浄心庵・長尾弘先生「垂訓」

八正道と作善止悪

「講演集」より。

2014-09-30 00:40:34 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

         恩師のご著書「講演集」より


             講演集、 一


         「無我の体得」とは


人間として持っている三大欲望から完全に遠く離れた時に、
高い境地が得られます。
よく山奥に入って修業して無我の境地を求めたり、
禅宗のお坊さんが坐禅三昧に入って無我を求めます。
ところが無我というのは坐って習得するものとは違います。
自分の自我を滅した日々の生活こそが大切です。
「私が、私が・・・」という根性を完全に捨てて周りの方達の為に生きた時、
これを無我の体得というのです。
分かり易く言いますと、私は方々から呼んでいただいて三百六十五日休みなしです。
今日は一度ゆっくり寝てみたいなあと思っても眠ることもできません。
夜もそれこそ夜通し電話を下さいます。

ああ一晩ぐらいゆっくり寝かせて欲しいなと思う時もあります。
しかし夜中の一時、二時三時、四時に電話を下さるということは、
まともな電話ではありません。
辛い、助けて下さいという電話です。
だからハイハイと言って受けます。
私は四六時中、いつ電話を下さってもちゃんと起きています。
寝ている時間はありません。
何時でも寝とぼけた声は出ていない筈です。
そしてお祈りをさせてもらったら、救われて下さいます。
受話器をちぎって、
電話のない国でゆっくり寝られたらいいだろうなあと思いますけど、
これが自我ですね。

「いやいや私などどうなっても構わない、私の声によって、
或いは私の言葉によって救われてもらったら有難い」と、
自分を完全に離したら無我です。
又、あちこちへ寄せてもらうと、良い景色の中で、
玉をころがして遊んでいる人があります。
テレビを見てもやっていますね。
ゴルフというのですか。
私は一度もしたことがありませんが、一日中芝生の上でああして玉をころがしたり、
飛ばして遊んだらいいだろうなあと肉体を持ったら、そのように思う時もあります。
海辺に旅をしたら釣りをしています。
一日中何も考えないで坐って釣糸を垂らしていられたら極楽だろなあと思います。
これらは「有我な生活」をなさっているのです。
自分のある生活です。


            ~ 感謝・合掌 ~



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「講演集」より。

2014-09-29 00:23:03 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

      恩師のご著書「講演集」より


          講演集、 一


   「三大欲を完全に離すと解脱できる」


足ることを知らねばなりませんが、
しかし欲望がなかったら生きていけません。
そして、欲望が無かったら人類も消滅していきます。
食べることによって肉体保持をさせてもらい、
物質によって日々の生活をさせてもらいます。
性欲によって子孫を保つことができます。
人間に与えられた三大欲望―――物欲、食欲、性欲ですね。
この三大欲望がないと人類は滅亡します。

ところが不思議なもので、この三つの欲を心から完全に離し、
とらわれることを止めた時、
私達の心は天上界へ舞い上がります。
この地上界から解脱できるのです。
完全に遠離するのです。
遠く離すだけであって、全く断つと死んでしまいますから、
最小限度にして離れていった時に、
心はこの世から離れてあの世に飛び歩くことができます。
「私は天上界に上がって神の声を聞いて来た」と言っても、
もしその人が人の悪口を言ったり、
欲深なことを思っていたとしたら嘘つきです。

上がれることはありません。
上がった者だけが知っている世界です。
そして、知った者は、間違いを言っている人を見れば、
これは嘘を言っていると見破ることができる世界で、
知らない者はごまかされるのです。
だから本質的なことは、
霊的現象にとらわれては危険なことが多いのです。
なぜかと言うと、見破る力が無いからです。


       ~ 感謝・合掌 ~




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「講演集」より。

2014-09-28 03:32:59 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

    恩師のご著書「講演集」より


          講演集、 一


    「心は無限、地球上は有限」


出すから入るようになっています。
食べたら出ます。
出たら又おいしくいただけます。
そして必要以上は入らないのです。
物質に対する貪欲もそうです。
必要以上に求めたら自らを破壊します。
足ることをしらねばなりません。
しかし欲望が無くては生きられません。
足ることを知った欲望を持つように。
足ることを忘れた欲望は無限に広がっていきます。

