浄心庵・長尾弘先生「垂訓」

八正道と作善止悪

「御垂訓」

2021-02-28 00:16:36 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓
  
   恩師のご著書「講演集」より

                講演集、三

             誤った信仰の怖ろしさ


先の続き・・・

「私は、あなた達親子さんに対して、どれほど忙しくても週に一回は必ず
お訪ねしたはずです。そして、私のできる限りのことをさせてもらいました。
しかし、私は何を求めましたか。一切の求める心は無かったはずです。
びた一文言いましたか。また助兵衛根性を出しましたか。たださせていただく
神のみ心を私が現わしただけです。この身をもって神のみ心を具現していたのです。
その思いを仇で返すことをしてはなりません。私は何とも思っていません。

しかし、神はそれをご存知です。だから今、真の神様に対して、
「私たちの犯した罪をお許し下さい」と言って祈りなさい」と言いました。
そして、「神よ、この者達の罪をお許し下さい。神の慈悲と愛をお示し下さい」
と祈りましたら、お母さんはいっぺんに生き返られました。
今まで見動きもできなかった方が、側にあるティシュを引っ張り出して、
「もう、あきません、このティシュ一枚ちぎる力がないんです」と言って、
ティシュをいっぱいちぎっているのです。
こんなにちぎっていてあんな嘘を・・・(大笑い)。


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「御垂訓」

2021-02-27 00:02:09 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓
 
       恩師のご著書「講演集」より

             講演集、三

          誤った信仰の怖ろしさ


先の続き・・・

そいうことをしていますと、
だんだんとお母さんの身体が悪くなってきて、
十月頃になって弱りきってしまったのです。
その先生にお伺いを立てますと、「来年二月十五日までの命です」とのこと。
偉い先生だと信じている方の予言だから、もう皆で信じて、お母さんの枕元で、
あと四カ月先のお葬式の相談をする始末、
お母さんも落ち着いて生きていられません。
あと何日と数えながら暮らして、ちょうどあと二週間と言う時に、その娘さんが、
「お母さんが死ぬまでに、もう一回先生の顔を見たいと言っています」と言って、
私を呼びに来たのです。

そして私に、「その先生は偉いのです。私の夢の謎を全部解いてくれました」と
言いますから、「そんなに偉い先生だったら、その先生に救うてもらいなさい。
あなたは向こうで駄目だと言っている私の所になんか
頼みにくるのはやめなさい」と言ったのです。
「いや、あの先生は心は直してくれるけど、肉体は治してくれないのです」
と言いますから、そこで私は、「もう行く気がありません。行けば、また
あなたは私の悪口を言うて歩くでしょう。行きたくないのです」と言って
断りました。

それでも、死ぬニ週間前になっているから、何とか来てほしいと言われるので、
「では行きましょう。でも、私は行ったとは思いません。一陣の風が吹くように、
スッと行ってスッと帰りましょう。あなたもまた来てもらったと
意識してはなりません。
来てもらったと思えば、またなんとかかんとか
言わなければいけないから」と言って訪ねたのです。
すると、もう骸骨を張ったようで、完全な死相を現わした死人同様です。
見動きもできない有様です。


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「御垂訓」

2021-02-26 00:05:48 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

        恩師のご著書「講演集」より

            講演集、三

        誤った信仰の怖ろしさ


先の続き・・・

私の指導霊は、
「夢に囚われてはいけません、現実に生きなさい」と言いますから、
頼りなかったのですね。
その方は、「高橋信次先生の夢も、
弘法大師さんの夢も、私の謎を全部解いて下さいました。
こんなに偉い先生はいない」と言って、そちらへ行きますと、
「あんな長尾先生はしょうもない」ということになって、
いっぱい悪口を言ってくれます。

