浄心庵・長尾弘先生「垂訓」

八正道と作善止悪

「心行の解説」より。

2013-12-31 01:57:46 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

           ~ 恩師の「心行の解説」より ~


先の続き・・・

取る方法は「徹底した自己反省」をさせていただくことです。
生まれてから今日までの間を振り返り、「あの時あのような過ちを犯した」
「あの時はこんなことをして人を恨んでしまった」と、
一つ一つ神様にお詫びさせてもらい、これを改めていくことです。
そしてその悪の償いとして善き行いを積み重ねた時にだんだんと心の曇りが薄れます。
反省を通して心の壁、カーテンを打ち破った時、自らが光であるということが体験できます。
五官の感覚は全く消えて光だけになるという体験を、私はさせてもらいましたので、
間違いございません。妙な霊能力がつくとかいうものとは違って、全く異質なものです。
お釈迦様は誰でもできる道をお説きになったはずですし、
イエス様も誰でもが救われる道をお説きになりました。

仏も昔は凡夫だったのですから、私たちも悟った時には仏と化すことができます。
これを「やがては死ぬから仏になる」と思えば大きな間違いです。
死んだら仏になるのではありません。悟られた方が仏になるのです。
死んだ者は亡くなった者、つまり「亡者」と書きます。
亡くなった方のお宅へ行って「亡者さんにお悔やみさせて下さい」と言うと無礼だと叱られますから、
いっそ死んでしまったのだから仏にしてしまえといって
「仏さんにちょっとご冥福を祈らせて下さい」と言うようになったのです。
ほんとうは悟りもせずに死んでしまったら皆亡者です。
死んで硬直を起こしたり、怖い顔をしたりしている方は気の毒ですけど皆亡者さんです。

この世を去った時、その方の人生のすべてが、肉体に現れます。
昔から「人の価値は死んだ時に分かる」といったものです。
それは、死にざまと、亡くなった時の姿を言うのです。
この世でのお付き合いが多く、顔の広かった方や何とか議員という方のお葬式で花輪がいっぱい並び、
この世的にお葬式の送り人が多かったので値打ちがあるというふうに一般には思いますが、
ほんとうはそういうものではなく、自らの心を悟り、神の子として生き、
この世を去る時に成仏された方こそ値打ちがあります。
こういう方は死後硬直は起きないという形でその方の価値は肉体の上に現れます。

今まで人が亡くなれば死後硬直が起き、必ず冷たくなるものと思い、それが常識となっておりましたが、
硬くなるようでは成仏できていないのです。
その数からいいますと、いかに成仏できないお方が多いかということが分かります。
しかし硬くなったお方にも、
私たちがほんとうに愛の心をもって法をお伝えさせていただきますと即、硬直がとけます。
今冷たくなって見るのも無残な姿をなさっていても、ご本人が自分の過ちに気付き、死というものを認識し、
そしてこの肉体から魂がうまく離れることが出来た瞬間に肉体はふわふわと柔らかくなります。
こういうことはたくさん体験させてもらっていますね。
これは自ら菩提と化すことを悟られたから、そうなったのです。



             ~ 感謝・合掌 ~




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「心行の解説」より。

2013-12-30 01:57:51 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

                      ~ 恩師の「心行の解説」より ~

               先の続き・・・

               一人一人が持っている魂の器の底から少し離れた場所に、
               五官の感覚というカーテンが下りています。
               この感覚が表面と内とを遮ってしまうので、
               神様が私たちの表面に出ていただけないのです。
               幼い子の魂には遮るカーテンが下りておらず曇りがありませんから、
               神そのものの意識が表面に出ておられるのですが、
               もう三歳になりましたら立派にカーテンがかかってしまいます。

               しかし神様と人間とが切り離されるのではなく、
               心の曇りによって遮断されているだけであって、表面に振り回され、
               五官に翻弄された人間になっているということです。
               よく悪霊とか地獄霊とかいいますが、たとえサタンといえども、
               表面が曇っただけで、内は神の御子です。
               自ら遮っているだけで、この遮るカーテンを払えば、
               どなたも皆菩提と化すことができます。
               すごく簡単なことです。

