浄心庵・長尾弘先生「垂訓」

八正道と作善止悪

「御垂訓」

2019-10-30 23:27:56 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師の「心行の解説」下巻より ~


                   講演 七

「肉体先祖に報恩供養の心を忘れず」

先の続き・・・

悪魔といえば、口が裂け、角が生えた恐い奴だと思いますが、
実は私たちの自己保存、自我我欲こそが、
私たちを苦しみの中へ誘い込もうとするのであり、
これが悪魔の正体です。

私たちは常に自分の心を神の心に合わせて生活し、
満ち足りた心の一瞬一瞬を過ごすよう努めねばなりません。
このことが、先祖供養に繋がります。
感謝と安らぎと調和に満たされた心境になれた時、
ご先祖様に話かけて下さい。

「ご先祖様、お陰様で私は人にこんなに喜んでもらっています。
とても幸せでございます。
もし暗い世界におられるご先祖様がございましたら、
私のように幸せでしたでしょうか」と尋ねてみて下さい。
そうしますと、「幸せではなかった、あなたのようには生きなかった」と、
おっしゃいます。

これは具体的に生きる姿を見せるのですから、
すぐ気付いてくださいます。
私のように幸せでしたかと言われたら、幸せだったとは言えないですね。
これとは逆に、毎日の生活で喧嘩をして腹を立てていて、
お仏壇の前だけで「ご先祖様・・・」と言いますと、
「お前は何をぬかすか」と言って、
お灸を据えられます。

ご仏壇にはどれほどのものを供えても、
ご先祖様に食べていただくことはできませんし、
どれほどお経を唱えても、お経の意味を理解されることはありません。
お経の意味が理解できるような方は迷っておられません。

理解できないから迷っておられるのです。
理解できない方にお経を百万遍あげても成仏はできないのです。
戒名も同じことです。
お坊様がおられましたら商売の邪魔をしてご免なさい。
戒名、院号をつけると、お寺にとっては何百万円の収入になります。

「大院殿居士」をつけると三百万円から入るのですね。
何々院だけでも何十万円です。
あんなものはいくらつけても、
これはあとに残った者がいい格好をするだけのことで、
儲けはお寺さんのものです。

「いくら上等の戒名をつけても何の意味もないと」と、
あの世から出てきた方がおっしゃっています。
戒名というのは、
それを商売にするお寺さんが生活するためにできた制度です。
元来はお釈迦様の当時、
生きている時にお釈迦様の弟子になるために反省を重ねて、
過去の自分を捨てる意味において、名前をかえてつけたのが戒名です。


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「御垂訓」

2019-10-29 23:06:25 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

添付のお写真は恩師「長尾弘」先生が色紙を書かれているところです。
多くの方が恩師の色紙を要望されますので、いつも沢山の色紙を書かれますが、
いつも最後の色紙には「忘己利他」と四文字熟語を書かれます。
この四文字熟語は「もうこりた」と読み、その意味は己を忘れて他の利益のために
尽くすと言うことだそうです。沢山書かれますから、腕が疲れて「もう懲りた」との
意味の掛け合いもしています。
「忘己他利」は天台宗の教祖最澄さんのお言葉と聞いております。
己を忘れて他を利するは慈悲の極みなり。


~ 恩師の「心行の解説」下巻より ~


                   講演 七

「肉体先祖に報恩供養の心を忘れず」

先の続き・・・

「悪魔物語」の中に、このように書かれています。
ある時、お釈迦様が托鉢に出られました。
鉢を持って、
一軒一軒回ってその日頂く食事を鉢にいれてもらうのです。

これは、
日本の私たちが知っている乞食(こじき)さんとはちょっと違います。
同じ「乞食(こつじき)」といっても、人の家の表に立たれて、
「私の行いに価値ありと認めたならば、
余食を鉢に投じたまえ」と言って家々を回るのです。
余食を受けるのが礼儀作法ですね。

