浄心庵・長尾弘先生「垂訓」

八正道と作善止悪

「講演集」より。

2014-06-30 03:49:50 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

    ~ 恩師の御著書「愚か者の独り言」より ~


             講演集 一


        「心のスモッグが幸せの光を遮る」


先の続き・・・

その前に、先ほど言いました地獄ですが、
「地獄なんかほんとうにあるかどうか、
見たこともないから、あるやらないやら分からない」と
言われますが、私は地獄界も天上界もちゃんと見て来ました。
地獄も一つだけとは違います。
喧嘩する地獄、
或いは我さえよければ良いという畜生のような世界の地獄、
有っても有っても欲しいという地獄の世界などいっぱいあります。
怒り、妬み、憎しみ、謗り、愚痴、
こういう思いが強くて自分の周りを心のスモッグで真っ黒にした人は、
この世の肉体を去ってあの世に帰って行きますと、
怒り専門によって神の光を遮った場所があり、
この中に勝手に類は類をもって集まる法則で、
この怒りの世界に入って行きます。
仏教では阿修羅といいます。

そこへ行くと、
お互いに腹の立て合いをして喧嘩ばかりして生きて来た人は、
餓鬼界に入って欲しい欲しいの塊となっています。
そういう世界にいる方がなぜできたかと言うと、
人間として生まれて、自ら神の光、仏の光を遮って、
そしてこの世を去った方の思いによって、
光を遮った為の闇の部分、影の部分ができ、
その思いの同じ世界へと引き込まれて行くからです。
それではあなたは地獄を見て来たのか、
その証拠はあるのかと言われますと、
それは数限りない程の証拠があります。

例えばそういう方が、
この地上の人間に縋って来るのを憑依と言うのですが、
その霊に命じますと、すぐに現実の人間の中に入って来て、
あの世の世界のことを全部報告されます。
また光の世界、あの元のふるさとにお帰りになった方は、
その当時地上で住んでおられた国の言葉でお話されます。
イスラエル、或いはインド、中国などその国の言葉で話をされ、
私は当時こういう名前で、こういう仕事をしておりました。
あなたとはこういう縁生でございましたと報告をしてくれます。


         ~ 感謝・合掌 ~




恩師「長尾弘」先生の関連ブログ

http://blogs.yahoo.co.jp/tenzenhana 
「神の御心」・心身の神癒

http://blog.goo.ne.jp/minraianko 
「光の天使」・ブッダのことば

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「神癒の奇蹟」・心身の神癒

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「長尾弘先生垂訓」・講演集

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恩師「長尾弘」先生御著書・御講演





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「講演集」より。

2014-06-29 04:09:20 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

      ~ 恩師の御著書「愚か者の独り言」より ~


                講演集 一


        「心のスモッグが幸せの光を遮る」


これは何かと言いますと、自分の心です。
心の中に常に安らぎと感謝を持ち、
人の為に奉仕する行いを実践した時、
自分の心の中にああ良かったなあ、
人に助かってもらったという喜びが与えられます。
その満たされた、幸せだなあ、
良かったなあという思いが光なのです。
反対に、心の苦しみの原因を作りますのは怒り腹立つことですね。
それから、妬み、謗り、愚痴、恨み、憎しみ、足ることを忘れた欲望、
これらはまさしくスモッグを出しています。
心の中からスモッグが吐き出されているのです。
今から十年ぐらい前、大阪の堺辺りは石油コンビナートができて、
あちこちの煙突からガスが吹き出しましたから、毎日のように
スモッグ警報が出されていました。
あれは企業が設備をつけると高くつくので、公害設備なしに、
ガスを空に吐き出せば影響は無いと思って、自分が儲ける為に
どんどん出したので、やがてこの広い空さえも覆う程のスモッグが
できたのですね。