又、その先生は「あなたの光は長尾先生など足元にも
寄り付けない光です」
と指導しますから、その人は今まで私のことを先生、
先生といっていたのが、
急に長尾さんと呼んでくれます。
私たちが禅定させてもらっていることについても、
「あんなことして駄目、あれは正座と静座の間違いを犯している、
せい座というのは正しく坐ることとは違う、
静かに坐ることが静坐だ」と言われます。

私の所では、一時間坐って反省しますが、
私は正座のほうが楽だから、正座して坐ります。
皆さん、坐るのは自由です。
しかし、この場所を見ずに、ただ非難中傷をされて、
それをまたいちいち私に報告してくれるのです。


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「御垂訓」

2021-02-25 02:18:08 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

   恩師のご著書「講演集」より

                講演集、三

            誤った信仰の怖ろしさ


先の続き・・・

ある時、そこの研修会だと言って、
動けないリューマチのお母さんを一人放って、
娘さんと息子さんが三泊四日の研修会に行ったのですが、
私には何とも言ってくれないので、私が訪ねると、
お母さんは一人で食事もできないでいますから、

私は朝、昼とお弁当を買いにいって食事を運んだのです。
私は無精で自分のご飯だったら、一度や二度は食べないのですが、
人の食事でしたらそういうわけにもいかないから、
お弁当を買ってきて運んでいました。

そうしているうちに、その方は完全に私ところから離れました。
というのは、その方は、夢の話をよくされるのです。
高橋信次先生が夢の中に出てくれて、こうこうおっしゃいましたとか、
私は弘法大師さんが出てこられてこうおっしゃいましたとか、
いろいろ言われるのです。
私は、「また夢のことを言っているのですか。
人間は目覚めて活動する日々の生活の中で魂の修行をしているのであって、
夢の中で修行はできません。

ちゃんと目覚め、この五官をもって魂の修行をしているのですから、
夢に囚われるよりも、起きている時にしっかり法を行じなさい」と、
そういう指導しかしませんでした。
ところが、そちらの先生の所へ行って、
「夢の中に高橋信次先生が出てくれました」と言うと、
その先生が、「ちょと待っていなさい。

それはいつのことですか」と聞かれるので、
「何月何日」と答えると、
「ちょっと天上界へ行ってしらべてきましょう」と言って、
その先生が天上界へ行ってこられたそうです。
そして、ポッと戻ってきて言うことに、

「あなたたの夢は本当ですよ。その日は天上界で
高橋信次先生は留守でした(大笑い)。
だから、あなたの所に来ていただいたのは本当です」。
すると、まあその方が喜んでしまったのです。
そこで、私が「それでは弘法大師さんが来て下さったのは
どういうことですか」と尋ねましたら、

その方の腰巾着のようについて歩いていたKという方があって、
もう五、六年前からその方は離れているのですが、
「K先生はお大師様の生まれ変わりです。
だから、あなたをここに導く為にK先生の霊が
導きにいっていたのです」と言われたというのです。


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「御垂訓」

2021-02-24 00:03:14 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

        恩師のご著書「講演集」より

             講演集、三

         誤った信仰の怖ろしさ


先の続き・・・

ある方が「長尾先生の光の近くに寄せてほしい」と言って、
家を売り払ってこの忠岡に引っ越してこられたのです。
私は「来たらいけません。
光は近くの者にも遠くの者にも関係ないのです。
心さえこちらに向けてもらったら、それでいいのです。
来るのは止めなさい」と言っているうちに、
とうとう引っ越して来られました。

それで私も放っておけないので、
どんなに忙しくても一週間に一度は必ずお訪ねしていました。
というのは、
その方のお母さんはリューマチで娘さんがお世話なさっているのです。
こちらに移ってくると聞きました時、私は周囲の者に、
「あの方はこちらに来ても、
どれだけ私が尽くしても、
必ず私の悪口をそこらじゅう言って歩くから見ていなさい」と
言っておいたのです。

