浄心庵・長尾弘先生「垂訓」

八正道と作善止悪

「独り言」より。

2015-09-30 00:14:56 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

       恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より


         第二章 必要なのは正しい生命観の確立


            ◆心の重量と行き着く先◆


地球がこの宇宙に誕生して四十六億年と言います。
そのうちで人間がこの世に生きていられる時間は、わずか五十年、百年の間です。
電子顕微鏡で見ても見えないくらいの小さな瞬間のはかない存在が人間というものです。
形あるものは時間の制約の中での現れにすぎず、実体を持ちません。
かげろうのように現れては消えていくこの世のあらゆるものの中にあって、
私たちの肉体も人生も例外ではありません。
そして何一つあの世に持っていけるものはありません。

そこで、唯一確かなことは仮の宿であるこの世にいる間、
私たちの心というものがどういうものがどういう状態であるのか、
それだけが次の世界に移る時の天国と地獄の分かれ道となります。
私たちは本来、心とか意識として存在しているものであり、
「この世」と「あの世」とを往復している生き通しの存在です。
肉体は「この世」で使用済になれば、脱ぎ捨てるようなものです。
ほんとうの自分は痛くもかゆくもないものです。
ところで、その方の思いがどんな状態か、言葉がどんな状態か、行いがどんな状態か、
それによって人それぞれに違ういわば心の重さとでも呼ぶべきものが決定されます。
それがまたその人の置かれている境遇に影響してゆきます。

まず、風船のようにごく軽い心なら、この現象界の一定の上下幅の範囲内で、フワフワと
最上層のほうに浮かんでいます。
よく「足どりも軽やかに」とか、「心弾み、心踊る」とか、「手の舞い足の踏む所を知らず」
とか、「欣喜雀躍」などと言った慣用的な表現があります。
すべての喜びのあまり舞い上がりそうな軽快な心の状態、
はじけそうなエネルギーに満ちた明るい心の状態を言い表した表現です。
いつも喜びや感謝に心が満たされて日々の生活を送っていらっしゃる方は、
心が軽いので上のほうに浮かび上がっています。
心が常に安らかで人の幸せを願い、そのために人々に喜びを与え、
人々の幸せのために奉仕する人です。


             ~ 感謝・合掌 ~




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「独り言」より。

2015-09-29 00:13:57 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

       恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より

        第二章 必要なのは正しい生命観の確立


       ◆マクドナルド・ベインに入ったイエスの霊◆


先の続き・・・

浄心庵ではそこに集われた人々とともに現在も週に二度、
一日の反省をしますが、昭和六十二年頃でしたが、
その頃には毎日禅定を行っていると、ある時期毎日のように
不思議な現象が起こりました。
今日はどんなことが起こるのでしょうね、
と楽しそうに言われる方もおられるくらいでした。
たとえば、
禅定に入ると天上界からのものとしか思えぬ美しい音楽が流れ、
禅定を解くまでずっとそこに集う大勢の人々が
それを聞いていたことがありました。
はじめはかすかな音ですが、それがだんだんと大きくなり、
また寄せては返す波のように大きく鮮明になってきます。

時にはその妙なる調べとともにどこの国の言葉かはわかりませんが、
厳かに説法をされているような声が聞こえてまいりました。
ワァ-ッとすごい音がなり響いた時もありました。
UFOの飛行する音はまだ聞いたことがありませんが、
おそらくそんな音に近かったのではなかったかと思います。
禅定の最後にどうぞこの場に集う方々に光をお与えくださいと祈ると、
小さなうすい金の鈴を何百個も一度に振ればこのような
音色になるのかと思われるような、
とても涼やかで繊細優美な音が奏でられました。
マクドナルド・ベインさんの著書に、
イエス様が入ってこられると天から音楽が鳴り響いてくると書かれているのも、
自分の体験からよくわかるのです。


            ~ 感謝・合掌 ~




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「独り言」より。

2015-09-28 00:19:13 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

        恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より


          第二章 必要なのは正しい生命観の確立


         ◆マクドナルド・ベインに入ったイエスの霊◆


先の続き・・・

「心身の神癒」を読むと、
そこには私たちの命そのものは永遠に死なないということが、うかがえます。
肉体は時間の中で成長し、衰え、ある時間が来ますと、この世界から消えていきます。
物質だからです。
ところが、生命そのものは死にません。
魂は天上界に帰って、何回も生まれ変わるうちにいろいろなことを学んで、
それぞれの心の癖や欠点を修正していきます。
やがて、完全に成長すればこの世に生まれることはありません。
「如来は再生されないだろう」という仏典の言葉もあります。
イエス様はあの世に帰られたけれど、ベインさんの体を通して説法をしている。
この死んでも死なないというのは、命そのものです。
生命のことなのです。

