浄心庵・長尾弘先生「垂訓」

八正道と作善止悪

「垂訓」

2024-02-29 00:05:00 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓
 
恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


          第五章 心の曇りをとるための反省

先の続き・・・

赤ちゃんの顔を見るとかわいくて安らかです。
心に曇りがないからです。
オギャーと生まれた時には私たちの誰もがあのようなきれいな顔、
安らかな心だったのです。
それがいつしか世の中の風に当たり、
様々な人との出会いや色々な出来事の中で苦しみを
経験して心を曇らせ、顔の表情を曇らせ、
顔つきまでも変えていってしまうのです。

そして、
ついには元来の自分というものの心がどれほど綺麗で平安に満ちていたかも
忘れてしまうのが、多くの人間のこの世の生活のならいです。
自分に不都合な出来事が起きるや、清らかな心は汚され始め、
顔も苦しみを表現し出します。
しかし、あくまでも心の本性は明るさであり、光だったのです。
なぜなら、心は神様から分け与えられたものですし、
これ以外に心はないからです。
闇の心というものは本来実在しないものです。
どういう運命や状況の中にあっても、この真実は変わりありません。
私たちが心から苦悩を取り除く方法を素直に実践していけば、
わるい運命や状況さえも好転してまいります。

私たちはもっと自由な存在なのです。
これは体験してきたことですから、嘘はありません。
では、どんな方法によって、心の本来の姿を現すことができるのでしょう。
毎日の反省ということによって、私たちは心の曇りを掃除することができます。
では、なぜ反省の必要があるのでしょう。
それは、
知らないうちに心にたまっていく塵や埃がだんだんと積もることによって、
いつの間にか心が重く、暗くなってしまうことのないように
反省を行なわなくてはならないからです。
不眠症の方が今日一日の反省をすると、よく眠れると言われます。



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「垂訓」

2024-02-28 00:23:35 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓
  
 恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


            第五章 心の曇りをとるための反省

         心は本来、明るく光り輝くもの

最初に一番大事なことを言いますと、
世の中ではこれまで間違った常識がまかり通ってきました。
それは、人間は生きている以上、
心に苦悩があるのが当たり前という考えです。
これが今迄の人生観をつくってきたのです。
そして、心というものと苦悩というものが
いっしょくたにされたまま、
苦悩にまみれた心というイメージがありました。

晴れてもすぐに曇り、
時にはドシャ降りというイメージが優先し、
本来の心がいかに清浄なものか、
もともと心はあたりを照らす明るい満月のような
存在だったということは、
ほとんど忘れられていました。
満月は雲に関係なく夜空に煌々と輝きます。
雲がその光を遮っているだけです。
心と肉体もこれと同じことです。


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「垂訓」

2024-02-27 00:12:00 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

     恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


      第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵

          ◆心ここにあらざれば◆

先の続き・・・

そうすると、実際に嫌な事が現れてこなくなります。
それでも時々、怒りを発したくなる状況が襲ってきたりして、
試されます。
しかし、怒りたくなっても、算盤を置いて損得勘定をし、
損だと思ったらすぐやめることです。
自分の心を苦しめる結果となるとわかったなら、
その苦しみの原因となる怒りや憎しみなどの感情を
発するべきではありません。
それに、人のことを非難したり、
人の悪口を言っている暇など本来はないはずです。
自分の心を汚さず、苦しめないための努力を続けることです。
一瞬一瞬を大切に生きることです。

道を歩いていて何か急ぎの用があるとか、
目的の場所に一刻も早くたどり着こうとあせっている時は、
周囲の景色が目に入りません。
その用事さえ済ませると、心にゆとりが出て、
ああ綺麗な花が咲いているなあと気がついたりします。
長い人生の中で常に心にゆとりのある日々の生活が、
自然や人間やあらゆる物事と心の交流を楽しみながら、
潤いのある心の旅路であるためにも、大切であるといえます。


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「垂訓」

2024-02-26 00:16:40 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


    第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵

         ◆心ここにあらざれば◆

先の続き・・・

今がよければ、次の瞬間もいいはずです。
実際には今しかありませんから、
いつも今の自分の心の状態を感謝と喜びと安らぎに
満たしていれば、これからもその状態であり続けます。
過去は二度と再び戻らないし、
未来というのはいまだ来ていません。
それらに心を煩わすのは愚かなことです。
幸せと喜びの種を一瞬毎に蒔いていくと、
やがては必ず自分のもとに返ってきますが、
これは人は盗むことができません。