心は無限に広いから、欲望も無限に広がっていき、
与えられたら満足するけれど、
与えられない時は苦しみが始まります。
こういう心の状態の時には、必ず、
心の周りにスモッグが出て暗くなります。
だから腹を立てないよう、不足を言わないように。
人間は何でも悪いことは皆、人のせいにして、
「我がええ、我がええ」と思いますが、
自愛、自己保存、我欲という思い方を正して
ものを見るようにしてください。


           ~ 感謝・合掌 ~



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「講演集」より。

2014-09-27 00:31:28 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

       恩師のご著書「講演集」より


            講演集、 一


      「偶像は魂の幼児の玩具」


インドに神人サイババと言う方がおられます。
世界の各国から何万人もの信者が集まって来るので、
その人達の宿泊所とか寺院のような建物があるのですが、
その中には、キリスト教、仏教、イスラム教、ヒンズー教と、
すべてが祀ってあるそうです。
サイババさんは偶像崇拝反対の方ですので、不審に思って尋ねますと、
「あなた、愛に目覚めなさい。

幼児から玩具を取り上げた時、幼児はどんな気持ちになりますか、
幼児には玩具が必要です」との返事。
「必要な人には与えなさい。そしてその玩具で共に遊んであげなさい。
偶像の必要な人は魂がまだ幼いのです。
幼児には玩具を与えなくてはいけない」とおっしゃったというのですね。
一週間の二割を決めて、キリスト教の日、仏教の日とあって、
それぞれの服装まで用意して、その都度衣を着替えて拝んでいられるそうです。
この話を或る先生から聞きまして、本当に心の広い方だと思いました。
私どもは偶像崇拝はいけないといえば、祀っている人を見ると非難します。

キリスト教の人は「仏教は偶像崇拝をする異端者だ」といってけなします。
又、仏教の人はキリスト教も十字架やマリアやイエスを拝んでいると言います。
魂の幼児には玩具が必要ですが、魂が成長してくると自然に要らなくなるのです。
必要な間は与えて共に遊んであげなくてはいけないというのです。
だから他の宗教をいっさいくさす必要はないし、何をやっておられても、
偶像を必要とされる場合は、その方達の魂が幼児の集団の中におられて、
遊んでおられるということです。
他を非難中傷することは避けることですね。
もし非難すれば、やがて自分が非難中傷の的となります。
先程の原因・結果の法則です。


          ~ 感謝・合掌 ~



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「講演集」より。

2014-09-26 00:38:31 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

          恩師のご著書「講演集」より


               講演集、 一


             「悪魔の正体」


先の続き・・・

太陽は自らを燃焼させ、自らを犠牲にし、
その結果として現れる熱と光(慈悲と愛)を他に与え給います。
太陽の如く生きることこそ偽我を克服する生き方です。
サタンを退ける生き方です。
布施の心です。
よく自分の気に入らない人から言葉をかけられて、返事もしない、
ひどい人はツンと顔をそむけるような人があります。
しかし太陽の熱、光は万象万物いっさいのものに対して、
絶対に差別はなさらない。
すべてに対して平等に光を与え給います。

私達もいっさいのものに差別の行想言は慎むべきだと思います。
一つに自分に対して気に入らない行為をされると、
相手の気に入らないことを二倍、三倍にして返してやるという人もあります。
私達が太陽に向かってどれ程太陽の悪口を言っても、
太陽はさんさんと愛の光を与え給います。
復讐も太陽の心から遠く離れてしまいます。
しかしもし天に向かって唾すれば、その唾は自分に降りかかるでしょう。
あれをしたのに喜ばない、これをしてあげたのに礼を言わない、
あれこれしてあげたのに感謝の金品を持って来ない、
お礼もしないなどと言って怒っている人を見ます。
太陽は熱、光をいっさい無報酬で与え給います。

