浄心庵・長尾弘先生「垂訓」

八正道と作善止悪

「御垂訓」

2018-04-29 23:45:13 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

     恩師のご著書「思いの中に生きる」より


      神の御心の中で

先の続き・・・

太陽は自らを燃え上がらせ、自らを燃焼し、自らを犠牲にし、
そしてその結果として現れた熱と光、この熱と光こそが慈悲と愛である。
この熱と光を他に与え給う。
自分が自分のこの肉体を燃焼させ、そしてこの肉体を燃え上がらせて、
命を燃え上がらせ、自分を犠牲にして、その結果として現れる
慈悲と愛を他に与えることです。
これが神様の心を自分がこの地上に示す現わすことです。
太陽の熱・光は万生万物一切のものに差別をなさいません。
人間の尊い・卑しい、病気・健康、金持、貧乏人、一切関係ありません。
人間だけではありません。

動物にも植物にも、生きとし生けるもの、
ありとしあらゆるものすべてに一切の差別をなさいません。
じゃあ、私たちも、それが神の御心であるならば、
せめてその真似でもさせてもらわなくてはいけません。
そして罰をおあてになりません。
先程も言いました太陽の熱・光。
太陽は、私たちがどれほどの罪を犯しても、どれほどの過ちを犯しても、
あり余る太陽の熱と光、慈悲と愛を与え給い、
なお燦々と許しの光を与え給います。
これが神の御心であれば私たちもすべての方を許さなければいけません。
しかし、口で言うのはやさしいです。

憎い人を許すということは大変な大事業です。
都合の悪い人を許すとき、憎しみの大きい人を許すときほど、
これは難しくなりますね。
大事業です。
しかし、許させていただいたときに、
自分自身がその人に対する怒りとか憎しみとか恨みとかそしりとか、
そのような自分の苦しみから自ら許されるのです。
心から許させてもらったとき、自らが許されます。
神は絶対なる許しということを知ったときに、
私たちはもうできるだけ許させていただくように努力をしていかなくては
ならないと思います。
そのとき、私たち自分自身がその苦しみから許されることを知って下さい。
難しいことです。
そして憎しみ許さない度合いの大きい人を許させてもらうほど、
自分の心の喜びが大きくなります。
安らぎが大きくなります。


            ~ 感謝・合掌 ~


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「御垂訓」

2018-04-28 23:33:21 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

  恩師のご著書「思いの中に生きる」より


神の御心の中で

私たちは神の御心の中に住まわしていただいき、
神の大いなる愛の胸の中に生きさせてもらっています。
そして神様と全く同質同根です。
これをはっきり自覚することです。
この指が私たちなら、肉体が神様です。
親指は親指の使命を果たし、人差し指は人差し指の、
小指は小指の使命を果たします。
全部与えられたその場所に於いてその使命を果たしております。
目は目、耳は耳、鼻は鼻の使命ですね。

それと同じように私たちも、
神様のある一部分を果たさせてもらっています。
「私はこういうことはできません。
できないから神様に申し訳ない」とおっしゃる方があります。
しかし、例えば私は目の役をさせてもらっているとします。
ある方は耳の役をしているとします。
耳の役をしている方が、
「私はよう聞こえるんやけど、見ることはできない。
私は申し訳ない」と言って、自分を責めては何もならない。
そのかわり目の役をしている人は聞くことができません。
そのように私たちは神様のご意志の何か一つを
ご用させてもらっているのです。
じゃあ、その目的は何か、です。

見る、聞く、嗅ぐ、この使命は違いましても、
そのなすべきことは愛です。
人様へのご奉仕、喜んでいただく愛の行為が指によって
一本一本違いましても、その目的は全部それに費やされるのです。
それはこの肉体を運営するためにすべてが協力してくれているのと
同じことです。
そして、太平洋の水を一滴汲みまして、
その一滴の水をここに持って来ましても、
太平洋の水とこの一滴の水は何ら変わりません。
全く同質同根、同じものですね。

神様は太平洋であり、私たちは一滴の水です。
ならば、
神様と私たちは何ら変わらない全く同質同根であるということを
知った時に、私たちが何をしなければならないか、
そして何をしたときに神様と一緒に同じようになれるかです。
そのためにまず知らなければならないのは神様の心です。
その神様の心を知るために、高橋信次先生は、
「神の心を知りたければあの太陽を見なさい」と言われました。
あまりにも有名な言葉でしたね。


