浄心庵・長尾弘先生「垂訓」

八正道と作善止悪

「御垂訓」

2020-02-29 00:28:33 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

 ~ 恩師の「心行の解説」下巻より ~
 

                講演 十九

先の続き・・・

四国へ行かせてもらった時、
そこの主人はお坊さんとよくカラオケにいくそうです。
そのお坊さんが、「どうも不作でいかん。
もう少し死んでくれないかなあ」といつも言っているというのです。
死んでくれないと収入がないのです。

お釈迦様の当時はこんなことは絶対になかったのです。
お葬式に出家された方がお参りするということは絶対にありません。
お坊さんはお葬式とはまったく関係がない存在だったのですね。

お釈迦様の死が近づいた時、側に仕えて世話された阿難さんが、
「仏陀が亡くなられた後のなきがらはどのように
したらいいでしょうか」と尋ねると、
「そんなものはそこらに放っておきなさい。

肉体は在家の者が適当に処置するであろう。
肉体にかまうよりも、しっかりと法を精進しなさい」とお釈迦様は
おっしゃったのです。

今のお坊さんのする葬式というのを当時は在家の者がしたのですね。
それが仏教の原点だったのです。
 
今の仏教というと、お線香をあげて、
難しいお経をあげるものと思っていますが、
ほんとうの仏教というのは、今は無いのです。

形の変わったものが仏教だと思っているだけです。
高橋信次先生は、「仏教の原点を学びなさい」と言われました。
学ばせていただくと「なるほどそうか、
お釈迦様がお説きになったものと今の仏教とはそれほどまで
変わっているのか」ということがよく分かります。


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「御垂訓」

2020-02-28 00:09:25 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

添付のお写真は恩師のご講演中のものを学びの友の方が
カメラに収めたものですが、御覧のように恩師が
幽体(肉体)離脱をされています。
被写体全部が移動していますと、カメラのブレと思われる方も
おありかと思いますが、御覧のように恩師の前の演台は少しも
ブレていません。
このお写真について、恩師ご自身が後のご講演で
幽体(肉体)離脱であることを説明されておられました。


~ 恩師の「心行の解説」下巻より ~


                  講演 十九

先の続き・・・

私たちは今、ほんとうに正しいご縁をいただきました。
ほんとうに正しい教えとは、
高橋信次先生を縁としての正法だったのです。

先生は講演の時、大きな縦長の垂れ幕を垂らして、
「釈迦・イエスの教えの原点に還れ」と書かれていましたが、
釈迦・イエスの教えの原点こそ正法だったのですね。
今の数えきれないほどの多くの宗教は、
お釈迦様がお説きになった教えとは似ても似つかないものに
変わっております。

今の仏教とは、まず京都のお寺などで見られるような、
お客がお金を払って入る観光寺院と、
もう一つ、私たちに切っても切れないお葬式です。
お坊様といえば葬式、葬式といえばお坊様が
必要不可欠の存在になっています。

まず人が死ねば枕経、葬式のお経、火葬場でのお経、
お骨をあげに行った時のお経、
お骨をあげてお寺へ帰ってきてからのお経、
死後七日ごとに四十九日までのお経、むかわりのお経、そして、
あくる年がまわってきて三年のお経、七年のお経と続きます。

「お前死んだらわしゃうれしい、七日七日に米五合、
むかわり三年、また七年」といわれています。
一人死んでくれたら次々とお布施が入るわけで、
昔はお布施は米五合を供えたのですね。


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「御垂訓」

2020-02-27 00:08:51 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師の「心行の解説」下巻より ~


                  講演 十九

先の続き・・・

このようにはっきりといっぺんに治るとう現象として現れた場合は、
「ああ本物だなあ、救われてくれたなあ」と分かりますが、
何の証明もなかったら信ずることはできませんね。

そういう宗教に限って何も証明ができません。
なぜかというと、嘘か本当か分からないものに何十万円、
何百万円と取って、不当なるお金を集めているようなものに、
神が力をお与えになるはずがないからです。

神はたださせていただく時のみ、神の御業を現わされます。
欲の曇りで神の光は遮られるのです。
欲を持たず、ただ救われてくれたらいいと思って尽くす時には
何の曇りもありませんので、神様の光がすう―と通っていくのです。
ところが、そんな法外な大きなお金を取っているようなところは
欲の曇りで光が止まってしまうのです。

