浄心庵・長尾弘先生「垂訓」

八正道と作善止悪

「講演集」より。

2014-12-31 02:05:33 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

        恩師のご著書「講演集」より


            講演集、 二


    東京・沖縄の旅にこと寄せて――幸せになる為には


先の続き・・・

また「伏見の山じゃ」と言って、入ってきたのがあるのですよ。
「どうして山が人間の体に入るのですか」と聞くと、「それもそうじゃ」と言います。
そのうち「何が何だか分からないようになった」と言いました。
そんな分からなくなるような神さんはありません。
「南無観世音菩薩!!」と言って、素晴らしい声を出して入ってくるのもあります。
「へえー観世音菩薩でございますか」と言うと、「さよう!」と、高い声で言います。
いかにも有難そうに言うので、あれでだまされます。
「お名前は何とおっしゃる観音様でございますか」と聞くと、ここでもう答えなれないのです。
「南無」と上に付けたらそれは偽もの、南無とは帰依することですから、
観音さんが観音さんに帰依してどうしますか。

そんなことも分からない人が、「南無観世音菩薩」と言って入ってくるのです。
すると皆「へえーっ」と有難がって観音さんのご宣託を聞くわけです。
私が見ますと、そんなものは観音様どころか、成仏できていない迷える霊が憑いているのです。
私は先に見通していますから、向こうのほうがだまされているのです。
「なぜ憑いておられるのですか」と尋ねると、「この者の身を救う為じゃ」と言います。
「へえーこの身を救う為でございますか」と念を押すと、「さよう!」
「ではなぜこの身を救う為なのに、この身があそこが痛い、
ここが痛いというのは、これいかに」と言いますと、「この者の修行が足らん為、
力がでないのじゃ」と、人のせいにしています。

「嘘おっしゃい。あなたは観世音菩薩などといい加減なことを言って人をだましているのです。
しかし一般の人の前では通りますが、私の前でそのようなことは通りません。
私は先程からちゃんとあなたを見通しております。
正直に言いなさい」と言うと、「エッエッエッ」と怒りだしました。
「観世音菩薩がそのような愚かな真似をされますか」ときめつけると、
「お許し下さい」とあやまります。
「あなたもほんとうは助けてほしいが為にこの人に縋ってきているのです。
正直に言いなさい」と言うと、「私は祀ってくれる者がない。子孫が死に絶えて
放ったらかしにされて、何とかお経の一つでもほしい。

この人は信心深くて無縁仏さんによく参ってくれるから、
この人に憑いたらよく拝んでくれるだろうと思って憑きました」と白状しました。
「観世音菩薩などと言うて、何にも見えない人間をたぶらかしてはいけません。
そのようなことは許しません」と言うと、「お許し下さい。お許し下さい」と、
あやまります。
そこで、「あなたも助けてほしいのでしょう」と言うと、「助けて下さい」と
助けを求めてきました。
これは、自分が供養を受けたい、自分をお祀りしてほしいという強い思いを
持っておりまして、自分を祀ってくれる人がおりますと、
その人に神や仏の名を騙って肉体を支配するのです。
ところが、ふつう私たちにはそのことが分かりません。


            ~ 感謝・合掌 ~





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「講演集」より。

2014-12-30 00:40:24 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

         恩師のご著書「講演集」より


           講演集、 二


    東京・沖縄の旅にこと寄せて――幸せになる為には


先の続き・・・

体験ほど強いものはありません。
体験を通して自分が実際に掴んだものは間違いなしに人の心に入っていきます。
あちらこちらの講演会に行きますと、
居眠りをしている人や、皆がワイワイお喋りしている場合があります。
立派な先生でいい話をしておられるのですけど、
頭で学んで知識として得たものを口で語られるから居眠りが出るのです。
一生懸命皆が聞いておられる場合のお話は、講師の先生が自分の体験を語っておられます。
「私はこのようなことをして、このようなことがありました」というお話は、
全部の者が耳をそばだてて聞くものです。
聴衆の態度ですぐ分かります。

「あ、この方は知識を話しておられる」
「この方は智慧を説いておられる」と、実体験、実践によってお話に差が出てきます。
これは或る先生が講演の中で話しておられたことです。
氏神様などの神様のことですが、「自分の家を自分でよう建てない者、
自分の腹を自分でよう満たさない者、自分の生活の保証が自分でできない者が、
どうして人の為に家を建て、人の腹を満たすことができますか。
そのようなものは偽物です」と。
しかし神社仏閣の中にはほんとうの諸天善神が下りてこられる場所もあるのです。
すべてを悪霊と決めたら間違いですね。

