわない、
殺されてしまう」と、私は言いました。
そして「早く写真を返してもらいなさい。そんな事をしていると、
その念はものを作ります。
想念はものを作って形として現れるから、そんな事をされたら、
ご主人は必ず体が悪くなりなすよ、
だから早く写真を返してもらいなさい」と言ったのです。
しかし何と言っても返してくれない。

「いったん神さんにお願いしたものを中止することはできない。
お前、お金が惜しくなったのか」と言うのだそうです。
「それでは私が、返してもらえるように、
ちょっとおまじないを書いてあげますから、
これを胸のポッケトに入れていってみなさい、
必ず返してくれますから」と、
何時も書かせてもらっている「明かりが来れば闇が去る」と、
名刺の裏に書いて差し上げたのです。
私はそのご主人とはその時まだご縁が無かったのですが、
奥さんは「お父さん、これを持っていけば返してくれるそうです」と渡し、
ご主人はおまじないの私の名刺を胸の内ポケットへ入れていったのですね。


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「御垂訓」

2020-09-27 23:58:00 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

恩師のご著書「講演集」より

             講演集、 二

       恐い生き神様の話し


またとんでもない神様があります。
話すと、正法らしいことを言うのです。
そしてすばらしいことを言うので、
信者さんたちがそこへ行っていますと、
妙なことが起こってきます。
あるお宅のお父さんが教育熱心でスパルタ教育をするので、
上のお姉ちゃんがすねて。

いわゆる翔んでるお譲ちゃんになって、
親の言うこと聞かなくなったのです。
上はもう手がつけられないからというので、
今度は小学校四年生の下のお譲ちゃんに
お父さんのスパルタ教育が向かってきました。
その下のお譲ちゃんというのは身体が弱いのですね。
その神と称する人のところへ行きますと、
「この子はもう後二年したら死ぬ」と言うのです。
お姉ちゃんとお母さんが「なんとか助けて下さい。

なぜ死ぬのですか」と聞くと、
「お父さんが厳しい教育をするから、この子は耐えられない、
この状態でいくと、この子は二年以内に死んでしまう」と言うのです。
「それではなんとか助かる方法はありませんか」と言うと、
「お父さんが原因でこの子が死ぬのだから、この子を助けたかったら、
お父さんに死んでもらいなさい。
そうすればこの子が助かる。
お父さんが死ぬか、この子が死ぬか、
とちらかが死ななくては解決しない」と、
うまいことを言うのですね。

そこでお姉ちゃんとお母さんとが相談をして、
こんなに小さなRちゃんが死ぬのは可哀そうだ、
お父さんはもう五十年ほど生きているのだから、
お父さんに死んでもらおうかと
いうことになったのです。
神様が「それじゃお金がちょっと高くつきますけど、
私がちゃんとしてあげます」
とおっしゃってね。
「写真を持って来なさい」とのことで、
写真を持っていったのです。


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「御垂訓」

2020-09-27 00:03:39 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

恩師のご著書「講演集」より

              講演集、 二

      出せば入る法則――原因結果の法則


先の続き・・・

ただ、正しい正法を知らない間は、その種が幸せの種か、
不幸せの種かが分からないのです。
盗みをしたり、人を泣かせたりすれば、
これが悪い種ということは分かりますが、
自分の心の作用の種には気が付かないのです。
その種は、
自分の心を苦しめた時に必ず苦しみの実りが現れるということです。
悪い行為はもちろんいけません。

今笑っていた人が瞬間に激怒するとか腹を立てて、
「怒らな損損」といって、怒っている人がありますが、
あれは毎日毎日怒るたびに不幸の種を播いているのです。
又、愚痴ばかり言っている人がありますね。
あれなども愚痴を言ったぐらいで不幸にならないと
思っているのですが、
それが不幸になっていきます。
まさかと思う人の悪口についても、
「悪口を言うのはあいつが悪いから言っているのだ。
そんなことで不幸になるものか」と思いますが、
しかしいけません。

悪口を言う時「ここだけの話しですよ」と言うと、
もうすぐ向こうに聞こえています。
悪口ほど早く通じるものもありません。
「内緒やで・・・」と言えば言うほど、
余計に人はしゃべりたいのです。
その結果、自分の心の中に大きな荷物を背負うことになります。
又、謗りですね。
もちろん恨んでもいけません。
もっといけないのは人を呪うことです。