その層も厚くなってきましたら、熱い太陽の光さえも通してくれません。
それと同じことで、私達の心も本来は光に輝いていました。
大層安らかな光輝いた魂でした。
その証拠に幼い赤ちゃんの顔は、どんな赤ちゃんでも、鼻の高低、
目の大小に関係なくかわいく何とも言えない愛らしさで、殊に目
などは澄みきっています。
あれは何故かと言いますと、
何の汚れもない心を持ってこの世に生まれ出て来ているからです。
やがて五歳、十歳と年を重ねてこの世の風に当たると、
自らの心からスモッグを吐きだして、
私らのようなこんな顔になってくるのです。
これも各自顔の個性を持っていますけれど、それぞれが今日まで生き
させてもらった間の体験の積み重ねが顔に看板として出ているのです。
本来は私達も光輝いた魂を持ってこの世に産んでいただいたのですね。
生きて来た間に、怒り、謗り、愚痴、憎しみ、欲望に囚われて足る事を忘れ、
その積み重ねによって心にスモッグを作ってしまったのです。
本来は真ん丸い心で光輝いていたのです。

自然界のすべてのものは、自然の力によって生かそう生かそうとし、
また用事が済めば消滅させよとして、
自然の力の中に私達は生きさせてもらっています。
言葉は換えれば、太陽は光です。
この太陽の光の中に私達は本来ならば満たされているのですね。
自分の心のスモッグを払いました時に、神の光は願うことなしに
私達の心の中に燦然と輝いていただけます。
ところがいろいろと生まれた環境、受けた教育、考え方、思想、
習慣の中に、在る時は腹を立ててスモッグを出します。
憎めばたくさんのスモッグが出ます。
そして心の周りをスモッグで囲ってしまうと、神仏の光は遮られてしまいます。
神の光を遮ってしまうと、光がいただけないから苦しみが現れてきます。
ではこのスモッグをいかにして出さないようにするか、
これが大事です。


        ~ 感謝・合掌 ~




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「講演集」より。

2014-06-28 02:52:27 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

       ~ 恩師の御著書「愚か者の独り言」より ~


                  講演集 一


  
        「成仏されると墓所・仏壇は明るく光る」


先の続き・・・

その後で山へ登って行きますと、
今まで電灯をつけないと見えなかったその山の中がちょうど木陰を
歩いているような明るさで、
こんなに明るい所へなぜ電灯を持って来たのかですかと尋ねるくらい、
今度は明るいのです。
それは、私達の心の曇りが、幼い頃に、仏教で地獄と教えられた、
神社の光を遮った世界、つまり自分の心の曇りによって神社の光を遮り、
光の届かない暗い世界を作っていたからです。
地上に執着を残し、自分の心の曇りのスモッグを持った方がいっぱいおられますと、
自然界さえも暗くなるのです。
この暗い想念の世界こそ地獄の世界です。

よくあちらこちらのお仏壇にお参りさせていただきますが、
言葉の要らない意識の世界ですけど、
「どうかこの仏壇から思いを離して下さい。
そしてほんとうの世界へ救われて下さい」と言って話させてもらいますと
、つまり真理を伝えますと、あの真っ黒になっていたお仏壇が
忽然として光ってきます。
古くて字の読めないような位牌なども忽ちに文字が浮かび出て来ますし、
金を塗った古い位牌でしたら、
新しい位牌と変わらないように見てる間にきれいに曇りが消えていきます。

これは位牌の中に意識を留めておられた方が、ほんとうに悟って救われて下さり、
位牌から抜けて行かれるから、光ってくるのだと思います。
あの山に登るのに、電灯が不要になったのと同じことで、
お仏壇もお位牌もきれいに明るくなります。
極端な場合は、
お仏壇の掛けてある阿弥陀様のお軸が黒く墨を塗ったようになっていても、
未成仏様が成仏されますと、サーッとそのお姿が現れてきまして、
家族の方が並んで見て居られるうちに、
「わあ、阿弥陀様のお顔の眉が見えてきた」という具合で、
しまいには後光が射してきます。
こんな不思議なことも見せてもらいます。


        ~ 感謝・合掌 ~





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「講演集」より。

2014-06-27 00:46:36 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

       ~ 恩師の御著書「講演集」より ~


             講演集 一


    「成仏されると墓場・仏壇は明るく光る」


先日田舎のお墓をきれいにして欲しいと頼まれて四国へ参りました。
不思議なことがあるもので、昼の日中にそのお墓に行きましたら、
鬱蒼としていて懐中電灯を持って皆お参りしているのです。
では凄い深山かと言いますと、そんなことはないのですね。
平地があって国鉄が通っており、二百メートル程離れた所から
山地になっているのです。
この山はひどく急な山ですけど、ご先祖様というのは亡くなったら
自分の家を見下ろせるようなお墓で、
常に家を身守りながらあの世にいたいという思いがあったのですね。
各宗派によって、いろいろですが、その思いの場所にお墓があります。

