浄心庵・長尾弘先生「垂訓」

八正道と作善止悪

「心行の解説」より。

2014-03-31 03:32:15 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

※ お写真はブッダガヤのお釈迦様が悟りを開かれ、その法悦に七回場所を変えられた一か所で
     我らの恩師も瞑想されています。


         ~ 恩師の「心行の解説」より ~


先の続き・・・

私たちは知らず知らずに過ちを犯す場合もたくさんあります。
過ちだと知って犯す場合も、知らないで犯す場合もありますから、
私たちは禅定で反省する時に、
「知って犯す罪、知らずに犯す罪をお許し下さい」と言ってお詫びすることです。
知って犯す罪は悔い改め、知らずに犯す罪は自ら見出すことです。
この時心は安らぎます。
そのどちらが罪深いかというと、普通この世的な常識で考えますと、
知って犯す罪のほうが罪深いと思うのですが、実は知らないで犯すほうが罪深いのです。
なぜかと言うと、知らないで犯す罪は罪の意識がありませんから、
それが罪深いことだと目覚めることができないのです。
ですから次の罪を積み重ねます。
知って犯す罪は、「ああ、えらいことをしたな、あんなことはしなければよかった、
しまったなあ」と思います。

罪だと知らなかったら、そのようには思えませんから、知らないで犯す罪のほうが重いと、
教えられているのです。知って犯す罪は改めることができます。
知らなければ改めることができないから、罪が深くなります。
このように八つの正しい生き方をさせていただくことは、
幸せになる一番大切な根元であると説かれています。
正法というものと反省とは切り離すことはできません。
常に己を見詰める練習をすることです。
他を見つめなくていいのです。
反省する時、自分を見ないで他を見詰め、
「あの人はあそこが悪いな」と他を見ることは、反省と違います。
これは人を裁いているのです。
私たちは己を見詰めなくてはいけません。
今日まで過去において私たちは人に知られてたくないこと、誰にも言いたくないこと、
そういう罪をいろいろと背負っているはずです。
失敗、過ち、罪、それらを覆い隠して生きているのが我々凡夫の姿です。
「反省」とは、それらを一つ一つ掘り出していくのです。
そして、いちばん人に知られたくない、いちばん嫌な自分自身を引き出すことです。


            ~ 感謝・合掌 ~





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「心行の解説」より。

2014-03-30 00:37:22 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

※ お写真はガンジス川の小舟の上で昇陽と沐浴を見学の我らの恩師「長尾弘」先生です。


          ~ 恩師の「心行の解説」より ~


       「正しく定に入るべし」


「定」とは禅定三昧の定で、反省させていただくことです。
「正しく定に入る」とは、反省のあとで、安らぎの一時を持つことです。
反省のあと、五分でも十分でも「ああ有難いなあ」という感謝、
安らぎの時間を持つことが正しく定に入ることです。
定に入るというと、入定されたと受け取って、死ぬことかなと思いますが、
そうではありません。
反省をして、自分の過ちを悔い改め、明日の生活に再びこの過ちを犯しませんと誓って、
そのあと感謝と安らぎの時を持つことです。
この「八正道」を行じ実践した時に、私たちは諸々の煩悩から離れることができるのです。
人間は煩悩にくるまれ、煩悩に包まれて生きているようなものです。

煩悩とは肉体の五官からくる自己保存と自我我欲です。
この煩悩から離れる方法として、
自己中心の見方をいったん捨てて相手の立場に立って見ることを今日まで度々話してきましたが、
さらに自分が部外者の立場になって、自他のいずれにもつかない見地から、
自分と相手とどちらが正しいか間違っているかを見た時に、
煩悩から離れた正しい見方ができます。
お釈迦様はこの世は苦しみの海であると言われました。
苦海からのがれるためには「八正道」を行じる以外にないと、
そのような仏典には書かれています。
すべては原因によって結果が出る。
そして結果が現れたら必ずそれには原因があります。
その原因は反省することによって知ることができます。
私たちは悪い原因を作らないために、八つの正しい生活をすることです。


           ~ 感謝・合掌 ~





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「心行の解説」より。

2014-03-29 02:55:53 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

※ お写真は二千五百有余年前インドの地にお生まれになられたお釈迦様が大悟された後、
   比丘、比丘尼たちに法を説かれた場所の一つである霊鷲山で瞑想・禅定されている
   我らの恩師「長尾弘」先生です。