夜中にカーンカーンと釘を打つ、あれは最も罪深いことです。
人を不幸にして自分が幸せになれるはずがありません。
それが分からないから、
「あいつが憎いから人形の心臓に釘を打ってやろう」呪うのですが、
これは遠い昔の物語かと思いましたら、そうではなくて、
今日はお見えになっていませんけど、神戸の方の現実のお話です。


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「御垂訓」

2020-09-26 00:12:44 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

恩師のご著書「講演集」より

              講演集、 二

        出せば入る法則――原因結果の法則


先の続き・・・

私のところのご近所で、
この人は商売がきつくて、えげつなくてね。ま、
商売の上手な人がおられました。
私たちよりも年輩ですでに引退されていますけど、
この人はこちらで千円の品物を何万枚も契約するとします。
ところがこちらよりも十円か二十円高かったら、
契約違反をしてでもそちらに売るのです。

その人は「何千万円の不渡り手形をつかまされた」とか
「何千万円やられた」と、私が知っているだけで何回もやられています。
私は自分のことを話して申し訳ないのですけど、
三十年近く商売をさせてもらった間、
一回も不渡り手形を受けたことはありませんでした。
ただし一回だけあったのです。
昭和四十五年、六年当時、六百万円引っかかったのですが、
しかしその九十五パーセントは返ってきました。
「やあ、あの人は恐いよう、運が悪いのか、
よく不渡りくうなあ」というのは、
本当はやはりその人の心の不幸な原因が結果として現れてくるのですね。

ですから、日々の生活で、
できるだけ間違った苦しみの原因を作らないことです。
不幸になっていく原因を日々作らないこと、これが精進です。
そして幸せの種をしっかり播くこと、幸せの種、
つまり良き結果が現れる原因を常に積み重ねることです。
その時播いた種は必ず芽生えますし、また成長して実ってくれます。
胡瓜が幸せで、茄が不幸とします。
自分が不幸の種の茄を播いておいて、
実ってきた時「私は胡瓜がほしかった、
茄は要らない」と怒るのでは遅いです。
自分が茄を播いたのです。
幸せ不幸せとは、それと同じようなことが言えます。


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「御垂訓」

2020-09-25 00:18:18 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

恩師のご著書「講演集」より

                 講演集、 二

        出せば入る法則――原因結果の法則


先の続き・・・

それはさせていただくから、していただけたのです。
しなければ、もし良い条件で他の大手から売りにいかれたら忽ち得意先を
取られてしまうはずですね。
なんと東京のお店に私から出向いたのはたった一回、
しかも商売の話は一分間で済みました。
そして二十五年間、こういう今の人助けの生活に変わるまで、
ずっとお取引していただきました。
これは出すことによって入ることの一つのいい例だと思います。
商売において、同じ商品を買っていただくにしましても、
「これ一つ売ったら五百円の口銭がある、
なんとかこれを売って儲けてやろう」と思いますと、
相手の心にはもう入らないのです。

「この商品によってこの人が便利になり、
幸せになってもらえるのだ、喜んでいただけるのだ、
儲けていただけるのだ」という一念でお勧めしますと、
買う方の心にシャッターが下りません。
同じ利益をいただいて、同じ物を売るにしましても、
利益を頭に入れて商売しますと、
金儲け主義となって相手に通じないのですが、買う側の幸せを思い、
その方のお役に立つのだという一心でお勧めした時は、
相手の方にそのままストレートに入っていきます。
商売というのは、品物を売っているのだと思っていますけど、
本当は自分という人間の心を買ってもらっているのです。
信用ですね。

「あの人は信用できる、あの人の言う物なら買っても間違いない」というように、
全部心を買ってもらっているのですね。
品物は動いています。
そして欲がからんで取引しますと、
「ああこれを買ってえらい目にあった」ということになってしまいます。
この自然界といいますのは、すべて調和を目的として運営されていますから、
私たちもそのように生きさせてもらえば、
その時苦しみの少ない安らかな人生を過ごすことができます。