ある時、托鉢に回られたのですが、町は祭りでごった返しおり、
誰一人、お釈迦様の鉢に食べ物を入れてくれなかったのです。
ただ鉢を持って貰い歩くのだから、楽なことだと思いますが、
これはまことの真剣勝負の一つです。
価値あると認めてもらわなくては、
鉢に食べ物は入れてもらえないのです。
日本の乞食さんというのは、家の表に立って「恵んで下さい」といって、
食べ物をもらっていたのですが、あれとは意味が違います。

お釈迦様が一日足を棒にして回っても一粒の米さえもらえず、
空っぽの鉢を持って精舎に帰ってこられた時、
悪魔がささやきかけてきたのです。
「今一度町に行ってみよ。私がその鉢に食べ物を山と盛ってあげよう」。
すると、お釈迦様はこのようにおっしゃいました。

「私は食だけによって生きているのではない。
私は喜びを食として生きよう」と。
その時悪魔は、「仏陀は私を見通した」と言った、
と書かれています。

この悪魔とは何かというと、いかに偉大なお釈迦様でも、
一日中町を歩いて一粒のお米ももらえなかった時は
「腹がへるなあ、困ったなあ」と思います。
この心が悪魔ですが、しかしそう思いになって当然です。

そして、「今なら祭りも終わっているから、もう一度家を回ったら、
食べ物を入れてくれるかも知れないなあ」という悪魔のささやきが
お釈迦様の心の中に湧いてきたのですね。

その時、お釈迦様は、「今日は命がけの托鉢をしたが何もなかった、
私はするだけのことができて満足である。
私はその喜びのほうを取ろう」と思われて、
自分の精舎へお帰りなったのです。
誘いにくる悪魔とは、自分の肉体の持っている自己保存の欲望です。


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「御垂訓」

2019-10-28 23:12:20 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

添付のお写真は舞台上で多くの方が恩師「長尾弘」先生の癒しを
受けているところですが、ご覧のように恩師も癒されている方たちも
神の光に包まれています。
これで悪いところが癒されない筈がないですよね。


~ 恩師の「心行の解説」下巻より ~


                    講演 七

「肉体先祖に報恩供養の心を忘れず」

先の続き・・・

有難いことは、まず私たちが救われることです。
私という存在は、何十億というご先祖様の癖、欠点、
業を背負っており、
それらが集まったのが自分の姿ですから、
沢山の悪い癖、欠点を持っているはずです。

無限のご先祖様の寄り集まった塊が自分であるならば、
自分自身が救われ、成仏した時に、
無限のご先祖様の業が解けるのです。
成仏は、生きながらにできます。
成仏は死んでするものとは違います。

自分という存在が、ご先祖様の無限のもろもろの
業の集まりであるならば、その集まったものが解ければ、
ご先祖様が救われるわけですから、私たちは
自分が救われるということがいかに大事であるかを
知らなければなりません。

救われるということは、苦しみがないということです。
自分の心の苦しみとは、何回も言いますように、
怒り、謗り、愚痴、貪欲、
取り越し苦労、それらが苦しみの材料です。

そして、悟りといえば大変難しいようですが、
お釈迦様は「人の心から、怒り、愚痴、貪欲が壊滅した時、
その心の状態をニルバーナーという」と言われました。
ニルバーナーとは、中国に伝わって「涅槃」と訳されましたが、
その涅槃が悟りの心境です。

そこで問題なのは、悟りの心境をいかに
持続していくかということです。
悟ったもう怒りも愚痴も貪欲も出ない、
と思ったらとんでもない間違いで、
お釈迦様もイエス様も生きている限り、
その思いは湧いてきたのです。

その湧いてきた思いをいかに早く捨てられたかが
問題であってそれによってすばらしいのです。
そのことは聖書の中にも、仏典の中にも書き残されています。


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「御垂訓」

2019-10-27 23:40:40 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師の「心行の解説」下巻より ~


                   講演 七

「肉体先祖に報恩供養の心を忘れず」

先の続き・・・

たださせていただき、その相手がどなたであったか、
どういうことをさせていただいたのかも、
自分の心から即、捨ててしまいますと自分の心には、
「ああ良かったなあ」という喜びだけが残ります。

