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浄心庵・長尾弘先生「垂訓」

八正道と作善止悪

「御垂訓」

2017-11-30 23:53:44 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

      恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


                 第三章 天上界への道

         ◆完全無欠の神様が私たちの中に命として生きていてくださる◆

神様は私たちの目には見えません。
しかし、目には見えなくても神様を知る方法はあります。
それを神様ご自身が教えてくださっているのです。
そのことは、
神様のおおせられる御言葉によってよくわからせていただけます。

我は姿あって姿なし
姿あっては天地自然・万象万物の中に我が姿を見よ
姿なくては生きとし生けるものを生かさんその生命を見よ
汝らを姿あるものとしてこの地上に生じせしめ
姿なき汝らの神我となりて、我は証しせん

二行目の天地自然・万象万物とは、山や川や草木や動植物、
そして星々や月や雨や風など、あらゆる自然、命あるもの、
天象の一切を言います。
たとえば、初夏の青々とした稲田のひとつにしても、
ある人はその美しさを俳句に詠み、
また或る人は私たちの命を育んでくれるお米とそれを作る人々に
感謝をしたい気持ちに駆られることでしょう。
その美しいなあと思う心とありがたいなあと思う心と同時に、
私たちはその美しさやありがたさを与えてくれる稲田の奥に神の御心を
見出すことができます。

「なんだ、ただの田圃じゃないか」と、
それを見てもなんとも思わないことだってできるわけです。
しかし、美に感動し、生命の糧に対し深い感謝の念を抱けるほどの微妙な
波動の心になれば、自ずとそこに目には見えないけれども、いや、
目に見えないからこそ、それだけ厳かな気持ちとともに、
尊い神の存在というものを感じないわけにはまいらなくなるのです。
雨の音に神の足音を聞き、風の中に神の声を聞く。
形あるものをただ形あるものとして見ることができないうちは、
神を知ることも難しく、この世の表面の出来事とかお金などに引き回され、
翻弄されて生きなくてはならないので、
人間はなかなか救われません。


              ~ 感謝・合掌 ~




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「御垂訓」

2017-11-30 01:07:03 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

    恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


            第三章 天上界への道

     ◆癌の激痛から悔い改めて安楽往生した九十歳の老婆◆

先の続き・・・

二、三年もしないうちにその時はやってまいりました。
息子さんが「やっぱり先生の言われたとおりです。
もう癌で入院させているんですが、苦しんで痛がってたいへんです。
お医者さんが痛み止めを打ってくださっても効かず、転げ回るんです。
子としてこんな辛いことはおまへん。なんとかしてください」とおっしゃるのです。
「しゃあ、どのテープでもよいから持っていって聞かせてあげてください」と言うと、
「でも、そんなテープを聞ける状態と違います」と言われます。
確かにその苦しみというのはたいへんなようで、頭髪をかきむしってしまったり、
俯せで痛みを耐えるために畳をかきむしり、
畳の中の藁をみんな引っ張り出してしまったなどという話もあります。
病院のベッドの周囲の金属のパイプを曲げてしまう方もおられるそうです。
それほどの痛みがおばあちゃんにも襲ってきたということです。
そこで、聞いても聞かなくても、
とにかくそのおばあちゃんの耳元で私のお話のテープをかけてもらうことになりました。

すると、一時間もしないうちに痛みはすうっと消えてしまいました。
おばあちゃんは、「己が悪かったんじゃ」と言って泣き叫んで、
「神様かんにんしてください。
己の生き方が間違っていました」と泣いて泣いて詫びられたのです。
そこへたまたま本家の兄さん夫婦が見舞いに来られまして、部屋に入るやその声を聞き、
「このクソ婆は死ぬ時になってもまだお前が悪いと言っている」と言って、
夫婦で顔を見合わされたそうです。
しかし、弟さんが「いやいや、兄さん、違うんや。
このテープをかけると痛みがなくなり、自分が悪かった、
かんにんしてくれなはれと泣き出したや」と説明しました。
兄さん夫婦も、それはよかったと喜びました。
それから、まったく痛みも苦しみもないまま三日間安らかに過ごされて、
四日目に安楽往生なさいました。