一回見てもらって二十万円というような宗教もあります。
そこへ行って治ったというお方はごく稀です。
治らなかったといって後から苦情を言われないように、前もってちゃんと
誓約書を書かされるそうです。

「もし治らなくても、お金を返してくれとは言いません」そして、
判を押すのです。
「やっぱりだめです」と言って、よく私のところへ来られます。
これらの宗教を偽物だと見抜けない限り、
本物に巡り合うことはできません。
そしてほんとうに巡り合えるご縁というのは、
どれほど難しいものかということですね。



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「御垂訓」

2020-02-26 00:18:22 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

添付のお写真は恩師「長尾弘」先生のご講演中に恩師ご自身、
着衣、垂れ幕の字など全てが御覧のように黄金色に変わりました。

この時の恩師の着衣の色は灰色であったと恩師ご自身が
この後の別のご講演会で説明されていました。

垂れ幕の字の色は勿論、元々黒墨で書かれたものですが
これも黄金色に変化しています。


~ 恩師の「心行の解説」下巻より ~


                 講演 十九

先の続き・・・

この宗教を信仰しているおじいちゃんとおばあちゃんがあって、
おじいちゃんに、「あなたの亡くなった先妻さんと、
お母さんが憑いている」と言ってその宗教で二人分二十万円を
あげてご供養してもらわれたのです。

「それで、取れましたか」と聞くと、「分かりません」と
言われるのです。
「分からなかったら何にもなりません。
どうして憑いているということが分かったのですか」と聞くと、
おじいちゃんは年をとってヨボヨボしていますから、
おばあちゃんとその娘さんとが、「何ぐずぐずしているの」と聞くと、
「ああ、お母ちゃんがいてくれたらこんな目に遭わないのに」と
言って泣くから憑いていると思ったというのです。

「では先妻さんが憑いているのは、どうして分かったのですか」と聞くと、
おじいちゃんがコンコン咳をする、
先妻さんは胸を患って死んだので常に咳をしていたから、
それがおじいちゃんに憑いて咳をさせているのだと決めたそうです。
そこで二十万円を供えてご供養してもらって、
結果は何も良くなっていないというので、私は言ったのです。
「そんな供養をしてもらって、おじいちゃんの病気が治ってああ良かった、
いいことが起きてよかったという証明がなかったら、
供養されているのかされていないのか分かりません。

私なら供養代は一銭も要らなくて証明してみるから、
おじいちゃんを連れてきなさい」、
そこでおじいちゃんを連れてきましたから、「おじいちゃんどうですか」と
声をかけると、「わあ、わあ、ああ」とものを言うのも通じないのです。

おばあちゃんに通訳してもらって、
「おじいちゃんにお母さんや先の奥さんが憑いたから叶わないから、
私が今日お救いしましょう」と言って、
憑いておられる方をお救いしてあがってもらったのですね。
そうすると、おじいちゃんがいっぺんに治ってしまって、
今までグニャグニャと言って死にかけたようになっていた
おじいちゃんが、「ここは結構なとこです。

まあ、どうぞお上がり下さい」と言って、
来られたお客さんの受付をしてくれました。 
見えた方達がびっくりして
「今死にかけていたおじいちゃんが受付してますよ」
と知らせてくれたのですが、そういうことが起きます。



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「御垂訓」

2020-02-25 00:10:08 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師の「心行の解説」下巻より ~


                講演 十九

先の続き・・・

その事を人間の肉体が教えてくれています。
まぶたは上から下へ下がった時、目の前は真っ暗になります。
家庭の中で奥さんが主人のいうことを聞かないでいたら、
目の前が真っ暗になってしまいます。

女は陰の存在、男は陽の存在で、陽は上に陰は下にあります。
私たちの顎も下から上に合わせるようになっていて、
上の顎は絶対に動きません。
それで私たちの肉体が保存できるようになっています。

下が上に合わせるようになっており、そうすれば家庭も調和します。
女は下から上の男の人に合わせていくものであって、
逆らったら口が開いたまま飯が入らないようになっているのです。
瞼が上から下へ下がると真っ暗になるように下(女)が上(男)を
下げさせると家庭が暗闇となってしまいます。

今の宗教の中には、教えることはすばらしくても、
その実践において家庭の破壊や親不孝を実践させる教えもあります。
そういう信仰をしていると、
いつの日か必ず苦しみとなって現象化してくるのです。

