浄心庵・長尾弘先生「垂訓」

八正道と作善止悪

「講演集」より。

2015-04-30 00:39:58 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

        恩師のご著書「講演集」より


            講演集、 三


       神のみ使いであることに目覚めよう


こういうことが私の力でできるのでしたら、私は偉いのですが、
私は一切そんなことはようしません。
神様がしてくださるのですからしようがないのです。
だから、私には念力は一切要りません。
こういうことに、一切念力は使いません。
あの八次元のパワーと言って、聞かれたことがあると思いますね。
Iとかいう人のテープを私の所にたくさん持ってきていますけど、
一巻何万円もするそうです。

それを聞きますとね。「ウォー、ヒィー、いやー」という声が
入っていますが、あれは人間の断末魔の声です。
あんなものに安らぎのあるはずはありません。
あれが何万円もする念力テープだそうです。
「うわー、うわー」そんな声も入っているのですよ。
今まさに苦しみもがいて死ぬ断末魔の声、そんな声です。
(会場の他の方の話。「超念力って言って、
あれがまた信者がいるのですけど、
可哀そうですね。知らない人は・・・」)

そのテープをダビングしたら、罰が当たるそうです。
そんな三十分ぐらいのテープが何万円もするのです。
私の所のテープは九十分テープで、原価は五百円です。
(現在は七百五十円)。三十分なら、もっと安いはずでしょうけどね。
それを何万円に売るのですから、儲かってしようがないでしょう。
ダビングされたら儲からないので、それで、ダビングしたら、
罰が当たると言うのです。

私の所のテープは買ってもらったら、買ってもらうほど損をします。
だから、できるだけ少なく買っていただいて、
皆さんがどんどんダビングして、
知人の方々に差し上げるようにして下さい。
私の手間が省けるし、私の損も少なくなります。
だから、申し訳ないのですけど、あまりたくさん注文しないでください。

この間も、二十五巻ずつ、
ここから注文いただいて、送料も送っていただきましたが、
「えらい申し訳ないのですけど、一巻ずつにして、ダビングして下さい。
お金をお返しします」といって、昨日持ってきたのです(笑い)。
ほんとうなら、無償でどんどんダビングして、無料で貰っていただけたら、
一番いいのですけどね。

これも際限がございませんので、私への愛だと思って、
できるだけ私を楽にして下さい。
時間が無いのです。
時間があれば、いくらでもさせてもらうのですけど、
もうとにかく飛び回っておりますので、
皆さんの為に飛び回る時間のほうを多くと思います。


           ~ 感謝・合掌 ~



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「講演集」より。

2015-04-29 00:09:40 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

          恩師のご著書「講演集」より

              講演集、 三


         神のみ使いであることに目覚めよう


こういうことが私の力でできるのでしたら、
私は偉いのですが、私は一切そんなことはようしません。
神様がしてくださるのですからしようがないのです。
だから、私には念力は一切要りません。
こういうことに、一切念力は使いません。
あの八次元のパワーと言って、聞かれたことがあると思いますね。

Iとかいう人のテープを私の所にたくさん持ってきていますけど、
一巻何万円もするそうです。
それを聞きますとね。
「ウォー、ヒィー、いやー」という声が入っていますが、
あれは人間の断末魔の声です。
あんなものに安らぎのあるはずはありません。
あれが何万円もする念力テープだそうです。
「うわー、うわー」そんな声も入っているのですよ。
今まさに苦しみもがいて死ぬ断末魔の声、そんな声です。
(会場の他の方の話。「超念力って言って、
あれがまた信者がいるのですけど、
可哀そうですね。知らない人は・・・」)
そのテープをダビングしたら、罰が当たるそうです。
そんな三十分ぐらいのテープが何万円もするのです。

私の所のテープは九十分テープで、原価は五百円です。
(現在は七百五十円)。三十分なら、
もっと安いはずでしょうけどね。
それを何万円に売るのですから、儲かってしようがないでしょう。
ダビングされたら儲からないので、それで、ダビングしたら、
罰が当たると言うのです。
私の所のテープは買ってもらったら、買ってもらうほど損をします。
だから、できるだけ少なく買っていただいて、
皆さんがどんどんダビングして、
知人の方々に差し上げるようにして下さい。

私の手間が省けるし、私の損も少なくなります。
だから、申し訳ないのですけど、あまりたくさん注文しないでください。
この間も、二十五巻ずつ、ここから注文いただいて、
送料も送っていただきましたが、「えらい申し訳ないのですけど、
一巻ずつにして、ダビングして下さい。
お金をお返しします」といって、昨日持ってきたのです(笑い)。

ほんとうなら、無償でどんどんダビングして、
無料で貰っていただけたら、
一番いいのですけどね。
これも際限がございませんので、私への愛だと思って、
できるだけ私を楽にして下さい。
時間が無いのです。
時間があれば、いくらでもさせてもらうのですけど、
もうとにかく飛び回っておりますので、
皆さんの為に飛び回る時間のほうを多くと思います。