               このカーテンを取り除くにはどうしたらいいか、
               まずこの曇りはなぜできたかということ、五官に翻弄されて怒り、
               妬み、謗り、愚痴、恨み、憎しみ、嘘、盗み、取越苦労、不安、
               恐怖、貪欲などによって生じたのです。
               五官の求めるままに翻弄されると、怒りや妬みになるのですから、
               この邪魔ものを取ってしまえばいいのです。


                        ~ 感謝・合掌 ~



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「心行の解説」より。

2013-12-29 03:14:40 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

                               ~ 恩師の「心行の解説」より ~


                      先の続き・・・

                      私たち一人一人の中に、神様が自らを表現するために入っておられます。
                      その神様が肉体の五官という悪魔のよそおいをなさっています。
                      ですから表面に捉われますと、悪魔の働きが出てきて、
                      それが自己保存・自我我欲となります。
                      しかし悪魔の仮面を剥がせば、その中は神ご自身であるはずです。
                      私たちは一人一人魂の修行にこの世に生れているのですが、
                      ついつい五官に翻弄されてしまいます。

                      五官による翻弄を煩悩ともいっています。
                      人間は肉体を戴いた限り、避けることのできない自己保存と自我我欲の煩悩を持ちます。
                      キリスト教では「人間は罪の子である」と説かれていますが、本質は罪の子ではなくて、
                      肉体そのものが持っている自己保存と自我我欲こそが罪そのものだったわけです。
                      イエス様が「人間は罪の子だ」とおっしゃたのはそのことをさしています。
                      六根という煩悩を戴いておりますが、自分が悟らせてもらった時には、
                      即菩提となります。
                      自らが仏となります。

                      魂の表面意識は、自分の思いによって感情的になったり、理性的になったり、
                      つまり「知性、理性、本能、感情」の四つが働きます。
                      思いによって想念の働きが起きるのです。
                      その想念の働きによって、今度は意志が働いて行動に移ります。
                      人間の本能と感情の分野が異様に発達しますと、理性と知性が小さくなって、
                      正しくものが見られなくなります。
                      人を好きになった時の「あばたもえくぼ」の状態ですね。
                      心が丸い状態で、四つの思いが想念によって調和されていますと、
                      あばたはあばたに見えます。
                      逆に知性ばかりが大きくなりましたら「頭でっかち」になり、これは危険です。
                      想念の働きによって私たちの意識の状態がいろいろと変化します。
                      私たちの心は、想念の働きによって腹を立てたり、恨んだり、憎んだり、呪ったり、
                      また或る時は、飛び跳ねるほど喜んだりします。


                                   ~ 感謝・合掌 ~










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「心行の解説」より。

2013-12-28 01:24:00 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

                           ~ 恩師の「心行の解説」より ~


                      「六根あるがゆえに己が悟れば菩提と化すことを悟るべし」


                    私たちは五官によって感じ、「意」によって喜び、苦しみ、悲しみます。
                    五官に「意」を含めて六根です。
                    つまり「眼・耳・鼻・舌・身・意」これで五官です。
                    肉体には眼、耳、鼻、口があり、そしてこの体をいれて五官が与えられています。
                    この五官によって魂の修行をさせていただくのです。
                    五官が無ければ肉体が保存できませんから、どうしてもこの五官を通して目で見、
                    肌で感じ、舌で味わって、都合の悪いものは避けて自分を守ろうとします。

                    苦いものや毒などは吐き出しますし、火に手が触れると熱いですから避けますし、
                    針で突いたら痛いので避けるというように造られています。
                    五官を通して見る時は、どうしても自己保存になりますが、それが当たり前なのです。
                    そして自我我欲に捉われて当然なのです。
                    自己保存のために与えられた道具ですから、そうなって当たり前のこの肉体の中に、
                    神の子の私たちの内なる魂が宿って修行させてもらうのですね。



                               ~ 感謝・合掌 ~



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「心行の解説」より。

2013-12-27 01:21:31 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

                       ~ 恩師の「心行の解説」より ~


                  先の続き・・・

                  神の御心の中には罪も過ちも汚れもありません。
                  無いものであるから改めた時には消えてしまうのですね。
                  ほんとうに有難いことです。
                  自分が間違っていたということに正面から知ることによって私たちも即、
                  その苦しみから救われるのです。
                  自分が正しいと思っている限りは絶対に救われることはありません。

