浄心庵・長尾弘先生「垂訓」

八正道と作善止悪

結構の源やん

2008-11-15 04:19:50 | Weblog

※ お写真は浄心庵庵主「長尾弘」先生です。

~ 浄心庵 我れらの恩師「長尾弘」先生の御講演より ~


「結構の源やん」

思い替えの方法で一番参考になるのが、この「結構の源やん」の話です

今の東大阪に名前は「源やん」渾名は「結構」という方がおられたそうです

明治の初期だそうです。

この方はどんなことが起きても絶対に不足を言われなかった。

何が起きても「アア、結構やないか、結構やないか」とおしゃったそうです。

だから、「結構屋さん」とか「結構の源やん」という名前です。で、ある年

毎日毎日雨が降り続いたそうです。

一ヶ月ほども降ったそうです。

その時代、「土方殺すに刃物は要らぬ。雨の三日も降ればよい」

といって、三日間仕事ができなければ、もう日雇いの人は食べられないような

状態だったのです。

源やんの友達の人たちが「さすがにあの結構の源やんもこれだけ雨が降ったら、

もう結構ってよう言わんやろなァ。」

一回何て言うか聞きに行こうか」と言って、源やんの家に行ったそうです

「源やん居てるかーッ」と言ったら、「ハーイ」と出てこられたそうです。

「かなわんなァ、こんだけ降ったら」と言いますと、その源やんが

「ああ結構やないか」とおっしゃったそうです。

「結構、結構やないか」というのは、「有難いやないか」ということです。

「ああこれだけ雨が降るのに何が結構や」と聞きますと、

「お前らよう考えてみい。これだけ毎日毎日降る雨をもし神さんが

天で受けてくれはって、そしていっぱいたまった三十日分をバーッと

一度にぶっちゃけてくれはったら、家も畑も田圃もみな流れてしまう。

こんなに毎日しとしとと分けてよう降らしてくれはったもんや」

と言って喜ばれたそうです。

世間の人は皆「かんわんなあ、かなわんなあ」と言っているのに、

そのお方はさすがに「何と結構やなァ」と言われたといいます。

やがて、その方は東大阪一番の結構な人になられたそうです。

ものすごい結構な、まあ大金持ちになられたそうです。

大阪で有名な話です。


     ~ 感謝・合掌 ~





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許しも愛なり

2008-11-15 02:19:25 | Weblog

     ~ 恩師の御講演より ~

「許しも愛なり」



あなた自身が他を責め裁いてはならない!

何故なら、あなた自身が何もしなくても、

「神」すなわちその方の内なる「良心」(神我)が

その方ご自身を責め裁くからである。

あなたは心静かに自分自身の内なる世界に入り、

心静かにあなたが今なすべき事をしているがよい

神はすべてを御覧になっておられるのだから。


      ~ 感謝・合掌 ~




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言葉

2008-11-14 03:21:20 | Weblog


「言葉」

言葉は他とのコミュニケーションの道具の一つでありますが、

別名「両刃の剣」とも言われています。

同じ口から出る言葉であっても他を「無上の喜び」にさせる事も可能であり、

また、その逆に同じ口から出る言葉で「死よりも辛い」想いを与える事も可能だからです。

私達は毎日この言葉を簡単に使っていますが常に相手の気持ちを思いやり、

出来るだけ相手の心に傷を付けない様に配慮して使うべきであると私は思います。

語る際は常に聞き手に希望や安らぎを与え喜びに導く言葉以外は

出来れば使わない様にするほうが自分にとっても無難であると思います。

何故なら「売り言葉に買い言葉」なる諺もあり、まかり間違えば喧嘩にエスカレートして

殺人にまで発展しないとも限らないからです。

「口は災いのもと」と言う古い諺がありますが正にその通りであると思います。

特に御自身の子供達に対しては愛情溢れる言葉で語ってやって頂きたいと思います。

時々我が子は自分の所有物の一つであるかの様に思われている親御さんもおられますが、

子供は子供としての「人格」もあり「魂」も持っておられるのですから・・

確かに御両親の御縁により子供を授かるのは間違いない事実ですが御両親は子供に肉体は

与えても「魂」までも与えていないと私は思っています。

もっと言えば肉体にしても母体に10月10日存在する時に神の御手によって人間として

形造られる事を私たちは知るべきであると思います。

もし「魂」も両親が与えたのであれば何故両親と意思疎通が出来ないお子さんが出来たり、

両親の希望した様に御自分のお子さんが育たないのでしょうか?