本当は生かす力と言うほうがよく、一なる神の御命だけが存在し、
私たち一個の命はそれにより生かされているだけです。
どんな聖者でもその肉体は滅びます。
ですから、「私を信じる者は私の中に生きる」という言葉の意味は、
イエスの教えの中に生きるということです。
花々を通し、動物たちを通し、人間と天使たちを通し、愛が全宇宙の中心、
神の御心より泉のように流れていると言っておられます。
神の愛とは命そのものであり、常に私たちの内なる意識へとそそがれています。
「神、我とともにあり、我、神とともにあり」という言葉の
意義深さもここからわかってまいります。
あらゆるものを生かそうとするその愛と生命の力こそは、
形なき神様から発せられるものです。
そして、人に嘘をつけても自分に嘘をつくことのできない心、
これが神のささやきです。

これにいつも耳を傾けることです。
世の宗教家の中には、過去の聖者が自分の中に入ってきたと言って、
その言葉を述べる方がいらっしゃいますが、
証拠がなければそれが本当にイエスやお釈迦様などの語られているものなのか
どうかもわかりません。
外なる言葉と内なる言葉を識別すべきです。
ところが、このマクドナルド・ベインにイエスが入った時には、
この世では聞いたこともないなんとも言えぬ美しい音楽が説法の期間中
その会場に鳴り響いたり、ご本人よりも一回り大きな姿に身体が伸長したり、
誰が見てもイエス様がのりうつっておられるとわかるほどにお顔が変貌されたりしたそうです。
霊的なものはこのように証拠がない限りは信じてはなりません。
これも身体に現わされた心の現象の不思議の一例です。


            ~ 感謝・合掌 ~





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「独り言」より。

2015-09-27 02:11:10 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

     恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より


       第二章 必要なのは正しい生命観の確立


      ◆マクドナルド・ベインに入ったイエスの霊◆


マクドナルド・ベインという方の書物は、
現在のキリスト教では認められていませんが、
イエス・キリストの語られた真理の言葉が書かれています。
この方はヒマラヤでいろいろな勉強をされました。
『心身の神癒」や『解脱の真理』などの著書があります。

第二次大戦後、
南アフリカのヨハネスブルグに暮らしていたマクドナルド・ベインに
イエス様の霊が入ってきて、彼の口を通して語られました。
現代の教会の誤りを指摘しつつ、真理はキリスト教徒だけのものにあらず、
万人のものであるということを明らかにしています。
人間を神の分霊であるとしています。
現代の教会ではなぜイエス様の現わされたような奇蹟が起きないのか言いますと、
神学に頼るばかりでイエス様の説かれた心を本当には実践していないからです。
イエス様は、「私のごとく生きた者は、私以上の力を現わすであろう」とおっしゃっています。
私はお釈迦様の説かれた法やイエス様の説かれた真理を行うことによって、もっとも近き
弟子になろうと努力しています。

あくまでも法というのは、日々の実践によってその命が宿るものです。
お釈迦様は、「行いなく、ただ聖句だけを唱える者は他人の牛の数を数えるが如し」という
言葉を残されています。
当時、牛は財産を意味していました。
他人の財産をいくら数えても、自分のためにも他人のためにも利益がないということです。
また、イエス様は、「あなた方は祈りによって信仰の証しを立てようとしますが、
私は行いによって信仰の証しを立てましょう」と言われたそうです。
言うより行えということです。

「遠くにありても近き弟子。近くにあっても遠き弟子」とは。
お釈迦様の言葉です。
高橋信次先生のお口から聞き、大変感激した言葉です。
たとえ身近に仕えて師の教えを実践しない人は、遠く離れた弟子であり、
いまだ巡り逢うこともなくとも、その教えを理解し、実践する者は最も近き弟子であるという意味です。
「心身の神癒」は、第一話から始まって第十四話までありますが、
その第一話に「我はよみがえりなり。命なり。
すなわち神の愛なり。
私を信じる者は私の中に生き、けっして死なないのである」と記されてあります。
イエス様は肉体の生死を超越して永遠の生命があることに気付かれ、
それを得られたのですが、
私たちもまったく変わりのない本質というものを持っているのだということを自覚したいと思います。
私が言っていることを信じてほしい、
そしてみなさんにもこの素晴らしい真理に到達してほしいという願いは、
イエス様の人類への愛でもあります。
ただし、疑問があれば追求し、もはや疑う余地がなくなってはじめて、
本当の信頼ができてくるので、無理に信念を持つのとはちがいます。