                  「自分は正しい、間違いない」と言うのは地獄の霊です。
                  成仏できないで暗い恐怖の世界におられる方の霊が出て来られますと、
                  全部共通して「私は何も悪いことをしていないのに、
                  なぜこんな苦しい思いをしなくてはいけませんか」と言います。
                  自分が悪いということが分からないから地獄にいるのです。

                  ところが天上界から来られた霊は
                  「私はこの地上にあった時はいろいろ失敗やら過ちを犯しました。
                  ほんとうに未熟な人生を送ってしまいました」と言われます。
                  そして地獄の世界にいる人は今でも「私は悪いことをしていないのに、
                  罪も犯していないのに、一生懸命人のために尽くしたのに、
                  なぜこんなに苦しまなくてはいけないのですか」
                  と言って苦しんでいるのですね。

                  それにはいろいろな原因があります。
                  いくら善いことをしましても、どれだけ人様のために尽くしましても、
                  どれだけ人を救わせてもらいましても、
                  その結果として自らを苦しめているからです。
                  自分を苦しめることは神のご意志に背くことです。
                  神は「自らを苦しめることなかれ、自らを愛せよ、自らを愛するがごとく他を愛せよ」
                  と言われます。これは神様の至上命令です。

                  私たちのお母さんお父さんは、子供の幸せを願って下さいます。
                  その親以上の愛をもって私たちの幸せを常に念じ願って下さっているのがほんとうの神様、
                  父なる神ですね。私たちは神のいとし子です。
                  そして父はただ子の幸せを願われます。神の大いなる愛は常に私たちに注がれております。
                  このことを知った時、私たちはいかに幸せであるかということが分かりますね。


                            ~ 感謝・合掌 ~
















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「心行の解説」より。

2013-12-26 01:55:57 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

                               ~ 恩師の「心行の解説」より ~


                       先の続き・・・

                       私たちはこれに似たようなことをいくつも繰り返しており、
                       それらが全部心のお荷物になっております。
                       その行いが私たちの心の中に一つ詰まり二つ詰まって大きな砂袋と化していきます。
                       砂袋は私たちの心の中に常に錘となってぶら下がっているわけで、
                       これを軽くしない限り、次に犯せばまた重くなり、
                       この世を去る時に肉体の命の糸が切れてしまいますと、
                       たちまちにして深い所へ落ちていきます。
                       落ちて行く先は、仏教では地獄といっていますね。

                       宗教ではない私たちのこの学びの世界では、心の暗闇の世界へ落ちるということです。
                       心の中に常に荷物がなく、明るくて軽ければ浮き上がります。
                       そういう方が亡くなりますと、間違いなしに上へ上へと上がっていきます。
                       それが自然の法則ですね。重いものは落ちます。軽いものは上がります。
                       その砂の材料は何かというと、怒りであり妬みであり、謗りであり愚痴であり、
                       恨みや憎しみ、不要の取越し苦労、これらが全部砂の材料になっております。


                                    ~ 感謝・合掌 ~




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「心行の解説」より。

2013-12-25 01:49:50 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

                           ~ 恩師の「心行の解説」より ~


              「守護・指導霊に感謝しさらに反省は己の守護・指導霊の導きを受けることを知るべし」


              私たちは常に守られ指導を受けていることを自覚することですね。
              自覚することによってまた力を与えてもらえます。
              常に守護霊・指導霊に感謝し、常に反省させていただきますと、
              守護霊・指導霊がお願いしなくとも導きをして下さるのです。
              頼まなくとも反省の功徳が戴けます。
              反省の功徳には計り知れないものがあります。
              高橋信次先生にご縁を戴きまして、私たちは反省の大切さを学びました。
              しかし、さて反省をさせてもらおうと思いますと、なかなかできないのです。
              どうしたらいいかそのやり方がはっきり分かりません。

              そこで私がさせて戴いた反省の方法を、
              自分が実際に体験したことに基づいて皆様にお伝えしております。
              以前、私の幼い頃の反省をし、自分の悪さの限りを告白懺悔させて戴きましたね。
              あのようにして自分の幼い頃の「あれさえしなければ良かった、
              あの時あれをしなければ私は心がもっと楽だっただろうに」
              という思いはどなたにもあるはずですから、それを反省するのです。
              この間、高校生のあるお嬢さんが悪いことをして捕えられて、
              大変恥ずかしい思いをしたことを話されていました。
              お友達が天王寺の駅で定期券の期限が切れているのにそのまま乗車したのですね。