肉体のDNA鑑定は出来ても魂のDNA鑑定は特殊相対性理論を提唱した

アインシュタインの様な優秀な方が何人も集まり、現在の科学、物理、医学の粋をもって

鑑定しても不可能な事だと思います。

何故なら魂を肉眼で見たり肉の手で触われないのですから・・・

社会生活の中では誰ともコミュニケーションをとらずに生活していくことは不可能ですか

ら、「人として語るべき事は語り、語ってならない事は語ってはならない」

これは理の当然であり、言うまでもない事でしょう。

言葉使いにおいて誰かから何かを依頼された際、二通りの答え方があると思います。

一つは何々「して上げる」、何々「してやる」・・・と言う答え方と

今一つは何々「させて頂きます」、何々「させて下さい」・・・の二通りの答え方です。

先の答え方は「上げる」、「やる」・・と言っている訳ですから折角の「行為の功徳」を

相手の方に上げてしまうことになり、損得の見地からすれば「損」な言い方であると

思います。

後の答え方は「させて頂きます」、「させて下さい」と言っているのですからその

「行為の功徳」を戴いている訳ですから損得の見地からすれば「得」な言い方だと

思います。

言うまでもなく損をするより得をした方が利口ですから、誰かから何かを頼まれた際は、

「させて頂きます」、「させて下さい」といった方が何か儲けた様な感じになりますし、

双方にとって心地よい言葉の余韻を残し、清々しい気分になるのではないでしょうか・・・

素直に告白させて頂きますが上述した内容はこの歳まで生きさせて頂いて実際に体験

させて頂いた私の反省自戒の辞です。


              ~ 感謝・合掌 ~






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思い変えの法則

2008-11-13 16:18:18 | Weblog

~  思い替えの法則  ~


ある日お釈迦様のお弟子様が本日よりお釈迦様の教えを

伝道に行ってきますとお釈迦様にご挨拶に伺ったそうです。

お釈迦様は慈悲に満ちたお顔で、そなたが教えの伝道活動するのは

一向に異論はないが、そなたの赴く天と地とそこに住する人々

の幸せと安寧の為に尽くすがよいと仰せになりました。

(仏教伝道の為に赴きなさいとは一切お釈迦様は仰っておりません)