そこで私は真の神様に向かって
「どうかこの地域に神の光をお与えください。
この地域に調和と安らぎをお与え下さい」とまず祈らさせてもらいました。
次に霊たち向かって「この山のお墓に執着をもって、このお墓が自分の
住処であると思っておられる諸霊たちよ、よくお聞きください。
私達は本来あの光り輝く天上の世界から地上のこの世界へ自らの
魂の修行に生まれて来ております。しかるに、
この地上に肉体を戴きましたら、
私達はこの肉体の故に数々の過を犯して来ました。
或る時には腹を立て、愚痴も言い、人を謗りもします。
自分にとって具合が悪いと恨んだり、憎んだり、足ることを忘れた
欲望にとらわれて、自分自身の心を苦しめてきました。

しかし、私達は自分の心を苦しめてしまえば苦しめた分だけ
心が重くなります。また心が重くなりますと、その曇りの故に
ほんとうのふるさとへ帰ることができません。
ほんとうのふるさとは、あの光り輝く天上の世界です。
地上に生まれる前に住んでいた世界へ帰ってこそ本当の成仏です。
この地上のお墓とか、仏壇の中とかに心を残されては、
あのほんとうのふるさとへ帰ることはできません」と話させてもらい、
更に「皆様はどうかこの地上から思いを離して、
あの輝く世界に上がって下さい」とお祈りをして経文を唱えますと、
諸霊は皆、天へ上がって下さいました。


       ~ 感謝・合掌 ~



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「講演集」より。

2014-06-26 04:22:00 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

     ~ 恩師の御著書「講演集」より ~


         講演集 一


        「喜捨・奉仕」


これを話すと、私は損をするのですけれど、
皆さんの為ですから損をして言わせてもらいます。
私はこの三十年間、毛布の生産をしていた間、
二十歳代からずっと私よりも恵まれない不幸な方の為に、毎月、
または溜めておいて年に一回、喜捨をさせてもらってきました。
毛布をトラック一杯積んで、施設に配らさせてもらい、
これはずっと続けてきました。
現在も年末の助け合い運動とか、
何かの折には気持ちだけ喜捨させてもらっています。

ただ残念なことに、
こういうことを自分で話しますと自慢たらしく聞こえます。
ただ一つ良い行いをして一人にしゃべっても、帳消しになるのですから、
百人にしゃべったら九十九の赤字です。
こんな大損害ですけど、
皆様の為に天の蔵から放出する気持ちで、そのコツを話しております。
良い行いは常に隠れて積むことです。
表に出したらもう天の蔵には入らないのです。
隠れた徳「陰徳」を積み重ねることですね。その時、
見えない世界の天の蔵には宝物がいっぱい詰まってきます。
そして私達の、その時その時の必要に応じて、
天の蔵からまた出てくるのです。
つまり預金をしているようなものです。そして、
喜捨した何十倍、何百倍のものを自然から報酬として私の所へ
与えてもらいました。

常に人様の為にさせていただくということ、これは実践ですね。
心にほんとうに平和が欲しかったら、心に安らぎが欲しかったら、
勿論、目を閉じて禅定瞑想をして静かな時を持つことも大事ですけれど、
それよりも両目をしっかり開いて、
まず扉を開いて人の為に奉仕しなさい。
人の為につ尽くしなさい。
その時に必ずあなたの心に平和が訪れて来ます。
キリスト教ではこれを隣人愛と言っていますね。
「隣の人々に奉仕をしなさい。
その時あなたの心に平和が訪れて来るでしょう」と、
その通りであって、自分を捨ててはいけないけれど、
人の為に尽くし、自分を生かして下さい。