いい事でも悪い事でも、自分で蒔いた種は、
結果として自分で引き受けなくてはなりません。
自分が蒔いた悪い種の結果を人のせいにはできません。
しかも、一粒万倍の法則といって、
稲が籾一粒に対してたくさんの株ができるのと同様に、
自分のつくった原因はいいわるいにかかわらず、
必ず利子がたくさんついて返って来ることになっています。
常に今に全力投球すべきです。
今どのような心の調和度のレベルに自らの心があるのかが、
いちばん大切なことです。

もし、怒りをいだいてしまったとしても、
それは次の瞬間にはすでに過去になっています。
怒りを一刻も早く捨てることです。
不要な感情を捨てる練習をしてゆくと、
最初は三日かかったのが、二日、一日とだんだん短縮されて、
ついには出でた瞬間に捨て去ることができるようになります。
すると、ほとんど感謝と喜びと安らぎの心の状態ばかりと
なってまいります。


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「垂訓」

2024-02-25 00:07:37 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

  恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


       第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵

            ◆心ここにあらざれば・・・◆

先の続き・・・

契約にこぎつけるまで、その方の心は一つの目的に向かいすぎるあまり、
その場のことがいっさい目に入らなかったのです。
いいえ、もっと正確に言えば、心がそこにないので、
たとえ目で見ていてもいっこうに意識にはのぼらなかったということでしょう。
これと似たようなことは、私たちの日常生活の中で常に起こっています。
交通事故を起こした方は、
ぶつかった時の状態がどうだったのかをほとんど覚えていないと言います。
なぜならば、心がそこにないからです。
だから、前に止まっている車が見えないで当たってしまうのです。
考え事をしながら運転していれば、信号にも気がつきません。
赤信号で前進したり、対向車とぶつかったりします。

満開の花の中に座っていてさえ花が見えないのなら、
赤信号が見えなくて当たり前です。
極端な場合は、広い道の真ん中で正面衝突をしている場合さえあります。
これは心が不在だからです。
いかに心が大切かということです。
朝の出勤前に夫不喧嘩をして、腹を立てながら車を走らせ、
ドーンとぶつかったりします。
心が夫婦喧嘩の中に行っているからです。
朝の出がけには、どうか気持ちよく送り出してあげてください。
現在の結果は、必ず過去の原因から来ています。
災厄から身を守るためにも、
喧嘩によって心の調和を乱すことはよくありません。


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「垂訓」

2024-02-24 00:05:39 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

 恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


       第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵

          ◆心ここにあらざれば◆

「目に見て見えず、耳にして聞こえず」という言葉があります。
以前、車にセールスマンが訪ねてきました。
軽四輪トラックを購入した時のことです。
一年間、一生懸命に手入れをし、
我が子のごとくかわいがっていたさつきの、満開の時期でした。
見事に咲いてくれましたから、
もう玄関から庭から座敷からいっぱいにさつきを取り込んでいました。
私が花の前で瞑想をしていますと、花の精が出て来てくれます。
花の精とお話をしたものです。
もう花が愛おしくて愛おしくてしかたがありませんでした。
そこへセールスマンの方がやってきました。

車をなんとか買ってもらおうと、一生懸命に勧めてくれました。
そして、書類に書き入れている間、
その方のお尻やひじがさつきに触れるので、花が落ちないか、
枝が折れないかと、その度に私は冷や冷やしておりました。
それで、書類ができて、それでは買いましょうということで判を押したら、
やっとその方が自分の心に帰られたのでしょう。
「ほう。きれいな花咲いてまんなあ」とおっしゃいました。
念のために聞いてみました。
「あなたは今までこの花が見えなかったんですか」と。
すると、「全然見えませんでした」と答えられました。
この出会いによって、私たちは花の中にあっても心がそこにないと
花が見えないのだということがわかりまた。


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「垂訓」

2024-02-23 00:22:21 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


      第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵

        ◆惚れてしまえばあばたも笑窪◆

先の続き・・・

図3を御覧下さい。
心を輪切りにしてみると、その断面の真ん中に想念があり、
思いによって心は常に変化しています。
或る時は知性的に、また或る時は感情的に、そしてまた、
本能的になってみたり、理性的になってみたりと、
何が主導権を握るかがいつも変わっております。
たとえば、本能と感情が異常に大きくなりますと、
知性と理性がへこんでしまいます。
下がとんがって、上が食い込み、ちょうどハート型になります。
すると、正しい見方ができなくなってしまいます。(図4参照)
この好例はなんでしょう。