              ~ 感謝・合掌 ~



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「独り言」より。

2015-09-25 23:56:13 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

        恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より


          第二章 必要なのは正しい生命観の確立


        ◆仏壇とお墓――誤やまった生命観からの迷い◆


先の続き・・・

先祖供養を主としてやっている宗教は多くあります。
この先祖供養の究極の目的はなんでしょう。
ある宗教では、六親眷属の中から亡くなった人を一人でも多く寄せ集めてきて拝んだら、
功徳があると言って、それに戒名をつけてもらい、
何百体という親戚縁者の亡くなった人を集めて、一生懸命に拝んでいます。
もし悟っておられる方であれば、戒名をつけようが、名前を呼ぼうが、
あの狭いお仏壇の中などには来られません。
悟ったお方は自由なのですから、高い次元の世界に通常はいらっしゃいます。
この地上界のお仏壇にとどまる必要はないはずです。
そういうものに救いを求めて来られる諸霊があるとすれば、これは成仏できていない
不成仏霊ばかりです。
そういう方々を自分の家にたくさん招かれますと、良い結果は出ません。

先祖供養の本来の目的というのは、亡くなった方々にこの現象界から思いを離して、
魂のふるさと、天上界に帰っていただくことにほかなりません。
供物やお経や線香や燈明を献じても、それで成仏できるわけはありません。
それどころか、「ここにおれば安心だ。ここにおれば、お経も線香供えてくれる。
ああ、長いこと放ったらかしにされていたけれど、ここにいたら安心だ」と、
かえって霊をその場所にとどめてしまって、その結果成仏できなくしてしまいます。
執着を与える結果となります。
先祖供養は先ず己が成仏することからと心得て下さい。
私たち自身の生活態度が大切です。
何時間も念仏を唱えて拝んでいても、一家が喧嘩ばかりで不調和な生活をしていれば、
ご先祖様はちっとも救われません。

ご先祖様に成仏していただこうとすれば、まず己れが成仏し、救われて、
その幸せな姿を見てもらうことです。
それが物質のお供えなどより、何よりの供養となります。
「ご先祖様のお陰で本当に幸せに暮らさせていただいております。
お金はたくさんありませんけれど、貧乏はしておりません。
身体もお陰様で健康でございます。
いつも感謝に満たされております」というようにご先祖様の前で報告させていただきますと、
ああよかったと喜んでくださいます。
お墓というものに意義があるとすれば、自分がこの世に生きた、
ささやかな記念碑であればよいと思っています。
自己という一個の肉体をいただいた人間が、自らの使命に目覚め、
どれだけ多くの人々に喜んでいただいたか、どれだけ多くの人々のために尽くせたか、
どれだけ多くの人々に神の愛を捧げたか。
昭和六年七月二十五日にこの世に生をいただき、この世を去ってあの光の世界に帰るまでの間に、
どれだけの行いができたか、この地球の上にどれだけの善き行いを積めたか、
それらに関しての自己への讃美の碑としたいと思っています。
お仏壇も、ご先祖様に心を向けて、そのご恩に感謝し、今の幸福を「ご先祖様のお陰です」
と報告させていただく天上界への窓口と思わさせていただいております。


              ~ 感謝・合掌 ~




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「独り言」より。

2015-09-24 23:57:24 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

       恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より


         第二章 必要なのは正しい生命観の確立


       ◆仏壇とお墓――誤まった生命観からの迷い◆


もし、私は死んだらお仏壇の中に祀ってもらうのだとか、
お墓の中に入れてもらうのだと思っておりますと、必ずそこへ行きます。
死ねば肉体がなくなり、思いの世界、心の世界だけとなりますから、
この目に見える現象世界よりももっと精妙な波動の想念が写し出す世界に
住むことになります。
思ったことはこの現象世界よりも速く、そのままに現わされてまいります。
だから、死んだ後にはあの世などなく、無に帰すまでだと信じている方は、
行く先知らずとなります。
ところが、亡くなってもなお意識があるとわかり、はじめて、戸惑いますが、
生き場がないのでさまようしかありません。

