浄心庵・長尾弘先生「垂訓」

八正道と作善止悪

「講演集」より。

2015-01-31 00:30:52 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

         恩師のご著書「講演集」より


           講演集、 二


       死を迎え、死を送る心の準備


先の続き・・・

このお話をしますと、皆さんから「水くさい」と言われます。
しかしこの世を去って、いとしい者や心配のある方のところへ現れますと、
決して歓迎は受けません。
死後、お葬式も済んだのちに、「私はあんたらのことが気になるのだ」と
言って出てきてごらんなさい、誰が歓迎してくれますか。
幽霊は若いお母さんが多いです。
子供を抱いたお母さんはその情の故に、愛のなさけの故に迷うのです。
肉体を持った私たちもそうです。
情けに流されたら迷い、そして、苦しみの中にはまります。

死を境として歓迎してもらえないのがこの世の定めですから、
もう一目散に走っていくことですね。
命が終わりました時、自分が死んだと気付かせてもらったら、
振り返ることなく、この地上界のすべてから思いを離してふるさとへ帰ることです。
正しい生活、正しい法の中に生きた時、私たちは苦しみから解脱することができます。
死んでも迷いません。
そして自分の帰っていく世界がちゃんと分かります。
自分はこの世を去った時、あの辺りの世界に帰るのだということが分かって、心が安らぎます。
私はあの世に帰る時は、このようにして帰ろうと思っています。
たとえどんなに苦痛に襲われても、近くにいてくれる方に、
「有難うございました。ほんとうにお世話になりました。
どうぞしっかり法を実践して幸せになって下さい」と、
この世にある限りの力をふりしぼってお礼を申し上げたいと思います。

そして「今この場におられない方々にも、もしお会いになったら、
どうぞよろしくと、私からのお礼を伝えて下さい」と、
これだけは言わせてもらわなくてはいけないと常に思っております。
また、肉体を頂いて今なお死のチャンスを頂かずに生き残った私たちが、
亡くなった方に対して、「どうぞ私についていて下さい、私を守って下さい、
私と一緒にいて下さい」という思いを祈りますと、その思いが亡くなった方の
行く手を遮り、自分のほうへ引き戻すことになります。
これは供養の反対になるのですね。
亡くなった人に対して、「生前はいろいろありがとうございました。
お陰様で私もこの世の喜びを頂きました。お亡くなりになれば、
この世とあの世とは世界が違いますから、私たちは精一杯生きてまいります。
どうぞご安心なさって極楽の世界にお上がりになって下さい」と言って送り出すのが、
あとに生き残った者の定めであり、義務です。
いつの日かあの世のふるさとに帰らねばならないのが私たちの定めですから、
その時のことを今からいつも練習しておくといいと思いますね。
その時に慌てなくて済みます。


              ~ 感謝・合掌 ~




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「講演集」より。

2015-01-30 00:49:58 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

        恩師のご著書「講演集」より


           講演集、 二


       死を迎え、死を送る心の準備


人は遅いか早いか必ず死ななくてはならない存在です。
生まれるということは、死を約束してこの世に生まれているのです。
私たちは、別れを約束してめぐり会っております。
死は避けることができないものであれば、その時の心の準備が大事です。
この世にオギャーと生命を頂きますと、その時から死への旅路が始まります。
若くて元気な時は、永久に生きるが如く錯覚を起こして生活しています。
しかし、間違いなしに一日一日、或いは一分一分、一秒一秒と死に近づく旅をしております。
そして死んだ時、死とはあの世へ帰ることですね。
それは何ら恐ろしいものではありません。
知らないから怖いのです。

人はこの世に生きていると思っていますが、心はあの世の世界のものです。
あの世の世界の心が物質と化した肉体の中に宿っているだけです。
死とは、着ている服がボロボロになったから脱ぎ捨てて、生まれたままに裸に
なるだけのことで、肉体とは服のようなものです。
わが師、高橋信次先生は魂の乗り舟とおっしゃいましたね。
この肉体とはこの世からあの世へ魂が乗っていく舟だとおっしゃいます。
肉体舟、この肉体という舟がボロボロになったからといって、
舟に乗っている人が傷つくかというと、そんなことはないのです。
或いは着ている服が傷んだから私の肉体がボロボロになったのかというと、
それは関係のないことで、脱げば同じことです。
しかし、肉体と自分とが同じだと思っているから、恐れ苦しまなくてはならないのです。
私たちは皆いつの日か、あの世に帰っていかなくてはなりません。
これは避けることができないのですね。