              「あんた、そんなことをして見つかったらおこられるよ」といっているのに
              「こんなの分からへんよ」と言ってその期限切れの定期券を持って出たところで掴まったそうです。
              「こんなもの見つかったらぱっと逃げたらいいんや」と言って、
              まあいたづらの気持ちだったのでしょう。ところが逃げようと思ったら、腕を掴まれたそうです。
              そして、大勢の人を見ている前で叱られたということですね。

              この話を聞きまして、「ああ可哀想に、人生の大きなお荷物をその子は背負われた、
              正しい法にご縁を戴いて反省と自分の魂の浄化をしない限り、
              その子は二十代になっても三十代になっても、
              或いは九十、百になっても一生心のお荷物として生きていくはずでだ」と思いました。
              人間には良心があります。
              そして恥というものを良心が知っております。女の子ですから駅で掴まって、
              大勢の人に周りから見られた時には必ず恥じらいがあるはずです。
              その恥ずかしさが心のお荷物となって、その子は生涯背負っていくことになります。


                          ~ 感謝・合掌 ~





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「心行の解説」より。

2013-12-24 01:23:50 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

             ~ 恩師の「心行の解説」より ~


      「意識の中に己に関連せし守護・指導霊の存在を知るべし」


そういう大きな神様の慈愛の中に包まれており、
そして意識の中には私たちに関連した守護・指導霊がちゃんとついて下さっています。
この守護・指導霊の説明もすでに何回かさせてもらいましたね。
守護霊といのは私たちを守って下さる霊で、
指導霊とは私たちを何かと導いて下さる見えない世界のお方です。
一生懸命に私たちが何か一つのことについて追求している時に、
突然パッとひらめくことがあります。
「ああ私は頭がいいなあ、いい智慧がひらめいたなあ」と思うのはとんでもないことで、
これは指導霊が教えて下さっているのです。

守護霊の働きについては、この臨海で一つの例がございます。
臨海には外国から入ってきた大きな材木がいっぱい浮かしてあります。
その材木をトラックに積んで走っていたところ、
横を走っていた乗用車の上へ何十トンという大きな丸太が荷こぼれして、
その車がペッチャンコになって三十センチぐらいに潰れてしまいました。
その時、車に乗っていた人はかすり傷一つなかたのですが、
こういうことは、普通では考えられない出来事ですね。
車が潰れているのに、中に乗っていた人がかすり傷もないというのは、
これは正しく守護霊の働きだと思います。
また、絶壁から車が飛び込んだのに、
途中の木に引っかかって助かったという場合に働きをして下さったのも守護霊様です。
私たちの心の中に住んで下さっていますから、
どんな所へ行っても安心して生きることができます。


              ~ 感謝・合掌 ~



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「心行の解説」より。

2013-12-23 01:11:56 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

                          ~ 恩師の「心行の解説」より ~


                            「己自身は孤独に非ず」


                   私たちは、自分は一人ぼっちである。
                   自分はたった独りであるという錯覚をおこしておりますが、
                   たとえ山奥で独り迷ったとしましても、私たちの魂の奥底にはちゃんと父なる
                   神が共にいて下さいます。
                   これは「インマニエル、我、神と共にあり」であって、絶対に孤独ではありません。
                   仮に孤島に漂流しましても、
                   その場所にはちゃんと神様があられて私たちと共にいて下さいますし、
                   守護・指導霊様もついてくれるのですね。
                   しかしこのことがなかなか分からないのです。
                   地球上のどこへ行きましても一つの神様があられて、そこは慈悲と愛に満たされております。
                   東京であろうが、或いは地球の裏側であろうが、
                   真の神様の慈愛に包まれていることを知ることですね。


                               ~ 感謝・合掌 ~





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「心行の解説」より。

2013-12-22 04:28:04 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

                            ~ 恩師の「心行の解説」より ~


               先の続き・・・

               「今日一日増上慢にならなかったか 自信過剰にならなかったか」
               「今日一日卑屈になってはいなかったか 今日一日謙虚に生きられたか 
               礼儀正しく生きられたか 柔和であったか」
               「今日一日相手の立場に立ってものを考えられたか 心から相手の立場に立てたか
               人々に対して差別の思いはなかったか 人様を心から許させていただいたか」
               「何か一つぐらい善いことを行ったか」と、このように自分自身を毎日毎日調べてみますと、
               いかにできていないかということが分かります。
               できていないことが分かりましたら、次は実践し、行えばいいのです。
               できていない分を行うことです。これを行いますと知らない間に魂が浄化していきます。