そうかといって、お仏壇やお墓に入るものと思っていればそこへ行き、
やはり成仏はできません。
つまり、光あふれる素晴らしいふるさとに帰り着くことはできないのです。
死んでお仏壇やお墓の中に入ってはなりません。
これまで私たちの考えていたこととは違うかもしれませんが、お仏壇やお墓はこの世の
現象世界の物質です。
その物質に心をとらわれていては、そこから心が離れられず、成仏できません。

以前、四国に行きました時に、死んでお墓に入ってはいけませんと話していますと、
あるおばあさんが「私は毎日お墓へお参りして、どうか早くお迎えください。
ここへ入れてもらったら極楽です、と言って頼んでいます」と言われます。
「それはいけません。もし、不審に思われるのだったら、
今夜一晩おひとりでお墓に行って寝てみてください」と言いますと、
「いやいや怖い怖い、あんな所ではよう寝ません」とおっしやいます。
生きていて怖い場所は死んで行ってもやはり怖いのに決まっています。
同じ意識を持った自分が行くのですから。


             ~ 感謝・合掌 ~




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「独り言」より。

2015-09-24 00:11:18 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

       恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より


         第二章 必要なのは正しい生命観の確立


          ◆服毒自殺の遺体に起きた奇蹟◆


まだ結婚前の二十七歳の女性が服毒自殺をされました。
青酸カリなので劇毒です。
人間を死に至らしめる毒には神経を麻痺させて心臓を止める毒と、
細胞を腐らせてゆく腐敗させる毒があるそうです。
麻痺させるほうの毒はサソリなどが持つものです。
蛇は大きな獲物を鵜呑みにして、消化しやすいように腐敗させるそうです。
この娘さんが飲んだ毒は細胞を腐らせるほうです。
身体の床面に接した部分はすぐに変色してきます。
仰向けなら背中のほうです。
二時間くらいで真っ黒になり、五、六時間もすると全身が腫れあがって、
鼻や口など穴という穴から汁が出て来ます。
もう見られた姿ではありません。
鼻や口には綿を詰めるのですが、細胞が腐っていますから、
鼻も口も膨れあがり、穴が広がっていよいよお化けです。
なんとかしてほしいと頼まれて、そのお宅に赴き、到着した頃には、
すでに池の底の泥といった状態にまで身体が変色していました。

お顔は紫色になり、身体は腫れあがり、
胸をかきむしって断末魔の苦しみのまま目をむいて死んでおられました。
石のごとく硬直していて指一本動きません。
今から二十年も前のことです。
あまり気の毒な姿に胸が痛みまして、家族のご諒解を得てから、
その方に向かって話しさせていただきました。
「どんな事情があったのか私は知りません。
しかし、あなたはとんでもないことをしてくれました。
自らの命を自らが絶つとは神の御心に最も背いた行為です。
神は幸せに生きよ、健やかに生きよとおおせられます。
あなたはその神のご意志に背いてなんということをしましたか。
あなたは間違ったことをしたのです。
その過ちにまず気付きなさい。
あなたは毒を飲むことで死んでしまったのです。
自分の死をはっきりと自覚しなさい。
神様の御心に背いて救われることは誰にもできません。
自然に逆らっても同じことです。
間違いを素直に認めて、神様に心からお詫びを言いなさい。
私も共にお詫びします」

泣きながら赦しを乞い、「どうかこの方の罪過ちをお赦しください。
私たちの罪をお赦しください」とお祈りさせていただき、目を開きますと、
真っ黒になって腐りかけたその方の顔がきれいになっているのです。
白くなり、ピンク色さえさしてきています。
目はむいていましたが、手で瞼に触れるとさっと閉じてくれました。
一瞬にしてお化粧をしたような顔に変わっておられました。
家族の方も親戚の方も驚いておられました。
硬直していた手が柔らかくなっていて、
ぱらっとほどけた指を組ませると今度は離れてしまいます。
縛ってはかわいそうなので、
座布団を二つ折って肘につっかい棒をして合掌してもらいました。
よかった、救われてくれたと感じまして、布をお顔にかけたのです。
有り難うございました。
この方の罪を赦していただきました、という気持ちでした。