私達も常に太陽の心を我が心にいただき、日々の生活の中で、
自分の想念行為は太陽の心にそっているか、太陽の心から離れていないか、
一瞬一瞬をきびしく見つめる練習をしてみたいと思います。
世の中は多く語って非難され、少なく語って非難され、
黙っていて非難されるというふうに、非難を受けない者はないと言われます。
しかし私達法を学ぶ者は、それをいただかなかったならば、
その過ちはその人のものであって私達のものにはなりません。
太陽の心に逆らった想念行為こそ、
私達を苦悩の地獄へ誘い込む悪魔の正体と思って下さい。


         ~ 感謝・合掌 ~





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「講演集」より

2014-09-25 01:01:12 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

             恩師のご著書「講演集」より


                  講演集、 一


             「悪魔の正体」


先の続き・・・

己が偉大である、己だけが偉い人間である、なぜか?
自分の過去世が偉大であるからである、そのように思い込み
、日々の行いができていなかったならば、これは笑い話しにもなりません。
己が偉いと思い込み、増長慢にとらわれて他を非難中傷して止むことを知らない心、又、
人の過ちを絶対に許さないで何十年間を過ぎてもなお責め続ける心こそ、
悪魔の正体であると見るべきです。
ブッダはこのような人を真の愚者ときめつけておられます。
人は鏡の前に立てば自分の姿が見えます。

それと同じように、悪魔は良き人の前に出れば己の姿を映し出し、その人を悪魔だと言い、
動物霊はその人を動物霊だと言い、低級霊はその良き人を低級霊と呼ぶでしょう。
又別の悪魔もあります。
それは私達のこの肉体の五官の感覚、自己保存と自我我欲、
私達が此の世でどうしても乗り越えなければならない偽我こそ、
私達の心の隙を常に狙っている悪魔の正体です。
空腹で堪らない時、誰もいない所に御馳走がおいてあると、無断でも食べたいなあと思う
心、ブッダは「己に与えられた物以外の何物をも我が物にしてはならない」と説かれています。
又肉体もそうです。
つらい思いをするより楽をしたい。
働くより、遊びたい、他人より自分が大事である。
みんな偽我です。


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「講演集」より。

2014-09-24 00:08:59 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

              恩師のご著書「講演集」より


                  講演集、 一


                「悪魔の正体」


未熟な私、愚かな私が各地に招いていただいてお話をさせていただきますと、
自称、自分が偉い人と自認する方々(自分は如来だとか、菩薩だと思っている人達)は
私のことを低級霊だとか動物霊だとか地獄霊だとか、
高橋信次先生に破門された人間だとか、
それはそれはいろいろとその人その人の心で評価して下さいます。
そのように自分で如来菩薩を名乗るような立派な方々の耳にも、
愚かな私のことが伝わっているとは、本当に有難いことだと心から感謝せずにはおれません。
信次先生の「心行」の中に「光の天使(如来菩薩)は慈悲と愛の塊にして」とありますが、
慈悲と愛の塊の方が、人様のことを見下したり、侮辱したり、非難中傷したり、
ありもしないことを本に書いたり、又うそをいわれる筈は決してないと思います。
それではそのようなことを言う人々の心の中はどうなっているのでしょう。

自分が如来菩薩だという思いが常にあります。
そういう思いの人が、他の自分より勝れた人のことを聞けば、
自分にはできないいろいろの現象がその人に現れることに対して、
偉いと思っている自分にもできないことをする、
常に未熟で平凡で愚かを口にしているような者にできる筈がない、
あれは動物霊がさせているに違いない。
又低級霊或るいは地獄霊だろう。
その思いを信者に伝えていきます。
十数年前にこんなことがありました。
私のお話会で会場いっぱいに金が降ってきました。
来て下さった皆様も私もキラキラになったことがありました。