しかし人の身体に乗り移ってくる神は、
もうすべて百パーセント偽ものと思って間違いありません。
拝み屋さんに拝んでもらって神が入って喋っているのはあれは偽ものです。
もしこの中にそういう方がありましたら、私が皆さんの前で正体を暴いて見せましょう。
正し法の前にはだましきることはできないのです。
最初はだましますが、神理の光の前にはやがてボロが出てくるのですね。
或る時、六十歳ぐらいの女の方に三輪大神が憑ってこられました。
「三輪、三輪の山じゃ」と言って入ってこられました。

「へえー三輪さんでございますか。あんな大きな三輪の山は人の身体に入りません」と言うと、
「そうかのう」返事されます。
「何故この方に憑いておられますか」と尋ねますと、「この者を助ける為じゃ」
「ではこの方が足が痛くて難儀しておられますのに、あなたはなぜこの方を
助けられないのですか」と言うと、突然、「二十キロ痩せろ、二十キロ痩せろ、
痩せたら足が治る」と言われます。
「神様が痩せさせてあげたらいかがです」と聞きますと、
「勝手にせい」と言われました。
無茶苦茶な神様です。


               ~ 感謝・合掌 ~




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「講演集」より。

2014-12-29 00:41:27 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

       恩師のご著書「講演集」より


         講演集、 二


   東京・沖縄の旅にこと寄せて――幸せになる為には


先の続き・・・

もう十年前のことですが、四国へお話に行きますと、ヘソ曲がりの方が、
「こりゃ一体何の話しや」とおっしゃるのです。
しかも見ると、サントリーのボトルを持ってきまして、酒を飲みながら私に
質問しますので、「この場所は酒を飲んで集まる場所ではありません。
あなたはどうぞ酒を飲んでいない時に来て下さい」と言ったのですが、
聞かないのです。
「ここ、何する場所や」と言うので、
「幸せになる場所です。人はすべて幸せを求めております」と答えると、
「いや、わしゃ幸せなんか要らんのや」と言っています。
「では、あなたのおヘソは大分曲がっています」と言いました。

その人はウイスキーを飲みながら法の話しを肴にしているわけです。
誰も追い出しなさいとも、外に出なさいとも言わないのに、私が話していますと、
その人の周りにおられた方が五、六人寄ってこられて、
その人の手や足を掴んでサーッと表に放り出されました。
誰か知らないけど寄って皆でかかえて放ってきたのです(笑い)。
お釈迦様がお説法なさった時は、
聴衆の中で咳払い一つしても周りの者が制したというほど真剣なものであったのです。

かつて、十五、六年前ですが、
本当の教えを説く所はないものかと宗教遍歴をしたことがあります。
その時、S教に「入会はようしませんが、
その修業に参加させていただけますか」と伺うと、
「どうぞ来て下さい」ということで、何か月か通ったことがあります。
そこへ通っていた時に、K大学の体育館でT先生の講演会があり、券を買って
出かけたのです。
大きな会場ですし、集まった人も多いのですが、お話の間中、
皆がワイワイワイと大声で喋っているものですから、全然講演を聞くことができないのです。
いや、これは法ではないと思いました。
法話の時は咳払い一つしてもならないとお釈迦様の仏典の中に載っております。

ところが、前の演壇で大きなマイクを通して話しておられるのですけれど、
話しの内容は全然聞くことができませんでした。
だから講演も、人の心を打たないような話しは真理ではないのです。
何故かというと、それは知識として話しをされるから人の心の中に入ることなく、
皆がワイワイ話したり、居眠りしたりすることになるのです。
ただ、人の集まりだけのことになってしまうわけですね。


            ~ 感謝・合掌 ~





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「講演集」より。

2014-12-28 00:48:08 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

        恩師のご著書「講演集」より


            講演集、 二


     東京・沖縄の旅にこと寄せて――幸せになる為には


先の続き・・・

神を遠くに求めても、姿を見ることはできないものです。
どこにおられるか分からない神様を教会に行って讃美しなさいとか、
或いは祈りなさいとか、見えない神に懺悔しなさいとか言いますけれど、
この一人一人見える皆様こそ神の御子です。
また自然界のすべては神の御姿です。
神を賛美するのだったら、人々を讃美して良きところを褒め称えることです。
しかも自分の隣人の良きところを褒め称えることです。
「あの人はこんな素晴らしいところを持っておられます」と言って、
褒めて下さい。

ところが、私たちは人の素晴らしい面を見落として汚い面を見ようとします。
見落とすのではなく、人の素晴らしいところを貶しにかかる人が多いのです。
立派な行いをされる方がありますと、
「いや、あんなのはだめだ、だめだ」と言って、
その方の素晴らしいところを消しているのです。
神社仏閣にお参りして、「神よ、神よ、どうぞ福をお与え下さい」と言って祈っても、
神様が福を下さるはずがありません。
自分は神を冒瀆しているのですから。
家の中で喧嘩し合いましたら、これも又神への冒瀆です。
或いは人と喧嘩し、人と争い事をしても神を冒瀆しています。
又、人の陰口を言ったり悪く言ったりするのも、
それは人さまのことと思うから言えるのです。