          ~ 感謝・合掌 ~





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「講演集」より。

2014-06-25 01:38:50 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

     ~ 恩師の御著書「愚か者の独り言」より ~


                講演集 一


 
           「自然の法則と私達」


先の続き・・・

私達の呼吸を見て下さい。
私は息を出すのは嫌だと言うてみなさい。
息が詰まります。
思い切って全部吐き出しますと、自然にたくさん入って来ます。
私達は自分のものを、自分より恵まれない方に使っていただく為に出す、
この行為を喜んで捨てる、つまり喜捨といいます。
例えば、十万円あればそのうちの一万円を恵まれない方に喜捨させていただく。
一万円出せば損をしたなと思いますが、一万円を出したら、
この一万円は生きていますから、必ず形の違った所から入って来ます。
自分の中に取り込むばかりだったら、もう入って来ません。
この法則を私達はつい忘れるのです。

この肉体一つ見ましても、出すことは不要といってお尻のほうも前も蓋をして、
大・小出さないようにしたら、
もう上からは食べ物が入らないようになってしまうのです。
下から出してもらうからこそ、上から又おいしいものがいただけるのですね。
すべて出せば入る法則を私達はつい見落として、
取り込むほうへまわろうとするのです。
その時、自然の法則から離れた分だけ自分が苦しみを受けていきます。
ある宗教で、お金を上げなさい、家も土地も全部はたいて上げなさい、
主人に内緒でも上げなさい、というのがあります。
その宗教に入って、おじいさん、おばあさん達の全く素朴な信仰をされる方が、
自分のお小遣いを始末し、食べるものも始末してその教団に捧げておられますが、
そういう素朴な方は亡くなった時に、安らかな往生をされています。

しかし、だんだん教団の上へ上へとあがりまして、
今度はお金を集める立場に立っていかれます。
例えば分教会、中教会、大教会となっていきますと、
そういう方の家庭は必ず不調和です。
病気があるか、家の中に心配事があるという場合が多く、
そして亡くなる時には、業病をもって亡くなって行かれる方が多いのです。
心当たりをずっと見渡されたら、そのようになっておられる筈です。
では、なぜそうなるかと言いますと、出させていただくというのは心豊かです。
出すという行為は自分の心に良かったなあという安らぎが得られます。
しかし、自分が取り込むという立場に立った時、自分の心が卑しくなっていくのです。
取り込む生活を積み重ねますと、この世を去る時に、この世の総決算が出て来ます。
つまり業病を患って亡くなる場合が多いのです。
出す側は自分の心が豊かであり、取り込む側は自分の心を貧しくする。
心を貧しくすると苦しみを味わうことになります。


        ~ 感謝・合掌 ~





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「講演集」より。

2014-06-24 02:32:10 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

     ~ 恩師の御著書「愚か者の独り言」より ~


              講演集 一


  
         「自然の法則と私達」


私たちは自然の法則の中に生きさせてもらえば苦しみはないのです。
ところが人は自然の決まりについ背くのでね。
この自然の法則の中には「循環の法則」、
つまり回って止まらない法則があります。
仏教では転生輪廻とか霊魂不滅とかいうふうに説きます。
また、作用を起こせば必ず反作用する「原因と結果の法則」があって、
この法則から何ものも逃れることはできません。
自分が幸せになりたかったら、周りを幸せにしたらよいのです。
人を幸せにしたら、必ず自分が幸せになれます。

与えられるのです。
その代わり自分が不幸になりたかったら、
人を不幸にしてあげたらいい。
必ず自分を不幸にしてくれます。
自分が泣きたかったら、人を泣かせらいいのです。
これは原因・結果の法則です。
原因と結果は一つであると知ったら、この原理がはっきり分かります。
与えなさい。
与えたら必ず入って来ます。
与えない者にどうして与えられましょうか。
「出せば入って来る法則」です。


        ~ 感謝・合掌 ~


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「講演集」より。

2014-06-23 02:52:28 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

      ~ 恩師の御著書「講演集」より ~


             講演集 一

(前日の続き)
それから十日程してお見えになりましたら、
もう全くお顔をはじめとして、その方から受ける感じから人相までも
変わってしまっていたので、
私はすぐにどなたか思いだせなかったのです。
「初めてですか」と声をかけますと、
「先生、この間寄せてもらったあの目の・・・・」とおしゃた途端、
「ああ、あの泣き顔の・・・」と言ったのです。