その時会場に来ている或る人が、
自分で自分のことを今世は如来であると思い込んでいる「自称菩薩」である人に、
この事実を伝えますと、その先生は即「それは動物霊ですよ」と言われました。
その人は、私の所へ来て、「動物霊でも金を出すことぐらいはできるのですよ」と言ってきました。
私は「そうです、動物霊でもそれぐらいのことはできます。
昔から狐が木の葉を小判に見せて人を騙した話は、よく子供の頃に聞かされました。
そこで金を降らせる現象を現わした人が、日頃の生活の中で動物のような生活をしておられますと、
その人に現れた現象は動物霊の仕業です。
金を降らせたその人が、神仏のように日々の生活をされていますと、それは神仏の御業です。
私の日々の生活が動物のようか、神仏のようか、あなたが見られていかがですか」と
聞いてみますと、「よくわかりました」と理解された様子でした。


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「講演集」より。

2014-09-23 01:25:08 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

           恩師のご著書「講演集」より


               講演集、 一


        「地上にさ迷う意識と現代医学」


先の続き・・・

中学三年のこのお譲さんを何とか助けて欲しいという愛の心で
K先生が訴えられたのですが、
学校内ではそういう治療をしてはいけないと、問題になったそうです。
K先生が胃下垂を即座に正常位に上げてもらう治療ですと説明されますと、
そんなことはとても信じられないと校長先生がおっしゃったのですね。
確かに医学では考えられないことです。
しかし翌日完全に治って学校に行けば、
学校の教職員の皆さんも世の中には不思議なことも
あるものだなあと目覚めてもらえたことでしょう。
しかしその後、学校内ではそのことについては誰も口にしてはいけない
タブーになったそうです。
神様は全く信じることができないような奇蹟を起こされます。

何人もの医者を回って治らなかったものが、ものの二、三分で治ってしまうのです。
現実にこういう現象があるということは、
何か目に見えない世界があるということですね。
私達が自分の想念、思いを常に浄化しておかないと、つまり不調和にしておきますと、
そういう霊と相通じる場合があるということです。
九州と東京で心霊治療というのをやっておられるKさんは、
お金をとって診ておられるということです。
一回何十万円だそうです。
私は災いをする霊を取っても無料です。
取るというと聞こえが悪いけど、お救いさせてもらっても、一銭も要りません。
同じことをして何十万円も取ったら、これはとんでもないことです。


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「講演集」より。

2014-09-22 00:39:20 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

              恩師のご著書「講演集」より


                   講演集、 一


            「地上にさ迷う意識と現代医学」


先の続き・・・

どんなに科学の進んだ現代医学をもってしても、こういう病は治せません。
それはなぜかと言いますと、医学は、人の肉体をただ物質として学んでいるからです。
人間の肉体は物質だけではないのです。
科学とか医学では理解できない深い深い神の分け御霊がこの人間の中にあるのです。
そして一方闇の世界の影響も絶えず受けております。
つまりふるさとに帰ることができないで、
この地上に執着してさまよえる意識がたくさんあるということです。
その意識が、自分が苦しいので、自分と同じ心の在り方をしている人を見た時、
その人にくっつく、つまり憑依するのです。

この地上に執着を残し、肉体はないのに意識となってうろうろしている人が、
近づいて来た人とたまたま心が通じ合った場合、その人にとっつきます。
すると他の人格ができ上がります。
そうすると医学では分からない変な病気になったりします。
現代老人の呆け問題をやかましく言っておりますが、これは統計的に見ますと、
一種の憑依現象が起きているのです。
だから憑依している者を救ったら、呆けが治る例があります。
老人呆けは医学的には老人性脳軟化症といっています。

しかし生命力の弱い者や、自分の思いと一致した人間に出会った時に、霊の憑依が起こり、
それは医者では治せません。
近代医学をもってしても分からない病気はたくさんあります。
心というものを余りにも知らないのですね。
お医者さんの中でも若い医者は絶対にこういうことを信じません。
学校を卒業したての、一生懸命勉強して、智識を頭に詰め込んだ人は医学がすべてだと思っています。
だんだん年をとっていき、医学の智識、技術ではどうしても解明のできない謎を体験する
ごとに、何かしら物質以外のものがあるのだなあということを、お医者さん自身体験していきます。
アインシュタインも、ノーベル賞を受けた湯川秀樹博士も、他にも有名な科学者が神を信じておられます。
現代科学ではどうしても解明できない偉大な力があるということに到達するのです。