もしこの地上に思いを残しますと、
その思いが執着となってあの世に帰ることができず、迷える霊となってしまいます。
自分は死んだらお墓の中に入れていただこう、仏壇の中に祀っていただこうと
思いますと、その思いの場所に自分の心は完全にとどまります。
私たちは、死んで肉体を去りますと、「思い」だけの世界に入ります。
「思いの世界」は、自分が思えばその場所に意識が行くようになっているのです。
死んだらお仏壇の中に入ると思ったり、或いはお墓にお参りして、
「早くお迎えにきてください」と祈っているお年寄りがよくありますが、
そのように願えば、お墓とかお仏壇に入ってしまいます。
そこに入ると思っておれば入るのです。
絶対にお墓やお仏壇に入ってはいけません。
この地上界の何ものにも思いを残してはなりません。
お仏壇、お墓、財産、地位、名誉、いとしい方など、
この地上の一切から思いを放してはじめて、
極楽の世界に帰ることができるのです。


             ~ 感謝・合掌 ~



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「講演集」より。

2015-01-29 01:03:38 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

    恩師のご著書「講演集」より


       講演集、 二


   「心行」の朗読、「心行」の功徳


先の続き・・・

正しい教えは行いによって現れてきますね。
どれほど頭に知識を詰め込みましても、
どれほど難しい勉強をしましても、
これはあくまでも詰め込んだものです。
だから、人の心の中には入っていきません。
知識は行って始めて智慧に変わります。
いい話しだったなあと思いましても、
外へ出たら今何を聞いたのかなあというのでは、
心の中に入っていないのですね。

しかし、実践を通して行った時は必ず、文証、理証、現証が
望むことなしに現れます。
文字としての証明、理論的証明、そして形としての証明です。
これは自分が望む望まないに関係ありません。
正しい法の実践にはこれはつきものです。
ついて回ってくるのですね。
言ってみれば副産物です。
副産物によって現わしていただく現証は、これは神の御業です。
正しい教えの実践によって、神がその御業をあらわし給います。


        ~ 感謝・合掌 ~



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「講演集」より。

2015-01-28 00:20:24 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

        恩師のご著書「講演集」より


           講演集、 二


      「心行」の朗読、「心行」の功徳


先の続き・・・

ここにも書いてありますように、「末法万年の神理なることを悟って日々の
生活の師とすべし」、私たちは「心行」を日々の生活の師として生活させて
いただきたいと思います。
このようにすばらしい「心行」を残していただいて十年経つか経たない間に、
もういろんな先生方が自分流に書き改めておられます。

しかし、高橋信次先生の「心行」はあくまでも大事にしていきたいと思います。
作り変え、書き変えてしまいますと、肝心の教えの原点が変わっていきます。
高橋信次先生がK地方のホームグラウンドとされておりましたK本部でも、
新しく「心行祈願文」を作っております。
良いと思うから新しく作られたのですが、折角あるものをわざわざ作り変える
必要はないのですね。

私はそのように思わせていただき、死ぬまでこの「心行」を心の糧として
生きたいと思っております。
現実に今日まで、この「心行」を読ませていただくことによって、
不思議な現象を数多く見せていただきました。
亡くなった方は死後硬直が解けます。

又、憑依現象でお化けがついたり、コックリさんがとりついたりした方が、
何人もこの「心行」を読んで救われた例があります。
「私のような者が読んでも駄目だろう」と思わず、ほんとうにその方のことを
思って、愛の心をもって心から読んでいただけますと、
いろいろと奇跡を頂くことができますね。
この「心行」を心に頂いて日々の生活を実践していただきますと、最初に
書いてありますが、「正法は実践の中に生命が宿ることを知れ」。
まず教えてもらうことです。