おばあちゃんは、「有難うございました」と言って、
安らかに亡くなられたということです。
そして、驚くべきことにそのおばあちゃんの皺だらけのお顔が、
皺一本ないツルツルのお顔になられたということです。
この出来事で思いました。
人間は、たとえ九十年もの間、間違った人生を送ってきても、
その死の間際に法に触れて自分の間違いに目覚め、
「えらい間違いを犯しました。どうぞゆるしてください」と必死で
お詫びできたら、必ず赦していただけるということです。
安らかなお顔で皺がなくなったのはその証しです。
法とはまことに有難いものだと思います。
しかし、よいことを聞いたといって死ぬまで好き勝手に生きて死ぬ前に
お詫びすればよいと思わないでください。
私の話を聞いた以上、ご自分の良心が自分を責め裁くことが起きます。


            ~ 感謝・合掌 ~


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「御垂訓」

2017-11-28 23:39:46 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

      恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


                 第三章 天上界への道

        ◆癌の激痛から悔い改めて安楽往生した九十歳の老婆◆

棺に遺体を納める際にマイナス八十度くらいのドライアイスを詰めるのですが、
私がこれまでにご縁があって見せていただいた方々の遺体には不思議なことがよく起きます。
遺体の胸に手を当てるとまるでホカロンを入れたように温かく、
背中に手を回しても冷たくないといった奇蹟的なことです。
正しい法に触れて、心が救われた方は死後硬直も冷たくなることもありません。
マザーテレサさんがお亡くなりになった時に、死後四時間目の写真をいただきました。
以前お会いした時とはまったく違う美しいお顔になっておいででした。

落ち窪んでいたはずの目も若い時のようにふっくらとし、
とても死んだ方のお顔とは思えませんでした。
やはり、素晴らしいお方は、素晴らしい死を迎えられるものだと思いました。
しかし、有難いことに、あまり素晴らしくない人生を送られた方でも、
死の寸前にこの法をいただき、反省によって気づかされ、ああ私の人生は間違っていました、
たくさんの過ちを犯してきました、と悔い改めたなら、救われます。
その一つの素晴らしい例を紹介します。
九十歳近いおばちゃんの息子さんにご縁がありまして、
「恥ずかしいことですが、私の母は
絶対にいい所へは行けないと思います」と言ってこられました。
このおばあちゃんは、自分の子供たちからさえ、
「死んだら地獄行きだ」と確信されていたのです。
「どうしてですか」と尋ねますと、「お恥ずかしいのですが、
私の母は恨みと憎しみの塊です」と答えられます。
人の悪口は言うし、人を信ずることはできない。
出すことは大嫌い。もらうことは大好き。九十年間のおばあちゃんの人生は
、苦しい日々だったと思います。

「出すことはベロを出すのも嫌い。もらうものは余所様の葬式でもでもほしいな」と、
実際にこのおばあちゃんは口にされていたそうです。
人の悪口は言う、嘘はつく、という人生だったと、その息子さんが保証するのですから、
間違いありません。
それで、「どこから見てもいい所に行けそうにありません。なんとか救うてもらえませんか」と、
息子さんからのご相談がありました。
「お歳は?」と聞くと、「九十近いです」と答えられるので、「そりゃあもうあきまへんわ」
と言いました。
九十年間、ご本人は自分を正しいと思って人生と思って人生を過ごしてこられたのです。
その頃は私は五十前後でしたから、四十年もの年齢の隔たりです。
私みたいな若造が言うことなど聞いていただけないでしょう。
だから、どうしようもないと思ったのです。
けれども、もし間違った人生を過ごせば、必ず清算の時が来ます。
貸借対照表で赤字か黒字かというのがはっきりと出てまいります。
正しければそれなりの、間違っていればそれだけの結果の現れる時が来る筈です。
その時が訪れたならば、またいらしてください、と言っておきました。


            ~ 感謝・合掌 ~





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「御垂訓」

2017-11-27 23:31:38 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

       恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


                第三章 天上界への道

                 ◆生き地獄とあの世の地獄◆
 
先の続き・・・

昔から地獄というと、餓鬼界や阿修羅界など、
その苦しみの思いの種類によっていくつかに分類されてきました。
たとえば、「足ることを知る」ということを忘れ、貪欲に溺れれば、
その思いは自ずと餓鬼界へ通じていきます。
また、権力闘争など争いの思いは阿修羅界へと通じていきます。
これら二つの地獄は、人間の煩悩にうちでも最も気をつけなくてはならない
自我我欲の思いと自己保存の思いが原因となって現れてくるものです。