            ~ 感謝・合掌 ~





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「御垂訓」

2018-04-27 23:58:16 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

     恩師のご著書「思いの中に生きる」より


           亡くなった方に対する思い方

先の続き・・・

私は四十五歳の時に家内を亡くしまして、子供を二人残されました。
下は中学一年生、上は高校でした。
その時、もう本当に忽然として亡くなりましたから途方に暮れまして、
これは一体どうしたものか思い悩み苦しんでいた時に、
ある先生が私に教えて下さったのです。
これはその先生を通して神仏から教えていただいたんだと思います。
その教えが、「あなたは悲しんではいけません。
しかし、その人生の中で最も悲しいでき事であれば、耐えて、
無理して耐えて我慢することもないんです。
思いっきり泣きなさい。思いっきて泣いて、
そしていつまでも囚われないようにしなさい。
いつまでも囚われてはいけません。

そして本当に亡くなった奥さんのことを思うなら、
どっちが悲しいか考えてみなさい。
それは亡くなられた奥さんの方が悲しいはずです。
あなたにはこうして私ら大勢の者が付いています。
亡くなって行く者は一人です。
その人を本当に思うなら、その人のためを思うてあげなさい」と
いうことでした。
まあ、生きている時は本当に不調和な夫婦生活をしまして、
顔を見たら喧嘩していました。
本当にもう夫婦としては最失格者でした。

しかし、そのような中で、そのような試練を与えていただいて、
しかもその人を本当に思うなら、
その人の幸せ、死んでから幸せにするというのは申し訳ないのですが、
せめて死んでからでも幸せになってもらわなければならないと思って、
「安心して下さい」そして、「私はこの子供たちを責任をもって育て、
責任をもって独立させますから、あなたは安心して極楽の世界へ旅しなさい」
と言い聞かせました。
まあ、お陰様で二人の子供は無事に学校も出させてもらいまして、
いい所へお嫁にもらっていただきました。
幸せに暮らさせてもらっています。


           ~ 感謝・合掌 ~



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「御垂訓」

2018-04-26 23:40:56 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

   恩師のご著書「思いの中に生きる」より


   亡くなった方に対する思い方

先の続き・・・

生き残った者はまだ親しいお方、兄弟とかあるいは子供とかあるいは
お友達とか親しい人が「お気の毒ですなあ。辛いけどがんばって下さい」と、
慰めもいただけたら、励ましもいただけます。
死んで行く人、その人は自分が全く忘れている世界へ帰っていくのです。
しかも、ただ一人で帰らなければいけません。
誰も付き合いしてくれないですね。
この間、飛行機事故で五百人亡くなられましたが、
あの方たちがいっぺんに同じ所へ行けるかというと違うのです。
その人の心によって全部別々になっているのです。
一緒に居ようと思っても、その人の心によって一緒に居れないのです。
そのように、一人一人,一人ぼっちで帰るのが定めです。
では、本当はあの世に帰って行く人とこの世に残った人とどっちが寂しいだろうか。

どっちが辛いだろうか。
どっちが悲しいだろうか。
それは大勢居てもらう方が楽なはずですね。
少なくなったらなるほど寂しいはずです。
一人ぼっちになったらなお寂しい。
じゃあ、辛い、悲しい、本当に悲しい辛い思いをされているのは死んだ人です。
その人に対して、生き残った者がワンワン泣き叫んだり、
自分を取り乱して我を忘れるようなことをしますと、
悲しい人に余計悲しみを与える結果になっているのです。

だから、亡くなった方のことを本当に思うなら、自分をしっかりして、
亡くなった方に「今生こうして夫婦として親子としてご縁をいただきました。
本当にいろいろありがとうございました」と、まずお礼を申し上げるべきです。
そして、「私たちは寂しいし辛いです。しかし、今まで以上に頑張って、
(たとえば子供さんが幼い場合なら)私はこの子供たちと精一杯頑張って、あなたの
分もこの子たちを大事にして一人前に育ててみせます。
だから、どうぞ安心して下さい。
後のことは心配ありません。
私が頑張ります。
ですから、安心して、極楽の世界へ旅して下さい」と言って送り出すのが、
亡くなった方への本当の思いやりですね。