              ~ 感謝・合掌 ~



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「講演集」より。

2015-04-28 00:09:47 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

        恩師のご著書「講演集」より


            講演集、 三


        人を救う実践は「光」である


先の続き・・・

先週は高知、愛媛、香川、徳島と四県を三日間で回ってきました。
これも死の行軍のようでした。
命からがら大阪に辿り着いたのですけど、
香川県のFさんというお宅に行かせていただきますとね、
九十何歳というおばあちゃんが、前の方でお話を聞いてくれていまして、
「ああ、ナンマイダブツ、ナマンダブ」私が一言話したら
「ああ、ナマンダブツ、ああ、南無大師遍照金剛」また一言話したら、
「南無妙法蓮華経」と言って、いろいろなお題目を混ぜて、一生懸命柏手を
打って拝んでくれるのです。

「おばあちゃん、何をやっておられますか」と言うと、
「ああ、勿体ないことじゃ。尊い先生が白髪も染めずに、ああ、もったいない」
と言っています(笑い)。
そのおばあちゃんに、すごく喜んでいただいたねですね。
それから一年経って、大変安らかに極楽往生なさったのです。
電話をいただいていたので、お坊さんが参って下さる時間に合わせて、
こちらから光をお入れしましょうと言って、光を送りました。

お坊さんが参って、皆は喪服を着てお参りしているでしょう。
そうしますと、来ている人の喪服が金でキラキラしてきたのです。
どこも同じで、皆がわいわいざわつくので、
とうとうお坊さんがお経が上げられなくなって、
お経を一旦中断したのだそうです。
この間寄せてもらいましたら、家族の方が、
「不思議なことです。
先生が大阪にいて、四国に金を降らせて下さる」と言われて、話題になりました。

私の縁のある方が亡くなられますと、そのお葬式によく金が降ります。
これは超自然現象ですから、私の知らないことですけれど、神様がして下さるのです。
「よし、あそこに金を降らせてやろう」とは、一つも思いません。
ただ「光をお与え下さい」と、その方にお祈りしましたら、
そういう現象を見せていただくのですね。
まあ、信じられないようなことや、皆さんがあきれてしまうようなことがあります。


              ~ 感謝・合掌 ~




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「講演集」より。

2015-04-27 00:22:05 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

        恩師のご著書「講演集」より


             講演集、 三


        人を救う実践は「光」である


先の続き・・・

このように話しておりますと、禅宗の坊さん、
今までキッとしていたのが、普通のお坊さんになりました。
そして、にこにこした笑い顔になりました。
最後のほうでそのお坊さんがね、「実は質問ではないのですけど、
私の先代が亡くなる時にこんな辞世の句を残しました。
先代は極楽に救われているのでしょか」と言われましたので、
「ああ、その句が本当でありましたら、その師匠様は極楽に行っておられます。
お坊様の中には、このように立派なお坊様もおられるのです」とお答えしました。
「しかし今、世間一般を見ますと、お坊様というにはあまりにも恥ずかしい
お坊様が多すぎます」と言ったらね。
そのお坊様は頭をすっこめています。
どうしてかなと思っていましたらね。

七十歳のお坊様ですが、四十歳の奥さんを貰われました腰痛がおきたので、
腰を治しに見えたのです。
それで何か恥ずかしかったのですね。
行く先々で、信じられないような面白いことが起きるのですよ。
四国の香川県と愛媛県に初めて行かせていただいた時、
そこのお仏壇にお参りさせてもらいますと、ゴォーと何とも言えない音が鳴って、
「ここらは風が強いのかな、えらい風が吹いているな」と思ったのです。
旋風のようなピューッという音です。

経文を唱えて先祖さんに上にあがっていただいたのですね。
そして、終わってこちらに来ましたら、後から来ている人が、
「先生、金を撒いて歩いているのですか」と言うのです。
「いや私、金を撒いてなんかいませんよ」と言って、ハッと見ましたら、
歩く度に足の後ろにパッパッと花が咲く見くみたいに金が出ているのです。

そのM島という所は紙の産地で、
紙会社の社宅で五階建てのマンションの三階にお参りしたのですが、
螺旋階段になっていて、部屋から外へ出ましたら、
その階段全部が金の絨毯を敷いたようにズーッとキラキラと光っていました。
上にはあがっていないのに、四階にも五階にも現象が起きてしまったのです。
いっしょに行ってくれた方が「箒を持ってきて、塵取りで掃き集めなくては」
と言いましたほど、たくさんの金が出ました。