陰口を言ってごらんなさい、即、自分に返ってきます。
中には、こんなことを言えば喧嘩になるだろうなあと楽しんで、
告げ口する人があります。
自分が言いながら、相手の方がうっかり相槌を打つと、
「あの人はこの間このように言っていましたよ」と、言いふらす人もありますね。
争いを起こさせる心は悪魔の心です。
そして神への冒瀆であり、神へ挑戦をしているのですから、
そんな人は幸せになれるはずはありません。
簡単なことです。
人さまを褒めたらいいのです。
その人の良いところを見付けて褒めればいいのです。
良い所以外は一切見えないようにすれば今度は自分が褒められます。
幸せを求めていない人は、この世に一人もありません。
「いや、私は不幸でいいのです」という人は大分おヘソが曲がっております。


           ~ 感謝・合掌 ~



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「講演集」より。

2014-12-27 00:12:33 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

        恩師のご著書「講演集」より


          講演集、 二


     東京・沖縄の旅にこと寄せて――幸せになる為には


先の続き・・・

いくら幼い子でも一人の人格者として、神様から「あなたにこの子を委ねます。
この子の修行に協力してやって下さい」と頼まれて授かったのが、
私たちの子供です。
幼き子供は心に何の曇りもありません。
その証しとして幼い子はどの子を見せてもらいましても皆可愛い顔をされています。
だんだんと成長する過程で心にスモッグを出していきます。
そのスモッグが綺麗な心の周りを全部覆ってしまいます。
自己保存、自我我欲などの思いによって、魂の表面がだんだん曇り、私たちの
心の曇った分だけ顔の相が曇ってきます。

だから、肉体は魂の表現体、この顔は魂の看板です。
心が知りたければ、その人の目の中を覗いてみなさい。
その人の内部がみな分かります。
そんな阿呆なとお思いでしょうけど、こうして見たらみな見えます。
心の奥底まで丸見えで、いくら後ろのほうにおられても同じことです。
意識を向けたらパッと分かります。
これはなぜかといいますと、心は全部底で繋がっていますから、
その方に意識を向けましたら、全部分かるようになっているのです。
意識には、潜在意識、表面意識、超潜在意識とあります。

海の上に島がたくさんありますが、それらの島は海底で全部繋がっているように、
私たちの表面意識は、各島々が海面に出て全く別であるのと同じで、
各個性を持っていますが、超潜在意識は底でずっとみな繋がっていますね。
超潜在意識からいえば、皆の心が繋がっていることが分かります。
ですから、皆の心の奥底が見えます。
そして皆が繋がっていますから、皆がいとおしくなります。
皆、兄弟、親子という感じが湧いてきまして、すべてのものがいとおしく、
犬ころにしても小鳥や猫にしても、いとおしく感じます。
神の子として全部兄弟だからです。
動物も植物もみな神の御姿であり、私たち自身も神の御姿です。


           ~ 感謝・合掌 ~




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「講演集」より。

2014-12-26 00:27:38 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

        恩師のご著書「講演集」より


            講演集、 二


     東京・沖縄の旅にこと寄せて――幸せになる為には


先の続き・・・

出すのを異様に惜しがる人がありますね。
あれは出せば、一旦自分の前から消えますから損したと思うのが並みの人間、
普通の我々凡夫の思いです。
確かに現実には消えるのです。
ところが、真理は出せば入るようになっています。
どんどん出させてもらうと又、
どんどんと入るようになっているこの真理を知らないから、人はケチケチします。
「出すのは嫌、舌を出すのももったいない。
貰うのだったら、人の葬式でも貰ってこようか」という人があります。

現実にあるのですよ。
大阪のK市で二十歳過ぎのちょっと精神薄弱の方がおられました。
この両親が亡くなって、親がこの本人に大きい保険を掛けていたのですが、
立派な親戚がありながらこの子の世話をするという人が一人もないのです。
仕方がないので、大阪の平野にある施設に入れたそうです。
ところが、この子が交通事故でポコッと死んでしまうと、
親戚中が「うちに呉れ」「うちに呉れ」と言って、その死体の奪い合いをしたというのです。
親戚中が「うちで葬式を出させてくれ」と言うので、
町会長さんが「何と不思議なことがあるものだ、なぜこんなことを言うのだろうか」と思ったら、
その子に大きい保険が掛かっていたのですね。