恋愛をすると例外なく心はハート型になります。
調和のとれた丸い正常な見方で見ると、
なぜあんなに素晴らしい方が素晴らしくない方とおつきあいしているのかな
という場合がよくあります。
惚れてしまえばあばたも笑窪といいます。
顔中でこぼこになっていても、好きになってしまうと笑窪に見えるのです。
心がいびつになる結果、そのように見えるのですが、
第三者はなんであんな人を好きになったんだろうかと不思議に思うわけです。
本人は知性がきかなくなっているのです。

そして、結婚するまではきれいなおつきあいをしなさいよと親から言われ、
本人もそのつもりでいるのですが、理性のブレーキがきかず、
感情と本能をコントロールしきれなくなって、
女性のお腹が大きくなるような結果まで招いてしまったりもするのです。
昔からよくある話しです。
親の反対を押し切ってまで結婚しても、
しばらくすると心が丸く正常な状態となります。
「なぜこんな人と結婚したんだろう・・・」と、
不思議に思う人がよくあるはずです。
あたかも夢から覚めるかのようです。
しかし、心の調和を失なうということは、
このように物事を正しく見る目を失ってしまうということなのです。


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「垂訓」

2024-02-22 00:01:40 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓
 
恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


      第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵

        ◆惚れてしまえばあばたも笑窪◆

先の続き・・・

図3を御覧下さい。
心を輪切りにしてみると、
その断面の真ん中に想念があり、
思いによって心は常に変化しています。
或る時は知性的に、また或る時は感情的に、
そしてまた、本能的になってみたり、
理性的になってみたりと、
何が主導権を握るかがいつも変わっております。

たとえば、本能と感情が異常に大きくなりますと、
知性と理性がへこんでしまいます。
下がとんがって、上が食い込み、
ちょうどハート型になります。
すると、正しい見方ができなくなってしまいます。
(図4参照)
この好例はなんでしょう。


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「垂訓」

2024-02-21 00:08:16 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


       第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵

         ◆惚れてしまえばあばたも笑窪◆

人間の心は目に見えません。
しかし、間違いなく存在します。
この心によって悲しんだり喜んだり、
いろいろな体験をいたします。
心はどこにあるのかというと、
感銘を受けた時の胸のあたりから
こみあげてくるものがあります。
頭のてっぺんからカーッと
こみあげてくるのはいないでしょう。
感激した時は必ず心の奥底から
こみあげてくるものがあります。

ところで、命というのはなんでしょう。
心臓は寝ても覚めても休まず
働いていてくれます。
この働きこそ命です。
この命そのものが神様の命
そのものにつながっています。
心というと、思考や感情の動きだと
思われることでしょうが、
もっと奥を見ると、
神の御命(みいのち)が
そのまま働く場所があります。


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「垂訓」

2024-02-20 01:12:31 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓
  
 恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


            第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵

     ◆心こそ心惑わす心なり、心に心 心赦すな――中道の大切さ――◆

先の続き・・・

愛をもって相手に嘘偽りのないまことの心を言葉にして訴えかける時、
それが通じます。
正しい神理は、話す言葉の中に神の力が宿ります。
言霊とふつう言われるものです。
その言霊に対して、動物も植物もすべて応えてくれます。
神様の証しでもあります。
お釈迦様は両極端に偏らない心のバランスのとれた状態を中道と言われました。

「不放逸」という言葉で、人はほうけてはいけないと教えられました。
ほうけるとは、「惚ける」という漢字を当てます。
恍惚と言ったら、ボケのことです。
老人性痴呆症に限らず、遊びほうけたり、酒を飲み惚けたり、パチンコをし惚けたり、
とにかく惚けていてはならないと戒められました。
放っておいてはいけないというのは、
どこかで手綱を引き締めてかからなければならないということです。
ところで、怒りは放っておくと、すごく腹が立ってきます。
相手を殺してやろうかというところまで行きます。
しかし、そこまで行ってはなりません。