            ~ 恩師の「心行の解説」より ~


先の続き・・・

人を苦しめるのにはいろいろ事情はありますが、自分にとって都合が悪いからといって
「今に見ておれ」と、強い念を集中して発しますと、それは悪念で、そういう悪い念は他を毒していきます。
その人の持っている闇の想念が、その方の送るものを腐らせていたのです。
「相手を悪くするような思いはいっさい持たないようにして下さい」とお話させていただきまして、
今はすばらしいお方になっておられます。
そうしますと腐りません。
「念ずる」とは、他の幸せを念ずることです。決して他の不幸を念じてはなりません。
念ずることは「正念」が大事かと思います。
「一念岩をもとおす」という言葉もあります。念の強い人は大きな水晶の原石に念力だけて穴をあけてしまいます。
その石を私も実際に見せてもたったことがありますが、それぐらい強い念が出るのです。
今でもヒマラヤの山奥へ行くと、念の力で大きな岩を「ウオー」と言って割ってしまう人があるそうですから、
念というのはものすごいエネルギーですね。
そのエネルギーを闇に使おうと、光に使おうと同じ力が出て来るのです。
悪い方へ使えば力が弱く、良い方へ使えば良く出るということはなくて、同じだけのエネルギー出るのです。
昔、憎い人の藁人形をこしらえて夜中の丑三つ時に「死ね、死ね」と念じ釘をカンカン打ったものです。
そうすると相手が殺されたりすることがよくありました。これも悪念です。

念は常に人様が幸せになるように、良かれと念ずることですね。
そのようにしますと、それは光です。
神様がいらっしゃるのなら、悪念には力をなくし、良念にだけ力を与えて下さったらいいのにと思いますが、
同じ力を与えられているということ、つまり、どちらに使ってもよいという能力を与えられていることが、
私たちの魂の修行において大事なことです。
結果は悪に使えば悪として自分に返りますし、善に使えば善として返ってきます。
自由に使ったあと、原因・結果の法則で自由に返ってきます。
ただし、その刈り取りは自分自身であり、決して他人は刈り取ってくれません。
地中に種を播いて、丹精込めて育てたきれいな花を「ああ綺麗な花が咲いているなあ、
一枝欲しいなあ」と、切り取って帰る人もありますし、
せっかく実らせた果物も心ない方が盗んでいく場合もあります。
しかし、自分の心の中に播いた種を育てて咲かせた花は、
どれほど綺麗な花であっても誰も盗むことはできません。
収穫は自分以外の人は誰もできないのです。
心の収穫は自分自身であるということが分かってきますと、
悪い種は播かないように努力することですね。
良くない種を播けば良くない芽が出て、良くない花が咲き、良くない実がなります。
良い種を播けばその逆です。
どちらを播いても人は刈り取ってくれませんから、
収穫は自分だけのものとなることを知らなければなりません。
今まで、そういうことにはいっさい気がつきませんでした。
「好き放題にしたらいい、まさかそんなきっちり返ってくることもないだろう、
ちょっとぐらい悪いことをしてもどうもないだろう」と思っておりましたが、
それが私たちの苦しみの原因になっていたのです。
苦しみの原因をできるだけ作らないことです。


             ~ 感謝・合掌 ~





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「心行の解説」より。

2014-03-28 03:15:55 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

※ お写真はモーゼ終焉の地「ネボ山」より死海の方に向かって祈りと光を送られる
   恩師とその場に居合わせた数人の学びの友の皆さんです。


           ~ 恩師の「心行の解説」より ~


       「正しく道に精進し 正しく念じ」


神様の御心をもって生きることが、正しく道に精進することです。
精進するのですが、私たちにとってはこの正しい生き方そのものが厳しいのです。
許せない人を許さなくてはいけません。そして全く無償の愛を実践するというのは、
人間にとって大変難しいことです。
神様の心を人間が行うのですから、難しくて当然です。
それを一つ一つ努力して日々の生活に生かすことが正しく精進することだと思います。
正精進ですね。
精進道にはげむ正しい生き方が分かったら、今度はそれを実践することです。

次に、「正しく念じ」と説かれています。
「思い」と「念じ」となぜ二つ別に書かれているのでしょうか。
それは「念ずる」のと「思う」のとは違うからです。
思いというのは、ころころと飛び回って一時としてじっとしていないその人の心をいいます。
静かに心を一か所に止めようとして禅定、瞑想をしましても、思いは次から次と走り回ります。
まるで野の猿のようにじっとしていません。
一か所へ思いを集中しようとするのはそれほど大変なことなのです。
「念ずる」とは、あの人は憎いなあ、ああ憎い、憎いと、そこへ止まっていくものです。
正しく念じないで、誤った念じ方をしますと、それは自分に返ってきます。
愛知県のある女性の方で、今日もお見えになっていますが、
今はもうすばらしいお方に変ってくれたのですけど、その方はホテルの仲居さんをなさっているのです。
仲居さん頭やお姉さんがいて、
根性の悪い人からいけずをされ「私はこんなに苦しんでいるのによくもあんなことを言ったもんだ、
今にみておれ、お前も悪くなる」と、帰ってきてこのように念じるのです。
今に見ておれ、えらい目に遭わせてやるといって何時間か念じているうちに、その方自身が痛くて辛くなり、
相手の方もこの人の念によって悪くなっていきます。
「今日は頭が痛くて辛いのです」と言うと、「そんな頭が痛いぐらい何ですか、やりなさい、
誰でも頭が痛いんだ」と言われるのですね。