            ~ 感謝・合掌 ~


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「御垂訓」

2018-04-26 00:08:29 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

    恩師のご著書「思いの中に生きる」より


        亡くなった方に対する思い方

先の続き・・・

本当に亡くなった方のことを思い、その方を愛しているのであれば、
その人のためを思ってあげるべきですね。
亡くなった方のためを思って尽くすのが本当の愛です。
では、どのようにすればよいのか。
それは、自分も寂しいです。
しかし、亡くなった方の方がもっと寂しい。
それは考え方をちょっと変えればすぐわかります。
この世の中で、夫婦として親子として縁をいただけるということは、
最も縁が深いということです。

最も縁の深い者しか夫婦になれないし、親子になれません。
この世で最も縁の深い親しい者がこの世とあの世へ別れていくことは、
私たちの人生の中で最も悲しいできごとの一つです。
最も親しい人と別れなければならない。
これはお釈迦様もおっしゃっていますね。
いとしい者と別れる苦しみ。
憎い人と別れるのは、これはやれやれと思います。
いとしければいとしいほど、その別れは辛いものです。


             ~ 感謝・合掌 ~


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「御垂訓」

2018-04-25 00:18:12 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

    恩師のご著書「思いの中に生きる」より


          亡くなった方に対する思い方

私たちが亡くなったお方に対してどういう思い方をするかですね。
これをよく思い違いをするのです。
もう年も九十、百近くになって、
「もう、あんた、ええかげんに死んどくなはれな」
「いやあ、そんなこと言うても、わしゃ、まだ死なれんわ」と言える、
そんなところまで生きた人は別ですけれども、
まだ所帯盛りの連れ添う方の亡くなった場合、特に女の方、
まあ男の方も一緒ですけれども、
「お父ちゃん、私らに付いて下さい。そして、私らを守っといて下さい。
どこも行かんとこの仏壇の中におって下さい」と言って、
よく拝まれるのですね。

これはとんでもない間違いです。
そのように祈っていたいのは人情ですけれど、そういう祈りをしますと、
亡くなった人の邪魔をすることになるのです。
私らは亡くなったら、物質の世界(仏教では「色の世界」といっています)、
この現れた世界から、今度は目に見えない世界へ帰らなければなりません。
実在の世界、あの世の世界へ帰らなければなりません。

ところが、あの世へ帰ろうと思って旅立とうとするのですけれども、
生き残った者が、「おって欲しいんや。付いていて欲しいんや。
私ら守って欲しいんや」というような願いをしますと、
行こうと思っている人の足を引っ張る結果になっているのです。
旅立ちの邪魔をしているのですね。
側に居て欲しいのは人情ですけれども、言ってみれば自分の我欲です。
守って欲しい。付いていて欲しい。寂しいから側に居て欲しい。しかし、
自分の我欲のために、亡くなった方が迷ってもいいということは言えません。
自分のために大事な人を迷わしたら大変です。


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「御垂訓」

2018-04-23 23:46:38 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

    恩師のご著書「思いの中に生きる」より


            見えないものの存在

先の続き・・・

人間の私たちは、この世に今生きさせていただいて、
この肉体あるいはこういう物質の中で、
ただこの世だけがすべてだと思って暮らしてきました。
けれども、この世だけではないということです。
目に見えない世界。
目には見えないから、
「ここに何かあるんですよ」と言いますと、
「この空間には何もない」と普通は言います。

しかし、目に見えないこの空間の中にも、ラジオの電波、
テレビの電波、いろんな電波が飛び交っています。
私たちの目には見えないだけで、現実にあるのですね。
もっとわかりやすいのは、部屋を閉めまして、
夏クーラーをかけますと、どんどん水が出てきます。
何もないと思っているこの空間には、水がいっぱいあるのです。
水といえば語弊があります。

水の原子である水素と酸素がいっぱい充満しているのです。
熱作用によって水が分散して軽くなってこの空中に
いっぱいあるのです。
ところが見ることはできません。
だから、それと同じように見えない世界に、
私たちのこの肉体がなくなった後の意識、
その人がもっている心があるのです。
本当なら「成仏」と言いまして、
生まれてくる前に住んでいた世界に帰らなければならないのです。
そこは極楽あるいは天上の世界と言います。