喜びは最初のうちは残りますが、これも慣れてきます。
こういう私たちの日々の喜びが、先祖供養につながるのです。
ご先祖様への供養とは、喜んでいただくことです。
ご先祖様にできなかった善き行為を、
子孫の私たちが行うことによって、
「ああ素晴らしい子孫を与えていただいて、
私ができなかったことをしてくれる。なんと有難いなあ」と
ご先祖様に喜んでいただくことができます。

先祖供養で間違ってならないことは、巷の宗教で言うように、
何代前の何兵衛さんが出てきたとか、その人の供養が済んだら、
そのもう一つ前の熊やんが出てきたとかいうので、
熊やんの供養を一生懸命したけれども良くならない、

それでその前の八兵衛さんが出てきたと、
次から次に言って眠っている先祖様を起こすことです。
これでは死ぬまでやっても、終わることはありません。

私たちのご先祖様の数は、わずか三十代遡りましただけで、
何十億という膨大な数になるのです。
もう無限に多いのですから、
そのお一人お一人を掘り起こしていたら私たちが生きている間に
終わることはありません。



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「御垂訓」

2019-10-26 23:25:38 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

添付のお写真はご講演中の恩師「長尾弘」先生です。
この時、恩師のお顔、み手、着衣、垂れ幕の字句等が
ご覧のように黄金色に変わりました。
その時の様子を学びの友の方がカメラに収められたものです。


~ 恩師の「心行の解説」下巻より ~


                    講演 七

「肉体先祖に報恩供養の心を忘れず」

先の続き・・・

お一人お一人が、たださせていただくようになった時、
この地上界は理想の都です。
この時大事なことは、どなたにさせていただいたか、
何をさせていただいたかを即、心から捨ててしまうことです。

なぜ、そうしなければいけないかというと、
すぐ捨ててしまえば相手に負担がかからないからです。
負担がかからないから、相手の方も素直に喜んでくれるのです。

どれほど良いことをしても、
「私はあの人にこんなことをしてあげた」と言いますと、
相手も恩着せがましく迷惑な思いがして「そんなに言うのなら、
してくれなければいいのに」と、いうことになります。
これではいくら良いことをしても何にもなりません。
善き行いが、悪しき行いに代わってしまいます。



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「御垂訓」

2019-10-25 23:37:12 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師の「心行の解説」下巻より ~


                  講演 七

「肉体先祖に報恩供養の心を忘れず」

先の続き・・・

「たださせていただくのだったら、
俺の電車賃を出せ」と言う人があります。
私は皆さんの電車賃を出すほど大金持ちではないのです。

私は貰っていないから、
電車賃を出せと言われてもどうすることもできません。
ほんとうに人の心はそれぞれで、
意味をどう受け取るかも人それぞれですが、
人はどのように言っても構いません。

「ただただと言うのだったら、電車賃を出せ」と言う人は、
神の御心を知らないのです。
神はただ与え給うのみ、私も、たださせていただくのみです。
それに対して、もし意義があるならば、神様に文句を言って下さい。
神様に電車賃を出せと言ってみなさい。
神様は「ばかなことを」と言われます。

私に対して、もし背くような批判、中傷をしますと、
それは神様に対してしているのと同じことになります。
なぜかというと、私は神様の御心を行っているからです。
その行いに対して、その言葉・神理に対して屁理屈をこねますと、
それは神様の悪口を言っているのと同じことになります。
世の中にはそういう屁理屈を言うお方もおられるのです。


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「御垂訓」

2019-10-24 23:41:23 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

添付のお写真は恩師「長尾弘」先生が中国の黄山を登山された時に
カメラに撮られたものですが、ご覧のように恩師の左胸のあたりに
十字の光が見えます。

また、この黄山では雨雲のために景色が殆ど見えなくて、
恩師が手にしておられた登山用の木の杖を
天に高く上げられ”開け!”と叫ばれたら一瞬にして
その雨雲が払われて、山水画に出てくるような、
あるいはそれ以上のとても綺麗な自然(神)が作り出した
山水画の景色を見ることができたそうです。