ある宗教では、一つのものに三万円、五万円、十万円とあって、
同じ買うなら十万円がありがたいと言ってみな高いものを
買うのだそうです。
それに向かって毎日拝んでいたら救われていない霊が出てくるので、
難儀なことだと思って本部へ行って供養のお願いをするのです。
すると一霊ご供養してもらうと十万円要るのです。

五人の霊が出てきたら五十万円供えなければならない、
こうして拝んでもらっているうちにまた三人出てきて、
さらに三十万円持っていかなくてはいけなくなるのですね。
全国的組織を持つ宗教ですから、信者さんがいっぱいで、
大広間には「何日供養します」といって受付ますが、
その教祖様は生き神様のように偉い人ですから出てきません。

係の人が「誰誰さん、只今供養が終わりました。
ご霊様何名様終わりました」と報告をすると、
その大広間にいる皆さんがパチパチと手を叩いて拍手をするのです。
そして次にまた、
「誰それさん、ご先祖様何名のご供養、終わりました」と
言うと、手を叩いて、朝から晩まで拍手が鳴りっぱなし、
こうして拍手のたびに何十万円と入るのです。
これは現実です。



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「御垂訓」

2020-02-24 00:22:55 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

添付のお写真は宮崎講演会の時に現れた不思議(奇跡)現象です。
御覧のように「長尾弘先生御講演会」と書かれた後ろの垂れ幕、
舞台全体、恩師「長尾弘」先生ご自身が白い光に包まれています。


~ 恩師の「心行の解説」下巻より ~

                  講演 十九

先の続き・・・

この日本には二十万というたくさんの宗教があり、
みな人が幸せになるためいいことを教えています。
しかし教えていることと実践面が逆になっている場合が
多いのですね。

お釈迦様は「幸せになりたい人、
祝福を求めるバラモンは時々如来といわれる方に
献花の供養をしなさい」と教えられました。
時々花を捧げることによって心が広く豊かになるからで、
心が大きくなれば徳が入ってくる、
法施・財施という教えを説いておられます。

出家なさった方は、在家の者に法を施して下さる、
だから在家の者は出家された方に対して財を施すという、
「法施・財施の教え」を説いていおられます。

今の宗教はその点、「あげなさい」と言い、
また、物を売っています。
百貨店ほど物を売っている宗教があります。
家も屋敷も全部供えなさいというのもありますし、
お賽銭は硬貨でなく音の鳴らないお札をあげなさいという宗教もあり、
少しでも供えたら徳があると教えています。

ひどいのになると、「男は腹が小さいから、
主人に内緒でお金をあげなさい」というのもあり、
「今、お金がありません」と言うと「サラ金で借りてあげなさい」
という、ひどいのが現実にあります。

それを信じて主人に内緒で一生懸命あげたのがばれて
離婚された方もたくさんあります。
家の中で内緒事をしたら絶対にいけません。
不調和になります。
主人に逆らったら幸せになれないのです。



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「御垂訓」

2020-02-23 00:08:38 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師の「心行の解説」下巻より ~


                 講演 十九

「心行」の解説を私なりに、ここ二年半に亙ってさせてもらいました。
今日をもって「心行」の解説を終わらせていただきます。
いよいよ最終回でございます。

神仏の光明を得ることは、正法の生活の実践の中にあります。
正法の生活とは、調和された日々の生活ですね。
この生活実践の中に神仏の光明を頂くことができます。
迷いの岸である此岸から、迷いのない川の向こうの岸、
彼岸へ到達することを悟りの世界へ至るといっています。

向こう岸へ至るためには何も厳しい行をしたり
お経を唱えたり特定の修行をしなくても、
調和された正法の生活をすれば到達できるのです。
神仏の光明が与えられます。

正法の生活とはどういうことか、と追求させてもらいますと、
やはり、自分の心を波立たせないこと、
貪欲によって心を曇らせないこと、愚痴から離れることです。

愚痴によって正しいものを間違いと思う愚かな智慧から離れることです。
ぐちぐちと嫌なことをいうのが愚痴だと思いますが、ほんとうの意味は
「愚かな智慧」ということです。

この愚痴からから離れない限り「本物」を知ることができません。
間違ったものを間違っていると認識しない限り、
ほんとうの正しいものには巡り遭えないということです。


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「御垂訓」

2020-02-22 00:08:20 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師の「心行の解説」下巻より ~


                  講演 十八

「この時に神仏の心と己の心が調和され
心に安らぎを生ぜん心は光明の世界に入り
三昧の境涯に到達せん」

先の続き・・・

私たちは、数えきれない方々の働いて下さったお陰を受けて、
生きさせていただいています。
米一粒、住む家一つをみても、
どれほど多くの方々の汗と労力を頂いているか分かりません。