そこで帰って、また念じると、その人は頭が痛くなり、膝も痛くて動けなくなったのですが、
しかしお膳は運ばなくてはいけないし、その上に「あなた、なにしてるの」と言って叱られるし、
今に見ておれとやったら相手が念じたとおりになり、同時にその人自身の足も痛くなったのです。
「私には超能力があります。
私が思ったら、思った通りになるのです」と言われますが、
「それはいけません。そんな思いをしていますと、あなた自身が苦しいはずです。
もう今日のご縁で再びそういう思いをしないで下さい。
さまないとあなたご自身が幸せになれません」と、お話をさせていただいたのです。
不思議なことに、この方がよそへ遊びにいってお土産を買って知り合いのところへ送りますね。
すると包みを開けるとみな腐っているのです。
不思議な現象です。「あの人は腐ったものばかりくれる」と言われるのですが、
当人は新鮮なものを発送しているのです。
ある時も北陸のほうからえびの生きのいいのばかり詰めて人に送ってあげたところ、
着いた荷を開けたら髭が一本だけ出てきたといいます。
まあ造り話のようですが、誤った念じ方をする人は生活が不調和で、ものを腐らせてしまうのです。
しかし今はこの方が送られても腐りません。
この間私のところへわかめを送って下さいましたが、それは新鮮なおいしいわかめが届きました。


               ~ 感謝・合掌 ~





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「心行の解説」より。

2014-03-27 01:27:14 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

※ お写真はインドのクシナガラにあるお釈迦様の涅槃堂です。
   恩師が此処を訪問し、お釈迦様の涅槃像にお祈りをしますといつも金が降ってきます。


            ~ 恩師の「心行の解説」より ~


     「正しく仕事をなし 正しく生き」


私たちは生まれた限り、肉体を動かして仕事をしなくてはいけません。
この世に生まれて、何一つ仕事もせずのらりくらりと一生を過ごした場合は、
これは人様の血と汗による労働力によって生きさせてもらいながら、
何のお返しもできないで、ただ人のご苦労を担って生きていることになります。
こういう生き方は吸血鬼と同じです。
人の血を吸って生きるのは、正しい生き方とはいえません。
仕事というものは他への恩返しだと考えていただて、精一杯努力すれば不足の思いはでません。
必ず道は開けてくるはずです。

正しく仕事をなすとは、「正行」つまり、正しく行じることですね。
仕事ではなくても日々の生活の中で人間として正しい行いをすることにも繋がります。が、
さらに仕事を通して魂の進化をはからなくてはいけません。
大学を出お勤めをされる方の場合、学生の間はこちらからお金を持って行って教えてもらいますが、
職場へ入ったら、向こうからお金を貰うのですから、そんなに楽にはできません。
「やあ、仕事はしんどいです」と言いますけど、
「それは当たり前、今まではお金を出して勉強していたけど、
今度はお金を頂いて勉強するのだから、それはきつくて当たり前です」とよく話します。
今月の「道」に有名なキリスト教学者ヒルティーの言葉を書いていただいていますね。
「およそ神経病患者というのは多少の差はあれ、すべて病める魂の持主である。
まずこの魂から治してかからねばならない」と。
病気というものは大体において耐え難いものですが、もしその人の精神生活が疲れ病み、
あげくの果てに死んでしまうような場合には、病気は人間を台無しにしてしまう災いです。

精神生活さえそのような状態でなければ、内的生命つまり私たちの霊ですね。
この内的生命を損なわずに、辛い肉体的苦悩を堪え忍ぶばかりか、
それによってさらに価値を加えていくような人々も珍しくありません。
人は魂の力を持たなくてはいけません。この力によって苦痛を耐え抜くばかりでなく、
次第に肉体を強くしていくこともできるのです。
「健全な魂は健全な肉体に宿る」のではなくて、「健全な魂が肉体を健康にし、
健康を維持していくことができる」のであって、病める魂は間違いなく肉体を弱めます。
正しく行じることができない場合は、精神的に不安定になります。
精神的に健全であれば、肉体もまた健全に働いてくれます。精神とは何かというと、
私たちが見ることのできない心の奥底の作用です。
私たちは子供の頃、まず健康な肉体があり、その健全な肉体に健全な魂が宿ると教育を受けました。
しかしほんとうはその逆で、健全な魂に健全な肉体が従ってくるのですから、
健康になるということは、まず魂です。