この光景を見られた同行者の方の言われることには
あたかも天狗が大きな団扇で雨雲をバーッと払ったように
見えたそうです。

恩師が後日の講演会でそのようにお話しされておられました。


~ 恩師の「心行の解説」下巻より ~


                   講演 七

「肉体先祖に報恩供養の心を忘れず」

先の続き・・・

若い時から、遊びを知りません。
人様に少しでも喜んでいただくように生きたいと、
これは若い時からの私の理想でございまして、
二十歳ぐらいの時から人様のお役に立たせてもらい、
少しでも喜んでいただけるような行いをしようと思って生きてきました。

それがいつの間にか、
このように望むことなしに与えられているのですね。
私から、どこそこへお話に行きたいとか、
或いは人様の前でこのようにお話をしたいとかは、
爪の先ほども思ったことはありませんが、必要とあれば縁ができます。
ご縁ができますと、招いていただきます。

これは、「神様が私をその場所に呼んでいただいているのだから、
何を置いても寄せていただかなければいけない」と思います。
もちろん、私には求める心は何一つありません。
電車賃がほしい、
私の日当を出してほしいなどとは爪の垢ほども思ったことはありません。
たださせていただきたいという思いだけです。
言葉の唯と無料の只を間違う人がよくあります。





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「御垂訓」

2019-10-23 22:57:15 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

添付のお写真は日展(日本書道展)にて最優秀奨励賞を授与されたご自身
(雅号は弘斎)の作品「明来闇去」と共に浄心庵「心の道場」での
恩師「長尾弘」先生です。

~ 恩師の「心行の解説」下巻より ~


                  講演 七
「肉体先祖に報恩供養の心を忘れず」

先の続き・・・

「自分を愛しなさい」と言いますと、
「では、仕事をしないで寝ていよう」と言う人がありますが、
これは、自分を傷めているのであり、悪魔を愛していることです。

インドの言葉で、悪魔のことをマーラーといいます。
日本に伝わりまして、男性のシンボルをマラといいます。
悪魔に注意しなさい、特に男性は大きなマーラーを持っていますから、
その悪魔に翻弄されるといろいろ問題が起きるということです。
肉体のことをマーラーといい、己の肉体の中にひそんでいる悪魔、
これが私たちを誘惑してきます。

例えば何かしんどいことをしなくてはいけない時に、
「止めておけ、そんなしんどいことをして何になるのか」と、
誘いかけます。
私はいつも悪魔にねらわれています。

「お前は阿保と違うか、
こんな暑い時に日本国中歩き回って何をしているのか、
それよりもっとゆっくりして、
少し楽にしたらどうか」といって誘ってきます。
特に「ああしんどいなあ」と思う時は余計に誘いかけてきます。
隙をねらっているのですね。

その時、「いやいや、私はそれどころではないのだ、
私がゆっくり遊ぶことをせず、或る場所へ行けば、
何十人、何百人の人が救われてくれるのだ。
私のようなものが行くのを多くの方が待って下さっている、
楽をするよりも、こちらのほうが大事だ」と思って、
遊ぶほうをふり切るのですね。
ですからおよそ遊びということをしません。



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「御垂訓」

2019-10-22 23:33:19 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師の「心行の解説」下巻より ~


                   講演 七

「肉体先祖に報恩供養の心を忘れず」

先の続き・・・

しかし、私たちは、
自分の身に都合の悪いことがふりかかってきますと、
心の曇りの中から悪魔が首を出してきます。

悪魔のままに実践しますと、
それは自分の魂を悪魔に売り渡したことになります。
「ああこれはいけない、
私はまだこんなに未熟な人間である」と思って悪魔を追い払った時、
正常を保つことができます。