すると、白い布が目のあたりから濡れてきまして、
見る見るうちにぐしょぐしょになりました。
「涙で濡れてしまいましたから、新しい布と替えてあげてください」
と遺族の方にお願いしました。
もはや鼻や口から汁が出ることはありませんでした。
この体験をさせていただくことにより、
神様はすべてを赦してくださることがわかりました。
そこでよく考えました。
神がもしお怒りになってお赦しにならないのなら、
いくら私のような者が泣き叫んで赦しを乞うてもこういう現象は起きないはずです。
本人が心の間違いを反省してこれを神様にお詫びしたならば、
必ずその苦しみから救われます。
ただ、赦さないのは、自分自身の内なる良心でした。
その過ちに目覚めるまでの長い時間を苦しみの中で過ごすのです。
神様はご自分に最も背いた行為をした者さえも、救われなさい、
自ら目覚めて救われなさいと、慈愛を与えてくださっていたのです。
「自殺者は永遠の地獄へ落ちる」と説く宗教がありますが、
自殺者でも悔い改めたら救われるのです。
もし神仏の心から一メートル離れたら、
私たちは自分自身を一メートルの苦しみとして
自らを裁くようになっているのです。
しかし、それも神の御心という大宇宙大自然の正しい軌道に戻るための
調整にすぎなかったのです。


             ~ 感謝・合掌 ~






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「独り言」より。

2015-09-23 00:06:29 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

       恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より


         第二章 必要なのは正しい生命観の確立


         ◆棺桶を破って飛び出してきた遺体◆


人生でいちばん大切なことは何かと言いますと、どこから生まれてきて、
この世で何をして、死を迎えてどこへ行くかということを知ることです。
これを知らないと迷います。
まず、私たちは両親のご縁により肉体をいただいて、
素晴らしい光の世界からこの地上に魂の修行に来ています。
そして、その修業が終われば、またあの光輝く魂のふるさとに帰ります。
帰ることができないと、成仏できません。
この世を去る時にこの世に思いを残してはなりません。
すべてのものから心を離すことです。
自分の生まれる前に住んでいた魂のふるさとに帰らなくてはなりません。
死というものを越えて、光明燦然と輝くふるさとに帰り着くのです。

以前、こんな珍しい話を聞きました。
若い結婚前の男性が、明日結婚式という前日に交通事故で亡くなったのです。
即死でした。
即死の場合は、自分が死んだという自覚が持てないのです。
死を自覚できず結婚するという執念がどういう事態を引き起こしたかと言いますと、
すでに祭壇を組んで納棺をし、そこに安置してあるというのに、夜中になって、
バリバリバリという音とともに棺桶を破って遺体が飛び出してきました。
みんなが寄ってたかって取り押さえました。
それで、遺体を調べてみると、やはり息はしていません。
しかし、暴れ出したらかなわないので、ロープでグルグル巻きに縛って、
それから新しい棺桶を買いに行って、その中にまた遺体を入れました。
これは本当にあったことです。

死んだ者が動くということ自体、科学では考えられないことです。
そういうことは、身内としては人に知られたい話しではありません。
しかし、このような話はちょいちょいあるそうです。
私の知っている限りでも、五、六人の方からその類の話を聞きました。
人間の肉体は科学や医学では解明のできない神秘的な存在です。
現代医学の誤りは、身体がわるければ切ればよいとか、
薬を投薬すればよいと考えてきた点です。
肉体を物質と見なしてきたからです。
絶対に助からないとわかっている脳死の人を生命維持装置をつけて
何カ月も費用をかけて生かします。
実際には死んでいてもとにかく生きさせたらいいということです。
これは現代医学の大きな誤りです。


             ~ 感謝・合掌 ~




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「独り言」より。

2015-09-22 00:03:19 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

     恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より


       第二章 必要なのは正しい生命観の確立


             ◆死ぬとは何か◆


先の続き・・・

この世の肉体生活において色の世界は空の世界と重なり合っていて、
私たちの目に見えるのは、このうち物質化している色(現象)の部分だけなのです。
しかし、生まれて老いて、最後は必ず死ぬという、
時間の経過とともに移ろい消滅していく肉体が今目の前に現れている次元を超えた次元に、
永遠に「ある」世界―――言葉を換えれば、
形を現わしたり消したり自由自在に創造できる
「おおもと(根本因)」の世界―――がちゃんとあるのです。
もちろん、神は永遠の存在としてそこにおいでになります。
死ぬと魂は肉体を脱してこの実在界に帰っていきます。
これが本当の死なのです。
肉体に未練を持ったり、この世に思いを残すと、
魂は肉体からスムーズに離れなくなり、死にきれません。
迷える霊魂としてさまよってしまうということを意味します。
これをわかりやすいたとえで説明すると、