               ~ 感謝・合掌 ~




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「講演集」より。

2015-04-26 00:24:50 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

         恩師のご著書「講演集」より


              講演集、 三


         人を救う実践は「光」である


先の続き・・・

私はパーッと金がいっぱい出て、身体中がキラキラになったことがよくあります。
しかし、あまりに勿体ない、私のような者がそういう現象を見せていただき、
見る人も常に見せていただいたら、当たり前になります。
「ああ先生、また光っています」と言えば、それでおしまいです。
だから、私は神様に、
「このような現象を現わさないで下さい。あまりにもったいのうございます」と、
お断りしたのです。

すると今度は、周りの人の所に出てくるのですね。
不浄な体をいただいていても、この不浄な肉体にけがれることのない、
あの蓮の花のようなけがれなき心の花を咲かせ、
心の実を実らすことができるのです。
法華経には、蓮の花をよく例にとってお説法くださったので、
お釈迦様といえば蓮の花、そして、仏教は蓮の花がシンボルマークです。
尊いお釈迦様がお説法下さった時に、
天から蓮の花がひらひら降ってきたということが仏典に載っています。

その仏典に従って、今そういう仏教寺院では、
法要の時に蓮の花びらを散らすようになっているのです。
実際にはどうかと言いますと、お釈迦様がお説法下さいました時、
何もないこの空間からキラキラ金が降ってきたのです。
この話を山口でさせていただいた時、
そのお部屋にパーッと金の雨がいっぱい降ってきたのです。
「金が降ってきました」と話したとたん、
その部屋に金の雨が降ってきました。

もう皆、拾うのに忙しくて、私の話しみたいなものはそこのけで、
十分間ぐらいは皆ちり紙に一杯拾うほどの金が降ってきました。
金が降ってきましたから、尊いお話よりは拾うほうが大事(笑い)。
「皆さん、もうよろしいですか」と言って、
皆さんが十分金を頂かれてから、また話しをつづけました。
これは私の知らないことです。
しかし、お話をさせていただいた今、仏陀の説法のとき、
空間から金が舞い降りたのと全く同じように、その現象が現れます。
これは、私の言うことが間違いないという天の証しだと思います。


             ~ 感謝・合掌 ~



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「講演集」より。

2015-04-25 00:16:27 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

        恩師のご著書「講演集」より


            講演集、 三


       人を救う実践は「光」である


先の続き・・・

東京のAさんというお宅に、いっぱい大きな金が出たといって、
私の所へ手紙に貼り付けて送ってくれました。
(会場での会話。「あれは小豆より大きいですものね」「大きいですね」)
小豆より大きいのを三つ送っていただきました。
それがたくさん出てきて、桐の箱いっぱい入れてあるそうです。
山口でも、ものすごく劇的なことがあったのですよ。
ちょうどお寺のお坊様がお見えになっていたのです。
婦人会館を会場に貸していただいて、七十人ぐらい集まっていただいた中に、
お坊様が後ろのほうにおられるのです。

ところが、その時に限って、またお釈迦様のお話ばかりが出てきます。
専門のお坊様がお見えになっていますのに、
素人の私がお釈迦様のお話をさせていただき、
ほんとうに申し訳ないと思うのですが、言葉として出るものは止められません。
そして、お釈迦様のお話をいろいろとさせていただきました。
もし、わたしが間違っておりましたら、後ほど宗教家としてお坊様の立場で、
私を御指導下さいとお願いしておきまして、お話をさせてもらいました。
禅宗の偉いお坊様で、ものすごく恐い顔をして、私を睨みつけておられるのです。
ところが、嫌みなことに、次々と仏教の話が出て来るのです。

大きなお寺の法要などで、花を散らすと書く「散華」というのをしますね。
印刷した蓮の花びらを散らすのです。
それをみな、有難いといってもらってくるのです。
なぜ、ああいうことが仏教に伝わっているかと言いますと、
蓮の花は、お釈迦様が常にたとえとしてお説法下さった花です。
泥池と蓮の花、あの泥池は誰が見ても汚いです。
しかし、あの水面に咲く花は泥の汚れを何一つ受けていません。
清らかな花が咲いています。

「私たちの肉体は正に泥沼と同じものである」と、
信次先生もよくおっしゃいましたね。
「目から目くそ、鼻から鼻くそ、歯から歯くそ、耳から耳くそ、
そして下からは大きな糞或いは小便、膚(はだ)からは汗や垢、
どれ一つとして清らかなものはありません。
譬えてみれば、肉体は、不浄なものを詰め込んだ皮袋であり、
浄なるものは何一つなし」このようにおっしゃったのです。
不浄なものばかり出て来る、その不浄なものを詰め込んだ皮袋のような肉体に、
私たちは捉われるのですね。
顔を綺麗にお化粧して磨いているけれど、中を開けたら不浄なものばかりです。
なるほど、そう考えてみますと、まともなものは出てきませんね。