「残水の小魚 食を貪りて時に乾くを知らず」という諺が仏典にあります。

川の水が引いた後に残された水たまりの浅い水にピシャピシャと小さな魚たちが
尾びれを動かしながら群れて、餌を奪い合っています。
雨も降らず、もうじきに水が干し上がってしまおうとしているのに、
そのことにさえも気付かずに食を漁り貧ぼるのに夢中になっております。
「残水」とは余命のたとえです。
人間でもいろいろな欲望を追いかけて、
もっと財産や土地や家を手に入れたいと躍起になっているうちに、
だんだんと死が近づいてくるのですが、それにも気付かず、自我我欲に
とらわれたあさましい姿とその運命をうまく言い表わしたものです。
私は二十歳の頃からこれをすごい言葉だなあと思っておりました。

人間はみんな足ることを知らないでいつまでも欲望にとらわれて右往左往している。
そして、やがて死ぬということも忘れている、なんと浅はかなんだろうと考えたり、
仕事仲間のうちで友達がいじめられ、
根性悪くされるのを見てもとてもつらい時期があったし、
人の死を多く見せられたので、
なおさら実感をもってこの言葉の意味が胸に入ってまいりました。
あってもあっても充足しない心は、そのまま餓鬼界の意識につながっていきます。

「糞中の穢虫 居を争いて外の清さを知らず」

という諺も私たちに人間世界における真実を示してくれています。
政界や宗教界において組織の中で自分の地位を確保しようとポスト争いをする様が、
ウジ虫が糞の中にありながら互いに居場所を争っている様子にたとえられています。
権力闘争の思いは、事後保存の欲望や自我我欲の欲望から来るものです。
互いに自分の地位を守ろうとし、また相手を失脚させて望む権力の座におさまろうという
権謀術数が渦巻く世界にあって、やがて対立闘争の思いはカルマとなって、
阿修羅界に通じてゆきます。
そんな心の休まる暇もない世界を一歩外に踏み出せば、清らかな世界があるとも知らずに、
自らの煩悩の火で自らの心を苦しめていきます。


              ~ 感謝・合掌 ~



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「御垂訓」

2017-11-26 23:57:54 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

     恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


              第三章 天上界への道

           ◆生き地獄とあの世の地獄◆

たった今幸せであったとしても、
次の瞬間に心を苦しめてしまいますと、
心は極楽から地獄へ一挙に転げ落ちてしまいます。
それが長く続き、苦しみの程度が甚だしければ生き地獄ということになります。
ふつう地獄と称せられるあの世の苦しみの世界は、
肉体がなくなってもなお意識がけが存続し、
生きている時の苦しい心の状態を持ち越したまま、別の次元に移行した時に、
自らの思いによって展開されてくるものにほかなりません。
宇宙の運行が一秒たりとも休まず、自然界が変転すること絶え間のないように、
人間の心と身体の細胞組織も一瞬毎に変化しています。
それらが発する波動が常に変化しているとも言えます。
もう怒りっぽい自分は克服できたろう、もう大丈夫と思っていても、
何かの縁に触れてまた激怒してしまったなどということは誰にでもありそうなことです。

不調和な思いの波にさらわれ、低い所に転落することから自らの心を守るためには、
出て来た嫌な思いや辛い思いをできる限り早く切り替えてしまうことです。
そうすれば、まず生きながら味わう生き地獄に喘ぎがなくなります。
魂の修行の場としてのこの世で出会う人々や起きる出来事の縁に触れ、
様々な課題や試練に遭遇することになります。
けれども、それらを乗り越えて行く時、今迄どうしても乗り越えられず、
自分が直そうとしても直らなかった癖や欠点などがやがて修正できて、
それが自信につながり苦しみは喜びとなります。
私たちは偽我の本当の姿に直面するのを恐れています。
そして、社会で人から期待される、
それぞれの人から都合がいいと見られる自分であろうとして、
仮面をかぶり、偽りの人格をまとってしまいます。
それでいて、自分の嫌な面や醜い面は人から見えないところに押し隠しています。
それが潜在意識にたまり、汚れや曇りとなって心の輝きを失わせてしまいます。
生きている間に真実の自己の姿に直面して、精一杯魂を浄化すべきです。


               ~ 感謝・合掌 ~





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「御垂訓」

2017-11-26 01:34:44 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

    恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


              第三章 天上界への道

           ◆本当の神は罰など当てない◆

「神のみ名において赦しません」などと戒める宗教がありますが、
そんなことは絶対にありません。
神の心の中には責め裁く思いはありません。
太陽の心と同様に、神の心は無限の赦しです。
ただし、私たちの心は人に嘘をついても自分自身に嘘をつくことは決してできません。
良心があるからです。
この良心が私たちが罪過ちを犯した時、人は誰も知らなくとも自らを責め裁きます。
私たちが罰を恐れるのも、私たちの思いの中に自らを責めたり裁いたりする心があるからです。
しかし、それが悔い改めて真理に目覚めるためならいいのですが、
ただ不必要に自らに罪悪感を背負わせるためにだけ、自らを責めさいなみ続けるのなら、
これも一つの業であり、心に潜む魔です。