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「御垂訓」

2020-09-24 00:05:22 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

添付のお写真は恩師「長尾弘」先生を始めとして多くの学びの友と
イエス様の史跡を訪問・見学してた旅でビデオ録画していた中に撮影されたいたものです。
恩師が作詞されたお歌に「罪深きこの身であれど悟りなば飛天の如く我を見るかな」
の飛天が撮影されたのではなかろうかと勝手に解釈しております。


恩師のご著書「講演集」より

                講演集、 二

       出せば入る法則――原因結果の法則


先の続き・・・

私はこの正法にご縁をいただく前から、
いろいろ不思議な体験をさせていただきまいたが、
商売の上でも自分が儲けようとしてはいけないということを知っております。
人さまに儲けてもらう、かといって自分が損をしたら商売になりません。
人さまにご奉仕させていただくことをモットーにさせてもらいました。
関東のある所に本社のある貸布団業界の大手会社にご縁を頂きました。
毛布業界では最低四カ月の手形、長くて六カ月、
或いはお産手形と言いまして十カ月の手形もあります。
そんな時代に、そのお得意さんから現金で取引してやると
言ってもらったのですね。
こんな有難いことはありません。
業界では絶対といっていいような大手のお得意さんが、
ひょいと舞い込んできて下さったのです。
まさに天上界から与えられたご縁です。
その時私はこれを全部儲けたら申し訳ないと思いました。
その後たった一度だけ東京の本社へ行きました。
受付の方に「大阪から参りました」と言いますと、
「どうぞ」と案内して下さいました。

オフイスの机が並んでいるそのずっと奥の、社長の部屋へ行くまでの途中、
事務を取っている方たちが立って礼をして迎えて下さるのです。
「へえー、私のような者が来ても皆がお辞儀をしてくれるのだなあ」と
思って社長室にはいりましたら、
案内してくれた人が社長さんだったのですね。
私に頭を下げてくれたのではなくて、社長さんにお辞儀をしていたのです。
よく考えてみると、私に頭を下げてくれるはずはありません(笑い)。
社長さん、会長さんとお見えになりまして、いろいろ世間話をしましたあと、
では商売の話をしましょうかということで、
「条件はどういうことですか」と聞かれたのですね。
私は、「地元の問屋さんに入れさせていただいている相場で
買っていただいたら結構です。

一銭も余計には要りません。
しかし送料、荷造り料はお宅さんで持って下さい、それ以外は要りません」と、
話をさせてもらいました。
「分かりました。では取引はして下さい」と、
お話は何と二、三分ほどで済んでしまいました。
その後二十五、六年お付き合いさせてもらいました間、
ずっと現金で買っていただきました。
私は何とか会社にご奉仕させてもらわなくてはいけないと思ったのですけど、
受け取っていただけないのです。

で、仕入れ部長さんが私のところに来て下さるので、
「うちは、これで儲けさせてもらっています。
私だけが儲けては申し訳ないですから、
仕入れ部長さんに私の感謝の気持ちとして、
売上金額の二パーセントを還元させていただきます」と申し出たのです。
これは一億としますと、その二パーセントはいい小遣いになります。
盆と正月に分けまして、この半期の売上の二パーセントを
仕入れ部長さんに送っていたのです。
そうしますと、その会社に大きなメ―カーから売りにきますね、
ところが絶対に買わない。
「いや、うちはもう専属の製造所がありますから結構です」といって、
私のところより歩のいい話を持っていこうが、
どんな大きなメーカーから行こうが、
よそからは絶対に買わないで、そしてほかに必要なものまで、
私のところに注文があるのですね。

私は注文を頂いたらよそでそれを買ってきて送る、
それで又何パーセントか儲けさせていただくという具合で、
相手に儲けて喜んでもらうことによって、
自分を守ってもらうということと必要以上に儲けさせていただくことを、
身を持って体験させてもらいました。
今日、こうして結構に生きさせてもらいますのも、
商売を通して「こんなにぎょうさん
儲けさせてもらっていいのかなあ」という程儲けさせてもらったお陰です。
とはいっても、何億と儲けたわけではありません。
足ることを知った儲けです(笑い)。