お風呂の湯船いっぱいにお湯をはったとします。
そこへスポンジボールを漬けたとしましょう。
スポンジボールの中へ水が浸透してゆきます。
お風呂のお湯が実在界であって、スポンジボールが現象界です。
スポンジの中にお湯が浸透しているように、
この世の現象界の中にあの世の実在界が浸透しているのです。
現象界と実在界が重なって一体となっています。
スポンジボールをお湯の中に漬けて、「これはスポンジだけですか」と尋ねれば、
多くの人は「いや、中に水が入っています」と言います。
「これは水がけですか」と尋ねると、「いや、スポンジでしょう」と言います。
つまり、不二一体、見えないものと見えるもの、
実在界と現象界が一つとなって現れる世界が、この世であるといえます。
このスポンジボールからうまく思いを離して、スポンジの外に出て、
実在界へ帰った人が成仏された方です。
そして、湯垢のようにスポンジボールに付着して「ここは住み慣れたところだ、
このスポンジが好きだ」と言って、スポンジから離れない人が迷える霊です。
実在界こそは私たちが帰るべきふるさとです。
そして、私たちは肉体がなくなっても、霊として存続します。
数々の体験を通して、誰よりもよく知っていると自負しています。


         ~   感謝・合掌 ~



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「独り言」より。

2015-09-21 00:03:24 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

       恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より


         第二章 必要なのは正しい生命観の確立


               ◆死ぬとは何か◆


先の続き・・・

そのためにも生命の本質を知らなくてはなりません。
心臓も肺も胃も私たちの意志で動かしているわけではありません。
私たちは生命の祖でありエネルギーの元である神から分け与えられた命によって
生かされている存在です。
ですから、人は神の分け御霊と呼ばれます。
自分の命がどこから来てどこへ帰るか。
これがわかれば、心穏やかに死を迎えられます。
周囲の人々には迷惑や心配をかけなくてすみます。
「この身体は私のもので、私が生きているのだ」と思われがちですが、
それはとんでもない見当違いです。
その証拠に、「私は年をとりたくない」と言っても、
また「死ぬのは嫌だ」と言っても、
時間が経てば必ず年をとり、死ななくてはなりません、
これを自分ではどうすることもできません。

自分がいただいている命がどこから来ているのかが理解でき、
この世から離れる時は諸々の執着より思いを離し、
感謝できてはじめて、帰るべきところに帰ることができます。
「母なる大地に肉体をお返しし、魂は天の父なる神のみもとに帰る」ということです。
あの世の存在については科学的な証明がないではないかという方もいらっしゃいます。
しかし、臨死体験の研究やサナトロジー(死の科学)の開拓者として世界的に有名な
「死ぬ瞬間」の著者エリザベス・キューブラロス(一九二六年生まれのスイスの精神科医)
の努力などにより、近年では一般にもかなり浸透しつつあります。
一杯のお茶を「頂戴します」と言って飲べば、
この世からそのお茶は消えてなくなるように、
現在ある建物でも何百年か何千年も経てば消えてなくなってしまいます。
同様に私たちの肉体も現にここにあるように思っていても、
定められた時間が過ぎた時には、この肉体は消滅してしまいます。

死が訪れるとたちまちにして肉体は腐ってゆき、
一瞬たりともとどまることなく腐乱しいきます。
野に放っておけば、やがて腐り果てるか、
動物や鳥に食べられて、やがて消えてしまいます。
今在るように見えるのは、ただ一時的に現れているにすぎません。
この世に形あるものとして生じた限りは、
必ず消えてゆかなければならない宿命のもとにあります。
頂いたお饅頭が、トイレに行くとそのままの形で出て来るなどということはありません。
この世のいっさいはまったく実体がないことがわかります。
形となって現れた世界、般若心経で説かれている「色即是空 空即是色」の「色」の
世界に当たる目に見える現象世界(以後、現象界と呼ぶことにします)を「この世」と
呼んでいます。
一方で、「空」と表わされている世界、「あの世」という世界が、実はちゃんとあるのです。
そして、こちらこそが実体のある世界(以後、実在界と呼ぶことににします)です。