教えてもらえば自分の心でよく考えること、思うことです。
そしてこれが間違いないと思えば、毎日の生活の中で行ったらいいのです。
そうすると、必ず光が現れます。
高橋信次先生は「法即行」「行即光」「光即法」と言われました。
法は即ち行いである。
行えば必ず結果が出ます。
その結果こそが光であり、光こそ法であります。
「法即行、行即光、光即法」です。


             ~ 感謝・合掌 ~



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「講演集」より。

2015-01-27 00:31:15 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

         恩師のご著書「講演集」より


            講演集、 二


      「心行」の朗読、「心行」の功徳


毎回、お話に先立って「心行」の朗読をさせていただいております。
この「心行」はすでに皆さま十分ご存じのことと思いますが、
私が今日を頂いている心のお師匠さんでございます高橋信次先生が、
天上界のモーセ様から授かってこられて、それを最も分かり易くエキスにして
書き表わされたものが、この「心行」だそうです。
ですから功徳は確かに頂けます。

自分の心に迷いが生じた時、或いは苦しみに耐えられない時、心を静めて
「心行」を朗読して下さい。
心が安まります。
もし、親しい方や縁ある方が先にあの世にお帰りになった時に、
「これをよく聞いて下さい。これはすばらしいと思うので、
読ませていただきますから、共に聞いて下さい。
そして自らの心に目覚めて下さい」と言って、
心から読んであげますと、死後硬直は解けます。
指一本動かすことのできなかった方が即、硬直を解かれて、
安らかなお顔になられます。

そしてすばらしい世界に救われていただけます。
又生きておられる間に読んでいただいて悟っていただけたらこんなに結構な
ことはありません。
そういう偉大な力が秘められておりますので、
毎回読ませていただいております。
では、心に調和をはかって下さい。
―――「心行」の朗読―――
ありがとうございました。
すばらしい言霊だと思います。


          ~ 感謝・合掌 ~



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「講演集」より。

2015-01-26 00:24:40 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

       恩師のご著書「講演集」より


        講演集、 二


      「故郷」の歌演奏会


私たちは調和された、緑したたり光り輝くすばらしい天上の世界から、
この地上界に自らの魂の修行の為に生まれてきております。
そしてこの地上で魂の修業を終え、志を果たした時に、又元の光り輝く天上の
世界に帰らねばなりません。
もし、この地上の世界に思いを残しますと、ふるさとに帰ることができず、
俗に言うところの迷える霊となってしまいます。

この地上界の何ものにも思いを残してはなりません。
この地上の一切から思いを放して、はじめて極楽の世界に帰ることができます。
では、「故郷」の歌を味わってみたいと思います。
すばらしいふるさとの世界が心の奥底から湧きあがってきます。
ではお願いします(拍手)。

―――バイオリン演奏―――

そばに行って私が歌いますと、前回のように胸がこみ上げてきてUちゃんが
泣くので、今日は遠慮しました。
本当に音楽のリズム、調和というのはすばらしいものです。
どうもありがとうございました。
今日はこうして又集まっていただき、日曜といいますと、
皆さんそれぞれお宅の都合もあり用事もありますのに、
こんなにたくさん集うていただいて心から
お礼を申し上げます。
ありがとうございます。

つくづく思うのですが、こうしてお話させていただけますのも、
皆さまが聞いて下さるからこそです。
皆さまのお陰だと心から感謝いたしております。
至らない私でございますが、その話しを通して少しでも心に安らぎを得、
自分の心の今までの過ちに、
もしも目覚めていただけますと、こんなに幸いなことはございません。
難しいことは何も分かりませんが、
私が毎日の生活の中で体験させていただいたこと、
これはどなたよりも私が一番よく知っております。
その体験させてもらったことをお話いたします。


           ~ 感謝・合掌 ~



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「講演集」より。

2015-01-25 01:01:37 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

         恩師のご著書「講演集」より


            講演集、 二


       過ちは善い行いによって許される


先の続き・・・

その方の罪は、一人一人に対して申し訳なかったと詫びて、
一軒一軒回ったならば消えますね。
しかしそれをしない限り、私たちは耐えるより仕方がないのです。
次に、その罪に代わる善き行いをするのです。
善なる行いによってその罪は消されていきます。
この世にある間に少しでも犯した過ちの償いをさせていただくのです。
過ちを償って心を軽くしてふるさとに帰って下さい。
「故郷」の歌をうたうと泣けてきます。