私たちが死ぬまで精一杯人様のために働かせていただいても、
なお返しきれないほどの恩恵を受けているのですから、
「してやる」のではなく、
その万分の一でもお返しをさせていただくという気持ちで
人様のため尽くさせていただく時、
恩にきせることはなくなると思います。
恩にきせる心こそ私たちを苦しめる大きな原因になっています。
 
してやった、してやった、といい格好をして
自己保存・自我我欲に捉われる煩悩を捨てることが
大事かと思います。

日々の生活において煩悩から離れた思いを学び、
精進努力していきたいと思います。
長い年月をかけて「心行」の解説をさせていただきましたが、
私ごとき未熟者がとても解説しきれるものではありません。

「心行」の解釈の一端として皆様の参考にしていただければ
幸甚でございます。
縁生の友の皆様が幸せになっていただくことが私の幸せであり、
皆様の苦しみは私の苦しみです。
日々に精進努力して共に幸せになっていきましょう。


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「御垂訓」

2020-02-21 00:37:55 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師の「心行の解説」下巻より ~


                  講演 十八

「この時に神仏の心と己の心が調和され
心に安らぎを生ぜん心は光明の世界に入り
三昧の境涯に到達せん」

先の続き・・・

そこで、よいことをして不幸にならない方法は、
徹底して善い行いを積ませてもらって、
「これは私を通して神様がして下さっているのだ」と
思うことです。
そうすれば、腹の立つ部分も少なくなります。
もしも、善き行いをしながら自分の心を苦しめた方は、
その苦しみの結果を必ず受けます。

しかし、神様が自分を通して相手を助けて下さったと
思わせてもらった時は、たとえ相手が裏切ったとしても、
その裏切りの行為は神様に対して通じていくわけです。
途中で自分が腹を立てたら、神様のところへ行かないで、
自分が苦しみを受けるから不幸になってしまいます。

いっさいの望む心を持たないことです。
いっさい求めず、自分の善き行いは他に委ねること、つまり、
神様が私を通して善き行いをさせていただいたのだと
思えばいいのですね。
その時、人は案外裏切らないそうです。
それは、神の愛を受けるから裏切らないのです。

人間には、「私がしてやった」と、恩にきせたがる心があります。
これも凡夫の心です。
恩にさせられたら、どんなにいいものを貰ったとしても
有難くないものですが、
ましてや小指の先ほどの苺や出荷したあとの小さいへた芋を
人にやって、「あそこの家へやった」と言いふらしているのは、
そんなものでさえ恩にさせたがる凡夫の心を見る思いがします。

「させていただく」と、「してやった」という心では、
全く天と地ほどの違いがでてきます。



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「御垂訓」

2020-02-20 00:19:02 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師の「心行の解説」下巻より ~


                 講演 十八

「この時に神仏の心と己の心が調和され
心に安らぎを生ぜん心は光明の世界に入り
三昧の境涯に到達せん」

先の続き・・・

私の場合は、お陰様でいくら多くの方を癒させていただいても、
相手の苦しみを受けることはないのですが、なぜ受けないかというと、
無我の心で、自分という我を捨てきった心で癒させてもらうからです。

この心さえ持っておれば、
相手から病や苦しみを受けることはないのです。
これは治療に携わる者だけでなく、日々の生活においても同じことで、
「自分がしてあげた」という思いを持たないことです。
これは難しい考え方ですけど、
「神様が私を使って他のために働いで下さるのである、
私がしたのではない」と、思わせていただいたら、
その時は相手から苦しみを受けることはありません。
これは原因結果の法則から何ものも逃れことはできないということです。
今、苦しみがあればその苦しみは何か知らないけど、
過去に原因があったから、今結果として苦しんでいるのです。

自分さえ良ければ人はどうでもよい、人に尽くすこともなく、
人に親切にすることもない、
こういう人は裏切られることはないから案外心を苦しめることもなく、
却って幸せのように思えます。

しかし、
こういう生き方をすれば何らかの形でその家庭は破壊していきます。
他に冷たくて思いやりもなく、
人に後ろ指を指されながら隆盛にいっていたとしても、
親子三代続いたという家は一軒もないはずです。