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「御垂訓」

2020-09-23 00:51:59 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

添付のお写真は恩師「長尾弘」先生のご講演中を学びの友の方がカメラに収めたものですが、
荘厳されている花々も恩師もご覧の様に歓喜に躍動しています。


恩師のご著書「講演集」より

                 講演集、 二

         出せば入る法則――原因結果の法則


「他を愛せば自分が愛される」というのは、
「出せば入る法則」によるのです。
出さなかったら入りません。
自然はそのようになっております。
どんなに大きなダムをこしらえても、
大雨が降ったあと出すのはいやと言っていたら、
忽ちにして決壊しますね。
水門を開けてダアーッと排水するから、又入ってきます。
この肉体を見ましたらもっと明らかですね。
お尻と前と汗の穴を全部セメントで固めてしまったら
これはえらいことです。
三日を経ずして死んでしまいます。

前と後ろを縫ってしまって出ないようにしますと、
もう生きられません。
「私は、もう一週間も便秘でうんちが出ません」と
いう方がありますが、
しかしちゃんとおしっこは出ています。
神様は本当にうまいこと造って下さっています。
一週間、十日、或いは二十日間、大便が出なくても、
大便というのは九十パーセント以上は水分ですから、
その水分を腸が吸収してしまうのです。
そしてその水分の抜け殻になったカンカチコのうんちは、
極小さいものになってしまうので、一週間も十日も、
長い人は一か月でももつのです。
そして、
水分がみな抜けたコロコロとした堅い石みたいなのが出て来ます。
私のところにひどい便秘の方がお見えになって、
すぐ治る方もありますし、治らない方もあります。
「お宅、ケチですか」と聞きますと、
「いや、私はそれほどケチとは違いますけど」
「それじゃ、そんなケチケチせずに出して下さい」
と言うのですけど(笑い)。

それは不思議なものですね。
うんちというのは一度にたくさん出るものなのに、
十日も出なくて一体どうなっているのかなあと思いますが、
ちゃんと乾燥して水分はみな吸収されて滓たまるので、
量としては少なくてすむようになっているのですね。
大便が出なくても水分として汗なり或いは小便なりとして
出してもらうから体がもつのです。
出させてもらうから入るということを知ることです。



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「御垂訓」

2020-09-22 00:13:27 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

添付のお写真は恩師「長尾弘」を始めとして多くの学びの友の方とフランスの
泉の奇跡でお馴染みの聖処女ベルナデッタ様がマッサビエルの洞窟の前で
聖母マリア様にお会いになられた正にその個所に建立されている聖母マリア様を
カメラに収めたものですが、ご覧のようにカスミがかかったようなお姿に写っています。


   恩師のご著書「講演集」より

             講演集、 二

    人間は皆、自己が最もいとおしい


先の続き・・・

先ず自分を愛さなくてはいけません。
その自ら愛するといっても、
「ああ、可愛い可愛い」といって自分をあまやかしたらり、
自分の身体をなでさするのではありません。
これは肉体を愛しているのです。
自らを愛するとは「自分の心を苦しめないこと」です。
自分の心を苦しめないとうその苦しみとは何かといいますと、
これはいつも言います怒り・妬み・謗り・愚痴・・恨み・
憎しみ・不要の心配・不安・恐怖、これらの苦しみを、
自分の心の中に入れないこと、これが自己を愛することです。

そして、人さまに対しても腹を立てさせたり、
愚痴をいわせるような事をしたり、
不安・恐怖を与えたりしてはならないのです。
他を愛すれば愛するほど、今度は他から自分が愛されます。
「汝の隣人を愛せよ」の隣人とは自分の身近な隣人です。
自分の隣にいてくれる身近な人たちを愛した時、
つまりその人たちに一生懸命尽くした時、
その身近な方から愛されるのです。
他という対象を通して自己を愛することになるのです。
他の方、隣人を大事にすることによって自分が大事にされ、
愛し、尽くすことによって、
自分が愛され、尽くされます。


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「御垂訓」

2020-09-21 00:21:44 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

添付のお写真は恩師「長尾弘」先生のご講演会をカメラに収めたものですが、
ご覧の様に恩師ご自身も傍に生けてある花々も上から吊ってある看板も
幽体(肉体)離脱から復帰されたような感じで写っています。
カメラのブレ出ない証拠に前に座っておられる観客の方々は
少しも変動しておりません。