私たちの帰るほんとうのふるさとを私たちの内なる心は知っているのですね。
やがて志を果たした時、これはいつの日か分かりませんが、明日の人もあるし、
十年先、五十年先の方もあります。
いつの日にか帰って行きたいと思います。
それは日々の生活にかかっております。
日々の生活で悪をとどめて善を積み重ねますと、その時必ずふるさとに帰れます。
精進をして皆さんと一緒に学んでいきたいと思います。
今後ともよろしくご指導頂きますよう、何せ未熟者ですから、もし今後私が
間違いを犯しました時は、
厳しく私を裁いていただきますようにあらためてお願いします。
どうも長い時間ありがとうございました。


           ~ 感謝・合掌 ~





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「講演集」より。

2015-01-24 00:53:56 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

          恩師のご著書「講演集」より


           講演集、 二


        過ちは善い行いによって許される


できるだけ過ちを少なくしていき、そして少しでも善を積んでいきたいものです。
三世の諸仏はすべてこれを説き給います。
「悪をとどめなさい。過ちを少なくしなさい。
そして善き行いを一つでも多くしていきなさい」こういう日々の生活でいいのです。
道は本当に簡単です。
それを行うか、行わないかだけです。
犯した過ちは致し方ありません。
悔い改め、再び犯さなければいいのです。
再び犯さないと誓い、再び犯さなければ、その罪は許されます。
人は過ちを犯し易いものです。

どんな立派な格好をされ、どんなにいいことをおっしゃっていても、
かつて一度も過ちを犯していないという、そんな方はおられません。
世の中には偉い人もいるもので、
法を口にしながら「自分は反省をするような悪いことはしていないから、
一度も反省をしたことがない」という人がありますが、これは間違いです。
なぜかというと、私たちは未完成なるが故にこの世に修業に来ている仲間だからです。
完成されたら、もうこの世に出ることはありません。
過ちを犯し、その重荷を背負いながら、「道」を知らないが為に、自らの心を
苦しめております。

「悔い改めよ、汝の罪は許されん」、
それに代わる善なる行為を私たちが積み重ねていった時、
善き行いをもって過去の悪の償いをします。
そうすれば必ず許されます。
お釈迦様のお弟子でアングリー・マーラといって極悪非道の方がおられたのです。
この世の悪のすべてを犯したという質の悪い方ですね。
その方が仏縁を得て、仏陀の弟子となり、自らの罪の深さを知って悔い改め、
心の曇りを払って悟りの境地に達せられたのです。

これほど悔い改め、悪を止めた生活を実践したその方が、
サンガの外に出ますと、ひどい目にあわされた方々がいっぱいおられますから、
「あいつは今迄どこに隠れていたのか」と、棒で殴る、或いは石をぶつけるなど、
以前えらい目にあったその復讐をしてきます。
命からがらお釈迦様の許に逃げ帰られて、「仏陀、私はこれほど悔い改め、
これほど自らを正しました。しかし町に出ますと、ひとい仕打ちを受けました」
と泣いて訴えました。

この時仏陀は、「マーラよ、耐え忍びなさい。
耐えることによってあなたの罪は薄れてきます。
もし逃れてこの場所から外に出ないでいたら、あの世に帰った時、
もっともっと厳しい報いがくるであろう。
殴られても石をぶつけられてもただ耐えなさい」と、
お説きになったそうです。
償いをすることですね。


            ~ 感謝・合掌 ~



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「講演集」より。

2015-01-23 00:34:26 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

         恩師のご著書「講演集」より


           講演集、 二


        「愛」は神ご自身である


先の続き・・・

「南無妙法蓮華経」を一日一万回唱えたらご利益があるといって、
ある熱心な方が実践されたのです。
普通は線香を一本立てて、それが燃えつきる間に約五百回唱えられるので、
線香を二十本用意して、一本五百回ずつ二十本で一万回唱えるのです。
その方は熱心な方ですから、数を読み間違えたら勿体ないというので、
数の読み取り器を掌中に入れて唱え続けたら、四時間かかったというのです。
四時間も坐ってそんなことをするよりも、家の中を掃除したり家族の為に奉仕
するほうがどんなにご利益があるか分かりません。