人はあまり極端に怒ってしまうと何をするかわからないし、
また我慢し辛抱するといって腹の立つのを抑えて心に詰め込んでいたら、
やがてそれは苦しみに変わり、
いつか爆発してしまいます。
腹の立つことが起きて当然ですが、放逸にならないように、
一時も早く怒りを捨てるのが正法の修行です。
あまり苦しみの中にはまっても、またあまり楽な目にあっても、
中道に外れてしまいます。
日常によく使われる中和という言葉や和という言葉も、
やはり偏りや極端を避けようという考えにもとづくと言えましょう。
「心こそ心惑わす心なり 心に心 心赦すな」という道歌の意味は、
自己保存や自我我欲の心かあら来る放逸や我慢などによって、
中道を踏み外したらいけませんという、
自分で自分に言い聞かせる自己への戒めでもあります。


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「垂訓」

2024-02-19 00:00:14 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓
 
 恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


        第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵

    ◆心こそ心惑わす心なり、心に心 心赦すな――中道の大切さ――◆

先の続き・・・

動物でも植物でも人間でもすべての生物の細胞は例外なく意識を持っています。
心が通じるということは、万象万物すべて同じです。
洗濯物に鳩の糞をひっかけられてほとほと困っておられる方が
愛の手紙を書くと、この犬への手紙と同じようなことが
起きるというのは実証済みです。

和歌山のある方が、
「西瓜が熟れるとカラスが全部つついて食べてしまうんだそうです。
カラスは人間よりもよく熟れた西瓜を知っていますから
困ったものです」と言われていました。
その方にも畑へ竹の棒でも立てて、その先につけてみなさいと言って
、愛の手紙を渡しました。

その翌年からその方の畑の西瓜は一個もカラスに
食べられなくなった、ということでした。
また、先日中国の青島にある江南市というところに
行った際のことですが、二二〇八年前
に秦の始皇帝に仕えた徐福という方の像が徐福殿の中にありました。
この方は当時、始皇帝の排命により不老長寿の薬を探し求めて
海を越えて日本に渡来しました。
一度目は失敗しますのですが、二度目には成功します。

その時は男女それぞれ千五百人ずつを連れ、
日本に織物や農業、水産、航海などの技術を
もたらし、我が国の産業の振興に寄与されたということです。
ところで、この時、堂内は暗く、この徐福像のお顔は光がなく、
表情が曇っておられました。
そこで、その像にこう呼びかけました。
「遠い遠い昔、我々日本人がたいへんお世話になり、
有り難うございました。今日、奇しきご縁をいただき、
この場に参上いたしました」
と御挨拶と御礼を申し上げました。

さらに続けます。「しかし、いかに偉大な方でも、
この地上に思いを残してはなりません」
とお浄めさせてもらいましと、見る見るうちにお顔が明るくなり、
唇の色も紅をさしたようになってまいりました。
こういうことは各地を回っておりますと、よくあることです。
かつてイスラエルのイエスが磔刑になったその終焉の地に建つ
聖墳墓教会に祀られている大理石のマリア像にご挨拶し、
祈らせていただきましたが、その時にもマリア様の両眼
が血管まで浮いて見えるほどに生き生きとしてきて、
眉を八の字形にひそめ、悲しそうな表情をされまして、
涙がとめどなく流れてきました。
同行の人々も見ておられます。
また、ビデオにも収録されています。


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「垂訓」

2024-02-18 00:05:25 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓
 
   恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


           第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵

      ◆心こそ心惑わす心なり、心に心 心赦すな――中道の大切さ――◆

先の続き・・・

私の心の中にはまだまだこんな恐ろしい心が棲んでいたのかと思い、
己の未熟さに気づかされ、神にお詫びをしました。
そして翌日、「私の愛するお犬様・・・」
という書き出しでラブレターを書きました。
「あなたの生きる自由は認めます。

しかし、他に迷惑をかけないように生きて下さい。
鳴くのだったら、遠いとこに行って鳴いて下さい」
という文面を新聞の折り込み広告の
裏にしたためました。
それを犬の鳴いていたあたりに持っていくと、
石ころを重石にして置いてきました。

すると、どうでしょう。
その晩から犬の吠え声は聞こえなくなりました。
よく耳を澄ませば、遠くのほうで犬の鳴く声が
かすかに聞こえてくるのでした。
母があきれて、「あんたの手紙はよく効くもんやなー」
と言っておりました。