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「講演集」より。

2014-09-21 00:34:17 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

            恩師のご著書「講演集」より


                  講演集、 一


         「地上にさ迷う意識と現代医学」


この間、中学三年生のお譲ちゃんが私の所に来られたのですが、
手が自動運動を起こして止まらず、物凄く動くのです。
体育祭の練習中に運動場で突然過呼吸状態になったそうです。
その後遺症として手に激しい痙攣が残り、ひどい勢いで振動を続けて止まらないのですね。
寝ている時は止まっているのに、起きると左手の肘から先が左右に大きく振幅運動をし続ける。
二週間程して全く声も出なくなったそうで、顔の相も変わってきております。
高等受験の年で、本人もご家族も辛い思いをされたでしょうが、病院をいくつ回っても
治らなかったようです。

そのお譲ちゃんの肩に手を置かしていただいてお祈りをしてから、その災いをしている
者に対して言いました。
「この方に災いしてはなりません。
あなたもこのように災いしている限り、
御自身救われることができません。
法を悟って、あの光の世界に救われなさい。
しかし正しき教えを悟ることは至難の業です。
ですから今日のご縁をもって私があなたを救います。
この方から離れて私の中に入って来なさい」と言って、
私の中に入っていただきました。
未熟な私ですけど、その方達よりは心に光が満たされております。
迷うている方は必ず闇です光を持って迷うことはできません。
明かりがないから人は迷うのです。

どうぞ私の中に来なさいと言うのは、これは愛ですね。
愛をもってお招きしますと、入って来ることができます。
大変有難いのは、私が心を開いて招じ入れない限り、
絶対に入ることはできません。
なぜかと言いますと、光の中に闇は入ることができないのです。
光の中にはどれほど深い闇であっても忍び込むことはできません。
これは自然の法です。
しかし愛をもって迎えればその闇を包むことができます。
そして、神の光によって闇を消し、その方をあの世のふるさとへお送りしました。
それでもまだお譲ちゃんの手は動き続けておりますが、
それはこれまで何カ月か動き続けていたので、慣性の法則で筋肉が動いているのです。

「気持ちを楽にして、心を落ち着けなさい」と言いますと、
手の動きはスーッと止まりましたね。
「もう大丈夫です、ものを言いなさい」と言いますと、
「はい、もう言えます」といって話しされたのです。
お母さんは感極まって喜びのあまり大声をあげて泣き伏しておららました。
「お母さん!!」と呼びかけて、二人で抱き合って泣いて喜んでおられました。
ほんとうに嬉しかったですね。
その夜は家に帰ってピアノを弾かれたそうです。
長い間お母さんが食事も食べさておられたのですね。
それが一瞬にして完全に治るというのはまさに奇蹟です。


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「講演集」より。

2014-09-20 00:37:10 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

              恩師のご著書「講演集」より


                   講演集、 一


           「過去世が蘇った例と転生の証明」


でも私の前に、そんな縁者が出て来られると、
必ずその土地の向こうの言葉で話しかけて来られます。
当時イスラエルにおられた方が現れた時は、もう立て続けにしゃべって止まらないのです。
言っている言葉は何を言っているのか分からなくても、意味は大体分かります。
他の者が話しかけても、その人には通じないのですが、私が日本語で言うとちゃんと通じます。
「あなたは私の言葉が通じますか」と言いますと、ゼスチャーで「分かります、分かります」。
「ではあなたはこの方の守護霊ですか」と聞きますと、「違う違う」と、もう日本語を
しゃべらない―――しゃべれなくなっているのです。