その時、自分の心は必ず苦しむはずです。
また、責める対象が他人であってもやはり自分の心は苦しみます。
もちろん、この場合相手の心にまで苦しみを与えてしまいます。
その結果、自分の心を暗くし、人様の心をも暗くしてしまいます。
そして、同時に心は重くなり、光の量は減ってゆきます。
それはなぜかというと、神の御心にない心というには、
光に対する影となって心に闇をもたらし、光の量を減らすからです。
自分の心が明るくならなければ、いくら宗教をやってもなんにもなりません。
正しい法を実践すれば、正しいものの見方と正しい心の持ち方と正しい言葉の話し方と
正しい行いというものが、その人の身に必ず現らわされてきます。
古い人格は消え去り、
それまでとはまったく違う生まれ変わったかのような神の子としての本来性が現れてきます。
神様は、「己自身を苦しむることなかれ、己を愛し、己を愛するが如く他を愛せよ」
とおっしゃいます。

そしてまた、「汝らの喜びは我が喜びなり、
汝らの苦しみは我が苦しみなり」ともおおせられます。
「我が心と汝らの心と想念行為を照らし合わせよ、
もし我が心と離れし箇所に気づかばそれを悔い改めよ、
その時、汝らの魂は浄まれり」というのが神の御心です。
私たちの誤まてる行為さえも神様は大きな心で赦されておられるのです。
いつでも自ら間違いを反省によって知り、悔い改め、
つぐないの行為によって挽回するチャンスをくださっています。
だから、やり直しがきかないということも、罰せられるということもありません。
自分の失敗なり過ちを素直に悔い改めて、
二度と再びその間違いを犯さないようにすればいいのです。
「人は先に過ちを犯せども後に過ちを犯さざれば、その人の世間を照らすこと、
雲を離れてひとり輝く満月の如し」という仏典の言葉があります。
現れては消えて行く実体のない現象界の出来事にいちいちとらわれることなく、
過ちを繰り返さぬ前向きな努力をしていけば、過ちを犯して、
それを自覚したがゆえにかえって新しく生まれ変わり、
今度はより立派な人格となり、世間の人々に光を放つ存在となれることです。
希望を与えられる言葉だと思います。


内奥の神の御心罪深き この身を通し示す現わす。
我が行為 神の御心あらわさん 父(神)の御心世に示さんがため

                               
           ~ 感謝・合掌 ~




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「御垂訓」

2017-11-25 00:24:10 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

    恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


            第三章 天上界への道

       ◆宇宙を動かす力とつながる心の内奥◆

先の続き・・・

それまでは想念の厚い雲が実在界より来る神様の光を遮っていたわけですから、
この曇りがなくなれば現象界のほうにまでその光が届き、差し込んできます。
霊魂の器の内部に神我はあります。
表面意識のほうから見れば、いちばん内奥にある意識です。
想念の曇りを除きつつ奥に分け入ってはじめて到達できるのが、潜在意識の最深部にある
神の分け御霊としての神我であり、キリスト意識であり、宇宙意識です。
ところで、私たちの命のふるさとは、個別の霊魂の容器の彼方に無限に広がる大宇宙体を
つかさどる一つの偉大なる意識のほうにあります。
コップの口のあいたほうです。

肉体の五感に影響された理性、知性、本能、感情などから見て、神社仏閣や教会やお墓や
仏壇などを死後の世界とイメージで結びつけたがるのは、
単なる習慣上の思いにすぎません。
まったく想念が浄化され、
なんのとらわれもない自在無礙の空そのものの意識になってしまいますと、
仕切り板がなくなったコップを常に神様から来る光がサァーッと突き抜けいく状態となります。
その時、この世の現象界にまであの世の実在界の光が完全に通り、
すでに心は自由にこの世とあの世とを往還できるようになっています。
この世に肉体がありながら、もはや心は肉体の五感にとらわれずに、自由自在に意識を働かせ、
宇宙大に意識が拡大しています。