            ~ 感謝・合掌 ~



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「講演集」より。

2015-04-24 00:26:25 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

         恩師のご著書「講演集」より


            講演集、 三


        人を救う実践は「光」である


先の続き・・・

「自ら光となります」こんな有難い教えはほかにありません。
滝に打たれたり、寒いのに氷を割って水の中に遣ったり、
そんなことは一切しなくていいのです。
自分の行いによって光となります。
或るは神のみ使いとなることができます。
そして、自分がほんとうに神のみ使いとして、
この地上の方々を救わせてもらう為に生まれさせてもらったのだあという自覚も、
自らできあがってきます。

それは、「たださせていただく」という行為の中に分かってくるのです。
だから、私個人の時間は何もありません。
すべては人さまのものです。
また神のものです。
私のすべては神のもの、私のすべては人々のもの、私の時間は神のもの、
私の時間は人々のものです。
神の僕であり、人々の僕として生きる時、自ら光になります。
難しいことは何も要りません。
言葉とか理屈ではないのです。

ほんとうに私たちが光り輝きます。
昨日もここにお見えになった方が、目を開いて私たちを見たら、
私の足だけ見えて、他は何も見えなかったとおっしゃっていましたね。
ただ光だけ、そういうことは絶えずあるのですね。
特に成仏できない霊をその人に入れますとね。
一メートルぐらい間隔をあけまして、
「くそ、誰じゃ。どこにいるのか、どこにいるのか」と言って、
大きな目をむいて一メートルほど離れた私を探し歩いています。
全く見えないのです。

それは、闇の世界から光の世界を見ることができないからです。
嘘のようですけど、大きな目をぐっとむいておりながら、
私を見ることができないのです。
それだけではありません。
今度は自分の周り、環境そのものが光に包まれます。
しかし私だけではなく、私と一緒に行った人全部がその光を見ます。
黄金の光にずっと包まれていきます。
神様はちゃんとそれを証明して下さいます。


              ~ 感謝・合掌 ~



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「講演集」より。

2015-04-23 00:12:49 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

          恩師のご著書「講演集」より


              講演集、 三


         人を救う実践は「光」である


私はもともと、今もそうですが、本当に至らない、皆さんよりも至らない
凡夫ということを良く知っています。
しかし、自分の使命というものを知っています。
それを知るまでは、例えば車に乗るでしょう、一日乗れば一回や二回は必ず
冷や汗をかくようなことがありました。
車を当てられそうになったり、子供が飛び出してきたり、
自転車に乗って突き当たってきたりしました。

しかし、私には、多くの人を救うためにお役に立たなくてはいけない、
苦しい方をお救いしなくてはいけない、という使命があることが分かりましたから、
車に乗る場合でも、車さんにお願いをするのです。
「今日はどこそこまで行かせていただきます。その場所にはこれだけの方が
私を待ってくれています。ですから、その方達の為にお役に立たせてもらいに
行く使命がありますから、あなたもどうぞ頑張って下さい。よろしくお願いします」と、
車にお願いをしましたらね、それ以後は、ヒャーッとすることは
ただの一度もありません。

そして、一車線で混んだらこれはどうにもできませんが、二車線三車線ありますと、
私がハンドルを持たせてもらいましたら、前は全部空きます。
車のない所を走っているのと同じです。
まあ、前が空いているのか、自分が横に寄っているのか知りませんが、とにかく、
前の車が全部なくなるのです。
赤信号に長いことひっかるということはめったにありません。
もう、すうすうと行きます。

また、横から後ろから当たりにきた車が、後ろにひっくり返ったのを何回も見たことがあります。
それは、私が光に包まれているからです。
私自身が光になれる為です。
その自分の使命を果たす為に、私たちが自分の一切の欲望を捨てて、
お役に立たせていただく行動を起こした時は、もうすでに私たちは光です。
皆さんも同じことです。
自ら光になることができます。
その時、一切の魔は近づくことはできません。
闇は光の中に入ることができないのです。
自ら光となった時、一切の災難、災害、災厄は、近づくことができなくなるのですね。
だから、常に光に満たされていることが大切だと思います。


                 ~ 感謝・合掌 ~



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「講演集」より。

2015-04-22 00:16:54 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

            恩師のご著書「講演集」より


                 講演集、 三


         常に「明るい思い」に切り替える訓練


今度は親の失敗で、知らない為に間違った子供の育て方をした場合、
子供さんが苦しみの中に入られます。
親も又、それと同じ苦しみ、それ以上の苦しみを味わわなくてはいけません。
しかし、もし、そのような環境を与えられてしまった場合は、
これをどのように乗りきるかが問題です。
これが大事なのですよ。
「大難、小難」という言葉があります。
「ああ、これぐらいだったら結構だ、もっとひどいお子さんもあるのに、
私の子供はこれぐらいで有難い」と思い、また、少しでも良くなってくれたら、
「ああ、良くなってくれて有難い」と、常に感謝に心を変えることです。