それが私は分かるから、
その方の為にできるだけのことをさせてもらって尽くしました。
一週間に一度は必ず行って光を入れたり、
治療をさせてもらったりして、その方の為に尽くさせてもらっていたのです。
こちらに越してきてしばらくしてから、その方はさほどお話した大阪の自称
イエス・キリスト様に縁ができたのです。
そして、私の所からそちらへ替わっていきました。
そうしますと、私の悪口をいっぱい言ってくれるのですね。
前もって私が予測していた通りにしてくれます。



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「御垂訓」

2021-02-22 23:55:28 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓
  
 ~ 恩師のご著書「講演集」より ~

               講演集、三

            誤った信仰の怖ろしさ


或る時、大阪でやはり正法の神理を伝えている方があるのを知りました。
この方は、過去世の言葉をペラペラと喋り、そのグループの方も過去世の
言葉を喋ります。
「高橋信次先生が亡くなられた後、また、こういう方が現れて下さって
有難いことだとなあ」と思って、一度お話を聞きに行ったのです。
初めてお会いしますと、私のことはよく知っておられて、「よく来てくれました」
と合掌して迎えてくれ、「まあどうぞ前に坐って下さい」と言って、私のことを
褒めてくれるのです。

「私は神に祈ります。私は何の力もありません。しかし、祈ることによって
神はその御業を現わして下さいます」というお話をさせてもらったのです。
すると、その先生が、「長尾先生は祈るという言葉をよく使われますなあ、
生年月日はいつですか」と聞かれるので、それを言いますと、「アガシャ系
ですなあ、アガシャ系の方が祈るというのはおかしいですなあ」とおっしゃるのです。
「先生はどうされるのですか」と聞きますと、「私は神と一体です」と言われるから、
「こりゃ偉い人だなあ」と思ってびっくりしました。

その後、二回目にお会いしました時に、ある方に光を入れておられたのです。
「大宇宙、大神霊、仏よ、当体の骨髄を通し、当体の意識に光をお与え下さい。
天上界の諸如来諸菩薩、光の天使よ、どうぞ光をお与え下さい」と、一生懸命
祈っておられるのです。
「一つも祈らないと言われたのに、私よりもたくさん祈っていられるなあ」と
思ったのです。

私は「神よ、光をお与え下さい。どうぞ神の御意志を、
調和と安らぎをお示し下さい」とお祈りするだけですのに、
その先生はそれを三回も五回も祈られるのです。
それでも、病気はちっとも治らないのですね。
それで、そういうところから疑問を抱き、「これはおかしいのではないか」と
思ったのわけです。
おん自ら、イエスを名乗っておられました。
その他にも、いろいろ面白いエピソードがあるのです。



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「御垂訓」

2021-02-22 00:03:30 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

         恩師のご著書「講演集」より

             講演集、 三

       曇りのない幼子には神の光が見える


今日お見えになっているAさんが、
今負ぶっていられるのは、生後十カ月の
赤ちゃんです。
「神よ、どうぞこの新しい命に光をお与え下さい。
祝福をお与え下さい」と、
祈っておりますと、誰も教えていないのに、
ちゃんと正座なさって合掌されたのですね。
何とも清らかな赤ちゃんのお姿です。
その写真がここにありますから、
あとで見せてもらって下さい。
ほんとうに仏様ですね。

こういう幼い子は、神の光を見ることができるのです。
それは心に曇りがないからです。
今おいでにいただいているY先生のお孫さんも、
幼い頃に、「ああ、光ってる、
光ってる。お母ちゃん見えないの?」と、
言っていました。
お母さんには見えないのですけど、
幼い魂は神の光をちゃんと見ておられるのです。

窓も天井も畳もみな光っていたのですね。
家でおじいちゃんがどんな色だったかと、
金や銀の入った色紙を買ってこられて、
その光と同じのがあるかと尋ねられたら、
金色の紙を指して、「この色だ」
と言ったのですね。