               ~ 感謝・合掌 ~





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「心行の解説」より。

2014-03-26 01:20:41 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

※ 今から二千有余年前イエスがシモン(別名ペテロ)とアンデレの二人の兄弟が舟に乗り、
   網で漁をしているのに出会いました。
   彼らは漁師でした。
   イエスが、「私についてきなさい。人間をとる漁師にしてあげよう」と声をおかけになると、
   二人はすぐに網をすてて、イエスについて行きました。
   しばらく行ったところで、今度は別の二人の兄弟ヤコブとヨハネが父のゼベダイといっしょに、
   舟の中で網の修繕しているのを見つけ、そこでも、ついてくるようにと声をおかけになりました。
   彼らはすぐ仕事をやめ、父をあとに残して、イエスについて行きました。
   (マタイの福音書より)
   で知られているガリラヤ湖を背景にカメラをかまえてお写真を撮られている我らの恩師「長尾弘」先生です。
   このガリラヤ湖を見下ろすように「山上の垂訓」で知られている「祝福の教会」が建っています。


              ~ 恩師の「心行の解説」より ~


心を学ぶということがなぜ有難いのか、尊いのかといいますと、
「心」は私たちの肉体を支配している目に見ることのできない力であり、その心に目覚めることによって幸せにもなり、
心の在り方によっては不孝にもなり、いろいろと人生の行き先が変わってくるからです。
正しい心の持ち方、正しい心の在り方を私たちは学んでいます。
自分が幸せになれたなあ、良かったなあと心の中に喜びが頂けた時、苦しむ方や、縁ある方に、
「心の持ち方によって私はこんなに楽になりました。
あなたもそのように心がけられたらいかがでしょう」と言って、自分の喜びを他に伝えていくことができます。

これには時間がかかると思いますが、人類すべてが感謝や思いやりの心に目覚めた時、
この地球上は仏国土、ユートピアになります。
まず私たち一人一人が正しい心の在り方を学び、そして幸せになり、その幸せを縁ある方々に広めていくこと、
これが地球が幸せな惑星、調和された惑星になっていくことに繋がります。
高橋信次先生は講演の中で、「私たちは、この地球を調和しさらに次の天体を調和させるために、
若い星へ移っていくものである」とおっしゃいました。
そういう大きな使命、目的を頂いて生まれてきております。
昨夜も、高橋信次先生のお姉様から電話を頂きまして、どうぞ頑張って下さいと励ましの言葉を頂戴しました。
ほんとうに有難いことです。「一人でも多くの方を救って下さい。
信次先生の亡き後も、どうぞ法を曲げないように頑張って下さい。
そして学びの場にお集まりになった皆様にどうかよろしくお伝えください」ということでございました。
「心行」の勉強は、今特に大切な「八正道」の部分について学んでいます。


                 ~ 感謝・合掌 ~





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「心行の解説」より。

2014-03-25 02:09:38 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

※ お写真は聖墳墓教会内に安置されている聖母マリア様の像に光を送られてている
   我らの恩師「長尾弘」先生です。


         ~ 恩師の「心行の解説」より ~


先の続き・・・

本来は不浄なる存在であるべき人間を、浄なるものと錯覚を起こしています。
お釈迦様は人間の肉体は目糞、鼻糞、耳糞、便尿、汗、垢など不浄なるものを詰め込んだ
皮袋のようなものと言われましたが、それを浄なるものと錯覚を起こしているのです。
お釈迦様のおっしゃっている不浄なる存在を、浄なる存在と「浄転倒」しています。
まず転倒を離れ、錯覚した見方をしないことです。
このことをはっきりと知ることです。
常に無きものをあると錯覚し、本来苦しみである人生を楽なものであると錯覚して、
ちょっと苦しいとすぐ私は不孝だと泣き叫びます。
親子の関係も夫婦の関係も同じことで、いつまでもあるものと思っています。
「我転倒」は自分自身さえやがて消えてなくなる無我なる存在を
「我、有り」と転倒します。

先日もご主人に先立たれて毎日泣いていお墓参りをしている六十代半ばの女性の方が来られて、
生きていた時は、「この主人、早く死ねばいい」と思って、ガラスを粉にして食べさせたけど、
亡くなったら毎日お墓に参って泣いていると言われます。
ひどい人もあったものです。女の人は恐いから男性の方は注意しないとガラスを食べさせられます。
逆に、奥さんがあまりご馳走を食べさせるとご主人は必ず病気になって早く死にます。
ご馳走を食べると寿命を縮めてしまいます。
腹八分目か、六分目ぐらいが一番いいのです。
それを十二分目ぐらい食べ過ぎるから身体によくないのです。
死ぬと、泣いてお墓へ参っていますが、これが二十年、三十年寿命が延びたらどうなると思いますか、
わずか二十年、二十五年の差で毎日泣いていた人も、
もし夫が病気になり自分は八十過ぎて看病疲れしてしまいますと、
「おじいちゃん、もういい加減に死んで下さいよ」と、頼むようになります。
人間の心というものはいつか移ろい変わっていくものです。