なぜかというと、人々と互いに手を取り合って助け合い、
調和を目的として生まれてきた者が、目的を果たさず、
神仏との約束を果たしていないからです。
だから、そんな生き方をする者はいつまでも続かないように
なっているのです。
「親の因果が子に報い」というようになっています。


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「御垂訓」

2020-02-19 00:12:51 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師の「心行の解説」下巻より ~


                 講演 十八

「この時に神仏の心と己の心が調和され
心に安らぎを生ぜん心は光明の世界に入り
三昧の境涯に到達せん」

先の続き・・・

昨夜、京都からある奥さんが電話をかけてこられました。
その方のご主人は、癒しの能力を持っておられて、
一日に五十人も六十人も患者さんが見えるそうです。

とても不思議なことをされるので生き神様のように
有難がられているのですが、
ご本人は相手の苦しみを受けてしまってそこから逃れるために
夜になると酒を飲みに出かける始末で、
外に女性の方もいて一時の安らぎを求めるそうです。

そのために生活がガタガタになっているのです。
いくら不思議な癒しの力を頂いても、
自分でコントロールできなかったら何もなりません。
自分の念で癒されるそうですが、相手の人が救われてほしいと、
念を使い、そういう力が出る人であったとしても、
そのために自分が不幸になったのでは何もならないです。
人も救われ、自分も救われるのが正しい治療のはずです。


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「御垂訓」

2020-02-18 00:14:46 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師の「心行の解説」下巻より ~


                  講演 十八

「迷いの岸より悟りの彼岸に到達するものなり」

「迷い」とは、この世に生きていろいろな錯覚を起こすことです。
今ある命はいつまでもあるように思いますが、この錯覚が迷いです。
「いつまでもあると思うな親と金」といいますが、これだけではなく、
自分の命もいつまでもありません。

また、この世には苦しみがあって当然であるのに、
この世は楽な世界と錯覚しています。
お釈迦様が諭されたように、
「常に苦しみがあって当たり前の世の中」と、悟ることができたら、
少々の苦しみがあっても当然だと思うことができ、
心は楽になるはずです。

さらに、
不浄なるものを浄なるものと錯覚を起こし転倒してしまうのです。
このように錯覚を起こしていることが迷いです。
仏教ではこの苦しみ迷う世界を此岸(しがん)といい、
悟った向こうの岸を彼岸といいます。
彼岸に到達するには、正しい生活の実践をしなければなりません。

「この時に神仏の心と己の心が調和され
心に安らぎを生ぜん心は光明の世界に入り
三昧の境涯に到達せん」

先日、九州の方から電話で「三昧」の意味について
質問がありました。

「三昧」とは煩悩の炎が消えてしまった涅槃寂静という
心境をいっております。
「三昧」とは元来サンスクリット語のサマーディの音訳で、
仏教では「心を一つの対象に集中して乱れない精神状態」のことを
いっております。

何も念じず、何も思わず、自我を滅した心境、
こういう心で私たちは生活することができます。


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「御垂訓」

2020-02-17 00:21:47 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

 ~ 恩師の「心行の解説」下巻より ~


                 講演 十八

先の続き・・・

この実際にあった話を通して、
なぜ苦労させられたおばあちゃんが地獄へ行き、
苦労させたおじいちゃんが極楽へ行ったのかと、
この世的な矛盾があります。

その理由は、おじいちゃんは自分の心を苦しめることはなく
おばあちゃんは自分の心を苦しめたから、
こういう結果になってしまったのです。
自分の心を苦しめるということはこの世だけでなく、
あの世まで続くということですから、
心を苦しめないためにいろいろなことを知り、
苦しめない方法を学ぶことです。

思い方を変えること、
つまり大難を小難に切り替えていく思い方を
身につけることです。
現在、どんなに苦しくても、
もっともっと苦しい方もたくさんおられるというように
思い方を変えた時、自分の心が苦しまないはずです。
心を苦しめない生活を日々に行いますと、常に心が軽く、
光明を頂くことができます。

心を苦しめないから、神仏の光を頂くことができるのです。
自分の心を苦しめた状態の時に神仏の光が入ってくることは
絶対にありません。
常に心を穏やかに安らかに保つことによって、
神仏の光明を得ることができます。



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「御垂訓」

2020-02-16 00:58:34 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師の「心行の解説」下巻より ~


                 講演 十八

先の続き・・・


こんなことも経験してきましたが、刺青というのは、
親から頂いた満足な肉体をわざわざ針で傷をつけ、
この世的な凡夫の自己顕示欲を示そうとする一つの
現れだと思います。