イエス様は「サタンよ去れ」と、おっしゃったのですね。
サタンとは、心の中の悪魔です。
私たちは油断をしますと、肉体のサタンがどこかに隙はないか、
隙があれば襲ってやろうとねらっていますから、
サタンにやられてしまいます。

サタンの正体は、自己保存と自我我欲です。
これは私たちの肉体の悪魔で、キリスト教では原罪といい、
「人は罪の子である」と教えています。
しかし、人の内なる意識は神の子です。

肉体が持っている意識が罪の子であり、この肉体の罪は、
無理はないのです。
自己保存、自我我欲から離れては生きていくことはできないように作られて
いるからです。
自己保存しなければ破滅から、保存するように作られています。
ただ思いに心が翻弄されてしまいますと、
罪の子として生きることになります。



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「御垂訓」

2019-10-21 23:12:33 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

添付のお写真は恩師のご講演中のものを学びの友の方が
カメラに収めたものですが、御覧のように恩師が
幽体離脱(肉体離脱)をされています。

被写体全部が移動していますと、
カメラのブレと思われる方もおありかと
思いますが、御覧のように恩師の前の
演台は少しもブレていません。

このお写真について、恩師ご自身が後のご講演で
幽体離脱であることを説明されておられました。


~ 恩師の「心行の解説」下巻より ~

                    講演 七

「肉体先祖に報恩供養の心を忘れず」

先の続き・・・

神様の御心を表すにはどうしたらいいか、
それは今日まで何回もお話し、
テープでも聞いていただいていますように、
「神様を知りたければ、あの太陽を見なさい」、お日様のお姿こそ、
ほんとうの神様と思えばいいのですね。

そして、ほんとうの神様を知った時、
私たちはその真似をしたらいいのです。
お日様のように自分を犠牲にして自分を燃え上がらせたらいいのです。
つまり、自分の肉体を使って、人様のために働かせてもらうのです。

「ああしたい、こうしたい」という時間をちょっと横に置いて、
人様の喜びのために肉体を動かす、これでいいのです。
そして「あの人は好き、この人は嫌い」と言わないで、
どの人も皆好きになることです。

嫌な人一人を一人作りますと、一つ、二人嫌な人を作りますと、
二つ苦しいのです。
世の中の人が皆好きになれば、神様の御心を行うことになります。 

また、自分にとって都合の悪いことをされた時、
「よくもやったな」と腹を立てて、
一つの不都合に対して三つお返しをしてやろうか思うのが
私たちですが、これは絶対にしてはなりません。

お日様がなさらないこと、つまり神様がなさらないことを、
私たちは決してしてはならないのです。
人が自分の悪口陰口を言ってくれても、
自分の持っているものを盗んだとしても、これを許させてもらい、
責め裁かないことですね。

イエス様は、「自分が裁かれないために、人を裁いてはならない」と、
おっしゃっています。
お日様が裁くことをいっさいなさらないのですから、
私たちも裁いてはなりません。
また責めてはならないのです。

といいましても、肉体を持っていますと、
都合の悪い時にはむくむくと怒りが起きてきますが
この思いを早く捨て去ることです。
そういう思いが起きて、「これはいけない」と思えば、早く捨てて、
正常な心に切り換えることです。


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「御垂訓」

2019-10-19 23:47:26 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師の「心行の解説」下巻より ~


                   講演 七

「肉体先祖に報恩供養の心を忘れず」

先の続き・・・

人間の習性といいますか、慣れるということは恐ろしいことです。
かつて、昭和五十四年~五十六年頃は、
迷える方が今生きている方の中に入って救いを求めてこられますと、
その都度天上界へ送らせていただきました。

最初の間は、私の側におられる方も珍しいから、
テープを持ってきて用意をしてくれていました。
「なんと有難いことだなあ、見えない世界の方が即、救われるとは、
有難いことだ」と最初は感激されて、涙を流して見ていた方が、
二年、三年と経ちますと、私が一生懸命霊の方に諭していても、
ワイワイそちらで喋っているのですね。