おじいちゃんは理科の先生で科学者です。
だから、暗示を与えてはいけないので、
この中にその色があるかというように
尋ねられたら、「これだ」と指さしたそうです。
金色に光り輝いているのですね。
すばらしい一つの現象です。



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「御垂訓」

2021-02-21 00:12:23 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓
  
 恩師のご著書「講演集」より

                講演集、 三

            内なる心は神理を知る


ここに来て、寒い戸外で一晩待っていただいた方とか、
初めてお会いしたのに、涙が止まらなくなるという方などがよくあります。
年配の方もそうです。
若い方もそうです。
ある奥さんですが、環境が厳しくて、おじいちゃん、おばあちゃん、
そして気難しいご主人という家庭で、
結構なお宅だけに重荷が大きかったのですね。
どんなことがあっても、泣いてはいられないと必死に生きてこられたという方と
ご縁があって、訪ねて見えました。

すると、ここに入ってこられるなり、
泣けて泣けてどうにもならなかったそうです。
まだ私の顔は見ていないのにです。
ただ坐られただけで、もう泣けてきて、「先生、恥ずかしいです」と言って、
泣いていられるのですね。
「私は涙の無い人間かと思っていました」と言われますが、それは耐えて
耐え抜いて生きてこられたからです。
それがこの場所に入ってこられると、突然安らぎに包まれたのですね。

「恥ずかしいです」と言って、泣いていられますので、
お話させてもらいました。
「いや恥ずかしくはありません。それは法雨です」と、
さきほど、皆さんが流された涙も、
お互いに心の中にちゃんと自覚しているからこそ、
こみ上げてくるのです。

それを教えてくれる人がなかったのです。
ですから、私たちは、尊い使命を頂いているのだと自覚してもらって、
一人でも多くの方に幸せになっていただくように
頑張っていかなくてはなりません。
使命を持っているからこそ、こうして集えるのです。

私のテープを初めて聞いて、泣きながら聞いて下さる方が多いですね。
なぜ、こんな私の話を涙を流して聞いていただけるのかというと、
それは内なる心が知っているからです。
皆さんと何ら変わらない、
皆さんよりなお至らない未熟な私ですが、そんな
私のとりとめのない話で、同じことを何度も話していると思いますが、
神理は一つだということです。

神理は変わっていないから、同じことをしゃべるより他ないですね。
高橋信次先生のテープも、何回も聞いてみますと、
みな同じことをおっしゃっています。
ですから、話は一回でいいのですね。
それを、「どこのテープがよい、
四国での話のテープはよい」と言ったりしてます。
初めての所へ行きますと、
安心して同じことをしゃべっております。


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「御垂訓」

2021-02-20 00:29:08 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓
 
    恩師のご著書「講演集」より

               講演集、 三

            太陽の心を実践する


先の続き・・・

神は言われます。
「私の思いをあなた達がその肉体をもって具現しなさい。
この地上に示し現わしなさい」と。
神様のみ心を理解させてもらうのに最も身近な分かり易いつかみ方は、
常に太陽を理解させてもらうことですね。
神を知りなさいと言っても、神様はどこにおられるのか分かりません。
お姿もなければ、声を聞くこともできません。
「いや、わしは神の声を聞きますよ」と言って、
「ヤー」と拝むのは、あれは絶対に神様ではありません。
九十九パーセント神様ではなくて、あれは悪しき霊の声と思って下さい。
真の神はそんなことはおっしゃらないのです。

自然の姿の中に神はみ姿、み心をすべて現わして下さいます。
それが、いろんな法則となって示されています。
原因をつくれば、必ず結果が出ます。
作用を起こせば、必ず反作用します。
重いものは必ず下へおりてきますし、軽いものは上がっていきます。
万有引力の法則ですね。
私は今まで間違っていたから、何とか正しいところへ帰りたいと思っても、
持ってきた間違いの方へ当分は行こうとします。
慣性の法則ですね。