思いを変えることによって、その顔の相まで変わってしまい、
別人のように明るくなっておられます。
その期間は僅か十日間です。
世界の悲しみは私一人で味わっているといった悲しみで
泣き顔をしていた方が、
まるで地獄から這い出したようなものです。
その方が潰れた目のほうに心を向けて
悲しい悲しいと思っておられた時、
その方はこの世の中の最高の苦しみの中におられました。

ところが、助かったほうの目に感謝の心を向けられた時、
この方は「私はよかった、幸せだ」という感謝と喜びの中に
生きられたのです。目は同じことです。
やはり片方は潰れていますし、片方しかありません。
心の向け方によって幸せにもなり不幸にもなります。
その方は今は幸せに暮らし、ほんとうに明るくなられました。
肉体そのものは何ら変化ないのに、思いによってこの世の中の
喜びに生きられるか、この世の中の悲しい人間として生きていくか、
即変わるわけです。
「心のチャンネルを切り換えなさい」という言葉を使う方もあります。


               ~ 感謝・合掌 ~




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「講演集」より。

2014-06-22 05:31:17 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

     ~ 恩師の御著書「講演集」より ~


           講演集 一


       「片目」への感謝


これは片目を失明した或る婦人の話しです。
毎日泣いて泣いて泣きあかし、お顔はもうすっかり
「泣き顔」になっておられます。
この世の悲しみを自分一人で背負っています、というような方が
私の所へ見えたのです。

四年間も泣き暮らしておられたそうです。
その方は、ワイヤーロープの会社に勤めていて、
或る時そのロープがピンとはじけて目に突き刺さってしまったのです。
最高の手当てをされたのですが、失明して義眼を入れることになり、
自分は生まれもつかぬ不具者になってしまったと悲しまれたのです。

義眼になると夜休んでいても目が閉じてくれませんし、
義眼をはずせば目が落ち込むし、主人に対しても恥ずかしい、
私は何と不幸なんだろうと毎日泣き暮らしていたのですが、
そんなことをしているとノイローゼになりますものね。
何とか助かる方法はありませんか、
とそのお姉さんが連れて来られたのです。

その方に対して「両目の健全な私が言えば、
先生は両目とも揃っているからそんなことが言えると
思われるかも知れませんが、片目が潰れて不幸だといって
毎日泣き悲しんでおられるあなたの生活も現実です。
今、現にあなたがそのような生活をしておられる。しかし、
今後もしも悲しいと思われたら、掌を合わせて、
神様にありがとうございましたといってお礼を言って下さい。

あの時、はじけたロープが両目に突き刺さっていたら、両目失明です。
でも片方で済んで、ようこそ片目を助けていただきましたといって
感謝して下さい。感謝して暮らせるのもこれ又現実です。
両目とも潰れたら片目ある場合よりも、更に不便です。
いただく食べ物も自分でどこにあるのか分かりませんし、
トイレに行くにしても片目があればこそ不自由しません。
両目ともなかったらこれは大変なことです。
助けてもらったこの目に対して感謝をして下さい」と言って、
その方にお願いをしたのです。その方も頭の良い方だから、
よく分かりましたと納得をしてくださいました。
(この後の文面は明日記載する予定です)


         ~ 感謝・合掌 ~





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「講演集」より。

2014-06-21 04:02:43 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓
 
      ~ 恩師の御著書「講演集」より ~


     「私たちは思いの中に生きている」


私たちはこの環境の中に、肉体を持って生きていると思うのですけれど、
ほんとうは、私達の「思い」の中に生きているのです。
環境や肉体はどうであっても、その人の心の持ち方さえ感謝、
喜びのほうへ向けておれば、その方は幸せです。
心というものは目に見ることはできないし、掴むこともできないし、
どこにあるのかも分かりません。
ところが私達は心の動きによって、生活していますね。

「牛の糞に銀蠅が寄る、花に蝶々が寄る」牛の糞がいくら綺麗な蝶蝶に
寄ってきて欲しいと思っても、寄ってくるのは銀蠅ばかりです。
私達は心を清めて、綺麗な花のような心を作った時に呼ばなくても
蝶蝶は寄って来ます。
自分が牛の糞になるか、花になるか。
花にもなれば、糞にもなる自分の心が、花になった時、
幸せは自然から与えられ、健康も与えられます。
自分の心、思いの中に生きているのです。