               ですから私の所に禅定に来られる皆さんのお顔はすごく安らいでおりまして、綺麗なお顔です。
               皆さんが安らいだお顔に変わっていかれるのは魂が浄化していくからです。
               魂とお顔とは比例して、魂が浄化されると顔も浄化されます。
               この肉体は私たちの魂の表現体、お顔は魂の看板、眼は魂の窓です。
               ですから窓の中をちょっと覗きますと、その人その人の心の中は丸見えでございます。
               立派な窓を付けているのですから、なにも不思議なことと違います。
               私たちは反省することによって、魂が浄化されていきます。
               このことを悟りなさいと、「心行」に書いていただいております。


                                 ~ 感謝・合掌 ~




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「心行の解説」より。

2013-12-21 03:41:17 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

             ~ 恩師の「心行の解説」より ~


先の続き・・・

そこでこの煩悩ですが、眼・耳・鼻・舌・身の五官の感覚が煩悩の原因になっておりますから、
この五官を調和することです。そのためには常に中道を根本として、
つまり善意なる第三者の立場に立って自分と相手を見ていくことです。
「中道の立場を根本として己の正しい心に問うこと」の正しい心とは反省させてもらうことです。
常に反省させていただくことが、自分の正しい心に問いかけていくことになります。
ですから私たちは常に自分を見詰めて、己自身に間違いがないか、欠点をつくらなかったか、
悪い癖を出さなかったと、自分の姿を厳しく見ていくことが大事です。これが反省です。
そして反省させてもらうということは自分自身の魂が清められていくということです。
清めらるということは汚れがとれてくことですね。

私たちはかれこれ十数年間、せめて今日一日の生活はどうであったか、
正しい道から離れていなかったかについて三十~四十項目を作りまして、心の検査をしてきました。
「今日一日腹を立てなかったか 愚痴をいわなかったか 人の悪口を言わなかったか
人様を謗らなかったか 恨んだり憎んだりすることはなかったか」と、
各項目に分けてその日一日をずっと調べていきます。
もし犯した過ちがありましたら、すぐに「しまった、今日は腹を立ててしまった」
「ああ自慢してしまった」「心の中に恨み心が残っていたなあ」と明瞭に浮かび上がってきます。
そして「明日の生活の中にこの過ちを再び犯さないように努力します」と誓って、反省をするのですね。
毎日毎日休むことなしに今日一日の反省をさせていただきますと、私のような鈍(どん)な人間でも
阿呆の一つ覚えという言葉のようにだんだんと心の運転が上手になって慣れてくるのですね。


               ~ 感謝・合掌 ~





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「心行の解説」より。

2013-12-20 01:06:18 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

                        ~ 恩師の「心行の解説」より ~


                 先の続き・・・

                 常に謙虚であって、人様の言葉を素直な心で聞かせてもらい、
                 もしも自分に間違った面があれば素直な心で自分を見詰めますと、
                 「ああ、私のこういう点がいけなかったなあ、これを何とか改めていこう」
                 というように思えるはずです。
                 私は過去も今もですけど、全くできの悪い人間でございまして、
                 まだ今のほうが少しはましにならせてもらいましたが、過去はとりえのない
                 人間でしたね。何でも都合の悪いことは全部人のせいにして、
                 都合のいいことがあれば全部自分のせいにします。

                 人間の持っている最も深い業で、この宿業をそのまま現わしておりました。
                 しかし法にご縁を戴きまして、自分の愚かさ、
                 自分の至らなさを学ばせていただきますと、人様を責めたり人様を裁いたり
                 するような資格はないことが分かってきました。
                 そうしますと人様のことは気にならなくなります。
                 人様よりも先ず自分を正さなくてはいけない、自分の悪い癖、欠点を
                 直さなくてはいけないということに目覚めてきます。