第三は「極端」を避けることです。
人は極端を喜ぶ性質を持っていて、すごい苦行をするとか、快楽主義に走るとか、
好き勝手放題にすればいいのだという思いに向かいがちですが、両極端の生き方を避けて、
中道の道を生きるべきです。
以上の三つ、「妄」「転倒」「極端」を離れ、
心は常に平静を心がけて日々の生活で実践した時に、八正道を行じることができます。
これをお釈迦様は「苦しみを解脱する道」とおっしゃっています。
皆様にはどうぞ心のあり方に目覚めていただいて、
お幸せになっていただきたいと思います。


             ~ 感謝・合掌 ~






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「心行の解説」より。

2014-03-24 03:50:36 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

※ お写真はモーゼがエジプトで奴隷となっていた40万人の同胞ユダヤの民を引き連れて
   神から与えられたと言われているカナンの地(今のイスラエル)へ40年かけて旅された
   その足跡をたどり我々も旅をしました。
   その途中でバスを降りられて周囲の景色を御覧になられている我らの恩師「長尾弘」先生です。


          ~ 恩師の「心行の解説」より ~


先の続き・・・

「正見」は三つに分けることができます。
一つは「妾」を離れ、間違った見方をしないことです。明晰でない、如実でない、
真実に即さないそういう明確に話さない言葉は間違いです。
ある宗教の教祖が、常に「長尾は高橋信次先生から破門された人間である」と書いています。
真実に即さない言葉で書いていますが、これは正しく語っていません。
正しく見ていないからです。
私がほんとうに破門されたのかどうかを調べれば直ちに分かることを調べもしないで
事実に反することを本に書いたりしますと、正に八正道の正見、正思、正語、正行に反し、
邪見、邪思、邪語、邪行であり、ここまでくれば正命、正精進、正念、正定も間違ってきます。
こうなれば八正道の名を騙って多くの人々をだます結果となります。
正法を学ぶ者は「八正道」を実践してこそ苦しみから救われるとお釈迦様は説いておられます。
事実無根のことを確認もしないで言ったり書いたりしたら、お釈迦様の教えから失格ということです。
真実に即していない言葉は使ってはいけません。

真実に即さない明確でない言葉を使うこと一般的な言い方をすれば「嘘つき」であり、
悪いことです。
第二は「転倒」を離れることです。
人間は「常転倒」していますが、この世にあるもので常にあるものは何ものもなく、
すべては移ろい変わっているということです。
赤ちゃんは何年か経てば成長し、一人前になり、年老いてやがて死んでいきます。
花も、種を播き芽が出て成長して花が咲きますが、時間が経てば消えていきます。
移ろい変わりゆくものが、いつまでもあると錯覚を起こしていますが、その先には
必ず死がやってきます。
これは厳粛なる事実です。

自分はいつまでも生きられるのだと錯覚を起こして、よその方が亡くなられると、
「気の毒にねえ、まだ若いのに」と、人ごとのように言っていますが、
これはやがて必ず来る自分のことです。
常にあるものと転倒するのが私たちです。
本来この世というのは苦しみの海であるのに、楽な世であると錯覚を起こしています。
自分の思うようにならない苦しみがあって当然なのに、
楽な世であるような錯覚を起こしているのです。
これを「楽転倒」といいます。


          ~ 感謝・合掌 ~





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「心行の解説」より。

2014-03-23 01:22:36 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

※ お写真はお釈迦さまが好んで法を説かれた場所と言われている霊鷲山(りょうじゅせん)の山頂にて
      カメラを手に日の出をお待ちになっておられる我らの恩師「長尾弘」先生です。


          ~ 恩師の「心行の解説」より ~


先の続き・・・

人間は欲愛とか、生きるための自己保存や自我我欲の欲望とか、
求めて止まない地位名誉権勢欲とか、いわば渇愛の塊のようなものです。
政治家の話を聞いていると恥ずかしいです。
いろいろな政党の偉い人たちが話しているのを聞くと、
皆「自分が正しくて、人が悪い」と言い合いをしていますが、
自らを正すことが正しい道であって、人の間違いを正すのが道ではないはずです。
「八正道」には八つの正しい生き方が示してあります。
この世には苦しみがあるというのは真理であり、
苦しみは生まれ起きるというのも真理であり、生まれ起きるものであれば、
これを滅し尽くすことも真理であり、滅尽に至る道も真理である。
苦の滅尽に至る道こそ八正道であると、説かれています。

正しい「ものの見方」をするのには、心が平静でなくてはなりません。
腹が立っていたり愚痴に捉われている時、
また他を憎んでいる時は正しく見ることはできません。
また疑心暗鬼でいても正しく見えません。そのような思いをいっさい持たず、
平静な心で物事を見た時は正しく見えます。
人の話を考え事をしながら聞く時は、耳はあいていても聞こえないものです。
心が他の事に集中していると、五官が働いてくれません。
私たちは自分の心のあり方によって幸せになったり不孝になったりします。
喜びいっぱいの幸せの中にありながら、
その心を横に向けたため幸せを失ってしまう方が多いです。
聖書の中に、「賢い女はその手で幸せを築き、愚かな女はその手で幸せを破壊する」と
書かれています。