日々の生活の中に、心が振り回されていると思うのは反対で、
自分の「思い」の中に生きています。


              ~ 感謝・合掌 ~






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「講演集」より。

2014-06-20 00:37:12 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

    ~ 恩師の御著書「講演集」より ~


           講演集 一


     「もし無かったら」と仮定する見方


余りにも私達は感謝することを知りませんでした。
あの太陽の熱・光に対して心から感謝できるその思いですね。
また何とも思わずに吸わせてもらっている空気、その中の酸素。
もし太陽の熱・光をいただけなかったら、
この地球上に何者も存在はできないし、この空気が無かったら、
いくら息の長い人でも、三分間も生きられません。そのように、
総てをいただいていることに対して感謝を知らないでいます。

「有難いなあ」と心から掌を合わせてお日様の熱・光、空気に対して
感謝をされた方があるでしょうか。
何かにつけて私達は、あって当たり前、
あるから当たり前と思っていますが、
もしなかったらという見方をさせてもらった時に、
ほんとうに有難いなあということが分かりますね。

夫婦の間もそうです。
夫婦とも健在の間はお互いにくさし合ったり、
謗り合ったりして文句ばかり言い、ふうふういいながらこの世を去って
いくのですが、いなくなった時に「ああ主人がいてくれたらこんなに
淋しい思いをしなくて済むのに」と、その有難さがしみじみと分かります。
何かを見せてもらっても、「もしもこれがなかったら」という思いを
常にさせていただくことです。


          ~ 感謝・合掌 ~



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「講演集」より。

2014-06-19 02:04:50 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

   ~ 恩師の御著書「講演集」より ~


          講演集 一


  「自然の法則に平気で背く私達」


世の常の私達が常識と思って生きていることと、
本当の自然の姿とは反対になっております。
自分さえ良ければいい、人様のことなど構っていられない、
他の人はどうでもいいという思いの方が多いのですが、
自然界を見ますと、どんなものでも相互依存、
お互いに持ちつ持たれつの法則の中に生かされております。
自分さえ良ければという勝手なことをしましたら、
自然の姿に反することになり、苦しむようになるのです。

自然界はお互いに持ちつ持たれつですね。
例えば、私たち動物は空気中の酸素をいただいて生きています。
そして、その代わりに二酸化炭素を出しています。
もしもこの地上に動物ばかりでしたら、
酸素が無くなって二酸化炭素ばかりになってきますので、
人間は生きていられませんが、
植物が二酸化炭素を吸って太陽の熱・光をいただくことによって
光合成をを行い、澱粉を作り、酸素を吐き出してくれています。
その酸素を人間が吸い、植物と持ちつ持たれつで相互依存の法則に
従って生かされています。

この太陽系一つ見ましても、
太陽を中心として九つの惑星が一秒の狂いもなく循環しています。
これらは独自に回っているかというと、
そうではなくお互いの引力の作用によって動かされているのです。
自らが動くことによって他の星を動かしている。
ところが、もし地球が、私はもうしんどいから一服しておくと
言って動くのを休んでしまったら、他の天体に大変な影響を及ぼし、
太陽系の存在は破壊されてしまいます。

一方人間は、自分の都合が悪ければ、
平気で人との相互依存の法則を破り背いてしまうのですね。
私は何も悪いことはしていない、間違っていないと言いながら、
自然の法則に背いて苦しみを味わっているのです。


              ~ 感謝・合掌 ~





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「講演集」より。

2014-06-18 00:38:31 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

     ~ 恩師の御著書「愚か者の独り言」より ~


               講演集 一


 
        「親切な人が不幸である場合の原因」


先の続き・・・

そういうわけで、
人のいいお方が不幸な生活をしておられる場合が多いのです。
良い行いをしても自分を苦しめた時、これは絶対に失格です。
あの世では必ず地獄へ行きます。
行いの結果を褒めてもらわなかったとか、
礼を言ってもらわなかったとか、
また人から報いを受けなかったとか言って、
自分の心を苦しめた時、その善は悪に変わってしまいます。
善に勝る悪を積むことになります。
では、がめつい人がなぜうまいこといくかと言いますと、
そういう冷たい嫌な方は、人の為には何もしませんので、
裏切られる回数は殆どないのです。