ところが、そこへ帰れないでこの世に残しているその思いが、
見ることはできないけれども霊として
現実にいっぱいおられるのです。
病院なんか行きますと、霊視
もし自分の心ができていないのにそういう世界が見えますと、
もう恐ろしくていられない世界です。
死んで迷っている人はいっぱいおられます。
病院は自分を助けてくれる所、ここにいれば病気を治してくれる、
そう思ってその場所で死んだ人の思いが、
「ここにおったら助かるんや、治してくれるんや」

と思ってウロウロしているのです。
ところが普通は見えません。
触れることもできません。
だから、どこの病院へ行きましても必ず怪奇現象の起きる部屋が
二つ三つあるはずです。
部屋へ入ったら誰か枕元に立っちにくるとか、
ドアを開けに来るとか、そういうことはどこにでもあるのです。
それは皆、なくなった人の意識が残っているのです。


             ~ 感謝・合掌 ~




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「御垂訓」

2018-04-23 00:02:45 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

    恩師のご著書「思いの中に生きる」より


         見えないものの存在

死んでから、蛇の姿になりあるいは狐の姿になって、
迷っている方がいっぱいあります。
本当は、蛇とか狐とかあるいは狸とか、
そういうものは人を化かしたり祟ったりしないのです。
そういう意識になり下がった人の意識が禍を起こします。
そういうことがわからないものですから、「これはえらいことだ。祀れ。
供養せなあかん」ということになるのです。
地神さんというのは大体蛇の姿を見せます。
それは「人の執念」です。

これをゴミにたとえてみますと、
拝み屋さんが来て「ここ祀んなはれ」と言って
地祀りあるいは棚祀りをすることは
ゴミを掃除してゴミ箱に入れて屋敷の側へ置いているのと同じことです。
うまいこと管理しないとまた出てきます。
神主さんが来て「祓い給え、浄め給え」とやったら、
チリ叩きでゴミを払っているようなものです。
その時はなるほどきれいになるけれど、またそのゴミはそこへ落ちます。
一番いいのは掃除機を持って来てバーッとゴミを皆吸ってしまって
然るべく処置をしてしまうことです。
もう出てきません。
私の場合は掃除機でそういうゴミを全部吸い上げてしまいますから、
後がうまくいきます。


          ~ 感謝・合掌 ~



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「御垂訓」

2018-04-22 00:02:10 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

    恩師のご著書「思いの中に生きる」より


「先祖供養」について(その2)

先の続き・・・

本当の先祖供養といいますのは、そのような幸せな姿をお供えして、
そして、「もし暗い世界におられるご先祖さまがございましたら、
私の申し上げるこの言葉をよく聞いて下さい。
暗い世界におられるご先祖さまは、この世に在られます時に、
私のように幸せでございましたか」と、聞くのです。
そうしますと、もう一遍に目覚めます。「アア、私は幸せではなかった。
この子らのような幸せは、私にはなかった」。
幸せでないから死んで迷うのです。

「こんなに仲良く、こんな幸せな人生でしたか」と聞かれますと、
自分のいとしい子孫から幸せな姿を供えられ、そして、
「このような幸せでございました」と聞かれた時に、
どれほど深い迷いの中におられる先祖さんも即気付きます。
自分の人生が間違いであったということに気付くのです。
「喜びが足りなかった。私は幸せでなかった。
このかわいい自分の子孫のような幸せな人生を自分はよう送らなかった」と。

幸せではなかったことが迷いの原因です。
では、どこに原因があったのでしょう。
それは私たちの心のあり方の中にありました。
迷いの原因は今言いましたね。
「この世にあられます時、腹立って喧嘩なさいませんでしたか。
あるいはお互いにクサし合いませんでしたか。そしり合いはなかったですか。
人の悪口は言いませんでしたか」と聞いてみなさい。