見えない世界の方に話かけている時は、見える世界の方もいっしょに、
自分に言われていると思って聞けば救われるのです。
見える方にそのように厳しいことを言いましたら、
「あいつは生意気だ」と言ってきます。
見えない方にこそ、
ほんとうに私の権限をもって法を伝えることができます。
見えない世界からは怒ってきませんが、
見える世界の方はすぐ怒ります。

こうして話をさせていただく時と、
見えない世界の方にお話させていただく時とは、
私は全く変わっているはずです。

光の天使は、「慈悲と愛の塊にして、あの世この世の諸霊を導かん」
「神より、この地上界の権限を委ねられしもの」と、
「心行」に書いてあります。

すべての権限とは、財政界のトップに立ったりすることとは違って、
心の世界における光の天使の権限をさしています。
私たちは心の在り方によって、
どなた様でも光の天使になることができます。

もともとお一人お一人は全部、
光の天使としてこの地上におりてこられたのですから、
それに目覚めることです。
愛を実践し、神様の御心を行った方は全部、
光の天使になることができるのです。
そして、地上のすべての人が、
自分の行いによって神様の御心を示した時、
この地上は仏国土、ユートピアの神の国が現れるはずです。


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「御垂訓」

2019-10-18 23:06:42 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

添付のお写真は恩師「長尾弘」先生の御講演中を学びの友の方が
カメラに収めたものですが、お写真を現像されますと
ご覧のように光だけの映像となっていました。

後のご講演会で恩師ご自身がこのお写真を示しながら
仰っておられましたが、これは私の涅槃像ですね、
持っていると、きっと良いことがありますよ、と・・・

恩師のご著書「心理を求める愚か者の独り言」の挿絵と
しても紹介されています。


~ 恩師の「心行の解説」下巻より ~


                   講演 七

「肉体先祖に報恩供養の心を忘れず」

先の続き・・・

「私たちは心の教えを知らないために、
自分の心を苦しめてきました。
腹を立てましたし、人も恨みました。
どうぞ許して下さい。

あんな憎い人はないと思って憎しみを持ったこともあります。
どうぞ許して下さい」と、一つ一つ反省、懺悔、
悔い改めをしていきますと、諸霊の皆さんは今、
自らの反省に入っておられます。
どうぞ神の光をお与え下さい。
反省を正しく導いてあげて下さい」と言えばいいのです。

私たちは、このように人間として生まれさせていただきますと、
必ず過ちを犯します。
それは、過ちを犯すように肉体を与えていただいているのですから、
過ちを犯していない人はこの世に一人もおられないのです。

見えない世界の方にお話させていただきますが、
肉体を持っている者も、すでにこの世を去った方も全く同じことです。
見えない世界の霊の方に私は話しかけますが、
これはこの世を去った霊だけでなく、
その場にいる者もいっしょに聞かなくてはいけないのです。
聞こえているのですから、その子孫の方も「私もそうであった、
私にも過ちがあった」と、目覚めることです。



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「御垂訓」

2019-10-18 01:51:45 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師の「心行の解説」下巻より ~


                   講演 七

「肉体先祖に報恩供養の心を忘れず」

先の続き・・・

「まず執着を離して下さい。
仏壇と極楽とは違う場所です」ということをお伝えするのです。

極楽へ行かないと成仏できませんから、
仏壇にいてはいけないことをお伝えしまして、
次に、行く先が分かりましても、
心に荷物をたくさん背負っておりますと重くて上がれませんから、
心の荷物をおろす方法をお伝えしたらいいのですね。

心の荷物は、何によって荷物になっているのかをお話させてもらいます。
「心の荷物は、腹を立てること、怒り、妬み、謗り、愚痴、恨み、憎しみ、
不安、恐怖、取り越し苦労です。
また過去の苦しみを離さないでいること、
貪欲、嘘、これらが心の荷物になっています。
  
この世に生活した時をよく振り返って、自分の過ちに気付けば、
心素直にしてその一つ一つをまことの神にお詫びしなさい。
その時、皆様の心は安らぎます。

そして、あの天上の光の世界に救われることができます」といって、
反省させてあげたらいいのです。
見えない世界の方に、自分の人生を振り返って反省していただくのです。