しかしそなたが赴く地はまだ正法の教えが広まっていない所である

からして、恐らく悪口雑言を浴びるであろう。

それでも、そなたは赴くかとお釈迦様は念をおされたそうです

そのお弟子様は、はい悪口雑言を浴びせられるぐらいならば、

平手で叩かれるよりはズットましでございます。

とお答えにならたそうです。

では平手で叩かれたらいかがするか・・・

とお釈迦様はまたお尋ねになられたそうです。

お弟子様は平手で叩かれるぐらいならば拳骨で殴られるよりは

ましでございます。

とお答えになられたそうです。

では拳骨で殴られたらいかがするか・・・

とお釈迦様はまたまたお尋ねになられたそうです。

拳骨で殴られるぐらいのことは棒切れで殴られるよりズット

ましで御座います。

ありがたくおくお受けします・・・と、お釈迦様にお答えになられたそうです。

では棒切れではなく刃物で刺し殺された場合はいかがするか。と、

お釈迦様は再度お尋ねになられたそうです。

このご質問に対しお弟子様は、刃物で刺し殺されても

このありがたいお釈迦様のお教えを広めさせて戴くために、

この身を捧げられればこの上なき、

幸せ者であると感謝して、お受けしこの世を去りたいと存じます・・・

とお答えになられたそうです。

このことより、いかなることがあろうとも思い方一つで最悪の事態

からでも心が最善の事態に替える事が出来るのであることを

お説きくだっさておられます。


       ~ 感謝・合掌 ~




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一日一生

2008-11-13 15:51:21 | Weblog


~ 恩師の御講演より ~


「一日一生」

この世に生を受けた万生万物は

老若男女を問わず、一寸先は闇である。

「朝に紅顔ありと言えども夕に白骨」にならないとは限らない。

その証拠にご老人様や病めるお方様よりも早くこの世を去って逝く

多くの若者がいる事実を私達はいやというほど見聞してきている。

明日の命を保障されて生きているお方様はこの世に誰もいない。

それ故、一日一生の思いで日々の生活に感謝し、

仮に万が一の事があっても後悔の無い様に

日々の生活行動をするべきであろう・・・と、

だが我々凡人は「死」は他人事の様に思い、

自分だけがいつまでも生き続けるものと錯覚しがちである。

現実を直視し、正しい想いと行いの日々を精進すべきであろう。


            ~ 感謝・合掌 ~




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五つの心

2008-11-13 03:57:12 | Weblog

    ~ 浄心庵「心の道場」に啓示されていた
         掲示板「五つの心」より ~


◆ 五つの心 ◆

     ◎「ハイ」と言う
         素直な心

     ◎「すみません」と言う
         反省の心

     ◎「おかげさまです」と言う
         謙虚な心

     ◎「させて頂きます」と言う
         奉仕の心

     ◎「ありがとうございます」と言う
         感謝の心


          ~ 感謝・合掌 ~




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末法

2008-11-13 02:57:04 | Weblog

~ 恩師の御講演より ~


「末法」

昨今のマスコミを見聞する度に

この世は「末法」であると思わざるを得ない。

特にいたいけない幼児が何の罪も無いのに

愚かなる大人達によって殺傷されている事実である。

そこまでに至った背景にいかなる理由があるにせよ

「自分で蒔いた種」は

自分で刈り取らねばならないのが掟である。

「作用反作用の法則」を知るべきである。

まさに人間の皮を被った悪魔であると言わざるを得ない。

この世の法律によっても罰せられることは言を俟たないが、

それ以上に厳しい罰はその方御自身の「内なる良心」が

自分自身を攻め裁くからである。

「天に向かいて唾を吐き」

「風に向かいて灰を投じるが如し」

心より深く反省し大罪を帳消しにするための善を積み、

なお余りある善なる実践をしない限り、この世だけでなく、

あの世に於いても内なる御自身の「良心」が影の如く付きまとい

責め続けるであろう。

何故なら「内なる良心にはこの世の情状酌量なるものはない」

からである。

私達もこの悲しむべき出来事を心に銘記し「他山の石」

としなければならない

短かすぎた幼児達の御霊に対し御冥福を祈られずにはいられない。


      ~ 感謝・合掌 ~



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つもり違いの十箇条

2008-11-13 02:53:22 | Weblog

   ~ 恩師の御講演より ~


◆つもり違いの十箇条◆

薄いつもりで厚いのが面皮
厚いつもりで薄いのが人情

深いつもりで浅いのが智恵
浅いつもりで深いのが欲望

高いつもりで低いのが教養
低いつもりで高いのが気位

短いつもりで長いのが無駄話し
長いつもりで短いのが人の一生

短いつもりで長いのが怨念感情
長いつもりで短いのが受恩感情

少ないつもりで多いのが愚痴不満
多いつもりで少ないのが思いやり

大きいつもりで小さいのが度胸と根性
小さいつもりで大きいのが無礼な態度

少ないつもりで多いのが借金(して頂いた事)
多いつもりで少ないのが貯蓄(させて頂いた事)