聞かしてもらったら、
「ああ、あった。あった。ああ、あった。ああ、私は恥ずかしい」と
言って目覚めます。
それが苦しみの原因、地獄の原因であれば、
「今、心の底からその間違いに気付かれましたら、
本当の神様・仏様に心から自分の人生の過ちをお詫びしてみて下さい。
心の底からお詫びしますと、必ず心は安らぎます。
心から懺悔・反省・悔い改めをしますと必ず心は安らぎます。
その安らぎの心こそ極楽へ通じます」と言って、
お伝えお教えさせてもらうのですね。
それが本当の先祖供養につながります。


            ~ 感謝・合掌 ~


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「御垂訓」

2018-04-20 23:32:33 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

   恩師のご著書「思いの中に生きる」より


          「先祖供養」について(その2)

先の続き・・・

このような間違った信仰をなさっている方もたくさんありますね。
これは不孝者です。
反対に、私たちの子供たちが、
「お父さん、お母さん、お陰さまで、
私たちはこんなに幸せに住まわせてもらっています。
これもお父さんお母さんのお陰です。ありがとうございます」といって、
その幸せな姿、幸せな顔を見せてくれたら、
親の立場として「ああ、ありがたいなあ。
こんなに幸せに過ごしてくれたらありがたい。

もうこの子らについては、私は安心や」という喜びをいただけます。
それと同じことで、先祖さんの前で、
「お陰さまでございます。私たちのこの幸せは皆ご先祖さまのお陰です。
この幸せな姿をご覧になって下さい。ありがとうございます」と言って、
その幸せな姿をご先祖さんに供えてみなさい。
先祖さんは必ず、「ああ、よかった。私は安心や。
この子らがこんなに幸せに過ごしてくれたら、私は何も心配ない。
ありがたいことだ」といって喜びに満たされるはずです。
その時、ご先祖さんの魂は救われていきます。


               ~ 感謝・合掌 ~


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「御垂訓」

2018-04-19 23:49:32 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

   恩師のご著書「思いの中に生きる」より


      「先祖供養」について(その2)

先の続き・・・

そういうふうな祈りをしますと、これは先祖不孝です。
それが先祖供養だと思って、一生懸命頼んでいるのですが、
これほど大きな先祖不孝はありません。
親不孝・先祖不孝です。
何故かと言いますと、私たちの子供や孫に
「お父さん、辛いんや。何とか助けてほしい。お母さん、辛いんや。
私はこんなんで辛いから何とか助けて」と言って来られたら、
私たちは必ず悲しい、辛い。
替われるものだったら替わってやりたい。
しかし、替わることはできません。

子供が「辛い、辛い」言いながら泣きついてきてくれて、
喜ぶ親がどこにありますか。
そんな親は一人もいないはずですね。
それじゃあ、私たちがお仏壇の前で、先祖さんはどんな思いをなさるか。
私たちが子や孫に泣きついて来られたらかなわないように、
先祖さんも必ずかなわないと思われます。
死んだら守ってやることはできません。
そりゃ、何とかしてやりたいという親心はもってくれます。
しかし、すでにこの世に肉体はないのです。
どうしてやることもできない自分の子孫に、
不幸な姿を目の当りに見せられたら、
これほどの先祖不孝はありません。


            ~ 感謝・合掌 ~


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「御垂訓」

2018-04-18 23:46:02 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

     恩師のご著書「思いの中に生きる」より


       「先祖供養」について(その2)

子供が素直で、親の言うことを聞いてくれて、
どうにか一人前に成長してくれて、幸せな家庭をもってくれたら、
親にとってそれ以上の幸せはないのです。
親という立場にならせてもらえば、親の幸せは子の幸せの上に
乗せてもらえるのです。
子供が不幸だったら、絶対に親は幸せになれません。
子供の幸せの上に親の幸せを乗せてもらえるのですね。

そして、自分が苦しいから、自分が辛いからといって、
「先祖さんに一生懸命供養したら助かる」と思って拝む方があります。
あれは本末転倒、反対です。
私たちは子供の幸せの上に親の幸せを乗せてもらうように、
私たちの幸せの上に先祖さんの幸せを乗せることができるのです。
「先祖供養」は、まず私たちが救われないと、
先祖さんを救うことはできません。
自分が幸せになってこそ、その幸せの上に乗せることができるのですね。
幸せを乗せる、自分の幸せによって先祖さんに幸せな思いを
与えられるということは、先祖さんが救われることになるのです。