そして、要らぬよけいな心配をしないことです。
よけいな心配をしたら、それは、もう明らかに次のよけいな心配事につながってきます。
だから、「必ずこの子は健康になってくれる、必ずこの子は素晴らしい子になってくれる」と、
常に念じるのです。
明るい想念を常に持ってもらうことです。
プラス志向ですね。
或いは常に光のほうに心を向けるのです。
そして、発想の転換、思い方をパッと切り替える訓練をすることです。

一つのパーンと頬を叩かれたとします。
普通だったら、腹が立つなあと思うのですけど、「ああ、有難い、二ついかれる
ことを思ったら、結構なことだ」と言って、喜びに変えるのです。
或るいは手のひらでパーンと横っ面を叩かれたら、
「ああ、有難いよ。ゲンコでいかれることを思ったら結構だ」と言って、
その思いを無理しても変える訓練をするのです。
そして喜びに変えてしまうのです。
それを常に訓練していきますと、やがて環境もまた明るくなってきます。

では今度は、病気になったり、精神的に苦しんだりした時の、
ご本人の心の在り方ですね。
これは絶対に、神様の御子として必ず治るのだという強い信念を持って下さい。
そして、自分にそういう災いをするものは一切無いのだということを、
強く自分自身に言い聞かせて、自分が神の子らしく、
神様の心をよく理解するように、実践に移していくことです。

神様とは大調和でしょう。
調和とはバランスです。
あのヤジロべエは、いくら細い指先でもちゃんと立ちます。
あれは、両方の重さが同じだから立つのですね。
いくら危険な場所でも立ちます。
自分と相手が調和していくことです。
自分のことばかり考えていてはいけません。


               ~ 感謝・合掌 ~




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「講演集」より。

2015-04-21 00:50:18 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

           恩師のご著書「講演集」より


                講演集、 三


         子供が非行に走らない為の育て方


子供が非行に走らない為の育て方、これは、
ご両親が幼い子を育てる時に、お互いに感謝と喜びを持って育てることです。
お父さんが仕事に行っている時、お母さんは幼い子達に、
「お父さんが一生懸命働いて下さるから、
お母さんもあなた達も安心して幸せに暮らしていけます。
お父さん、ありがとう」と、喜びと感謝を常に心から子供に話して聞かせるのです。
またお父さんも、お母さんが目の前にいない時に、父と子の話題の中に、
「お母さんが朝早く起きて食事の支度や洗濯、お掃除、買い物と、家のことを
一生懸命頑張ってくれているから、お父さんは安心して働きに出られる。
だから、お父さんは、お母さんを大事にしようと思っている。

あなた達もお母さんを大事にしようね」と、喜び、感謝して、「お母さん、ありがとう」と、
子供たちに心から感謝の言葉を注ぎますと、今度は、悪くなってほしい、
ちょっと親に心配かけてほしいと言っても、子供にはできないのです。
非行に走ってほしい、親不孝してほしいと頼んでもできないというのは、
大事にしよう、感謝しようと言って育ててきますと、子供の心は綺麗ですからね。
親不孝はできないのです。
子供のいない所では夫婦喧嘩をして、表面だけで「大事にしような」と言ってはいけません。
これはすぐにばれます。
やはり、心からそうすべきですね。

また、その場にお父さんがおられる前で、お母さんがお父さんを持ち上げたり、
逆にお母さんがそこにおられる時に、お父さんが子供にそういう話をしても通じないのです。
これは、ものすごく不思議ですね。
いくら幼い子供でも、ここにお父さんがいて、お母さんが話すでしょう、すると、
「いやなお母さん。お父さんに上手して・・・」と、心にシャッターを下ろすのです。
その逆の場合も、子供は「いやなお父さん。うまいこと言うて・・・」と、なります。
いない時に言われたら、すっと入るのです。
だから、そのタイミングを上手に、いない時に愛の言葉を注ぎますと、絶対に悪くなりません。
一つ実践して下さい。
素晴らしい子供に育ちます。

誰方も皆、子供が大きくなって非行に走らないか、心配をかけることはないかと、
一生懸命心配するのですけど、いま言ったふうにしておいたら、絶対大安心です。
やがて、自分達が年老いた時に、子供が両親に対して、感謝、孝行をしてくれるようになります。
子供を上手に育てるのは、これは自分の為ですね。
人間は子供を授かりますと、もう親の立場をいただきましたら、
自分達夫婦だけで幸せには絶対になれないのです。
それはなぜかと言いますと、子供の幸せの上に親の幸せが乗せてもらえるからです。
子供が幸せになってこそ、親は「ああ、よかった」と思います。