「違う」とおっしゃるから、「ではあなたはこの方の魂の兄弟ですか」と言いますと無言。
そして、「あなたはこの方の守護霊です。守護霊いならば、この方をしっかり守護してください」すると
「いらん、いらん」と言うので、「守護霊が守護しないとは何事ですか」と言うと、自分の胸を指して
「こいつは駄目だ」と言うのですね。
「過去は駄目だったけど、今は一生懸命精進なさっているのは、あなたが一番良く知っている筈です。
しっかり守護して下さい」と言うと、「では承知しました」と向こうの言葉で言うのです。
難儀なことに日本語が全然話せないので、「私と出会った時は、この方を支配されても結構
だけど、一般の社会では、この方にこういう現象を出さないように注意して下さい」と
お願いしたのです。

それは社会に混乱を起こすからです。
そして、今度お会いするまでに日本語を少し勉強しておいて下さいと頼んでおきました。
すると一週間経ってお会いした時、守護霊をその方に入れますと、
「ワタシー日本語少シ話セマス。
日本語ハ、ムツカシイネ」と少々日本語を話します。
「過去、どこの国に住んでおられましたか」と聞きますと、「イスラエルでございます」。
こういうことがあって三カ月後にお会いした時、これは或る会場で皆さんに向かって、
「守護霊さんに入ってもらいましょう。
百聞は一見に如かず、転生輪廻の証明になりますから」と言って、その守護霊にお願いして、
その人の中に入ってもらいました。
そうすると日本語を上手に話されます。
向こうの言葉で話してから、カタコトの日本語で「この場所に、あの世の友がたくさん
お見えになっています。
一緒だった方があります。
あなたは尊い神の光を与える力を授かっています」「私にはそういう力はありません。
これは神が与え給うたのです」そして「今から六百年の昔、あなたさまと伝道の旅を続けました」と言います。
これはキリスト教の教えを伝えた当時の記憶が戻って来たのです。

「とても広大な土地でありました。
水を求める方々がたくさんありました。
馬、驢馬の背中に大きなカメ、皮袋をいっぱい乗せて、水を求める方々に与えた、
とても苦しい旅をした記憶がございます。
あなたはやさしい笑顔と思いやりの言葉をもって人々を導きました」と、
記憶が蘇ったら、遠い時代のことをはっきりといわれますね。
皮の草鞋と皮ひもを足にくるくる巻いたものを当時履いていて、
石ころをポンと蹴ると足がとても痛かった、という記憶まで持っていました。
そんな方があります。
生まれ変わりなどと言いますと、本当かなと思いますけど、現実にあります。
今の科学的な、この世的な見方をしますと、あら、頭が少しおかしいのと違うかとか、
面白いことを言うとるとか、そういう判断をなさる方も多いと思いますけど、これは現実にあります。
見えない世界で、こういう方は光の世界の方です。
一方、この世で間違った生活を送って成仏できず、地獄の迷える世界に落ちている住人が
間違いなしにおられるということです。


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「講演集」より。

2014-09-19 00:37:54 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

          恩師のご著書「講演集」より


               講演集、 一


           「高級霊の言葉」


「私が(高級霊のことです)自らの過去をひもといた時、
絶対に人に明かしてはならないという重荷を、自らの肩に背負いました。
いかに過去において私が偉大な人間であっても、
今の私にそれが何の関係があろうか。
なるほど過去の名前を私が口にした時、
人は或る時はそうだったのかという見方もするであろう。

しかし今の自分が過去の自分と何の関係があるというのか。
それよりも自分の思い、行い、言葉を、説法をもって
私こそ神の御使いであるという証しを立てることのほうが大事である。
自分の日々の言動、思いをもって、又人の前では法をもって
私が本当に神の使いだという証拠を示したい。
そのほうがどれ程価値があるか分からない」
これはすばらしい高級霊の言葉です。
だから自分の過去のことを人に喋るのはおかしいことです。