人にたいし対していい格好をしたいという心の働きによって、
いろいろな人生を送っていかれますが、ほんとうの神を知らず、
道を知らないから、そのようになっていくのですね。

お釈迦様が説かれた幸せへの道、「八正道」を行じることが、
人間として最も魂が完成される道筋です。
自分を大事にして、自分の心を苦しめないようにしてください。

大変なお人好しのおじいちゃんがいて、
この人は他人のために一生懸命尽くし、
「ちょっとお金を貸してほしい」と言われたら、
自分に持ち合わせがない時は人から借りてでも貸すのです。
人が好いから請求することを知らず、貸しっ放しにしています。
ところが、返してくれないとおばあちゃんが集金に行くのです。

「借りる時の恵比須顔、返す時の閻魔顔」とは凡夫誰しも同じことで、
借りる時はニコニコ顔で頼みにきますが、
お金を返す時は閻魔様のように恐ろしい顔です。
ましてや返してくれない時はもっと恐ろしい顔ですから、
おばあちゃんは腹を立てます。

おじいちゃんはいつもご機嫌ですが、
おばあちゃんは内職をして借りたお金を返さなくてはいけません。
この世的に見ると、おじいちゃんは罪が深く、
おばあちゃんは一生懸命苦労を重ねて可哀相です。
人の好いおじいちゃんと、
借金を返しため苦労して腹を立てているおばあちゃんとは
それぞれ死後どんな所へ行ったかといいますと、
おじいちゃんのほうは、綺麗な方が紫の雲の上に乗って
お迎えにきてくれて、「有難いなあ、結構だなあ」
と言って死んでいかれたのですが、おばあちゃんは
「わあ、恐ろしい奴がいっぱい来る」と言って
虚空をかきむしって死んだのです。



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「御垂訓」

2020-02-15 01:47:11 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師の「心行の解説」下巻より ~


                 講演 十八

この世の中は、苦しみ、悲しみ、辛いことを体験するように
作られております。
しかしよく考えてみますと、全部自分がその苦しみの
原因を作っているのです。
「周りの人はみな嫌いな人です。私に意地悪をされます。

対人関係がうまくいきません」と言われる方がよくありますが、
ご自身が心を変えていかれた時、周りの方がよくなってくれます。
自分が気付かないうちに苦しみの原因を作っている場合が殆どです。

そのことに目覚めて過ちを正した時、周りがみないい方に
変わっていただけます。
そのことを知らないから、「相手が悪い、良いのは自分である」と、
錯覚を起こしているのです。
 
私も高橋信次先生のご縁をいただくまでは、
迷える人生を送ってきました。
先生のお陰で、「ああそうであった、
どうしてこんなに苦しい思いをしなくては
いけないのかと思ったけど、

それは全部自分に原因があった」と、
はっきり掴ませていただきました。
そして自分が変わった時に、周りも変わってくれることを、
身をもって掴ませてもらいました。

私の所へ来てくださる方は、皆さんすばらしい方ばかりです。
刺青を彫り込んで、町では恐ろしくてふるえあがるような方でも、
私の所へ来られたら、皆幼な子のようになっていただけます。
自分自身が変わった時、
どんな方でもみなすばらしい方に変わっていただけるのです。

今迄、背中からお尻まで刺青をされた方がよく来られました。
治療すると、「痛い、痛い」と、
そんな方に限って悲鳴をあげますから、
「身体中に傷をつけることを思えば、
私は身体に傷をつけないのだから辛抱しなさい」と言って、
痛い目に遭わせます。

もう十年以上前のことですが、
神戸のある組でもめ事が起きてもその人が顔を出したら
治める力を持っていたという、
八十何歳かのおじいちゃんが見えたのです。

この人は背中全部に刺青を入れていましたね。
木崎という有名な外科医の執刀のもとに麻酔なしで
お腹の手術をしたそうで、
「私はあなたに命を委せたので、好きにしてください」と
言ったのだそうです。

ところが、その時よりも私が触った時のほうが
もっと痛いと言われるのです。
「えげつなく痛いですなあ」と、悲鳴をあげることがあって、
このご縁で、子分の方達が次々と私の所に見えたのです。

親分の命令だから来なくては仕方がないし、
私も普通ならひどい目に遭わせるのは恐いけど、
親分の命令なら恐いこともないので、
かなりひどい目に遭わせて治療しましたが、
皆さんは人間的にはとてもいい人ばかりでした。


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