こういう方を如来と呼びます。
如来という言葉には、「来るが如し」という意味があります。
それは、今説明させていただきましたような、あの世の実在界のほうから来た神の光その
ままであるということなのです。
つまり、この地上にあっても、肉体の五官に振り回されずに、神様の御心を行いに具現し、
その存在自体が神の御姿を如実に示し現わすことができたなら、
その時その人の心は如来の心と言えます。
又、神人とも言えます。
心の奥にある神我に到達せんと心を磨き、
少しでも如来に近づく努力をしていこうとする人が増えれば増えるほど、
この地球世界は実在界の写しのような大調和した理想世界となってきます。
仏国土、ユートピア、神の国、地上天国などと呼ばれる世界です。


           ~ 感謝・合掌 ~





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「御垂訓」

2017-11-24 00:09:01 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

     恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


                 第三章 天上界への道

         ◆宇宙を動かす力とつながる心の内奥◆

先の続き・・・

そのためには、今迄に述べましたように、思いのスモッグが晴れて、
生命のもとの神からの光が入ってこなくてはなりません。
その思いのスモッグが発生する場所は、図1(先日投稿)で説明しますと、
コップの中を二つに仕切っている仕切り板
(想念帯と呼ぶことにする)のような思いの層となります。
だいたい一対九くらいの割合でコップの中の空間を仕切っています。
これを境にしてコップの開口部のほうが五官を超えたあの世、実在界、
反対の方向が五官の世界、この世、現象界ということになります。
五官の感官により生ずる思いの層には、
自己保存や自我我欲といった所謂エゴの生み出す煩悩もたまり、
それらが思いのスモッグのように厚い堆積層となって実在界から来る
光を遮っています。
そこで、これがだんだん薄くなり、
実在界のほうから差し込んでくる神の光が現象界の表面意識にまで
通りやすくなってくる必要があります。

それには自分の心を見つめる反省をして、
自己の想念行為の過ちに気付かなくてはなりません。
想念帯には日々のいろいろな感情や考えが完全に行為に表わされ
消えていかずにたまっていて、過去に犯した過ち、
思い出したくない不都合な出来事の記録、不愉快な感情まで
も押し込まれ、記憶の底に沈んだり、たまに浮上してきたりします。
それは丁度録音テープに記録されているようなものです。
心の発する叫びや独り言や雑音までも想念帯に記録されています。
また、遠く過去世にさかのぼる想念感情もあります。
すべて肉体の五官にまつわる想念感情です。
それが心に曇りをつくり、神の光を遮る原因となっています。
反省をしていくと、この部分に照明が当てられ、
しだいに沈んでいた想念が表面意識のほうに映し出され、浮かび上がってきます。
それを悔い改め、償いの善き行いを積んだ時、過ちの原因だった不調和な想念は、
明かりがもたらされて闇が去るように、
想念帯の中から消され、取り除かれてゆきます。


            ~ 感謝・合掌 ~




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「御垂訓」

2017-11-22 23:49:34 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

 図2 心の断面

        恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


              第三章 天上界への道

        ◆宇宙を動かす力とつながる心の内奥◆

先の続き・・・

ここはコップを逆さにして底を上から見た時に、図2のように見えます。
想念を中心としてその周囲を囲むようにして、ちょうど穴のあいた蓮根の断面のごとく
理性、知性、本能、感情の四つの働きが分かれて集まっています。
それらは、たいてい大きさが不揃いになっています。
均等な大きさへとバランスがとれてくると、心が調和していると言います。


           ~ 感謝・合掌 ~


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「御垂訓」

2017-11-22 00:00:23 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

 図1 霊魂の側面
                              
      恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


           第三章 天上界への道

      ◆宇宙を動かす力とつながる心の内奥◆


先の続き・・・

私たち一人一人の個別の霊魂の容器をコップにたとえるとします。
まず、図1を御覧ください。
これはコップの側面図です。
コップにたとえられた霊魂の容器の口をあけたほうに行けば潜在意識のほうに降りていき、
底のほうに行けば、私たちの表面にある意識に近づいていきます。
表面意識とは、見たり聞いたりしたことから悲しんだり、喜んだり、ものを考えたり、
食べ物を得たりと、感情、理性、知性、本能などの働きをする場所です。


            ~ 感謝・合掌 ~



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「御垂訓」

2017-11-20 22:50:41 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

     恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


           第三章 天上界への道

      ◆宇宙を動かす力とつながる心の内奥◆

先の続き・・・

以前先生と呼ばれているある方が、
「何年か先には地球が風船玉のしぼんだようにしぼんで
土星の外に飛んで出る」と、もっともらしいお話をなさいました。
しかし、もともと地球が今の位置を変えて他の惑星の所へ飛んでいきますと、
これは太陽系のみならず、
大宇宙全体におけるバランスを大いに崩してしまうことになります。
時計の歯車が一個飛び出しただけで、その働きが止まってしまうのと同じです。
ところで、この大宇宙や大自然というものを動かしている目に見えない力とは、
たった一つの大いなる意識であり、巨大なエネルギーとして、
私たちが神と呼んでいる存在のことです。
この神様の意識を私たち一人一人がこの胸の内にいただいているのです。
太平洋の水が神様とすると、その一滴一滴の海水が私たちの意識です。