しかし、もし子供が不幸せになってしまったら、親は絶対に幸せにはなれません。
健康であって、そして親を安心させてくれて、始めて親の幸せがいただけるのですね。
今ここにおられるお子さんのように、幼い時から、いまお話させていただいた要領で、
常に愛の言葉を注ぎかけますと、もう悪くなってほしいと言っても、
絶対に悪くはなりません。

お子さんが幼かったら、間に合います。
すぐに変えて下さい。
自分に幸せを与えていただく大事なお子さんです。
いかにうまく育てるかに問題があるのですね。
親の責任です。
これから親になってくれる若い方は、ぜひこのように実践して下さい。


                ~ 感謝・合掌 ~




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「講演集」より。

2015-04-20 00:12:01 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

         恩師のご著書「講演集」より


             講演集、 三


          難しことよりもまず実践を


先の続き・・・

高橋信次先生はよくおしゃいました。
「お釈迦様はご自分がお説きになった経文を持って旅されましたか。
お釈迦様のお説きになった経文を提げて歩こうと思ったら、
何万巻もの経巻を馬に積んで歩かなくてはいけません。
しかし、そんなものは何一つ持ってはおられません」と。
そのおん身一つをもって、そして至る所で正法神理を説いて下さったのですね。
それが仏法であり、キリスト教です。

もう、難しいことは皆さん十分に勉強なさったと思います。
これからは、日々の生活の中の行い、実践です。
どんな有難いお話を聞かせていただいても、
どんな有難いご本を読ませていただいても、自分が行わなかったら、
何にもなりません。
何の功徳も現れません。

行ってこそ、その結果が現れるのです。
いろいろと不思議な奇跡を頂きます。
昨夜から今日にかけて、ちょっとお願いしましたら、
治らないものがいとも簡単に治ったりします。
すぐ耳が聞こえてきたり、目が急によく見えたり、
あまり簡単だから、これはそんなものかと思うのですね。

しかし、今来ていただいているY先生もおっしゃっていますが、
これは大変なことです。
大変な奇跡が行なわれているのですけど、あまりにも簡単ですから、
その価値が分からないとおっしゃるのですね。
しかし、価値が分かろうが分かるまいが、
要は救われて下さればいいのです。


             ~ 感謝・合掌 ~



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「講演集」より。

2015-04-19 00:17:34 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

            恩師のご著書「講演集」より


                 講演集、 三


            難しことよりもまず実践を


私の所の会場で、先月は二百人ほど集まっていただきました。
ふだんはこういう壇の上にあがるのは嫌いですから、
皆さんと同じ席に坐らせていただいてお話会をしていたのです。
そうしますと、だんだん人数が増えてきまして、
後ろの方から顔が見えないと言われれて演壇を拵えてもらったのですね。
私が「上にあがるのはかなわないですから許して下さい。

どうぞ、下に居させて下さい」と言いますと、「先生、それは愛がない、
思いやりがない。自分だけは低い所にいて、
皆に顔が見えなくても構わないのですか」とおっしゃるのですね。
もう、そう言われると、辛くてしようがないです。
こうして、演壇の前に立たせてもらってお話させていただくようになってしまいました。
しかし、私のほんとうの思いは常に下座にありたい、下にあって皆さんと共に学びたい、
そのように思わせていただいて、ずっと続けてきました。
不思議なご縁で、先生の教えを少しでも忠実に、そして枉げないように伝え、
そして自分が実践するように努めておりますと、
やがて、その教えの輪はどんどん広がっていきます。

高橋信次先生が亡くなられました当時、私の家とその他二、三か所のお話会の
場所を持っていたのです。
しかし、皆さんもご存じですけど、ごちゃごちゃと混乱が起きまして、皆様の
心がちりぢりばらばらになってしまいましたね。
頼る所がなくなってしまいました。
しかし、私の縁生の方には、一切そういうごちゃごちゃはお耳に入れませんでしたから、
今も、先生ご存命中と全く同じ状態で学んでおります。
しかも、皆様はほんとうに安らいでおられます。
喜びに満たされておられます。
それは迷いが無いからですね。

昨日、静岡に寄せていただきまして、昨日のお昼から夜にかけて、
そして今朝から又お話させていただき、この時間になっているのですけど、
「もう、あまり喋り過ぎまして、話のネタがないようになりました。
どうしましょう」と、向こうで相談していたのですけど、これ又、不思議なもので、
神様は次から次へと話のネタを作って下さるのですね。
私は、難しいことはよう喋りません。

誰方が聞いて下さっても分かる、私の話はお子さんもお年寄りも皆分かると思います。
それは、誰もが理解して誰もが行えなくては、法ではないのです。
聞いても分からないような、別の先生が来て翻訳しなくては分からないような
難しいものでしたら、学んでも何にもなりません。
大変な時間がかかります。