その面に関しては自分の心を苦しめないのですね。
だから案外うまくいくのです。
では人のことは放っておいて、
自分さえうまく生きたらいいのかと言いますと、
却ってそのほうが無難だと思いますが、
これでは生まれて来た目的が果たせません。
その目的とは、人々と互いに手を取り合って調和を目的とし、
助け合い、愛し合いながら、自然の姿に沿って生きるのが、
この世に生まれた目的です。
親切はあくまでも、
いっさい求めることのない善なる行いでなくてはなりません。
またわがことだけ良ければ他はどうでもよいというのも
自然の姿に反します。
自然(神)に逆らった分だけ人は苦しみを味わうようになっています。


           ~ 感謝・合掌 ~





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「講演集」より。

2014-06-17 01:58:39 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

       ~ 恩師の御著書「愚か者の独り言」より ~


                  講演集 一


 
          「親切な人が不幸である場合の原因」


先日、四国でお話させてもらいました時、「今日はいいお話を聞かせてもらいました。
お釈迦様もキリスト様も説いておられないことを聞かせてもらいました」と好評でしたので、
その話をさせていただきます。

人の良い親切な方で、わが事を放っておいても他の人の為に親切を尽くす、
まるで神様か仏様のようなやさしい良い方が案外不幸に生きておられる場合が多いのはなぜか、
というお話です。皆様のご近所にもあると思います。
親切な方は、人が道に倒れていると起こして、家はどこですかと尋ねて連れて行ってあげますが、
冷たい人は、倒れていたらそんなものは蹴倒して行きます。
もっとがめつい人は、ポケットの中にそっと手を突っ込んでみて、
入っているものを自分のポケットに移し替えてしまう。

そういう人が案外うまくいっている場合がありますが、それはなぜか。
私達は親切な人が不幸に生き、がめつい人がうまくいっているのを見ると、
この世の中には神も仏もいないと、神仏がおられたら、
こんなことになる筈がないと思います。
けれども神も仏もちゃんとおられます。良い方が不幸なのは、
やはり原因があってその結果として現れているのです。

お釈迦様も説かれていますように、
すべて原因と結果の法則によって成り立っています。
どんなに見た目に良い方のようであっても、
不幸な目に会われる原因があるから不幸なのです。
人に親切にしているその面からだけ見ると、
決して悪いことはされていませんね。
ところが、そういう親切な方は、自分が親切なものだから、
人も皆親切だと思っている。
これだけしてあげたらこの人は滅多に私を裏切らないだろうとか、
これだけしておいたらこの人は今度はお礼をしてくれるだろうとか、
私が困った時にあの人は放っておかないだろうとか、
そういう思いをかけて人の為にしておられる。

でも人は顔が違うように皆心が違うから、平気で裏切る方は、
裏切っていきます。
その裏切りを受けた時に、夜もよく眠れずに苦しみ、
自分の心を低くしてしまいます。
あれだけしてあげたのに、
あの人は恩知らずの何という人だろうと思って怒り腹立ち、憎しみ、
また呪います。
人から裏切られるたびにその方は苦しみを味わうわけです。
ですから、親切をされる回数が多ければ多いだけ、
裏切られる回数も多くなっていきます。
従って自分を苦しめる回数も多くなっていくのですね。
私達は自分の心を苦しめますと、必ず自分の環境とか肉体の上に
苦しみとなって現象化して現れてきます。


             ~ 感謝・合掌 ~




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「講演集」より。

2014-06-16 02:08:00 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

    ~ 恩師の御著書「愚か者の独り言」より ~


             講演集 一

 

        「組織には業がつきまとう」


先の続き・・・

私なども、いろいろと不思議なことを見させていただきますから、
よく他の方から宗教を作って下さいとか、教団を作って下さいとか
言われるのですが、組織には必ず苦しみが付いて回るので、
私は作りたくありません。
天台宗の最澄は「下の座にあって、自分の身の一隅を照らす者は、
この地上の宝である」とおっしゃったそうです。
常に私達は謙虚に生きなくてはいけないのに、つい上へと思いあがり
自分は偉い、こんなことができるという謙虚とは反対の増長心が出て
来て、その為に人に嫌われたり、またいろいろな苦しみの原因を
作っていきますから、私達は常に謙虚に生きることが大事です。


        ~ 感謝・合掌 ~





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