汲む上げた水は太平洋の水となんら変わりありません。
それと同様に、大いなる神様とまったく同質同根の心が
私たちの心の一番深いところに存在しています。
それが「神様」と呼ぶものです。
これに気付かせていただくには、神の子としての自覚を持ちながら、
神の子として恥ずかしくない行いと生き方をすることです。
親鸞上人の教えの中に、「心を開いてずっと奥底を覗いたら、
御本尊は鬼だった、阿弥陀様におすがりして、ただ一念念仏申さば、
鬼は鬼のままで救われる」と説かれています。
これは一念に徹して心を余計な思いに向けず、
ひたすら阿弥陀様の御心に向ければ救われるということです。
煩悩具足の罪悪深重の凡夫と自らを称した親鸞が自らの心の内を
顧みて認めたのが心の鬼、つまり煩悩です。
しかし、その鬼のもっとも奥まで入った時、神の御心がましますのです。
これが実相であり、私たちの神我です。


         ~ 感謝・合掌 ~



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「御垂訓」

2017-11-19 23:48:43 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

    恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


          第三章 天上界への道

     ◆宇宙を動かす力とつながる心の内奥◆

地球は大宇宙から見ますと、
太陽という原子核の周りを回っているマイナス電子のような
小さな存在ですが、私たちから見れば巨大な存在です。
時速二万数千キロの猛スピードで太陽の周囲を回っていて、自ら自転し、
三六五回と四分の一回転で一周して同じ位置に戻ってきますが、
千分の一秒ほどの狂いも生ぜずに正確に動いているそうです。

しかも、これほど猛スピードで回っていながら、
地球そのものも地球を取り巻いていてくれる大気も全部いっしょに
飛んでいますから、私たちは何も感じないでいます。
もし、地球が急にスピードを緩めれば、たちまちくだけてしまうでしょうし、
まして逆回転などした日には、木っ端微塵です。
地球が回っているその周りをお月さんが回っていてくれます。
他に火星も土星も木星も金星も全部回っています。
これは各自が勝手に回っているのとは違って、
お互いに目に見えない引力の作用によって回っています。
時計を分解すると、中にたくさんの歯車が入っています。
この歯車は他の動力によって自分が動くようになっています。
また、自分が動くことによって他を動かしています。

これと同じ原理で、
地球も火星も土星も互いのものすごく距離が離れているにも拘わらず、
目に見えない引力という歯車によって、互いに影響を及ぼしつつ調和を保ち、
太陽の周囲を回っているのです。
お互いに持ちつ持たれつの関係で生かされているのが自然の法則です。
私たち人間の社会でも自然に学ぶべきです。
また、動物は植物に二酸化炭素を与え、それをもとに植物が光合成を行い、
空気中に放出した酸素を吸って動物は生きるという相互依存の法則が
自然界にはあります。
「草や木など刈っても切り倒してもかまうものか」とか、
「人間さえ快適で便利に住めればいい」という心は、自然に逆らうので、
環境破壊を起こして、自らの墓穴を掘ってしまいます。

「他人はどうなってもいい」という自己中心的な思いも滅びの原因です。
太陽系以外にも別の太陽系が同じような仕組みで回っており、
これらが銀河系だけでも何千億個もあるそうです。
銀河系は一回転するのに二百五十万年かかると、偉い学者が計算されたそうです。
その銀河系宇宙のようなものが、また何千億個も集まって島宇宙となり、
さらに島宇宙が何千億も集まって大宇宙ができているそうですから、
もう計算できるものではありません。
そういう無数の天体が千分の一秒の狂いさえなしに循環の法則に従い、
また相互に作用しながら正確に動かされているのです。