これらの法則の中に、神が「この世はこのようになっているのだ」と示されています。
言ってみれば、物理の法則です。
それをよく理解させてもらって、
その中から私たちの日々の生活を学んでいきたいと思います。
こうして、今日集いましたことは、「お互いにこの世の為、人の為に、
人々を救うていきましょう」と誓い合った心の仲間、
心の友であることを自覚して、
日々の生活に頑張っていきたいと思います。



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「御垂訓」

2021-02-19 01:02:49 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

       恩師のご著書「講演集」より

              講演集、 三

           太陽の心を実践する


先の続き・・・

人は生活しなくてはいけません。
人の家の前に立って、お茶碗に食べ物を恵んで下さいというのは、
昔の日本でもありましたが、しかし現在の日本では通りません。
正しく仕事をし、生活基盤というものを安定させて、
そして余った時間で隣人に愛の手をさしのべていくのです。
隣人を救い、或いは正しい教えに導くことです。
お釈迦様も、二千五百年前に八正道の中に正しく仕事をせよと、
その項目の四番目に説いていられます。

仕事をすることによって、生活の基盤が安定します。
仕事をしない者は、生活の安定が望めません。
これは当たり前のことですね。
現在であれば、有難いことに土、日曜とお休みの方もありますし、
日曜だけお休みの方もあります。
その時に、どれだけ無償の善き行いを積めるか、
どれだけ無償の愛を施せるか、そのことによって心の中は、
「ああ、良かったなあ、あれだけの人が喜んで下さった、
これだけの方が救われた」という喜びに満たされます。
その喜びは神様から頂いたものです。

お金や物とは違うのですね。
心の安らぎであり、心の中の平安です。
私が夜も寝ないでハードスケジュールで飛び回っている時、
「先生、無理せんといて下さい」と、よく言われますが、
私は、「自分の命を精一杯燃え上がらせて、
燃え尽きてしまいたいと思っています。
自らの命を人さまの為に燃え尽きさせた時、
満ち足りてあの世へ帰れます。
私は自分の命を燃焼させてもらっています」と、
よく話させてもらいます。


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「御垂訓」

2021-02-18 00:24:36 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

 恩師のご著書「講演集」より

            講演集、 三

         太陽の心を実践する


その為には、日々の生活に、神の子としての使命を果たしていかなくては
なりません。
あの太陽の心をわが心に頂いて、日々の生活で太陽の心を行うことです。
自分を犠牲にしてでも、他に慈悲と愛を与えさせてもらうことで、
これは自らを犠牲にしないと与えられません。
太陽は自らの命を燃え上がらせ、自らを燃焼させます。
私たちも、この肉体を動かしてその労働力によらないと、
他に愛は与えられません。
行動、善なる実践です。

この時、太陽の心を自分が行うことができます。
そして差別しないことです。
誰方(どなた)に対しても、好き嫌いがあってはいけません。
好き嫌いのあるのが当たり前ですけれど、
これを無いようにするのが修業ですね。
嫌いな人が少なくなるほど、私たちは安らぎます。
嫌いな人が多いほど、私たちは地獄へ行きます。

人の悪口ばかり言っていますと、必ずその人から言い返えされます。
すると、又自分が言わなくてはいけないようになり、これは地獄です。
神を賛美し、神を褒めたたえるとは、汝の隣人を褒めたたえ、自分の身近の
方のすばらしいところを見付けて褒めたたえることで、
それは、神への賛美になります。

隣人を非難し、隣人をくさし、そして神よ神よと言っても、これは駄目です。
そんなものは神に通じません。
太陽の熱、光は無償の愛です。
一切の報酬をお求めになりません。
私たちも自分の余った時間で、無償の愛を行うことです。


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「御垂訓」

2021-02-17 00:02:27 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

       恩師のご著書「講演集」より

           講演集、 三

      正しい教えを知れば、死は恐くない


この世を去ります時、最期の手向けの水が頂けなかった
霊が出てきますと、
「水を下さい、水がほしい、水がほしい」と言います。
「あなたは手向けの水を受けることができなかったのですね」と
聞きますと、「そうです」と言います。