                             ~ 感謝・合掌 ~




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「心行の解説」より。

2013-12-19 00:21:02 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

                                  ~ 恩師の「心行の解説」より ~


                         前回は生老病死の苦しみによって自分自身の本性も忘れ去ってしまうのは、
                         人間の持っている煩悩によって曇るからだというお話をしました。
                         この煩悩のもとは、私たちの眼・耳・鼻・口・体の五官ですから、
                         人間はもともと煩悩の塊なのですね。
                         煩悩の塊であると思って間違いありません。なぜかといいますと、
                         この五官は全部私たちの身を守るために与えられたものですから、
                         自己を中心としてものを見、聞き、触れ、舌で味わって、
                         都合の悪いものはみな避けるように造られているのです。

                         嫌なものは見たくない、嫌な言葉は聞きたくない、
                         口に含んで嫌なものは吐きだしてしまうのは、
                         すべて自己保存のために与えられた道具の働きによるのです。
                         ですから五官を通してものを見たり聞いたりしているということは、
                         「私は絶対に間違っていない」と思ってみましても、
                         すでに間違っているということです。
                         すでに自己保存と自我我欲という色眼鏡がかけられているわけで、
                         この自己を中心として見ることが煩悩になってくるのです。

                         煩悩から私たちが逃れる方法、煩悩に振り回されないものの見方、
                         聞き方、話し方とは、常に自分という立場を離れて相手の立場に
                         立って物事を見聞きする訓練をすることです。
                         奥様はご主人の立場に立ち、ご主人は奥様の立場に立って常に
                         相手の立場からものを判断させていただくようにしますと、
                         自分から離れた見方ができます。


                                     ~ 感謝・合掌 ~



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「心行の解説」より。

2013-12-18 01:27:37 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

                ~ 恩師の「心行の解説」より ~


             「反省の心は己の魂が浄化されることを悟るべし」


         反省しなかったら何時まで経っても自分の心は清まりません。
         反省の方法には、自分が生まれてから今日までを徹底して集中的に反省する仕方と
         今日一日どうであったかを反省する方法があります。
         今日一日の己自身の生活はどうであったか、行いの上で、言葉の上で、思いの上で
         間違いを犯さなかったかという点を調べてみることです。
         もし過ちがあれば「これは悪かった、どうぞお許し下さい。明日の生活に再び
         この過は犯さないようにいたします」と、誓うことです。
         それをしないと何時まで経っても過ちを繰り返してしまいます。

         過ちを重ねてだんだん心の中が真っ黒になります。
         真っ黒になると同時に重くなっていきます。真っ黒であれば迷う以外にありません。
         暗闇の中は迷いの世界です。そして重くなればどこかへ落ちていきます。
         落ちる先は地獄です。
         地獄に落ちますと私たちの魂のふるさとにはなかなか帰れません。
         この世では「人の振り見て我が身を直す」という教えを行うことができます。
         他を見て自らを正すように仕組んでいただいております。
         過があればその人の過を見て自分を正させてもらい、
         素晴らしいお方に学んでいくことができます。

         しかしあの世に帰りますと、すべて同じ段階の方ばかりの集まりですから、
         比べるものがなく、悪い人は悪い人ばかりが集まっており、
         またいい人はいい人ばかりという世界で、自分と同じ段階の者ばかり
         寄り集まっていますから、他と比べて自分を正すことができなくて、
         それが当たり前となるのですね。
         ですから肉体を戴いている今こそ、魂の修行をさせて戴く最も大事な
         一瞬一瞬として神から与えられていることを知りたいと思います。
         過ぎた時は再び返りませんから、
         「今」の一瞬一瞬を真剣に生きていきたいと思います。


                       ~ 感謝・合掌 ~




























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「心行の解説」より。

2013-12-17 06:09:06 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

        ~ 恩師の「心行の解説」より ~


      「己の正しい心に問うことは反省にして」


中道を根本として己の正しい心に問うにはどうすればよいかというと、
自己反省ををすることですね。
反省をすることによって片寄りのない中道の生活ができるのです。
物事を正しく見る方法として「八正道」の中に八つの正しい生き方が説かれています。

まず第一番に「正しく見なさい」と正見を説かれています。
見方が間違いますと、思い方が間違うのです。
思い方が間違うと言葉が間違います。
言葉が間違いますと行い(仕事)が間違います。
このように八つの正しい生き方の内の根本になっておりますのが、
正しく見ることで、すべてはここから始まります。
それには常に反省を繰り返すことで、反省なくして自己の心を知ることはできません。


              ~ 感謝・合掌 ~



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