          ~ 感謝・合掌 ~


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「御垂訓」

2017-11-18 23:57:12 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

     恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


           第三章 天上界への道

         ◆天上界は本当にあるのか◆

どんな方の心にも仏の心と鬼の心とが同居しています。
鬼の心は、「己心の魔」であるエゴの自我我欲や自己保存などの
想念がだんだん膨らみ、恐ろしい姿に変貌したものです。
心にスキがあると、そこに「魔」(「間」)が入ります。
自己反省を怠らぬことです。
悟った方とふつうの人との違いは、ただ、心の隙間に気をつけ、
鬼の心をいかに自らの心の内に迎え入れないかということを知り、
これを行ない得たか否かという点だけです。
神様はなぜ地獄をお造りになったのでしょうと、
かつて質問を受けたことがありましたが、
神様は地獄など造られてはおりません。
心の鬼とは、自分さえよければいいという思い、
自己保存や自我我欲の思いから来ます。

心の鬼に支配されると、人のように恐ろしいことや残酷なこと、
恥知らずなことまでも平気でできてしまいます。
もはや本来の自己は失われています。
こうした神様の御心から離れた心を、
人間は肉体の五官に翻弄されることで生み出してきてしまったのです。
もともとは清浄で素直だった神の分け御霊そのものの心を曇らせ、
その黒雲のような想念が、
あたかも地獄のような苦しい世界を現出してしまうことになったにすぎません。
神様は完全無欠な存在です。
神様は太陽の熱と光のような無償の愛、無条件、無差別の愛と慈悲と赦しを
私たちに降り注いでくださっているのですから、
もし、私たちの心にその愛の光を遮るものさえなければ、
誤りも欠乏も苦しみもない素晴らしい世界が眼前に展開してまいります。
ふだんでも、心になんの不安も恐怖も怒りも寂しさもなんらの執着も無い時、
私たちの心は静かです。

そして、心を縛り煩わせる思いがない分、心は自由です。
その状態で感謝しながら亡くなりますと、軽い心はたちまちにして天上界に行きます。
そこは、別の意味でも自由です。
というのは、自分の望むものがなんでもすぐに現れる世界だからです。
仮に今ここで綺麗な花を生けていただき、あの世に帰ってから、
「あの時、綺麗な花を生けていただいたなあ、もう一度みたいなあ」と思いますと、
この花がパッと出て来るのです。
「あの時のカレーライスはうまかったなあ。
あれをもう一度味わいたいなあ」と思いますと、
パッとカレーライスが出て来ます。
これは何も私たちの夢や願望の投影というのではなく、リアルな世界として、
実在の世界としてまぎれもなく在るということです。
そこを私たちは天上界とかあの世と呼ばせてもらっています。
実際に亡くなられると浄まった魂の方はそこに行かれます。
また、生きながらにして山紫水明のお花畑の美しいあの世に行ってこられたという
臨死体験をされた方の話もよくあります。


              ~ 感謝・合掌 ~



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「御垂訓」

2017-11-18 00:18:24 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

     恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


              第三章 天上界への道

            ◆天上界は本当にあるのか◆

天国はあるのか。極楽はあるのか。それは空想の世界にすぎないのか・・・
昔から死ぬとどこへ行くかについて、いろいろと関心が持たれてきましたが、
ここで改めて考えてみたいとおもいます。
「在る」ということは外なる世界をすべてと見なしてきたのが、
科学信仰の現代文明でした。
本当は内なる真実が外に現わされてくるものであり、
内と外とを分けて考える必要もないはずです。

もし、敢えて内とか外という区別をつけるなら、
内在せる意識の世界こそが真に実在なる世界に通じる入口である言ってよいと思います。
これからの文明は精神文明の時代へと転換してまいります。
物質の世界の目覚ましい進歩に比べれば、心の世界はまだまだ
解明も開発もされておらず、
地球社会のレベルは幼い段階にとどまっています。
この三次元現象界の生活は肉体の五官を通してどんな思いをいだくかによって
展開されてきたのです。

想念はエネルギーです。
すこぶる現実的なものです。
物質以上に現実に力を有するものだと言っても過言ではありません。
病気の心配や悪い事態ばかりを思えば、現実にそれを証明する結果が現れてきます。
逆に現代医学でも治せぬ病が、心の転換によって快癒したりします。
原因と結果の法則は、この思いと現実の関係にも当てはまります。