持ってるつもりで持っていないのが感謝の気持ち
持ってないつもりで持っているのが差別の気持ち

死して行かないつもりで行くのが地獄
死して行くつもりで行けないのが極楽

多く積んだつもりで少ないのが善行
少なく積んだつもりで多いのが悪行


      ~ 感謝・合掌 ~



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座右の銘ー2

2008-11-13 00:31:28 | Weblog

    ~ 恩師の御講演より ~


糞中の穢中、居を争いて外の清さを知らず。

残水の小魚、食を貪りて時に乾くを知らず。

昨日は記憶にすぎず、明日は希望にすぎない、
今日の今の今のみが創造をもたらす瞬間である。

善悪いずれの結果が現れようとも、その一切は自らの心と行い、
想いが創り出したものである。

裏を見せ、表を見せて、散るモミジ。


     ~ 感謝・合掌 ~







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座右の銘-1

2008-11-12 20:49:44 | Weblog

   ~ 恩師の御講演より ~


    「座右の銘」

怒るな、威張るな、焦るな、腐るな、負けるな。

下座にあって、その一隅を照らす者は地上の宝である。

自慢する奴は親でも子でも惚れた方でも面憎い。

善事を尽くし天命を待て、結果が神が決めたもう。

気に入らぬ風もあろうに柳かな。

あれを見よ深山の桜 咲きにけり まごころ尽くせ人、知らずとも。 


          ~ 感謝・合掌 ~




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三種の人

2008-11-12 20:18:22 | Weblog

  ~ 佛教聖典より ~


この世には三種の人がある。

岩に刻んだ文字のような人と、
砂に書いた文字のような人と、
水に書いた文字のような人である。

岩に刻んだ文字のような人とは、
しばしば腹を立てて、その怒りを長く続け、
怒りが、刻みこんだ文字のように消えることの
ない人をいう。

砂に書いた文字のような人とは、しばしば腹を
立てるが、その怒りが、砂に書いた文字の
ように、速やかに消え去る人を指す。

水に書いた文字のような人とは、
水の上に文字を書いても、流れて形にならない
ように、他人の悪口や不快なことばを聞いても
少しも心に跡を留めることもなく、
温和な気の満ちている人のことをいう。


   ~ 感謝・合掌 ~





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幸せ者とは・・・

2008-11-12 19:55:27 | Weblog


  ★ 高橋信次先生の御著書より ★


幸福者とは

多くのモノを持つ者と持たざる者
そのどちらが幸せであろう。

持つ者かそれとも持たざる者であろうか
もしも多くを持つ者がそれを失うまいとし
持たざる者がそれを欲するとすれば
そのいずれをも不幸であるといわざるを
得ない。

一日の食糧は数片のパンで十分であるし
居住の空間は数平方米で足りるからである。

物の多少に幸,不幸があると考える人は
本当に不幸である。

なぜなら自分自身を含めてあらゆる物質は
やがては大地や大気に還元されてしまうからである。
幸せな人とは失う物のない人をいう。


    ~ 感謝・合掌 ~



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人生の道標

2008-11-12 15:31:13 | Weblog

      ~ 佛教聖典より ~


 「人生の道標」


    実践のできない 理論や知識を

    何千何万 得ようとも

    実践のできる 知識一つ得たほうが

    はるかに尊いものである。

    人生の価値は

    理論や知識に あるのではなく

    行為にあるからである。


          ~ 感謝・合掌 ~





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十善戒

2008-11-12 13:12:15 | Weblog

   ~ 恩師の「御著書」より ~


    Ж  十善戒   Ж


一. 不殺生戒:生き物の身命を殺害せず

二. 不倫盗戒:他の所有物を盗まず

三. 不邪淫戒:邪な男女関係を持たず

四. 不妄語戒:人を欺くことを口にせず

五. 不綺語戒:飾り立てたことを口にせず

六. 不悪口戒:人を罵る言葉を口にせず

七. 不両舌戒:人を仲違いさせる言葉は言わず

八. 不慳貧戒:財物をむさぼらず

九. 不瞋恚戒:怒りを人に向けず

十. 不邪見戒:道理に合わぬ考えを持たず


      ~ 感謝・合掌 ~







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作善止悪

2008-11-12 13:00:21 | Weblog

 ~ 恩師「長尾弘先生」のみ教えより ~


◆ 恩師の御著書「真理を求める
            愚か者の独り言」 ◆ 

◎ 作善止悪という簡単で難しい実践 ◎

この言葉の由来である古い時代の中国の故事を調べると、
こんな話があります。
白楽天という唐の時代の有名な詩人が、
かねてから気になっていた高名なふくろう和尚を訪ねます。
いつでも高い木の上で坐禅をしているので、
誰言うとなくふくろう和尚と呼ばれていました。
森の木の上にいるふくろう和尚に会うと、木の上の和尚に向かって、
白楽天はどうしたら人間は幸せになれるのかと質問をします。
すると、ただ一言 「作善止悪」 という単純な答えが返ってきました。
白楽天は思わず笑いました。
白楽天には教えのあまりのやさしさが意外に感じられ、
その言葉の幼稚さにあきれて帰ろうとした時、
うしろから 「三歳の童子これを知り、百歳の翁これを行えず」 と
痛烈な一言がひびきました。
私たちはものの善悪は三歳にして数えられていますが、
百歳になっても実践できないのが凡夫の姿です。
和尚は「三世の諸仏はことごとくこの法門を説き給う」と言われました。
三世は過去・現在・未来です。
いつの世にも変わらない真理として、
仏と言われる方はこの法門を説かれています。



恩師の「お詞」より・・・

  ~ 我が道は優し過ぎなり幼稚なり 人は言えども行いもせで ~


      ~ 感謝・合掌 ~




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