葬式を一つ済ませたら、何千万の保険が入るのですから、死体でもほしいのです。
こんなさもしい方も現実にはあり、しかも親戚一同が揃ってそうだったのです。
町じゅうでいっときは評判になっていたそうです。
人の心とはさまざまです。
同じお父さんお母さんからこの肉体を頂いても、その兄弟の中で一人の方は
心豊かであり、同じ兄弟でありながら心貧しい方があります。

出すのは嫌い、貰うのは好きで厚かましいことこの上ないという人ですね。
かと思うと、同じ兄弟でも遠慮深く謙虚でどんどん人の為に尽くすという方も
あるのは、親は子に肉体は与えても、魂は与えることができないということの
証拠です。
親は肉体を与えてオギャーと生み出すことはできますが、
魂まで生み出すことはできないのですね。


          ~ 感謝・合掌 ~



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「講演集」より。

2014-12-25 01:24:49 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

         恩師のご著書「講演集」より


              講演集、 二


      東京・沖縄の旅にこと寄せて――幸せになる為には


昨夜来の癒しは百五十人以上、仮に一人当たり三分要したとしても百人で
三百分、三百分なら五時間はゆうにかかります。
中には見動きできない方もたくさんお見えになっていました。
お気の毒に三歳の男の子で脳性小児麻痺を患って両足とも曲がって伸びず、
手も曲がって生きながらのミイラのような子でして、一生懸命に祈りました。
すると、足が伸びまして、翌日になりますと、もう可愛い綺麗なお顔に変わっていました。
手も普通に動くようになって、お母さんの喜びは大変なものでした。

東京でお会いした世にも不思議な超能力の先生方が沖縄にもおいでになっていたのですが、
皆で手分けして一生懸命汗を流して治療しておられました。
その方たちが一人にかかっておられる間に、私は五、六人終わっているのです。
私の場合はただ「治りなさい」と言えば、皆治っていってくださるくのです。
「どうですか」と聞くと、「いやもう、治りました」と、
ご本人がそう言ってくれるのですから、これは間違いないですね。
「あの先生に診てもらったのですけど、まだここが痛いのです」と言って、
その先生に一生懸命治療してもらったのに、又私のほうへくる方もあるのですね。
その方もうまく治ってくださって良かったのですけど。
最後には治療を申し込んだ人は全部私のところへきてしまいました。
そういう喜びというのは得難いものです。

人さまに治っていただく、
苦しみから解放される時の喜びは何ものにも代えることのできない喜びです。
人さまに喜んでいただくことです。
助けてもらう、救ってもらうよりも、
助ける側、救わせてもらう側に常に自分を立たせてもらうことです。
愛の無償の奉仕をさせてもらった時、不思議な奇跡を見せていただくことができます。
神様からたくさんのものを与えていただきながら、
それをよう貰わないのが私たちです。
なぜ貰えないかというと、自分の心を自ら曇らせて神の光を遮っているから、
神様が下さるものを貰うことができないのです。

神は無限の供給をなさいます。
毎月お話会で五百円ずつ頂載するのを、
私が着服してけしからんと怒っている方があるそうですが、
これは事実無根のことで、現実に私のところへは一円玉一個も入っておりません。
これは会計さんがちゃんと監督して下さり、年末の助け合い運動や、
又、役に立つところに回させていただいております。
五百円を私のところに入れても何の足しにもなりませんし、
またそんなさもしい心は持っておりません。
ちゃんと神様が与えて下さいます。
出しておけば、神様が入れて下さいます。


              ~ 感謝・合掌 ~





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「講演集」より。

2014-12-24 00:26:20 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

          恩師のご著書「講演集」より


              講演集、 二


     東京・沖縄の旅にこと寄せて――幸せになる為には


東京・沖縄では、それぞれ偉い先生が難しい話をして下さいました。
私は難しいことは何一つお話できませんが、
皆さんが聞いて下さって分かり易いと言われます。
難しくて理解できないことを教えていただいてもなかなか学びにくいものです。
この間沖縄でも懺悔させていただいた後でお話させていただいておりますと、
皆さんはお腹をかかえてひっくり返って笑っておられましたね。
「大笑いしながらも、ちゃんとその中にすべてこの真理は含まれております」
と言って褒めていただいたのです。

或る先生は悟るというのか、自分の過去世をひもといて、
神様から「あなたは法を説きなさい」と言われて、
ボリビアから日本へ帰ってきたとのことです。
まだ日本語もおぼつかない時に、「この日本で法を説きなさい」という神の
ご指示があり、「私にはとてもそんなことはできません。分かりません」と
言って、何回もお断りになったのですけど、「天上界から協力しますから、
あなたが法を説きなさい」という、神のご宣託があったそうです。
いろんなお話をされますが、みな天上界から学ばれるそうですね。
すばらしいことです。