死んだ時に水を口につけてもらって、
あんなものに満足して暗い世界におられます。
もし、その水が無かったら、「水がほしい、水がほしい」と言って、
迷っているのですね。
ところが、ほんとうの帰るべき世界を知り、
正しい教えというものを知っておりますと、
そんな水もお茶も要りません。

供えてもらわなくても、自分で作れるのです。
ポッと出てくるのです。
そういうすばらしい世界に帰ることを知ったら、
なぜ私たちは死を恐れる必要がありますか。
すばらしい世界に帰っていくのです。


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「御垂訓」

2021-02-16 00:23:18 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

 恩師のご著書「講演集」より

               講演集、 三

          ご先祖様への供物は感謝の形


では、お仏壇の前で「さあ、早くご先祖様召し上がって下さい」と言って、
ご仏飯をよそって差し上げましても、一体、あんな小さいご仏飯にご飯粒が
何粒入っていると思いますか。
私たちのご先祖様は、三十代も溯りますと、十何億という数になるそうですから、
「ご飯を召し上がって下さい」と言って、差し上げても、ご仏飯の中に
何億ものご飯粒は入っていません。

よくあっても、何百粒でしょから、これではご先祖様に足りません。
あるお宅へ寄せていただきましたら、お仏壇に、
湯呑みが四十数個も供えてあるのです。
それにお茶を入れて、毎日お茶湯(ちゃとう)されています。
またあるお宅へ行きますと、大きな丼茶碗に何杯もお茶が供えてあります。
丼茶碗にです。
なるほど、大きな丼茶碗、或いは四十個もの湯呑みをずうっと並べまして、
お茶をなみなみとついで供えていましても、私たちのご先祖様はそんなに
少なくないのです。

これでは、ご先祖様にはとても足りません。
極楽へ行きますと、ご飯と言えばすぐ出てきますので、
何の不自由もしないのですね。
ですから、ご先祖様にお茶を差し上げ、炊きたてのご飯を供えるのは、
「ご先祖様のお陰で、こうして温かいご飯を頂戴できます。
ありがとうございます」と言って、感謝の気持ちを形として表すのです。
ですから、「ご先祖様、食べてください」と言って供えますと、ご先祖様は
難儀されます。
ご飯の取り合いをして、「俺の飯、もうない」と、必ずそういうことになります。
お茶もそうです。
阿弥陀様など三尊様には、一つずつで三つ差し上げたら足りますけど、
ご先祖様にはとても足りません。


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「御垂訓」

2021-02-15 00:32:55 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓
 
恩師のご著書「講演集」より

             講演集、 三

         極楽は肉体のない自由世界


では、あの世に帰る時に、皆が体験しなくてはならない死というものを、
どのようにして迎えたらいいか。
それは、一番最初に話させてもらいましたように、この世に生まれた使命、
目的をよく分からせていただいて、それを少しでも多く積み重ねておくことです。
その時、安心して帰ることができます。
もし、行いが不足していたら、これは心配ですね。

「帰った時に魂の兄弟の方に心配をかけるかな、怒られるかな」と思いましたら、
これは心配ですが、まあ、その心配の前に暗い世界へ落ちてしまいます。
そんなことにならないように、日々を充実して、「ああ、今日一日はほんとうに
有意義であった、いい一日を過ごさせてもらって有難かった」という、一日
一日を積み重ねることですね。

その時。死とは見えない隔たりをポッと隣に変えるだけです。
そこには、この世に生きたのと全く同じ自分がおります。
しかも、肉体のない自由な自分ですね。
この肉体とは、不自由なものです。