恩師のご著書「講演集」より

             講演集、 二

      人間は皆、自己が最もいとおしい


人間といいますのは、今地球上に五十億の人口がありますけれど、この世の中で誰が
一番いとしいかをよく考えてみますと、自分ほどいとおしいものはないのです。
「いや、私はあの人が好きでいとおしくて・・・」といっても、それは嘘です。
「うまいことして、その人と結婚したら、その人はちゃんと食べさせてくれる」
というように、心の底ではまず自分のことを第一に思っています。
「私はこの子供が可愛くて可愛くて」といっても、その子が苦労かけてくれたらどうも
ならんと思いますし、掘り起こしてみると、全部自分のことに帰着します。

「私は主人を命の限り愛しています」といっても、主人がよそへいってお金を持ってきて
くれなかったりすと、主人を憎むようになります。
主人のほうも「私は家内を愛しています。いとおしくてたまりません」といいましても、
心の底を掘り起こしてみると、「この人がいないと洗濯もしてくれない、
めしも炊いてくれない」という具合に結局は全部自分の為です。
お釈迦様は、「自己がいとおしいように、人さまも各自、自己がいとおしい、だから自分を
いとおしむ如く、他をいとおしみなさい」と教えておられます。
これは蚊一匹、蟻一匹といえども自らをいとおしんでいます。
だから私たちは自分をいとおしむように、
他のすべての命あるものをいとおしまなくてはならないのですね。
「自らを愛し、自らを愛するが如く他を愛しなさい」


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「御垂訓」

2020-09-20 00:15:05 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

添付のお写真は恩師「長尾弘」先生が舞台上で癒しをされている情景ですが、
ご覧の様に癒しを施している恩師は光に包まれて上位が白色になっています。
これで治らない病はないですよね。


    恩師のご著書「講演集」より

              講演集、 二

         得がたい法のご縁


先の続き・・・

この間訪ねてきまして、
大学でのテストの話をしてくれたのです。
すごくよくできる子です。
テストでは鉛筆と消しゴム以外は出してはいけないそうですね。
ですが、学生手帳と私の写真も持っていったそうです。
数学の問題を見ましたら、全部はっきり覚えているものだったのに、
その時に限って油断して私の写真を出し忘れたそうです。
それで四問とも全部正解したのですが、0点になったのです。
問題をよく読むと、
「この中から二問選択して解きなさい」と書いてあるのを、
出来すぎて四問全部解答したので、
0点になってしまったそうです。

「先生の写真を持っていなかったら、
えらいことになりました」と笑っておりましたけど、
すごい心の支えになるものですね。
この息子さんの場合のように、
ほんとうに短い時間、ちょっとお会いしただけでしたが、
そのようにさっと素晴らしく変わってしまった方もあります。
心や肉体が地獄の底のような生活をなさっていた方で、
ここにお見えになった時は全く
恐ろしい鬼婆のような顔をしておられましても、
帰る時には仏様のような顔になって帰られる方があり、
それは不思議なことです。
肉体が癒され心が安らぎますと、
忽ちお顔の相が変わってしまいます。



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「御垂訓」

2020-09-19 00:08:09 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

添付のお写真は恩師「長尾弘」先生を始めとして多くの法友とイスラエルの
聖墳墓教会を見学したときにカメラに収めた聖母マリア様ですが、
ご覧のようにカスミがかかったようになっています。


恩師のご著書「講演集」より


               講演集、 二

            得がたい法のご縁


先の続き・・・

今、来ていただいている或るお方は、以前にただ一度お会いしてね、
忽然と素晴らしいお方に変わっていただきました。
それはもう周りのお方がびっくりされてしまうほどに変わられました。
これはほんとうに奇跡ですね。
自分の心に目覚めれた時、忽ちまちにしてその人間性が変わります。
昨日見えておられたTさんの息子さんの場合も、
一度お会いしてお話させてもらいましたあと、
素晴らしい変貌をしてくれました。
大学の四回生ですけど、体が弱くて半年ほど入院されたりして、
長男さんですから可愛いと大きくされた為に、
すごくわがままになりまして、
自分のお母さんに対する要素が大変なんです。