しかし私はそんなことは一切できません。
この間も沖縄で
「先生の過去世を意識をもって話して下さい」と言っていただいたのですが、
そんな意識は出てきません。
出て来なくても、本当の神様の御心を述べ伝えますと、
皆様が号泣されていました。
なぜそういう短い言葉の中に感動を受けられるのかというと、
ほんとうの神の御心だからです。
私が帰りましたあと、昼からのスケジュールは、
別の先生の講演の当番なっていたそうです。

昼食をいただいている時に、その先生の奥さんが呼びにこられたのですね。
「実は主人がお腹が痛くて今動けなくなっているのです。
昼からの講演ができないので困っています」ということで、
「なぜ早く言ってくれなかったのですか。そんなのはすぐに治ります」と言って、
その先生のところへ行きますと、ベッドに休んでおられました。
「お腹痛は治りなさい」と言いましたら、パッと治りました。
すぐ治ったのです。
「偉大な御業ですね」とびっくりしておられました。


               ~ 感謝・合掌 ~





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「講演集」より。

2014-12-23 00:34:43 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

          恩師のご著書「講演集」より


             講演集、 二


        東京・沖縄講演のお土産話――懺悔と告白


先の続き・・・

私などはこうして皆さんの前で喋らなくてはいけませんから、善い行いをして
きたなあと思いましても、借金のほうがはるかに大きくなります。
一つの善き行いに対して一人に喋ったとしたら、その善行は帳消しです。
一つの善い行いを自慢たらしく百人の前で喋ってしまいますと、
一人分は帳消しになりますから九十九人分の赤字が残ります。
天の国に帰って蔵の扉を開いたら、赤字の札ばかりです。
「ぎょうさん、私はいいことをしたなあ、天の蔵には大分詰まったなあ」と思ってあの世に帰りますと、
私の蔵は借金ばかり残っているだろうと思います。
なぜかというと、あまり喋りすぎたからです。
しかし、私の自慢にはしておりません。
神様の自慢をしております。

「神様からこういうことを見せて下さった」「神様はこのようなことをして助けて下さった、
私という人間を通して助けて下さった。だから私にはそういう力はありませんが、
これは神のなせる業です」と、神の御業ということを常に私の心の中にたたき込んでおりますから、
赤字はまあ半分ぐらいで許していただけるのではないかと思います。
神を褒め称え、讃美し、神の力の偉大さを褒め称えることです。
自分の行った全部は、神がして下さったものだと思うことです。
そして善き行いについて、「何をしたのか」「誰にしたのか」「どんなことをしたのか」などは、
これらをさせてもらった瞬間から捨てることですね。
させてもらったら即、捨てることです。
今日も朝からテレビを見ていますと、二十四時間チャリティーをやっていました。
なかなか芸人さんも大変です。

私も泣きながら聞いていまして、
なんとか私も気持だけでも持っていきたいなあと思いながら泣いていたのですけど、
ああいう僅かずつでも一人一人から
寄せてもらったお金で、チベットとかエチオピアのほうで多くのお子さんが
助かってくれています。
又、実際に行ってくださる方はそんなに綺麗なお顔ではありませんが、しかし
ああいう方にはみな光が出ていました。
後光が出ております。
私たちも、ああいう機会でも結構ですし、年末の助け合い運動でも結構です。
なんとか気持ちだけでもさせてもらいたいと思います。
皆同じ兄弟、神の目から見たら全部兄弟です。
色の黒い白い黄色いは関係ありません。
全部神のいとし子です。
そのいとし子に愛の手をさしのべていきたいと思います。
今後の生活の中にほんとうの神の子として生きていくように実践して参りたいと思います。
どうかよろしくご指導いただきますように。


             ~ 感謝・合掌 ~



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「講演集」より。

2014-12-22 02:35:10 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

         恩師のご著書「講演集」より


             講演集、 二


     東京・沖縄講演のお土産話――懺悔と告白


先の続き・・・

どこへ、どこまで逃げたとしても、自分の心から逃れることはできません。
それから逃れるには、自ら悔い改める以外にありません。
悔い改めたら、二度と繰り返さない努力をすることです。
毎日の生活の中に再び過ちを繰り返さない実践、行いが、正法を学ぶ者の修行です。
もし滝に打たれて自分の犯した業が流れ去るのでしたら、自分のいいもの、
折角の長所も、流れて消えるはずです。
悪も消える代わりに善も消えてしまいます。
そんなものはなんの役にも立ちません。
護摩も同じことです。

護摩を焚くと因縁が消滅するといいますが、因縁は自分自身がつくったものです。
自分が日々の行いの中に誤まった想念を持ち、神の御心から離れた行いをした
場合、それが自分の業、因縁となって残っていくのです。
護摩を焚いて消えるはずはありません。
自分が作ったものによって苦しんでいるのです。
その苦しみを人に拝んでもらったり、滝に打たれて身を清めたり、
或いは護摩を焚くなどしても自分が作った原因を人が消してくれるはずは絶対にありません。
どんなことをしても消えることはありません。