愚かな女は、自分の思い、行いをもってせっかくの幸せを自ら破壊していきます。
どうぞ愚かな女にならないようにしてください。
男の人も同じことですが、女性の方に多いので特に注意していただきますように。
これは私が言っているのではなくて、神様が言っておられるのです。
「正しく見る」には、しっかりと心を据えて見なくては見えません。
いっぱい花が咲いている中にあっても他の事に心が集中していたら、
きれいな花さえ見えないのであって、そういう心では、
ものが正しく見えるはずがありません。
正しくものが見えなかった時、私たちの心は正しく思えないのです。
間違った見方をすると、間違った思い方をするようになり、間違った思いをすると、
間違った言葉が出てきます。
正しく見た時、正しく思えるはずで、正しい言葉が出てきて、
正しい行いができるのです。


           ~ 感謝・合掌 ~





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「心行の解説」より。

2014-03-22 01:05:10 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

        ~ 恩師の「心行の解説」より ~


先の続き・・・

心が綺麗になった時、死後の世界もまたすばらしい世界であることが約束されます。
「心行」の解説は今、「八正道」についての勉強を進めています。
お釈迦様は「苦しみを滅し、解脱する道」が正なる八支(はっし)をお説き下さいました。
その苦しみとは、まず欲望です。
欲望がなければ生きてはいけませんが、必要以上の欲、つまり「貪欲」を持ってはいけません。
お腹が空けば適当な食事を適当な量だけ食べて身を養うことは善ですが、
おいしいからといってはお腹いっぱい食べて腹痛を起こしたら、これは悪です。
「欲望」というのは行いを起こす前は善でも悪でもないのですが、捉われた時は悪になり、
その行い次第によって善にもなり、悪にもなります。

お腹が空いたといってよそのものを盗んだら悪ですが、
適当にいただいて心身の健康を養った時は善き行いです。
自分の欲望をどう使うかが問題であって、欲望に捉われると際限がないものです。
喉が渇いて水が欲しいと求める欲望を仏教では「無記」という言葉で説いています。
「無記」というのは善でも悪でもなく本来人間にあるものです。
欲望の使い方によって、
喉の渇いた人が水を求めて止まないようなのを「渇愛」という言葉で説かれております。
「求めて止まない」のをインドの言葉ではタンハーといいます。
「欲望」の中には三つの欲があって、その一つは欲愛(性の欲望)、
その二は有愛(おいしいものを食べたい、人よりも良い家に住みたい)、
その三は無有愛(名誉、権力、名声を持ちたい)です。

生きるための欲望、渇愛という求めて止まない欲望が私たちを大きく苦しめています。
その求めて止まない思いを大きく滅するのが「八正道」だといわれています。
その教えの中に、「比兵たちよ、これが苦の滅尽の聖諦である。
渇愛を余すところなく滅し捨て去り、もはや執着するもののなき状態に至る。
求めて止まない欲望を心から離し、苦しみを滅してしまう方法が正なる八支の道である」
と説かれています。
「正しく見ること、正しく思うこと、正しく語ること、正しく行じること、正しく生きること、
正しく精進すること、正しく念じ、正しく定に入る(反省する)こと」と、
正しい八つの道を説いていただいています。


             ~ 感謝・合掌 ~




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「心行の解説」より。

2014-03-21 00:19:14 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

           ~ 恩師の「心行の解説」より ~


先の続き・・・

「私の宗教は正しい、他の信仰をしていたら地獄へ行く」と、
他を非難中傷するのは、神の御心から離れます。
常に自然を愛し、人間を愛し、
完全なる許しを教えることこそほんとうの教えではないかと思います。
他を裁く時間があれば自分自身を裁く時間を持つほうが大事ではないかと思います。
全く無償の、何ものをも求めないご奉仕の愛をさせていただくことです。
午前中三十人ほどの癒しをさせていただきました。
間違ってもらっては困るのは、私たちの学びはあくまでも自力であって、
病気治しではないということです。
病気治しはただ方便であるということを理解することです。

癒しというのは神様がいて下さり、私たちは皆同じように五官、肉体を持ち、
その肉体を通して人を救うことができるという一つの証しであり、
心が救われていくためのただの方便だということを分かって下さい。
あそこへ行けば病気が治る、歩けるようになったというだけでは何もならないのであって、
日々の生活の中で、心の正しいあり方を実践すれば、
健康が頂けて病気も癒され幸せになれるのだということを理解して下さい。
心に目覚めないでいて、痛み苦しみが救われたとしても、原因が心にあるものなら、
その原因がとれていなければ結果を消したとしても、また原因が出て病気は後戻りします。
まず、心を自分で綺麗にして愛の実践をしていただくのが、
健康になり幸せになる秘訣ではないかと思います。