「坐して祈ることなかれ」、そんな時間は無駄なことです。
それよりも行いで祈りを現わしたらいいのです。
善き行いで信仰の証明をすれば良い、その時必ず神からその力を見せていただけます。
なぜ見せていただくかというと、自らが「神の子」だからです。
私たちは自ら神の子、父なる神の思いを自らが行った時、「私がしたいことを
あなたが行ってくれた」と、神は私たちを放っておくことはできません。
その神は愛ゆえに姿を滅しておられます。
だから、神はご自身を現わすことができないのです。

その思いを子に現わしてもらったのですから、親は放っておくことはできないので、
子の私たちがそんなに力がなくても、父の大いなる力が注がれます。
神様の御心をわが心に頂いて実践の中に行うと、祈ることなしに与えられます。
それは愛の実践です。
愛は神ご自身だからです。
幸いなことに、私はあちらこちらに招いていただけます。
一般のお方はそういうわけにはいきません。
普通のお方は家庭の中で実践していただいたら同じことです。

私もできることなら下座にあってこの一隅を照らしたい、でしゃばりたくはありません。
本当ならこうして人さまの前でお話するのもしたくはないのです。
ただ身の回りの一隅だけを照らせたらと思うております。
いい恰好もしたくない、名声もほしくありません、地位も名誉もそんなものは
一切要りません。
自分の心身に冠をかぶらない無冠の帝王でありたいと思っています。
何も要りません。
ただ神の御心を自らの行動の中に実践したらいいのです。

その時、皆が無冠の帝王です。
人が亡くなると、身体が硬くなります。
そういう状態の方に話させてもらいますと、忽ちに硬直がとけます。
「先生はあの世の大僧正」と言われますが、この世ではしょうもないおっさんです。
しかし魂の世界、実在の世界では大僧正です。
この世の世界とは何の関係もありませんね。
慈悲と愛、それを自らの身をもって行えばいいのです。
難しいことは何も要りません。


            ~ 感謝・合掌 ~




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「講演集」より。

2015-01-22 01:00:21 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

             恩師のご著書「講演集」より


              講演集、 二


           「愛」は神ご自身である


或る先生といろいろ話していますと、
先生と私とは全く同じ体験をしていることが分かりました。
ただ違いますのは、その先生はすばらしく、私はすばらしくないということです。
私はただの凡夫です。
皆さんと何ら変わりません。
特殊な能力もありません。
特に霊的能力はゼロで、見えない話せない聞こえないという凡夫の塊のような私です。
一番後ろに坐っていただいている別の先生はすばらしい超能力者でいらしゃいます。
しかし、全くの凡夫の私がいろいろと不思議なことを見せてもらい、
そして先生たちが私のような者の話しを聞きたい、その精妙なところを頂戴したいと電話下さったのです。

今朝もおっしゃっていただきました。
「愛を学ばせてもらいます」と。
先生は霊能力者であられると同時にすばらしい実践者です。
「もらうことは借金したことになるから、もらうよりも出すほうに喜びを見付けなさい」と、
自らそのように行っておられます。
実践の話しをいろいろと聞かせていただいて、すばらしいお方だなと私も
感動いたしました。
こういうすばらしいお方は広い日本、世界中にあまり多く出ておられないのですね。
宗教家或いは一般の人々から尊敬される大財閥の方、
何々権大僧正というような立派な方もいっぱいおられますが、しかし生活の中に自らの神の心を行いと
しているのを現わす方は少ないです。