              ~ 感謝・合掌 ~




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「独り言」より。

2015-09-20 00:32:32 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

      恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より


         第二章 必要なのは正しい生命観の確立


              ◆死ぬとは何か◆


死を心安らかに迎えた方は、死後身体が硬直することはありません。
体も温かく、お顔も化粧をしたように美しくなっていらっしゃいます。
信じられないかもしれませんが、これは実際に見聞した数多くの事例から言えることであり、
立ち合ったお医者さんも驚かれる事実にほかなりません。
日々の生活の中で常に、
「有難いなあ、私は幸せだなあ、何と幸せ者なんだろう」という思いに満たされて生活をし、
人生を過ごしますと、死んだ時に硬くなりません。

いくら表面上はよい格好をして、着飾ったり、人様に対しも偉そうに振る舞ったりしていても、
誤った思いや行いによって心の中に苦しみをためてしまっていますと、
あの世に帰る時に必ずその決算が出て来ます。
心の中に苦しみをためている方の場合は、
あの世に帰る日が近づくにしたがって肉体的にも精神的にも非常な苦痛が現れてきます。
そして、いよいよ息が切れてまいりますと、肉体は硬直を始めます。
見ている間に冷たくなります。
悲しい雰囲気とともに硬くなり、石さながらの硬さにまでなってしまうものです。
顔も、見るのも恐ろしい嫌な顔となります。

成仏なさった方のお顔が惚れ惚れと見とれるような美しいお顔になるのとは対照的です。
本当は、自覚するとしないとに拘わらず、
世界中の人々が心の底から共通に望んでいらっしゃるのは、
いかに楽に死ねるかということではないでしょうか。
いかにこの世で幸せで健やかに生きることができるかということこそ
人類共通の関心事であるのとまったく同様に、ごく自然なことであると思います。
いかに幸せに健やかに生きるか、そしていかに楽に死ぬか、
この二つは両方揃って互いに相補い合い、完璧に調和した一生となります。

歴史的な人物によくありますが、
いくらこの世的に栄耀栄華を極めても、死に様が哀れなら、その一生を羨む気持ちにはなれません。
昨今では生命維持装置等による延命措置が可能となり、脳死や臓器移植の問題も出て来ました。
とすれば、今度は本人や周りの人々の選択の幅は広がります。
それにともない、生命倫理とか生命科学などの領域も研究されてきています。
これまでは現代医学は肉体をただ物質として学んできました。
医療現場では、手術の成功を喜び乾杯する一方で、患者本人は死んでしまっていたと
いうケースまであると聞きます。
しかし、いかに生命を維持させるかという技術上の問題もさることながら、
患者本人がいかに心安らかに死を迎えるかということこそ、最重要課題のはずです。


               ~ 感謝・合掌 ~



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「独り言」より。

2015-09-19 00:08:17 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

       恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より


          第二章 必要なのは正しい生命観の確立


            ◆絶対を忘れているむなしさ◆


先の続き・・・

十歳の時に、とてもよい方であった叔父が亡くなって、
その死に顔があまりにも醜い恐ろしい顔になっていたので、たいへんショックを受けました。
死は苦しく、遺体は汚れたもの。
これが今までの人類の歴史を通じて当たり前とされてきたことです。
けれども、この常識を完全に超越しない限りは、新しい生き方と理想的な社会は見えてきません。
死への恐怖とエゴイズムはつながっています。
これを解決しないと、個人にも人類にも本当の救いと幸せはありません。
母が九十四歳で亡くなった時、その死に顔は想像もつかない美しさと言いましょうか、
まるで二十代の女性のようでした。
シワやシミは全部なくなり、若い頃と同じ肌に戻っておりました。
それどころか、まるで赤ちゃんのような肌になっておりました。
人がどういう死に方をするかは、生きている間の日々の心の状態によるものであって、
人それぞれに違います。