では、それを消すのは何かというと、反省、悔い改め、懺悔です。
その悪を再び繰り返さない中に魂の進化が行われます。
自らを顧みて一点の曇りのない生活ができるようになれば、
その時にほんとうの神の御子として、神に「お父さん」と、呼べるようになっていきます。
その時、皆さんは神の御使いです。
難しいことは何一つ要りません。
日々の生活の中で思いやり、助け合い、そして自らを誇らないことです。
「花は自らの美しさを自ら知らず、ゆえにうるわしい」です。

どんなに美しい花でも、
自分から「私、綺麗でしょう」と何回も自慢したら見るのも嫌になります。
花は自分の美しさを知らないのですね。
だから麗しいのです。
私たちも自分がちょっといいことをしたとか、ちょっと何かしたとかいって、
鼻にかけたり自惚れたり、そういう自慢をしたら醜いです。
善き行いは隠れて積みたいものです。
隠れた行いの中に陰徳が積まれていきます。
隠れた徳です。
それは大きな魂の財産として残っていきます。


                ~ 感謝・合掌 ~



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「講演集」より。

2014-12-21 04:07:41 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

        恩師のご著書「講演集」より


         講演集、 二


      東京・沖縄講演のお土産話――懺悔と告白


先の続き・・・

「これをしてはならない」ということは、皆知っております。
しかし、神様は何をしてもお叱りにはなりません。
ただ目覚めてほしいと思って下さいます。
過ちを犯しておれば、自ら苦しまなくてはいけない、罰は自分の想念、
行為、言葉の過ちによって、自分が自分に当てるものです。
過ちを犯す者ほど神様はいとおしく思って下さいます。
そして心に目覚めてきますと、どなた様でもいとおしくなります。
「いとし子よ、目覚めてほしい、そして幸せになってほしい」という神の心が
湧き上がってきます。

すべてはそのようになる為にこの世に生を頂いております。
自分のことばかり考えておりますと、決して幸せにはなれません。
自然界は相互依存、持ちつ持たれつして、バランスのとれている世界です。
現象界はお互いに助け合って調和を保っております。
この調和の中にあって、私たちが自己保存、自我我欲というアンバランスな
生活をしていますと、自然の法則に自ら食み出していきます。
誰も自然から逃れて生きることはできません。
高橋信次先生のご存命中のことです。

和歌山で或る学校の校長先生が自分の過ちに気付くと、
もう恐ろしくなって何とかこのいやらしい自分から逃れたいと強く思って、
和歌山城の近くから和歌山港へ単車に乗って一生懸命逃げたところ、港に着くと、
「あなたが地球の果てまで逃げても逃がしません」と、自分の良心が言ったそうです。
宇宙の果てまで逃げても、監視されているこの良心は、
和歌山城から港まで逃げたとしても、そんなもの逃がしては下さいません(笑い)。
それでも必死になって、その先生は逃げたそうです。
しかし宇宙の果てまで逃げても、自分の心から逃れることはできません。
自分の中にはちゃんと神仏の心がいて下さいます。

孫悟空がお釈迦様に背いてお釈迦様に掴まった時、「私のこの手から逃れたら、
あなたを逃がしてあげよう」と言われました。
あまり悪いことをするものですから、お灸をすえられたのです。
お釈迦様の手などは、小さい手ですから「そんなことはわけない」と言って、
あの觔斗雲(きんとうん)を呼んでパッと雲に乗って逃げたそうです。
あれは時速何万キロという早さで走る雲だそうですね。

そして飛んで飛んで飛びぬいて地の果てまで来たと思って、もうここまで来たら、
いくら偉大なお釈迦様の手でも心配はないと思って雲から下りて見ますと、
五本の指のような大きな岩の柱があり、その柱に「聖天大王孫悟空ここに至る」と、
墨で書いて帰ってきました。
そしてお釈迦様にそう言いますと、「これを見よ、あなたが書いたのはちゃんと
ここにある」と、お釈迦様の手の指に孫悟空の書いた文字がはっきりと書かれていたということです。
つまりお釈迦様の手から逃げることはできなかったのです。
「西遊記」の有名な話しですけれど、これは自分の心から逃れなれないことを
言っているのです。


           ~ 感謝・合掌 ~




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「講演集」より。

2014-12-20 00:32:32 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

         恩師のご著書「講演集」より


            講演集、 二


       東京・沖縄講演のお土産話――懺悔と告白


神様は言われます。
「私の心をあなたたちの心としなさい。
私の思いをあなたたちの行いの上に行なさい」と、
神の心は太陽から学ばせてもらえばいいのです。
太陽は差別をなさらない、罰をお当てにならない、
自らを犠牲にして他を生かし給い、一切の報酬をお求めになりません。
太陽の姿の中には一切報酬を求めになることはありません。