そもそも、今から二千年或いは二千五百年昔の方が、
そんな難しい言葉を聞いて分かるはずがないのです。
お釈迦様もイエス様も、その当時の無学文盲の、
今よりも教育程度の低い時代の方々が聞いても、
「ははん、なるほどその通りだ、その通り生きなくてはいけない」と、
皆が納得するようなやさしいお話をされたのです。
それが仏教であり、キリスト教ですね。


                ~ 感謝・合掌 ~




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「講演集」より。

2015-04-18 00:39:14 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

           恩師のご著書「講演集」より


               講演集、 三


          高橋信次先生の教えに導かれて


先の続き・・・

ああ、そういえば、ほんとうにそうだなあ。
私は自分でお話させてもらう時、家族にでも、或いは親しい者にでも、
「ああやれ、こうやれ」と言うのですけど、相手の人が理解していないのです。
ということは、言葉が足りないのですね。
その為に相手が理解できないから、相手の方が私の言うことを聞いてくれない。
そこで私が、「これほど言ったのに、言うことを聞かない」と、腹を立てていたのです。
その時、「ああ、なるほどその通りでございます」と、心で納得しますと、
その中国の守護霊様が教えてくれます。

「この口から出る言葉、人々を無上の喜びへ導けます。
同じ口から出る言葉、人々に死より辛い思い、与えます。
あなた、口を開けば、
人々に安らぎを与えなさい。
希望を与えなさい。
喜びを与えなさい。
それ以外の言葉使うこと、ダメアルネ」と言って、おこられたのです。
ほんとうにその通りでございます。

私は、今まで言葉によって人を殺すようなことを何回もいたしました。
ところが、同じ口から出る言葉で、相手の方を無上の喜び、つまりこれ以上の
喜びはないという心の世界に導くこともできることを知りました。
「これは精進させてもらわなくてはいけない、言葉というものは恐ろしいものだ」ということを、
教えてもらいました。
そして至らないながら、ぼちぼちと高橋信次先生の最も身近な弟子になることと、
先生が説いて下さった「法」を絶対に枉げてはならないということを誓いました。

信次先生から頂いたこの喜びを、私の命ある限り人の心の中に、
「こんな素晴らしい先生でした。こんな喜びを与えていただきました」と伝えることに、
私の終生をかけようと誓いました。
しかし、まあ未熟者でございますから、いまだにこの体でございます。
私の所のお話会では、高橋信次先生の「心行」を朗読させていただいております。
これは素晴らしい言霊です。

今まで、この「心行」を読ませていただくことによって、ほんとうに不思議な
救いを人々に与えていただきました。
皆さんも家庭で、或いは苦しむ方のために、この「心行」を読んで聞かせてあげられますと、
心が安らかになっていただけます。
―――「心行」の朗読―――
ありがとうございました。
「心行」は、私の、また皆様も同じだと思いますが、心の羅針盤であり、
そして私の心の支えでございます。


              ~ 感謝・合掌 ~




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「講演集」より。

2015-04-17 00:31:33 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

           恩師のご著書「講演集」より


                講演集、 三


          高橋信次先生の教えに導かれて


先の続き・・・

先生がこの世にいて下さった時は、そのうちに、そのうちに、
自分の心を磨かせてもらってから、先生に会わせてもらおう、
自分の心が少しましになった時に、先生に会わせてもらおうと、
そのように思っておりました。
「そのうち、そのうち」という間に、先生が亡くなってしまわれたのですね。
その自分の怠慢さ、自分の至らなさを棚に上げて、
わんわん泣き叫んだものです。

そのことに気付かせてもらって、
その後、先生がご講演の中でよく聞かせて下さいました言葉、
「私の身近にあっても、私から遠く離れた弟子がいる。
まだ巡り合うことがなくとも、私の最も身近な弟子もいてくれる。
それは、私の説いた教えを行ってくれる方である。
私の説いた教えを実践してくれる人が私の最も身近な弟子である」という、
この言葉が蘇ってきました。
先生はおられなくとも、その教えを自分の身をもって実践した時、
自分が一番身近な弟子にしてもらえる。

私は何とかして先生の一番身近な弟子にしてほしい、
そうさせていただこうと、覚悟を決めましが、
未熟なただの凡夫ですから、日々、努力するしかなかったのです。
もう、夜はどんな晩でもテープを聞かせていただきました。
又、ご本を読ませていただきますと、
あの「心の発見――神理篇――」などは、
何ページに何が書いてあるということが全部頭に入るほど、
何回も読ませてもらいました。
そして、今度は行こないですね。
その行いも、私たちの頭では難しいことはできません。

まず、自分が便所を使わせてもらったら、
そのあと必ずトイレのスリッパをちゃんと揃えよう、
そういうことから実践に入りました。
そうしますと、家の中で「スリッパを揃えなさい」と言わなくても、
自然と一か月もしないうちに、ちゃんと揃うようになります。
それから言葉です。