あるお宅へ、これも困ったお宅へ寄せていただいたのですが、
大きなお宅です。
もう、奥から十畳十畳八畳六畳と四つぐらい並んでいるのです。
その奥から二番目の部屋ですか、仏間がありまして、
立派な仏壇が祀ってあるのです。
そこで足の不自由なおばあちゃんが拝んでいるのです。
そこの当主の方は脳血栓で半身不随、おばあちゃんは足が悪い。

私は一番奥の間へ通していただいて、そこで話しを聞いておりましたら、
そのおばあちゃんが隣の部屋で一生懸命拝んでいるのです。
「ご先祖さん、私の息子の不自由な身体をどうぞ治してやって下さい。
それから、私の足もどうぞ治して下さい。
それから、孫の誰やらもこんなことで困っております。
どうぞ助けてやって下さい」と、何と頼むこと。
そればっかり唱えて、一生懸命一時間拝んでおられました。


               ~ 感謝・合掌 ~





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「御垂訓」

2018-04-18 00:28:39 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

     恩師のご著書「思いの中に生きる」より


        「先祖供養」について(その1)

先の続き・・・

      「戒名」について

今日はお坊さんはお見えになっておられませんね。
お坊さんの営業妨害になったら叱られますので。
夕べですが、「戒名」についてテレビで言っていましたね。
お寺さんが戒名いくら、お布施いくらと決めるのは、
宗教上ちょっとおかしい。
だから、宗教法人への税金を考えないといかんということが
ニュースに出ていましたね。
まるで商売。
或る方は言われました。
お寺さんに行きますとメニューみなたいに、「この戒名やったらいくら、
これやったらいくら、どれにしますか」言うて、見せてくれはるそうですね。
「戒名のメニュー」です。

しかし、いくらいい戒名をつけても、
それは亡くなった方には何の関係もないそうです。
わからないからです。
その証拠に、あの世の霊の方と数え切れないほどお会いさせてもらって
お救いさせていただきましたが、
そういう方は皆、戒名は何にもならんとおっしゃいます。
そして、呼び出す場合に戒名を呼んだら出てきません。
自分のこととわからないんですね。
俗名を呼んだらすぐに出てきます。
「おい、はっつぁん」と言ったらすぐ出てきます。
「おい、熊さん」と呼んだらすぐ出てきます。
常に一番親しい自分の呼び名を覚えているんですね。
だから、戒名なんか呼んでも出てこられません。
そのようになっております。


             ~ 感謝・合掌 ~


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「御垂訓」

2018-04-16 23:55:15 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

     恩師のご著書「思いの中に生きる」より


    「先祖供養」について(その1)

先の続き・・・

というのは、私には私のお父さんそしてお母さんがいてくれました。
そのお父さん・お母さんにはまたそれぞれお父さん・お母さんが
おられるはずですね。
そのお父さん・お母さんにもまたそれぞれお父さん・お母さんがおられます。
そのようにして、三代、四代、五代、六代、七代、八代・・・
三十代溯りますと十憶のご先祖様(2の30乗=1,073,741,824)、
わずか三十代前で十憶を超えるご先祖様のご縁をいただいているということです。
じゃあ、十憶以上の数え切れないご先祖様になんぼ大きな丼茶碗を
もってきましても、そりゃ足りません。
また、どれだけ大きな丼茶碗に御飯を装ってお供えしても、
一粒ずつもあたらないのです。
そして、そんなもので成仏はできないのです。

以前に、地獄に八百年も迷うておられる方が出てきました。
その方に、「八百年の間にあなたの子孫の方はあなたにどれほどの
経文を供養しましたか。
八百年間、あなたはどれほど経文の供養を受けましたか。
それによって救われましたか」と聞きますと、その霊が言われましたね。
「あれは何もならんのう」。「どうしてですか」と聞きますと、
「意味が難しゅうて訳がわからんわい」お経の意味がわからんとおっしゃった。
だから、いくらお経をあげても何にもならないのです。
また、お茶も聞きました。
「あなたが所望されたら、子孫の方はどれほどのお茶を献じましたか。
お茶によって救われましたか」と言いますと、
「いや、救われない。満たされることができない」とおっしゃった。
それは、いくら供えてもらっても満足できないのです。