私たちの生活の中に神の心を頂くとは、その行為を日々の生活で実践することで、
そのようにしてこそ、神の心を頂いたことになります。
神の心を頂いて自ら行じた時、それは神のいとし子です。
無神論者とか、又或る種の宗教のなかには、先祖様の仏壇、神棚をみな燃やしてしまったり、
そんなものは不要といって小便をかけたりするのもあります。
もちろん、そういう形あるものは真の神とは違いますが、しかしたとえそういうことをしても、
真の神様は一切罰をお当てになりません。
その証拠に、いくらお日様の悪口を言いましても、「それではお前にはもう光は
やらない」とは言われません。

光を消してしまわれたら、忽ちまちに真っ暗になり生物は死んでしまいますが、
そんなことはされません。
また「あなたはよく感謝するから余計に熱を上げましょう」といって、
神様から熱を余計に頂いたら、火傷して死んでしまいますが、そんなこともされません。
よき行いに対しても悪しき行いに対しても、神はただ与え給うのみで、
「よくやってくれた」とも言われず、何もしないからといって、差別をなさいません。
ただ自らに目覚めなさいと言われます。
その目覚めとは「自らを悔い改めなさい」「私の心をあなたが行いなさい」
「いとし子よ、そなたたちは私の思いの中に生きなさい」ということです。
その時あなたたちの心は安らぎます。

罪を犯し、悪を犯した私たちでさえ、「自らに目覚めてわが胸に帰りなさい」と
神は言われます。
不孝な子ほど親は可愛いものですが、神様もそれと同じように思って下さいます。
神様、神様といいますが、私の家にはどこにも神様は祀っておりません。
形なき神ですね。
この神様とは、次のようなお方です。
「私は形あって形なし 形あっては天地自然に現わせし姿これなり
形なくては汝らを生かさんとする力これなり 汝らを形あるものとして
この地上に生じせしめ 形なき汝らの良心の囁きとなって我は証しせん」


            ~ 感謝・合掌 ~




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「講演集」より。

2014-12-19 01:17:30 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

        恩師のご著書「講演集」より


         講演集、 二


    東京・沖縄講演のお土産話――懺悔と告白


私たちは具体的にどのように修業すれがよいか

この勉強の場所も、他力の場所ではありません。
私などに頼っていないで、各自が自分の心に目覚めて、
よき行いをもっていただきましたら、その時神の御業はどなたの上にも現れます。
他の方に頼り、救われる側に立っていてはいけません。
自らを救う、救わせてほしいという想念、行為、言葉が揃った時、
私たちは神の御子として、或いは仏の御子として、
肉体を持ちながら求めることなく与えられるのです。
「私のような者にはできないだろう」とは決して思わないように、
日々の生活でまず家庭の中の調和をはかって下さい。
調和とは、難しいことですけれども、妙なる調べ、バランスのことですね。
あのヤジロベエを思い出して下さい。

心の中にバランスをとりましたら、糸の上に乗せても、
危険な針の上に乗せても、落ちないです。
私たちの人生において、調整、バランスをとれば、
どうにもならないという時にも、絶対に崩れることなしに生きていけます。
大調和こそ大切であると学んできましたけれど、それはどちらにも偏らない
バランスのことです。
日々の生活でまず一番大切なことは、自分の心の安定です。
自分自身をほんとうに安定させることができますと、今度は周りが安定してきます。
それは、神の心に目覚め、「させていただかなくてはいけない、
他を許さなくてはいけない、どんなことがあっても許さなくてはいけない」という、
神の御心に沿うからです。
神は一切の差別をなさいません。

高橋信次先生がよくお話下さいました。
神の御心を知りたければあの太陽を見なさい、と。
太陽は、自らの身を燃焼させ、自らの身を燃え上がらせ、自らの身を犠牲にして、
その結果として現れるエネルギー、熱と光を他に与え給います。
この熱と光こそ、神の慈悲と愛です。
太陽の姿から神の御心を知り、そして神の御心を知らせていただいたら、
今度は自分がその心をわが心にいただいて実践したらいいのです。
太陽は裁きをなさいません。
どれ程私たちが罪深いことをしておりましても、どれ程過ちを犯しましても、
太陽そのものに対して悪口雑言を言いましても、罰が当たった例はございません。
神とはそのような方です。
ほんとうのゴッドの神とはそういうお方です。
では、私たちも太陽の姿同様に人を裁いてはなりません。
人の過ちを責めたり、お前が悪からこうなったのだと人を裁いたりすることは許されません。
健康、不健康、富める人、貧しい人、地位のある人ない人、
太陽はそれらを一切差別なさらず、すべてに平等に熱と光を与え給います。
その中から学び、私たちはわが行いとして行じたらいいのですね。