私たちの意識が肉体を出て、物質の波動よりももっと精妙な波動の世界に移ると、
現象界に肉体を持って生活していた時よりもずっと速いスピードで思ったことが
現象化してまいります。
この世に比べれば距離も時間もないと言えます。
地球を一秒間に七回半回る光速よりも速い想念のお陰で、
意識の上である場所を思った瞬間にそこへ行けます。
したがって、もし心に怒りや憎しみや恨みや貪欲などの不調和な思い、
あるいはこの世への執着の思いをたくさん詰め込んでいれば、
それらの思いによって苦しい世界が展開してくます。
あたかも映画のスクリーンにフィルムどおりの映像が写し出されるように、
私たちが心にいだいている思いが周囲の環境に即反映されてくるのです。
これは、「心の重さの法則」を使った説明と合わせて理解すると、
よりいっそうわかりやすいかと思います。
重い心、砂袋のように重い心は、命の糸が切れると、ドスンと下に落ちていきました。
そして、風船のように軽い心、これは命の糸が切れると、
どんどん上に上昇していくのでした。
けれども、本当はこの地上界より下の世界だからそれが地獄で、
上の世界だからそれは天国だというよりは、
むしろ神様の光の届かない暗い世界が苦しみの世界、
そして神様の光のもとに明るく輝く世界が天上界であると言うべきでしょう。


             ~ 感謝・合掌 ~




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「御垂訓」

2017-11-16 23:45:14 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

     恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


            第三章 天上界への道

       ◆神を知りたければあの太陽を見なさい◆

先の続き・・・

人はその過去を反省した時、大小の差はあれ、
罪過ちを犯していない人は誰一人ありません。
太陽の熱、光(神の慈愛)からバチを当てられた人は一人もありません。
もし、太陽の熱光(神の慈愛)からバチを当てられたなら、
人間存在がなりたちません。
こんな話があります。
何十年も夫の浮気を赦せずに、徹底して夫への冷酷さを貫きながら、
自らの心を苦しめていた婦人に、
「赦させていただきなさい」とアドバイスさせてもらいますと、
その方はそれを実行し、ようやく心の地獄から救われました。
人間は自分に不都合なことをされれば、
相手に怒りや憎しみの思いを抱いてしまうものです。
しかし、どんな場合でも、相手を赦すことは自分のためです。

だから、「赦してやる」のではなく、「赦させていただく」という意識になれば、
もっと楽に赦せます。
「してあげる」「してやる」より、
「させていただく」のほうが神の御心に近づける喜びがあります。
「赦させていただく」という心も、「責め裁かない(無条件の赦し)」という神の御心を
実践させてもらうということにほかなりません。
死ぬ時になって、この世に生かされている間「私はよくやった」と、自らにねぎらいの
言葉をかけることができ、満足と感謝の心を味わえてこそ、
死ぬということの意味も豊かになってくるのです。
そのためにはどうしたらよいかというと、あの太陽の心を我が心にいただき、
日々の生活の中で太陽の心を行うことであります。
他の為に尽くすといっても、まず自分の生活の基盤をしっかりさせなくてはなりません。
人の家の前に立ち、お茶碗に食べ物を恵んでくださいというのは、
昔の日本でもありましたが、現在の日本では通りません。

現在、有難い事に土曜と日曜にお休みの方もありますし、
日曜だけお休みの方もあります。
その時間に、どれだけ無償の善き行いが積めるか、愛を施せるか、
それによって心の中は、「ああ、よかったなあ、
あれだけの人が喜んでくださった。
これだけの方が救われた」という喜びに満たされます。
その喜びは神様からいただいたものです。
お金や物とは違う、心の安らぎです。
又、日々の生活の中でも同じことです。
私も寝るいとまもなくハードスケジュールで飛び回っている時、
「先生、無理せんといてください」と、よく言われますが、
「自分の命を精一杯燃え上がらせて、燃え尽きたい」と答えます。
自らの命を人様のために燃え尽きさせた時、満ち足りてあの世へ帰れます。
「私は自分の命を燃焼させてもらっています」と、話します。
神様は言われます。
「私の思いをあなたたちがその肉体をもって具現しなさい。
この地上に示し現わしなさい」と、
神様の御心を理解させていただくのに最も身近でわかりやすい方法は、
常に太陽の心を理解させていただくことです。
神を知りなさいと言ってもお姿も見えず、声も聞こえませんから、
自らの行いとして神様の御心を現わすことです。
太陽の姿を実践しなさい。

太陽の心(神の御心)
① 自己犠牲
② 他を生かす
③ 無差別、平等の愛
④ 他の過ちを責め裁かない
⑤ 無条件の赦し
⑥ 無償の愛

この太陽の心、神の御心が私たちの心の内なる世界に燦々と輝いています。
私はこの心の内なる太陽の心を日々の生活の中に実践する努力をしています。
また、世のあらゆる宗教の在り方と太陽の姿を照らし合わせた時、
神にそむいた宗教がいかに多いかがよくわかります。


            ~ 感謝・合掌 ~




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