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「垂訓」

2024-02-17 00:14:33 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

   恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


           第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵

      ◆心こそ心惑わす心なり、心に心 心赦すな――中道の大切さ――◆

先の続き・・・

或る晩のことです。
寝ている部屋はT字路にはさまれた角部屋なのですが、
ちょうど私の枕元で犬の吠え声が
けたたましくて、とうとう朝まで寝つかれませんでした。
うるさいなあと思うけれども、犬が吠えるのは
犬の自由だからと思い変えします。

しかし、二日、三日とたつうちに
思い変えができなくなってきます。
まず、飼い主は何をしているのだろう、
こんな真夜中に放し飼いになんかして。
ちゃんとつないでいてほしい。
こう思うと腹が立ってきました。
さらに五日、七日と続くと夜は眠れない、
明日の仕事にはさしつかえるでいよいよつらくなってきました。

それがさらに続くと、竹刀を持っていって
殴ってやろうかと思いました。
それがエスカレートし、
ついに薬局に行って猫いらずを買ってきてパンの中へ入れて
食べさせてやろうかという
考えまで出てくる始末です。
心の修行がちょっとはできていると思っていたのに、
できていない自分に直面し、
愕然としました。


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「垂訓」

2024-02-16 00:01:31 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


           第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵

      ◆心こそ心惑わす心なり、心に心 心赦すな――中道の大切さ――◆

肉の身を持ちながら肉に汚れない心の花を咲かせなさい。
これが天からのメッセージです。
神様も心も目に見えません。
ですが、どちらも否定できない存在です。
心がないという人はいないし、
自然界の生命エネルギーについてもこれを神と呼ぶ呼ばないは別として、
否定できません。

そして、心については、
「自己を完全に制御できた場合には、天界の神々(諸天善神)も
これを羨む」と言われています。
心はちょっと気を赦すと意志のコントロールを離れてのさばり、
野猿のように手に負えなくなります。
心の主人となって神我の自分が表面意識を
コントロールしなければなりません。
そのためには、バランスのとれた心が必要です。
表面意識の感情と理性と本能と知性の割合が均等であり、
調和がとれていなくてはなりません。
では、ここで未熟な私が危うく心の魔にしのび寄られて、
神様のみ心から外れそうになった以前の体験を紹介します。


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「垂訓」

2024-02-15 00:24:39 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

  恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


       第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵

      ◆不浄なる肉の身があってこそ悟らせてもらえる◆

先の続き・・・

幸せの中で感謝するのはまだ簡単です。
苦しんでいる時は神様もいっしょにその苦しみを
引き受けてくださっているのですから、
もし私たちがこれを克服して感謝と喜びに変えられたなら、
神様はより一層喜んでくださることでしょう。
私たちが苦しみの中で自らの心を汚さず、痛めず、曇らせずに、
神様の光輝をそのまま光輝かせ、他の人々を
勇気づけていくことがきるならば、
それが神様に対する最大の恩返しになるのではないでしょうか。
蓮の花は泥の中から養分を吸い上げ、花を咲かせます。
その花にたまった水玉は泥をはじいて汚れを寄せ付けません。
肉体界での修行は厳しいけれど、過ごし方さえ間違わなければ、
魂の進化の速度も速いということです。

天上界ではだいたい魂が同じような者どうしで生活するために、
周囲を見渡しても自分と同じ人ばかりですから、
他人を見て自分を正すことができません。
しかし、この世では神に近い方から悪魔に近い方まで
様々な段階の方がいらっしゃいます。
対立もあるし、トラブルもあります。
だから、自分にとって不都合な相手にどうやって対処するか、
感情や本能のままにマイナスの想念を出すのではなく、
思いをコントロールしてプラスの思いに転じていく練習ができます。
これが修業です。

その条件として、肉体と五感があって、嫌な相手と会わされたり、
愛する相手と別れたりする経験があったほうがいいのです。
また、人はみな生きている限り、様々な過ちを犯します。
過ちが去ると書いて過去ですが、
その過ちは過去のものとして二度と再び繰り返さないようにすれば、
本当の意味で過去となります。
「人は先に過ちを犯せども、後に過ちを犯さざれば、
その人の世間を照らすこと、
雲を離れて一人輝く満月のごとし」という言葉のように、
過ぎ去ったことにとらわれるより、先に希望を持つことです。


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