            ~ 感謝・合掌 ~





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「心行の解説」より。

2014-03-20 00:46:55 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

          ~ 恩師の「心行の解説」より ~


先の続き・・・

数え切れないほど多くの宗教がありますが、死後まで救われる宗教というのは余り聞きません。
念仏を唱えたら極楽へ行けるとか、一生懸命拝んだら極楽へ行けるとか教えていますが、
殆どの人は死後硬直のために醜い姿に変っています。
私たちの学びは、自分の過ちに気付いて神様にお詫びして悔い改め自ら目覚める学びをしています。
その時神様から許していただけます。
拝まなくても、お参りをしなくてもいい、
ただ「ああそうか、私は間違っていた」と気付かせてもらえばいいのです。
正しい法には偉大な力が秘められていますから、正しい法に耳を傾け、
自分の過ちを悔い改めた時に極楽往生することができます。
大往生なさった方の報告はたくさん届いております。

「南無妙法蓮華経」と唱えればすばらしい世界に救われるという信仰をなさったあるご婦人の方と
縁があってお会いした時、私の目が何万ワットという光で光ったのを見たそうです。
「生きた人からこんなにすごい光が出ているのを見たことがない。
これは正宗より上だと思った」とおっしゃっていました。
その方が今迄信仰していた宗教の偉い方が亡くなった時。
「きれいなお顔で極楽往生させていただきました。どうぞ見てあげて下さい」と言われて、
顔を覆ってあった布をはずしてみましたら、それはそれは恐ろしい顔で、
目は落ち込んで暗い山間の日の射さない陰気な池が二つあるようで、
まるで牙をむいたような相になっていたそうです。

死後そのような醜い姿になったら、いくらこの世で偉い方でありましても、いい世界へ行くことはできません。
他の宗教の批判をいうことはないのですが、間違った宗教から目覚めて、幸せにならなくてはいけません。
ある宗教では選挙闘争、折伏闘争、題目闘争ということを教えております。
これでは決して安らぎは得られないのです。
闘争の中に安らぎがあるはずがないからです。
闘争を教えるような宗教はどの宗教もすべて同じで、ほんとうの神様から離れた教えです。
神は争い戦いなさいとはいわれません。
神は完全なる愛、完全なる許しであり、その愛の行いこそ神の御心です。


              ~ 感謝・合掌 ~



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「心行の解説」より。

2014-03-19 01:58:50 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

※ 不思議写真の一枚。
     このお写真は浄心庵(大阪)での御講演会の折りに撮影されたものです。
     先日投稿しましたイギリスでのキルリアン写真撮影と全く違った我々一般の者が
     ごく普通に撮影したものですが、恩師のお体全体が黄金色に包まれています。
      (我々の肉眼では見えませんが恩師ご自身が光りの塊である証拠だと思います)


        ~ 恩師の「心行の解説」より ~


日々の生活を振り返って、
「私の今迄の考えは間違っていたなあ」と気付いたら心が軽くなります。
心を軽くしておきますと、やがてすべての方に訪れる死の時に、苦しみ少なく、
軽いが故にすばらしい世界へ上がっていくことができます。
死ねば終わりであるとか、燃やしてしまえばなくなるとおっしゃる方もありますが、
死後の世界は確かにあるようでございます。
あるおばあちゃんは、自分のお兄さんが亡くなられたあと身体が悪くなりまして、
今朝もここで横になって死にかけているほど具合が悪かったのですが、
お兄さんに天上界へ上がっていただいたら、たちまち身体が良くなられたようです。
見えない世界はないものと思っておりますが、形として見えない世界があるという証拠として、
私たちの肉体を通して、つまり物質を通して不思議な現象を見ることができます。

先月香港でフェリーに乗る時、
乗り場まで歩いたあとの大地がキラキラと光っているのがビデオに映っています。
歩いたあとに金がいっぱい出ているのです。
私の立っていた所には丼一杯分ほどの金粉が出てきました。
常識では考えられない不思議なことを、形として現わしていただいています。
理屈では考えつかないことがなぜ起こるのかというと、神様の御心に近づけさせてほしい、
この肉体をもって実践させてほしいと願って行いを積み重ねていきますと、目に見えない
神様の全く次元の違う世界から証しとして、普通では考えられない、
人智では計り知れないことが働きかけられるのです。
私たちがやがて帰っていく世界からの働きかけです。
私たちは暗い嫌な世界ではなく、
喜びと安らぎと調和に満たされたすばらしい世界へ帰らなくてはいけないのです。


            ~ 感謝・合掌 ~







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「心行の解説」より。

2014-03-18 01:07:46 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

※ 不思議写真の一枚。
     このお写真は皆さま先刻よりよくご存じかと思いますが、
     恩師がイギリスにて御講演・癒しの後、キルリアン写真を撮られた際のものです。
     御覧のように如来様の仏像彫刻に見られるような大きさの舟形後背が撮影されています。
     恩師が御講演においてよく説かれている「法を説く者は無冠の帝王でなければいけない」と、
     いうことをこのお写真が如実に証明していると思います。