ここまで来て頂くのに、飛行機に乗っていただいたり、
或いは船に乗っていただいたり、新幹線やローカル線に乗って
ここへ来ていただきますけれど、あの世の意識の世界に帰ろうと思えば、
一瞬にその場所に移動します。
瞬間テレポートを起こします。
地球の裏も一瞬の間です。
想念は光より早いのです。
光は一秒に地球を七回半まわるそうですが、
それよりもなお早かったら、
地球上ぐらいアッという間にどこへでも行くことができますね。
それほど肉体のない世界に入りますと、自由な世界です。

しかも極楽は、自分の望むものが何でも即、現れる世界です。
ここに綺麗な花を生けていただいて、そしてあの世に帰ってから、
「あの時、綺麗な花を生けていただいたなあ、
もう一度見たいなあ」と思いますと、
この花がパッと出て来るのです。
全く変わらないものが、その場で現象化します。

「あの時のカレーライスはうまかったなあ、
あれをもう一度味わいたいなあ」
と思いますと、パッとカレーライスが出てきます。
お饅頭もそうです。
しかし、こういう食べ物だけに心を奪われおりますと
、極楽には行けませんが、
譬えてみれば、そういう世界です。



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「御垂訓」

2021-02-13 23:51:44 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

 恩師のご著書「講演集」より

               講演集、 三

               念仏の功徳


北陸地方に行きますと、あちらは、
今でも他の宗教の入り込む隙のないほど、
念仏宗のさかんな所です。
「只一念、念仏申す、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と、やっておられます。
この「南無阿弥陀仏」、「只一念、念仏申さば、善人なおもて往生をとぐ、
況や悪人をや」という言葉が「歎異抄」にあるそうですね。

お仏壇の前だけで、またはお寺で、ただナンマイダ―、
ナンマイダーと言っただけでは駄目です。
四六時中唱えていると、ご利益があるのです。
他力では救われないという極論もありますけど、
それはそれで、救われるのです。
というのは、人間の心はどんな器用な方でも、
二つのことを同時に思うことはできません。
必ず一つ一つしか思えないはずです。

悲しい時は悲しいだけ、嬉しい時は嬉しいだけの、
その一つ一つしか私たちの
心は動いておりませんから、南無阿弥陀仏と唱えている間に、
「あいつをド突いてやろか」と、同時には思えません。
人間の心の構造からして、他の思いが入り得ないのです。
ああ、結構だなあ、ナンマイダブ、ナンマイダブツと唱えていますと、
これは感謝の心にもつながります。
どの宗教も、「感謝をしなさい」と言いますが、
「なぜ感謝しなくてはいけないのか」という、
ほんとうの意味を教えてくれません。
しかし、「ありがとう、ありがとう」と感謝しますと、
その時間は他のことを思えないはずで、もし、
感謝の時間を一時間持続しましたら、今日の日の
一時間の間は、自分の心の苦しみとなる怒りや憎しみや謗り、愚痴、或いは
恨み、取越し苦労、不安、恐怖、或いは嘘、盗みの心は入ってきません。
「ありがとうございます」と言いつつ腹を立てることはできないはずですから、
その時間が長ければ長いほど、その方の一時間、二時間が喜び、満足に
みたされます。

安らかな喜びの時間が長くなります。
今日という一日は、私たちのかけがえのない一日です。
又、明日がある、明日やればいいと思いますけど、
今日という日は私たちの人生に再びは巡ってきません。
平均寿命七十年、日割り計算しますと、僅か二万五千日そこそこです。
その中の今日の一日です。

二万五千日のうちの今日の一日は完全に消え去っていきます。
余所の方が亡くなったと聞くと、「ああ、若いのになあ」と、
まるで人ごとのように思いますが、しかし、これは自分の姿です。
やがて自分に訪れるのがあの死の姿ですね。
人ごとではありません。
この世に生まれさせていただいた以上、
誰も永遠に生きることは許されません。
必ずあの世に帰っていかなくてはいけないのが、
私たちの定めです。

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