今朝も韓国の或る牧師さんが上手な説法をしているのをテレビで見ましたが、
「祈りなさい、一日最低一時間祈りなさい。祈っている時だけは神に通じます」
と説法されていました。
それを聞いて不思議だなあと思いました。
私は掌を合わせて神には祈りません。
信仰薄いというか、私ほど祈りをしない人間はありません。
「一時間毎日祈ることによって、あなたの望むものを与えられます」という
のですが、私は自分の行いが信仰であり、私の祈りだと思っております。
私の行動が祈り、実践が私の信仰、或いは祈りです。
一時間も坐って祈るならば、その一時間を人の為に尽くしたほうがご利益が
あると思っています。
祈りによって信仰の証明は現れません。
ですから私は、神仏に手を合わせて祈ることはしません。


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「講演集」より。

2015-01-21 00:43:58 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

          恩師のご著書「講演集」より


           講演集、 二


        愛は海底の意識にも届く


去年石川県へ行きましたあと、
一晩家で寝て翌朝早く瀬戸内海の家島へ寄せてもらって、
ここでも不思議なことがありました。
家島に着きますと、出迎えに来てくれた方が、
「今日で九日になるのですけど、
海にはまった人の死体がどうしても上がってきません。
漁師の方が出て探す一方、水上警察の船も出る、
町中総出であらゆる捜査をしているけれど、死体が上がってこないのです。
死体が上がらないから葬式も出せません。

先生、この死体をどうか上げて下さい」と言われるのです。
「そんな無茶な、私はそんな力はありません。
しかし、私にできるだけのことはしてみましょう。
明日、舟を出して下さい。
大体落ちた辺りに連れていって下さい」と言って、その翌日のことです。
ものすごくちっちゃい快速艇なので、しがみ付いていないと海へ落ちてしまいます。
しがみ付きながら「この海にはまって死んだ方、(私は名前も知らないのです)
あなたの為にどれほど多くの方が迷惑しているか知れません。
私は神の使いとしてあなたに命じます。

上がってきなさい。
上がってきなさい。
上がってこないと家族の方、社会の方々が迷惑します」と語りかけたのです。
一時間か二時間ぐらいした時に、今、上がってきたという電話がありました。
十日間上がらなかった死体が、二時間足らずの間に上がってきました。
このことがえらい評判になっていたそうです。
偶然のいたずらか、神の御業か私にもわかりません。
しかし私は信じます。

不思議なことは行く先々で起こっております。
これは無償の愛です。
何ものも求めず、たださせていただく行為に、
見えない世界のエネルギーが働きかけて下さって、
信じられないことを見せていただけます。
こういう不思議な体験は数え上げるときりがありません。


            ~ 感謝・合掌 ~




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「講演集」より。

2015-01-20 00:37:46 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

          恩師のご著書「講演集」より


            講演集、 二


        愛によって相手が救われた時の喜び


先の続き・・・

翌日、お墓に参って欲しいと言われたのですね。
雪国ですから風雪にさらされて、お墓の石が相当傷んでおります。
お墓の前でも仏壇同様に、「お墓に意識を残しておられると成仏できません」
と話しておりますと、その墓石が今建てたばかりの新品のようになりました。
すぐに村中に広がってしまいました。
村中の皆さんは「そんな尊い方が来て下さるのに、どうして知らせてくれなかったのか」と、
今度は反対に村中から叱られたそうです。
次に寄せていただくと、各家庭の有線で村中に放送してくれたので、たくさん
集まって下さって、使命を果たして私は命からがら逃げて帰ったのです。
それこそ夜中の十二時、一時まで治療をさせてもらいました。
ま、ご奉仕ですね。

今年お参りしますと、その家からお嫁に行かれた七十二歳のおばあちゃんが
お見えになっていました。
そのおばあちゃんは幼い頃曽祖母(ひいおばあちゃん)と一緒によくお仏壇の
掃除をしたそうです。
盆とかお彼岸とかにね。
この阿弥陀さんはどうしてこんなに真っ黒なのかと思っていたというのですから、
七十年前にすでに真っ黒だったのです。
それが今年はさらのお仏壇よりも阿弥陀様のほうが光り輝いています。
ですから、私が何も説明しなくても、「私が幼い頃阿弥陀様は真っ黒だったんですよ」
「へえー」「ほんとう・・・」「私が子供の時・・・」「不思議なことや」
「尊いことや、有難いことや」と、皆さんがコソコソと勝手に話し合って感心しておられましたね。
では、なぜ物質にそういう現象が起こるのか―――あまり不思議なことが
起こりますと、あれは動物霊が化かしているのだとか、悪霊のなせる業だとか
言う人がおります。