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「講演集」より。

2014-09-18 06:16:38 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

            恩師のご著書「講演集」より


                  講演集、一


         「過去世に捉われると実生活を見失う」


今、私に縁ある人々の中で十数人の方が過去世を思い出して、
その当時、生活をしたそれぞれの国の言葉をもってお話をされます。
しかし私達はそんなことに捉われてはません。
人間の転生輪廻の証明の一つとして価値がありますが、今世の生活に何の関係もないことです。
過去の自分が誰であったとか、過去の自分が立派な人間であったとか、たとえ立派な人間であっても、
今生、今現在の自分がその為に道をはずれ、増長慢に捉われ、えらぶったり、
人を見下したり、人の悪口を言ってみたり、
過去世において自分より未熟だと思っていた人が今世で立派に生きている姿を見て嫉妬して、
非難攻撃しておれば、過去世など知らないほうがどれほど幸福かわかりません。
或る先生と呼ばれている方がありました。

その方を慕って全国からいろいろの人達が訪ねてこられます。
たまたま東北地方から過去世の言葉を語る男性が見えておりました。
その日、関東地方から別の男性が日帰りの予定で訪ねてこられましたが、
先生にお会いして、どうしても今晩一晩泊めていただいてお話を聞かせていただきたい、
このまま帰ることができなくなりました、と予定を変更して一泊することになりました。
先生は多忙極まりない人で、その晩も他の大事な用件を中止してそのお客様の為に時間を
つくられました。
夜、近所の奥様も見えて、
お客様の寝床を用意する為に先生の奥様と二人の男性のお客様も含めて四名で奥の部屋へ入って行きました。
先生はこちらの客間でもう出て来るか、もう出て来るかと待ち続けておりますが出てきません。
その間に先生がお客様の為にお風呂を沸かして待っていても、まだ出て来ないのです。
異様な大声や笑い声が時々伝わって来ます。

一時間半は過ぎたでしょう。
待ちかねて先生がお風呂が沸いていますから入って下さい、とその部屋へ行きますと、
何か異様な陶酔したような感じで、四人が膝をつき合わすようにして話をしております。
これは一体どういうことでしょう、この世の常識では考えられない出来事です。
寝床を用意する為に奥の部屋へ入ると突然、過去世の言葉が東北の男性の方から出て来ました。
先生の奥様にも異なる言葉が出て、二人で過去世の言葉で会話が始まったのです。
近所の奥様は感動して泣きだしたのです。
関東の男性の方も始めての現象を目のあたりに見て、びっくりと感激で呆然となっておられました。
このようにして時間が過ぎて行ったのです。

その夜、先生は奥様に対して、この世の常識を破ってはいけない、
主人が客のために大切な用件を断って待っていたのに、
主婦の立場で「先生が待っておられるので早くお話を聴かせてもらいなさい」と案内すべきが道である。
「一度自分の行為を反省しなさい」と注意されました。
ところが奥様にしてみると「お互いの守護霊が出て話し合うので仕方がなかった、
これはあくまで神のご意志です」と自分の正しさを主張します。
結果、その奥様は「実家に帰って反省して来ます」と言って早朝から実家のほうへ帰ってしまったのです。
大変、人の出入りの多い先生のお宅です。

お見えになった人々は、今日は奥さんはどうされましたか、と聞かれます。
先生は「急用ができて実家の方へ帰っております」と苦しい答えをされておりました。
さてこの一つの出来事を通して、霊道現象、過去世というものは一体どういう価値のあるものだったでしょう。
過去世が蘇り、それに捉われて実生活を見失った、先生と呼ばれる人々を余りにも多く見聞してきました。
私達はこの肉体の五蘊を通して魂の修行をする為に生まれてきた筈です。
霊道現象の最も危険なことは、自分ができた人間である、人よりも勝れた能力があると思いこむことです。
そして増長慢に捉われていきます。
その結果、人の言うことは耳に入らなくなっていきます。
もうこうなってしまいますと、完全に悪魔の支配下に入ってしまいます。