その時、「ああ供えてくれたなァ」という一時の心の納得というか、
供えてくれたという思いはあるのですけれども、
いつまでたっても満足を得ることはできません。
また供え物についても聞いてみました。
「今日までに、どれほどの供え物を子孫の方はあなたに捧げましたか」。
しかし、それによっても満足は得られなかった。
戒名なんかはけっさくです。
「よき戒名を付けられたでしょう」と聞きますと、「あれは何もなっておらん」。
「どうしてですか」と聞いたら、「わしが死んだ後のこと、わしゃ知らん」
こう言われました。

だから、ご先祖様にお茶を供え、炊きたての御飯を供えるのは、「ご先祖様の
お陰さまで、こうして今日も熱いお米の御飯を頂戴できます」と言って、
感謝の気持ちを形として表したものです。
それが本当のお供えです。
そうでなくて、「ご先祖様に食べて下さい」と言って供えたらいけませんよ。
ご先祖様も難儀されます。
取り合いして、「俺の飯もうないわ」必ずそうなると思います。
お茶もそうです。
しかし、極楽へ行くと「御飯、お茶」と言えばすぐに出てきて、
何も不自由しないのです。
本当の帰るべき世界・正しい教えというものを知っておりますと、
そんな供物はいりません。


                ~ 感謝・合掌 ~



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「御垂訓」

2018-04-15 23:41:41 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

      恩師のご著書「思いの中に生きる」より


            「先祖供養」について(その1)

ある宗教はご先祖様を大事にすることを強調しています。
これはいいことですね。
ところが、仏壇の中へご先祖様のとまっていただく位牌、先祖様のとまり木を
作らなければならないといっています。
これはご先祖供養の本当の意味が理解されていないのです。
もし、私たちがこの世を去りまして、
仏壇の中の位牌のような所へとまってしまいますと、成仏はできません。
とまり木、そんな所へとまらされたら大変です。
私たちは素晴らしい光輝く天上の世界、光明燦然と輝く喜びと安らぎと調和に
満たされた世界へ帰ってこそ本当の成仏ができます。
それはこの三次元の世界とは全く質の違う世界ですね。

私たちはその世界からこの地上の世界へ自分の魂の修行に出させてもらっています。
ですから、実践といいましても、ご先祖供養というと、拝みなさい、ものを供えなさい、
護摩を焚きなさい、あるいはいい戒名を付けなさいということになりますが、
これらはあくまでも供養の手段でしかないのです。
では、目的は何かです。
極楽の世界へ帰ってもらうことこそ本当の目的のはずですね。
この世界に思いを残しますと、その思いによって自分の心がその場所にとどまります。
私は死んだら仏壇の中に祀ってもらう、あるいは、
このお墓の中に入れてもらうと思っておりますと、必ずその場所に行ってしまいます。
その場所は極楽とはほど遠い場所です。
極楽は素晴らしい世界です。

その極楽へ帰っていただくことが、
私たちが先祖供養させていただく究極の目的のはずですね。
また、「慰霊(霊を慰める)」あるいは「鎮魂(魂を鎮める)」
「除霊」とかいろいろありますけれども、
「救霊(霊を救い上げる)」という言葉はあまり聞きません。
どの宗教もあまり説いておられませんね。
「救霊」すなわち霊を救い上げてしまうのが本当の供養の目的です。
それを知らなかったから、供えなさい、祀りなさい、拝みなさい、
ということになるのです。
ひどい所になりますと、あるお宅へ寄せていただきましたら、お仏壇に、
大きなお仏壇ですけど、湯呑みが四十個も供えてあるんですね。
それにお茶を入れて、毎日お茶湯されています。
また、あるお宅へ行きますと、大きな丼茶碗に何杯もお茶を供えてあるんです。
丼茶碗です。
「これ、何しているんですか」と聞きますと、
「これ、ご先祖さんにお茶を飲んでもろてますんや」とのこと。
なるほど大きな丼茶碗あるいは四十個の湯呑みをずーっと並べまして、
お茶をなみなみとついで供えていますけれども、
私たちのご先祖様はそんなに少なくないんです。


            ~ 感謝・合掌 ~




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