浄心庵・長尾弘先生「垂訓」

八正道と作善止悪

一日一生

2009-06-28 14:15:49 | Weblog



   ◆  今を生きる  ◆ 


    ~ 一日一生 ~


恩師はお説きくださいました・・・

この世に生を受けた万生万物は

老若男女を問わず、一寸先は闇である。

「朝に紅顔ありと言えども夕に白骨」にならないとは限らない。

その証拠にご老人様や病めるお方様よりも早くこの世を去って逝く

多くの若者がいる事実を私達はいやというほど見聞してきている。

明日の命を保障されて生きているお方様はこの世に誰もいない。

それ故、一日一生の思いで日々の生活に感謝し、

仮に万が一の事があっても後悔の無い様に

日々の生活行動をするべきである・・・と、

だが我々凡人は「死」は他人事の様に思い、

自分だけがいつまでも生き続けるものと錯覚しがちである。

死と時間は待ってはくれません

それだけに今の一瞬一瞬を大切にしてください。

現実を直視し、正しい想いと行いの日々を精進すべきである。と、


      ~ 感謝・合掌 ~



浄心庵 長尾弘先生



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2009-06-27 08:52:14 | Weblog

~ 恩師の恩師「高橋信次先生」の御著書より ~



         「光」


光とは、私達の心が調和されることによって、

体から発するオーラーのことである。

肉眼で見ることの出来る人もいるし、

心眼で見ることが可能な人もいる。

つまり、仏像やイエスの像に射している、

あの後光である。

この光は、

その人の心の調和度によって段階がある。

神理を悟って、

正しい心で生活している人は、

心に安らぎがあるから調和され、

その肉体は金色の光で覆われている。

心に安らぎがなく、

常に人を恨み、

あるいは妬み、

怒りの心を持って

生活をしているような人は、

薄暗い光に覆われている。



~ 感謝・合掌 ~





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思念は自由なれど・・・

2009-06-26 08:36:28 | Weblog

~ 恩師の恩師「高橋信次先生」の御著書より ~


      思念は自由なれど・・・


      心で思うことは自由である

      誰の束縛も受けない。

      人を憎み、さげすもうとも、

      誰も批難しないし、

      とがめる人もいない。

      しかし、心に思うことは

      形になって現れ、

      自分にかえってくる。




       ~感謝・合掌 ~







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一粒の籾

2009-06-26 08:30:08 | Weblog

  ~ 一粒の籾 ~


「一粒の籾」を春の水田に投じ、静かに観察すれば、

やがて芽が出て最初の一株が数株に増え季節と共に成長し、

やがて秋には稔るであろう。

これは「一粒の籾」であっても命を持っている証である。

この命は私達の命と全く「同質同根」の命である。

彼等は文句も言わず愚痴もこぼさず、

私達の生命の糧となってくれている。

唯一の違いはそれが「動的」であるか「静的」で

あるかのみである。

もし、私達が「籾」の立場だったとして、

彼らのように自らの命を他の命の保持のために

何の文句も愚痴も言わずに

差し出すであろうか。

答えは「否」であろう。

私達もたまには「自己保存」「自我我欲」の生活を

「止観」する時間を持ち、

お茶碗に盛って頂いた米粒ひと粒ひと粒を心静かに眺めれば、

おそらく胸に熱いものが込み上げてくる筈である。

米粒ひと粒、小魚一匹、野菜一切れ、動物、植物、鉱物(水)の

命を戴く事により、私達の命が保持されている事実を

誰も否定出来ないであろう。

彼らに報いる唯一の道はその命に対し感謝し、

無駄にしないと言うことである。

戴く前に合掌する形だけのものではなく・・・

あなた達の命を戴かせてもらいますが、

私の血となり肉となって私と共に魂の修行に励んで下さいと

心の中でお願いし,

戴けば私達に大きなエネルギーを与えて下さることでしょう。




         ~ 感謝・合掌 ~





浄心庵 長尾弘先生




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匙は味をしらない

2009-06-26 04:48:37 | Weblog

    ~ 佛教聖典より ~


これは我が子、これは吾が財宝と考えて、

愚かな者は苦しむ。

己さえ、己の物でないのに、

どうして子と財宝とが己の物であろうか。

愚かにして愚かさを知るのは、

愚かにして賢いと思うよりも優っている。

愚かな人は賢い人と交わっても

ちょうど匙が味を知らないように、

賢い人の示す教えを知ることが出来ない。



    ~ 感謝・合掌 ~






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