もし私が動物のような生活をしておりますと、これは動物霊の力です。
また私が悪霊のような生活をしていましたら、こういう現象は悪霊の力です。
しかし、私がもし神仏のような生活をさせてもらっていましたら、それは神仏のなせる現象です。
「モーセの杖から変わった蛇は、魔法使いの杖から変わった蛇を飲みこんだ」
と聖書に書いてあります。
私の力とは違います。
見えない世界の偉大な力が働きかけて、信じられないことが起こります。
そしてその現象は、何百人、何千人おられましても目の前に見えます。
一人だけが見たのでは、ほかに証明する者がありませんが、
複数の人がこれを認めた場合、これは科学的現象です。

そこでは昼の部、夜の部とたくさんお見えになって、
皆さんがそれぞれ喜びを持って帰られました。
それは私の心の安らぎとなり、私の皆さまを思う愛、
どうぞ幸せになって下さいと言うその思いが皆さまの心の中に伝わります。
だから満たされていきますね。
福井県でも皆さまに喜んでいただいて、
私の思いを受け取っていただけたと思います。


             ~ 感謝・合掌 ~



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「講演集」より。

2015-01-19 00:34:07 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

         恩師のご著書「講演集」より


          講演集、 二


    愛によって相手が救われた時の喜び


先の続き・・・

お仏壇は買いたての新品ですごく立派なのですが、
ご本尊は先祖代々の阿弥陀如来像が祀ってあって、
それが墨を塗ったように真っ黒でした。
仏壇を買った時に、この黒い阿弥陀様を洗ってもらえませんかと頼んだそうです。
すると仏壇屋さんに、「ご本尊さんは黒い程値打ちがあるのです。
綺麗にしたらいけません」と叱られたというのです。
お仏壇にお参りをして、「M家の先祖代々の皆さま、
今日はご縁を頂きましてこの場所にお招きいただきました。

ありがとうございます」とお礼を申し上げてから、
「もし、このお仏壇の中に、この場所が我が住みかと思い、位牌、仏壇の中に
思いを残しておられる諸霊がおられましたらよくお聞き下さい。
又この屋敷に縁のある諸霊も共にお聞きください。
私たちは本来、光り輝くすばらしい世界から、この地上の世界に魂の修行に来ております。
この地上の修行が終われば又、あの光り輝く天上の世界に帰ってこそ、
まことの成仏ができます。
この地上のどのようなものであっても思いを残しますと、その思いが執着と
なって救われることはできません。

この地上界から一切の思いを離しなさい。
又、この地上において生活をなさいました五十年、百年の間をよく振り返ってみて下さい。
私たちは、この肉体の五官の故に或る時は腹も立てました。
愚痴も言いました。
恨み、憎しみ、不要の心配、恐怖、貪欲、それらの思いはいかがでございましたか。
この思いこそ、私たちの苦しみの原因となっておりました。
その思いが心のおもりとなって、
その重さの故に天上界へ上がることができません」と、お話させてもらいました。

さらに「神様の御心―――幸せに生きよ、健やかに生きよ、
と言っていただくその神のご意志に背いていることに目覚めて下さい。
自らの心を苦しめ、神のご意志に背いては、何ものも救われることはできません。
この過ちに気付けば、今、心素直に自分の過ちの一つ一つを真の神にお詫びして下さい。
その時、皆さまの心は安らぎます。
そして必ずあの光の世界に帰れます」とお話させてもらいますと、
阿弥陀様は突然パーッと光って、忽ちにして黒いところが消えていきました。
そして仏壇の周りの新しい金箔に曇りがあったのが見ている間にサーッと消えて、
磨いた鏡のようになりました。