今までは、言葉に偉大な力が秘められているいうことを知らなかったのですね。
これは、或る霊的な問題のなるのですけど、守護霊さんが教えてくれました。
当初、自分の持っている最も悪い癖、欠点は何かということの追求に入ったのです。
そうしますと、私の持っている最も悪い癖、欠点は腹を立てることと愚痴っぽいことでした。
これがいろいろな欠点の原因になっていることを突き止めまして、これを
直すのにどうしたどうしたらよろしいかと、一生懸命守護霊様にお尋ねしました。
そうしますと、中国の当時の守護霊様が教えてくれました。

中国語で守護霊様の口から出てきますが、
これが私によく分からないのですね。
パラペラ話すのが中国語というのは分かるのです。
おかしなことがあるものだなあと思って聞いていますと、
片言の日本語で、「あなたは話、たいへん下手あるね」と言うのです。

私は、腹を立てることや愚痴っぽい欠点を直す方法を聞いているのに、
「話、たいへん下手ある」と言われましたから、
これはおかしいな、これは守護霊さんとは違うのかなと思っておったのです。
そうしますと、「あなた、話、たいへん下手。そのため相手の方、
あなたの言葉、理解すること、できない。
理解できないために、あなたの言うこと、聞かない。
そこであなた、腹立てる」とこうおっしゃたのです。


                ~ 感謝・合掌 ~




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「講演集」より。

2015-04-16 00:06:22 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

          恩師のご著書「講演集」より


              講演集、 三


        高橋信次先生の教えに導かれて


皆様こんにちは。
こうして今日初めてこの清水の地にご縁を頂きまして、
これも全く奇しきご縁でございます。
只今司会をしていただきましたMさんから、突然私の所に電話を頂きまして、
もちろん、私を直接ご存じない方ですが、
電話の向こうで泣いて泣いて話していただくのですね。
同じ正法神理を学ぶ心の友が苦しんでおられるご様子です。
これでは何もなりません。
では、その苦しみを電話を通して癒させてもらいましょうと、
お祈りさせていただきますと、
その場でその苦しみが吹っ飛んでしまったそうです。

正しい法、お釈迦様がお説きになりました法の力とは、
「覆われたるものを、払いのけたるが如し」
「倒れたるもの、起こすが如し」「暗闇の部屋に、松明をかざすが如し」、
法の力は即、現れるものであるとお説き下さいました通り、
正にご利益が現れるのですね。
ご利益とは、信仰ではございません。

高橋信次先生の「心行」は皆様もご存じかと思います。
今年はもう先生の十三回忌をお勤めになったと思うのです。
昭和五十一年六月に、ほんとうに心からお慕いさせていただいておりました
高橋信次先生が、突然この世をお去りになりました。
その時、未熟な私は一体どうしたらいいのだろうか、
心の支えとしてお慕い申し上げていた先生が、突如としてこの世を去られて、
これから先どうしたらいいかと、気が狂ったように、三日ほど泣き叫びました。

泣いて泣いて、泣きあかした末に、先生はテープの中に、またご著書の中に、
その教えの総てを説いて下さったいることに思い至りました。
又、お弟子である偉い先生の所へ、意識で信次先生からの通信があったと聞きました。
お釈迦様が涅槃にお入りになります時、だんだんと肉体が衰えていかれます。
その時、お釈迦様の側でずっとお世話をなさった阿難尊者という方が、
「仏陀、私たちを残してなぜあの世にお帰りになるのですか。
私たち未熟な者を残して仏陀があの世へお帰りになった後、
私たちはどのようにしたらよいのですか」と泣いて、お釈迦様に取りすがったそうです。

その時、お釈迦様は「阿難よ、何を嘆くか、この老いた身を見て何を嘆くか。
私の身体は、すでに革紐の力を借りなくては動くことのできないあの車輪の
ようなものである。
このような肉体はやがて朽ち果てるものである。
そなた達は私の説いた法に帰依しなさい。法を拠り所としなさい。
そして、自らを拠り所としなさい。
他を頼ることなく、日々に精進せよ」とお説きになりました。

信次先生も最後の通信の時、意識でそのような通信を送ってこられたそうですね。
先生はご著書に或いはテープに、その教えを説いて下さっています。
お釈迦様の当時はテープもございません。
経文さえ無かったのです。
お釈迦様に説法していただいた教えを口伝えに伝えたものですから、
そのことを思えば、私たちは学ぼうと思えば、
先生のテープはいつでも聞かせてもらえますし、
ご著書も本屋さんに行けばいつでも求めることができます。
その教えを拠り所として、そして自分自身を拠り所として、
他に頼ることなく生きたら、何も迷うことはなかったはずです。


            ~ 感謝・合掌 ~



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