                ~ 感謝・合掌 ~




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「講演集」より。

2014-09-17 03:56:21 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

           恩師のご著書「講演集」より


              講演集、一


         「過去世が蘇る」ということ


或る方から電話がありました。
私に初めての方です。
電話の中で泣きながら、胸から胃にかけて苦しくて堪りませんとおっしゃっています。
「こういう苦しみはすぐ消えます。安心して下さい」と言って電話で祈りますと、
いっぺんに治ってしまいました。
その方の姉さんが訪ねて行ったら急によくなっているのでびっくりされて、
又早速私のほうへ電話がありました。
「ご縁があればいつでも遊びに来て下さい。正しい教えには組織もお金も何も要りません」
と言いますと、一週間もしないうちにご姉妹が訪ねて見えました。
その時、私の名刺の裏によくおまじないを書いて差し上げているのですが、
それが欲しいと言われるので、10枚ほど書いて渡しました。

そうしたらその方はありがとうございましたと受け取られて、「私は遠い遠い過去から
先生からこうして受け取ったことがあります」と言われ、突然その方の口からインドの
言葉が出て来たのです。
泣いて挨拶されます。
勿論この方は日本人です。
突然にこの方の守護霊が入って来られたのですね。
インドの言葉でいろいろ話されますと、日本語がカタコトになってしまいます。
「ワ・タ・ク・シ・ハ・・・」といった具合です。
むこうの言葉はペラペラなのです。
当時のインドでお釈迦様に学んだ体験をその方が持っておられたのですね。
遠い過去に私も共に仏教を学んだ体験があります。
この方にお札のようなものを差し上げたことから、当時の記憶が突然蘇ってきたのです。
不思議なことがあるものだとびっくりしておられました。
習いもしない言葉が口の中から自然に出て来たのです。
これを守護霊の言葉とも、自分の過去世が蘇えるとも言います。


             ~ 感謝・合掌 ~




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「講演集」より。

2014-09-16 00:40:27 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

           恩師のご著書「講演集」より


               講演集、一


        「イエス・釈迦の原点に帰れ」


高橋信次先生は、釈迦・イエスの教えの原点に帰れと言ってお話をなさいました。
今の仏教・キリスト教は原点から遠く離れているところがあります。
今の仏教のように、祀りなさい、拝みなさい、供養しなさいとは、
お釈迦様は一つも説いておられません。
お釈迦様は生きた人間を救う為に人が幸せになる道を説かれ、
死んだ人間のことは説いておられないのです。
今の仏教は、
生きた人間より死んだ人間のほうが主になることが多いですね。

亡くなりますと、まず枕経、そして七・七・四十九日まで参ってくれます。
また三回忌、七年忌と一人死んだらずーっと御参りが続きます。
諺にも「お前死んだらわしゃ嬉しい、むかわり三年、また七年」というのです。
「七日七日に米五合」といって、
昔は一回お坊さんにお参りしてもらうとその都度米五合あげたのですね。
それはお坊さんの収入になっているわけです。
人が死んだらそれがお坊さんの収入源ですが、
お釈迦様はこんなことはおっしゃっていない。
先日四国に行って聞いた話です。
四国の或る有名な札所の寺です。
そこでお寺の偉い坊さんの会議があったそうです。

その村の人がたまたまお寺の修理に行っていまして、
山にある寺なので泊り込んで修理に励んでいたのです。
今晩は偉いお坊さんの会合があるから有難い話を聞こうと思って
床下に潜って聞いたというのです。
どんな有難い話をされるのかと思っていましたら、
「うちの寺は今年は大豊作であっての」
とか「うちは不作だった」とか聞こえて来たので、
坊さんが米を作るのはおかしいと思い、よう聞いてみると、
檀家で死人がたくさん出るのが豊作、葬式の少ないお寺が不作と言ってるいのです。
それを聞いてびっくりしてしまいまして、ほんとうに怖いですと話していました。
こういう話をすること自体が悪口になるのですね、そして私の心は曇ります。
これはお釈迦様の教えの原点からはずれた一例としてとりあげました。
お釈迦様の言葉として聞いて下さい。


           ~ 感謝・合掌 ~



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