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「御垂訓」

2019-10-17 00:41:34 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

お写真は宮崎講演会の時に現れた不思議現象です。
御覧のように「長尾弘先生御講演会」と
書かれた後ろの垂れ幕、舞台全体、
恩師「長尾弘」先生ご自身が白い光に
包まれています。


 ~ 恩師の「心行の解説」下巻より ~


                    講演 七

「肉体先祖に報恩供養の心を忘れず」

先の続き・・・

仏飯をお供えして、
「ご先祖様どうぞお召し上がって下さい」と言ってはいけません。
ご先祖様には感謝と喜びをお供えするのです。

ご先祖様にはどうぞと言ってお供えしますと
「ここにおったら供え物をしてくれるから安心だなあ。
朝晩供えてくれるし、お経もあげてくれる、
この仏壇の中におれば、
子孫は私たちのことをよくしてくれるから安心だ。
他へ行く必要はない」といって、
極楽へ行くことを忘れてしまうのです。

そして仏壇の中へ居ついてしまわれますから仏壇は
古くなると黒くなってきます。
「私の家は一生懸命お勤めをするから、ローソクの煤と、
線香の煙とで真っ黒になっています」と、自慢をなさっていますが、
それは、拝めば拝むほど執着を残させることになるのです。

私がお参りさせていただきますと、
「先生、ローソクとお線香を焚かなくとも
いいのですか」、言われますから、
「そんなものは関係ありません。立てたければ立てて下さい。
しかし、そういうものは要らないのです」と言って、
ご先祖の諸霊にお話させてもらうのです。

ご先祖様が成仏される前の暗いお仏壇と、
成仏されたあとの輝いたお仏壇の写真が
そちらに幾組か置いてありますが、
ほんとうにたちまちにして光ってくるのです。

これは仏壇の中におられた方の霊を天上の世界へ
送らせていただいたら、
お仏壇の中が光ってくるようにできているのです。

毎月、祥月命日にお寺さんに参っていただいて、
それがだんだん暗くなってくるのはおかしいことです。
成仏されたあとは、いくら黒くなっておりましても、
古いお仏壇は古いなりに燦然と輝いてきます。



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「御垂訓」

2019-10-15 23:27:20 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師の「心行の解説」下巻より ~


                   講演 七

「肉体先祖に報恩供養の心を忘れず」

私たちの肉体が在らせていただきますのは、
ご先祖様があってこそで、
ご先祖様がなかったら私たちの存在はありえないはずですね。

自分の存在は、
ご先祖様のお陰であるということを忘れてはなりません。
ご先祖様を放ったらかしている方がよくあります。
仏壇は締めきって、お供物をしたこともなく、
正しい教えを知らなければ、仏壇はあっても、
その中に成仏できないお方が入っておられるということも
分からないでいます。

しかし正しい教えに触れますと、
未成仏霊が間違いなしにおられるということが分かります。
お墓も同じことですね。
お墓の中にも、私たちの肉の目で見ることができませんが、
間違いなく天上の世界へ帰ることができないご先祖がおられるのです。

なぜこういうことがはっきり言えるかというと、
お仏壇に私がお参りさせていただきますと、阿弥陀様のお姿も、
書いてある文字も読めないほど暗いお仏壇がありますが、
その中に執着しておられるご先祖様に
お話させてもらって成仏していただきますと、
お仏壇がたちまちにして光ってくるのです。

「何々家先祖代々の諸霊の皆様、
このような仏壇の中におられますと、成仏ができません。
私たちは極楽に帰ってこそほんとうの成仏ができるのです。
この仏壇の中は極楽の世界とは違いますから、
この中におられては成仏できません。

この仏壇から思いを離して下さい。
仏壇の中や家の中、お墓の中、愛しいお方に心を残しますと、
必ずその場所に
自分の心が残り、これは執着となって縛られます」と言って、
お話させてもらうのです。



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