思い通りにしてもらえないとひどいことをするのでほとほと困られまして、
「先生、なんとか一回お話を聞かせてやって下さい」といって連れて見えました。
僅か三十分か四十分ぐらいしかお話できなかったのですが、
もうここの玄関を出る時から態度が変わり、
帰りの電車の中、夕食への感謝と、
お母さんは腰が抜けるほどびっくりして電話を下さったのです。
「あれからずっと、それを守ってくれています。

いや、うちの子はほんまものですわ」と。
この守るべきことというのは、怒り・妬み・謗り・
愚痴・恨み・憎しみ・不要の心配や
取越し苦労・不安・恐怖・嘘・貪欲を無くすことだと言って話しましたら、
その息子さんは学生手帳に中にこの項目を書き込みましてね、
持って歩いているのです。
そしてそれを実践して素晴らしい変貌をしてくれました。


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「御垂訓」

2020-09-18 01:05:54 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

添付のお写真は恩師「長尾弘」先生を始めとしてイエス様に関係ある遺跡を
訪問見学していた旅でビデオテープに撮影されていた映像です。


    恩師のご著書「講演集」より

               講演集、 二

         得がたい法のご縁


見えない世界にいる苦しい方も、正しい教えによって即、救い上げます。
見えない世界の方はこの世に生きる人間よりもなお、悟りが早いです。
なぜ霊の方は悟りが早いかといいますと、それは肉体、
つまり目・鼻・耳・口・皮膚の
五官がないから、悟り・目覚めが早いのですね。
しかし不幸にして法にご縁がございませんと、
永遠といってもよいほどの長い時間を苦しんでおられます。
それは気付くことができず、目覚めを与えられないからです。
昨夕も、ほんとうに有難いことで、わざわざ富山県から、
そして新潟県からおいでになっていただきました。
今日お集まりの皆さまは関東の皆さまでございますね。
ほんとうによく来ていただきました。
ありがとうございました。

ご縁というのはまことに得難いもので、
この私のご近所にあっても縁のない者は近づくこともできません。
しかしご縁のある方はご近所からもこうして熱心に来ていただけますし、
遠い県外からも集うていただけます。
「正しい教えに縁を得ることは、
片目の亀があの太洋の真ん中で一片の流木に巡り合うよりもなお難しい」、
つまり太平洋の真ん中に流れて来る一片の板切れは、
見つけようとしても、なかなかどうして見つかりません。
そして二つの目を持つ亀が片目ということは、
世界が半分しか見えないということです。
その亀が流木に巡り合うよりもなお難しいというほど、
ほんとうの教えに巡り合うことは
難しいそうです。
しかし、こうしてご縁を頂いて巡り合えるというのは、
それほど尊いご縁によっているのであり、まことに得難いご縁です。


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「御垂訓」

2020-09-17 00:19:46 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

添付のお写真は恩師「長尾弘」のご講演中に起こった現象です。
恩師のお話ではこの現象は「幽体離脱(肉体離脱)」だそうです。
意識が自分の行きたいところへ行っていろいろなことを見てくるのだそうです。


恩師のご著書「講演集」より

              講演集、 二

       無償の行為とそれに伴う現象


先の続き・・・

他の地方でも正法を説いている先生がおられまして、
その方は私を非難されます。
「あれは現象ばっかりだから駄目だ」と。
しかし現象が現れるのは、正しい行いを行ったから現象が現れるのです。
だからこれは理論的に証明することができます。
また、私は書いたものをまだ本に著わしておりません
(『愚か者の独り言』第一集はこの講演後に刊行)。
そうしますと、「正しい教えとは、文証・理証・現証がなくては駄目、
あれは文証がないから駄目です」と、
私のことを私のいないところで人さまの前で注意をしてくれます。

しかし自分が書かなくとも、縁があれば人さまに書いていただけます。
現に山口県でお話させてもらいますと、
このお話させていただいたものを全部そのままテープから文字に移して清書し、
全国に送ってもらっていただいております。
ほんとうに有難いことです。
またそのコピーを読まれた方々が泣けて泣けて、そして病気が癒されたと言って、
喜んで下さる方もいっぱいおられます。
現証はその行いによって現れますから、行いがあれば理論的に証明できます。
文証も自分がしなくとも、周りがして下さいます。
文証・理証・現証、これは正しい教えについて回るものです。



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