           ~ 恩師の「心行の解説」より ~


先の続き・・・

人間はこの世だけがすべてではありません。
それを死ぬのは嫌だ、死にたくないと思いながら死んでいきますと、
生き続けたいという生の執着のために迷ってしまいます。
あの世に帰っても魂は生き続けて、そしてまたやがてこの世へ転生してくるのであり、
今は修行の過程であるということが理解できた時、死への恐怖は自然となくなります。
私たちの学びの仲間は、
死ぬということは少しも怖いと思わなくなりましたとおっしゃっています。
怖くないからといって自殺してはいけません。
これはいい所へ行けないのです。
自殺は自然の法則に背くことで神の御心に背く行為ですから、
自分の良心が自分を責めてきて、救われ難いのですね。

自殺された方に縁がありましたら、
「あなたの自殺という行為は、ほんとうの神様の御心に背いた行為です。
そのことに目覚めなさい。
神様に背いて人は幸せにはなれません。
自然に従った生活こそ神に従う生活です」と、よくお話をさせていただくのですね。
神様は「汝らは我がいとしき子であることに目覚めよ 
愛ゆえに汝らをこの厳しい現象界に旅立たせしものなり」と言われます。
可愛いから私たちをこの世界に生まれさせて、私たちの魂を進化させ浄化させ、
神のような心にさせるために転生輪廻させて下さっているのです。
私たちの学びの友、ご縁のあった方たちは大変綺麗なお顔でこの世を去っておられます。
そういう嬉しいお便りを次々と頂いております。


            ~ 感謝・合掌 ~





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「心行の解説」より。

2014-03-17 00:48:57 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

※ 不思議写真の一枚。
   この金箔はお釈迦様の涅槃堂にて降ってきた金箔を額に入れて浄心庵の
      「恩師の治療室」の壁に掛けられていたものです。
           (大きいですよね。)


            ~ 恩師の「心行の解説」より ~


先の続き・・・

いくら時代が変わり環境が変わっても、ほんとうの真理というものは変らないものです。
お日様が西のほうから上がってこられることはありませんし、水は低い所から高い所へは流れません。
人間は必ず年をとっていきます。
花開く前はいちばん美しい時であり、今花の盛りの十七、八歳は男も女も美しいです。
しかし五十年、六十年も過ぎますと、顔を見るのも恐ろしいなあという顔に変っていく場合もあります。
正法を勉強なさっている方は、いくら年をとってもすばらしく綺麗な顔をなさっていますのは、
心に安らぎがあるからです。
法に縁なく年をとっていきますと、終わりにはお化けのような顔になっていく方もあります。
なぜかというと、年と共に過ちを繰り返し、罪を積んでいくからです。
幼い赤ちゃんはいくら見ていても飽きのこない何ともいえない安らかな良い顔をしています。
心が曇っていないから顔が綺麗なのです。
目は心の窓といいますが、心が曇ってくると目もどんよりしてきます。
私の目は寝不足でございますけど、目がだんだんきたなくなってきます。

世の中に不思議なことがあって、人間に、霊が取り憑いている場合、
目の玉が死んだ魚のようになっている人がいます。
目に鱗がついたようになっていますが、不思議なもので、
ついている霊をお救いしたとたんにその方の目は綺麗になります。
去年の暮のことですが、
静岡である赤ちゃんがこのままでいけば半身不随で一生下の世話をしなくてはいけない、
大手術をしても治るかどうか分からないということで、何とか治して下さいという連絡があって、
寄せていただきました。
生まれて一か月の赤ちゃんが手を出されて合掌されたのです。
おばあちゃんもお母さんも泣いて「こんな赤ちゃんが合掌して・・・」と言って感激されました。

生後一か月の赤ちゃんが抱かれて、小さい手で合掌される姿を見せていただくと、人は神の子であり、
人の心の中には仏性、神の心が宿って下さっていることを目のあたりにさせていただく思いがしました。
それがだんだん成長して、手足が自由に動くようになっていたずらをし始めますと、
大人の目で見てはいけないことは「いけません」と叱られます。
その度に子供さんにとっては都合が悪いのです。
自分がしたいことを止められますからだんだん心に曇りを作ります。
三歳ぐらいになりますと、ものの見事に心の中は真っ黒になります。
神の心と人間の心との間にカーテンを下ろしてしまいます。
こうして幼い頃、善悪の判断もつかない時に犯した罪の上に、
成長と共に苦しみの原因を積み重ねてその苦しみを背負いながら生きていますから、
殆どの方が亡くなった時うまく成仏できないで、硬直を起こしています。
私たちは硬くなるのが当たり前と思っていますが、これはうまく成仏していない証拠です。
死後の体が柔らかくて温かく、皺も消えて綺麗なお顔になっている方は間違いなしに迷っておられません。


                ~ 感謝・合掌 ~





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