            ~ 感謝・合掌 ~



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「講演集」より。

2014-12-18 02:07:11 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

         恩師のご著書「講演集」より


           講演集、 二


    東京・沖縄講演のお土産話――懺悔と告白


先の続き・・・

法の実践の功徳です。
一回来て癒しを受け、又二回治療に来て下さっても一切差別はしません。
実際には私は知らないから治療をしていたのですが、
或る先生はおっしゃって下さいました。
「長尾先生は一切の差別をなさいません。
わが身を捨てて人の為、人を生かそうとして下さいます。この姿こそ神の御姿です。
神の愛を示していただきました。
差別なく、どんな人にでも優しく接して下さいます。

私たちも日々の生活の中で先生の実践を学んでいきましょう」と、
このような講演をされていました。
東京でお会いして、一時からのお話会で、五時にはそこを出たのですから、
四時間そこそこの間、或る先生は弟子になりますと言って下さいましたが、
私には弟子は一人もおりません。
共に学ぶ心の友は何万人とおられますが、私には弟子を持つ資格はございません。
では、何の価値もない私に僅か数時間会っただけでなぜ「弟子になります」と
おっしゃるのか、ということです。

それは、私の行い、自分の身を捨てたその行いに頭を下げてくださるのだと思います。
普通は己の自己保存と自我の為に、なかなかそういうことは言えないものです。
正しいものを正しと認めるすばらしい勇気と、そのお方の魂の高さとが証明されています。
この間頂きました写真の中に、後から見ていただいたらいいのですが、
あまり人数が多いので、何重にも囲んでいただいて皆さんが合掌して下さったのがあります。
まさに浄土です。
お互いに相手の為に祈り合う、これが神の御心です。

そういう己を捨てた行為の中に、或る人は神の愛を見たとか、光の天使様を拝んだとか、
高橋信次先生にお会いしたとか、言って下さるのですね。
何の取り柄もない無学の私ですが、その行いの中に徳を頂けます。
愛の実践、自らを捨てて他を生かそうとするその行為こそ神の御心です。
それを行った時、神の御子として生きられます。
もちろん、自分を正さなくてはいけません。

過ちの中でそういうことを繰返しても、功徳はすくないのです。
一点の曇りもなく、人の為に命を捨ててでも相手を救いたい、
幸せになってほしいという行為を行った時、私だけではなく、
私たちすべては神の御子として
生まれ変わります。
もちろん、力も与えられます。
神は行なう者には必ず平等に神の力を与えて下さいます。


            ~ 感謝・合掌 ~



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「講演集」より。

2014-12-17 00:57:17 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

         恩師のご著書「講演集」より


            講演集、 二


     東京・沖縄講演のお土産話――懺悔と告白


先の続き・・・

私は自分の過去世を知りません。が、私の過去世をよく知った方が平伏して
挨拶をされます。
抱きついてわんわん泣いておられます。
講演会の最後に「十分か十五分ですけど、先生の実体を話して下さい」と、
ご案内頂いたのですが、「私は、そのようなものは分かりませんが、真の神の
言葉を皆さんにお伝えします。
今後のお話の中でも何回もこの神の御心をお伝えしていきたいと思います。
真の神は言われます。
『いとしき我が子よ いとしき我が子たちよ
そなた達は幸せに生きよ 健やかに生きよ
己自身を苦しめることなかれ
己を愛し 己を愛するが如く他を愛せよ

いとし子よ
自分の過ちを悔い改めよ
そして我が心を自らの心とし 自らの心を清め
私の心の中に帰って来なさい
いとし子よ 幸せになれ 健やかに生きよ』
神は私たちに対していとしい、いとしいと呼びかけて下さいます。
そして私たちが幸せに生きることを望んで下さっておられます」と、
この神様の御言葉を伝えさせてもらいますと、
会場のみなさんは声をあげて泣いておられました。
実りのある旅でした。

「沖縄に行かせてもらってほんとうに良かったなあ、
自分の使命を果たさせていただいた、
自分に与えられた使命を果たさせていただいた」という喜びを
心の中にいっぱい抱いて帰ってきました。
満ち足りた沖縄の旅行でございました。
東京へ行きました帰りも、ほんとうに嬉しかったです。
それは救われて下さった方の喜びです。
その喜びをわが喜びとして頂くことができます。

人さまの喜びを私だけでなく、
一緒に行っていただいた皆さんにも分けて与えていただけます。
喜びは光です。
光は、天の神の御心に反射して、又その場所に注がれます。
未熟な罪深い私がそういう喜びを頂かせてもらえるのは、
まさに法の功徳でございます。


         ~ 感謝・合掌 ~




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