         ~ 感謝・合掌 ~



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「講演集」より。

2015-01-18 01:12:48 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

         恩師のご著書「講演集」より


           講演集、 二


       愛によって相手が救われた時の喜び


先の続き・・・

これは小さいことでもいいのです。
家庭の中で両親に対して、或いは夫婦の間で、
また子供に喜んでもらうことを積むことです。
これを行じていきたいと思います。
ただ、心からさせていただくことですね。
これだけしてあげたからあなたはこれだけ私にして下さいという
交換の心を持ってはいけません。
それでは自分が不幸になります。
子供に対しても、自分に気に入らないことがあっても関係ありません。
ただ、させていただくと、その時必ず相手の心が変わってきます。
自分に向かって怒鳴ろうが裏切ろうが関係なく、誠心誠意させていただくと、
その愛は相手を変えます。

この間、石川県と福井県に招いていただきました。
石川県のその地方は、蓮如上人が法を説かる基盤とされたところです。
門徒さんの多い地域です。
その村の戸数は百八十戸。
門徒信仰のものすごく篤い場所ですから、S宗教の家は一軒もなく、
全く他宗教の入り込む余地のない、いわば門徒の聖地のような地域です。
去年、そこへ私が呼んでいただいた時は、その家では大変気を使われまして、
変な宗教をもってきたのと違うか、もし門徒以外の宗教なら、
自分たちは村八分にあって大変なことになると、
その家族と親戚だで私を呼んでいただいたのです。

その時、お釈迦様の話しをさせてもらったら、大変喜んでいただきました。
門徒さんのお仏間は、家によって違いますが、
十畳四間どりで襖をとると四十畳の広さになり、
廊下も幅一間半ぐらいある広いものでした。
私は仏間の隣の奥座敷に案内していただきました。
廊下をはさんで向かい側にある親戚の皆さんがおられましたら、
そこへいっばい金が出てきたのです。
私がその部屋に入ったのならば、ポケットに忍ばせて撒いたと思われるでしょうが、
私はまったく一歩もその部屋には入っておりません。
部屋中キラキラになったので、皆さんが「不思議なことがあるものだ」と
びっくりなさったのです。


            ~ 感謝・合掌 ~




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「講演集」より。

2015-01-17 00:54:22 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

         恩師のご著書「講演集」より


           講演集、 二


       愛によって相手が救われた時の喜び


「法」とは有難いものです。
一昨日、二十歳前後の兄弟の弟さんのほうが来てくれました。
そのお兄さんのほうは家庭の破壊者だったのです。
気に入らないと、物はぶつける、お膳はひっくり返すと、
手に負えなかったのですが、以前こられた時、
僅か半時間か四十分お話させてもらっただけで帰り際の靴をはくところから
もう変わってきたのですね。

変われるというのは、ご本人の魂がもともと高かったからです。
ただ道を知らない為にそういう過ちを犯しておられたのが、一旦道が示されますと、
即もう百八十度の転回となったのです。
お母さんも、息子を恐いものに触れるように、ハラハラした生活をしておられたのですが、
あまりの変貌ぶりにびっくりされ、また周りの方も驚かれたのです。
これが機縁でヘソ曲がりの弟さんもここに見えて、それ以来いい子になってくれました。
高橋信次先生の「心」についての本を買って帰られて、その本を夢中になって読み、
ある朝澄まして起きてきて、「私はゴータマ・ブッダだよ」と言って、まあ、
えらく感動してしまったのですね。

兄さんは、「僕はイエスの跡を踏まねばいけない」と頑張ってくれ、では、
お母さんはさしずめマリア様、長尾先生は忠岡のイエス様と決まっていますと、
そのお宅で大笑いなのです。
こんな話を弟さんから聞き、そういう喜びを目の当たりに見せてもらい、
破壊寸前の家庭が調和されていく姿は、ほんとうにうれしいものです。
この世に生を頂いた人間として、もちろん自分の力ではありません、
私という肉体を通して家庭が調和され救われていただく時、しかも大勢の
何人もの方からこんな喜びを頂けることを思わせていただいた時、私ほど
幸せな者はそうたくさんはいない、或いは世界一の幸せ者か分からないと
思います。

A先生も「私は世界一の幸せ者」と常にお話なさっておられます。
そのA先生が「長尾先生は私は何倍かの幸せ者です」とおっしゃって下さいましたが、
その喜びは何ものにも代えることができません。


            ~ 感謝・合掌 ~



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