そもそも、私たちは日頃から死ぬということをあまり深く考えていません。
死を自覚して日々の生活を送っているとは言えません。
いつかは必ず直面しなくてはいけない死であるのに、
まるで他人事みたいに思って生きていることが多いのです。
そして、ある日突然のように、それまでは他人事と思っていた死が自分の身に訪れた時、
それを安らかな心で迎え入れ、自らの生涯と出会った人々や周囲の人々に感謝して、
あの世に逝けるという人は稀であると思います。
「会者定離ありとは常に聞きおれど昨日今日とは思わざりけり」という古言があります。
人生の無常は生きている者同士の突然の別れから、死に別れまで、いついかなる時でも
予告なしに襲ってくるものです。
目先のことばかりにとらわれ、日々の生活に齷齪としているうちにいたずらに歳月を費やし、
気付いてみたらもうすっかり年を取っていたという人がほとんどではないでしょうか。
必ず死ぬとわかっていても、なかなか死を迎えるだけの心の準備ができないのです。

なぜでしょうか。
それはもちろん十分に生命を燃焼し尽くさなかったということもあります。
もう十分にやりたいことをやり、使命も果たした。
満足と感謝に満たされ、いつあの世に召されても不足はないと言いきることができたなら、
抵抗なく死を迎えられそうです。
けれども、もっと大切なことがあります。
死んだらどうなるかかがわからないということが、人間が死に対してあまりにも不必要な
恐怖や苦しみを持ってしまう原因になっているということです。
人間とは単なる肉体的存在ではなくて、肉体がなくなっても心は続き、あの世に霊として
生き続けるのだとわかれば、死への態度も一変してしまうことでしょう。
それがわかると生き方も変わる筈です。
「父母にかりに呼ばれて客に来て、またたちかえるもとのふるさと」このうたは、
この世は仮の宿ということを教えています。
どんな世界から生まれ、何のためにここに来ているのか、魂の目的というものがわからない限り、
死に対しても無知であり続けるでしょう。
無知であればあるほど、それは突然襲って来る恐ろしいものであるかのように受け取られます。
その結果、生きている間は心の安らぎがなく、どこかで疑問や不安を持ち続け、これを
解消しきれずにいることになります。
これが残念ながら、現在までのこの地球社会の実態にほかなりません。


                ~ 感謝・合掌 ~





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「独り言」より。

2015-09-18 00:40:27 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

        恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より


            第一章 或る愚か者の生涯


           ◆絶対を忘れているむなしさ◆

      
あるとき、
講演会の折に青年が次のような質問をしてこられました。
「先生はお話の中で絶対という言葉を何回が使われました。
この世の中で絶対といえる絶対はあるんですか」
「あなたは哲学を学びましたね」
「はい、哲学科を出ました」
「それでは私からあなたに質問させてください」
「あなたは太陽が西から昇るの見たことがありますか」
「いいえ」
「絶対に太陽は東の方角から出て来ます。
そうでなかったらこの地球はつぶれてしまいます」
青年は、へえなるほどそうですねとおしゃっています。
「では、もう一つ質問させていただきます。
あなたはいつまでも生きることができますか」
「いや、それは無理です」
「絶対にあなたは死にます」

そうしますと、ああもうようわかりました、とおっしゃいます。
そこで、もう一つ聞かせてくださいと言いますと、
いやあもうやめてください、
とおっしゃいます。
「あなたは今お若いです。
しかし、その若さをいつまでも保てますか」
「いや、もうようよくわかりました。もういわないでください」
「絶対に年をとります。
その絶対の中に私達は生きさせてもろうてるんです。
これが自然の定めです。法則です」
そうしますと、
「先生、ぼくはなんで哲学を勉強したんですか」と言われます。
「そんなことは私は知りません」と答えました。
「あなたは理屈屋さんだからでしょう」大笑いになりました。
真理というのは、その中に私達が生かされています。

最も考えるべき事柄を考えるのが哲学だとしたら、
この青年が哲学を勉強した理由が
自分自身でわからなくなったというのも当然でしょう。
死ぬことは生きることと同じくらい大事なことです。
生きていればいずれは死ぬのは当たり前です。
これは絶対に避けられないことです。
医療技術がいかに発達しようが、この絶対ということはなくなりません。
絶対に死ぬものであるならば、いかにして楽に死ぬかということは、
私たち一人一人にとっては大きな問題のはずです。
人様に迷惑もかけず、楽に死ねたらいいとは誰もが口にする言葉です。
しかし、自分の平素の心掛けと努力次第で、
望みどおりに楽に死ねるということを理解していらっしゃる方は甚だ少ないと思います。
死は恐ろしくて醜いもので、
望み通りの死に方はできないものと信じられ、そらが常識のようになっております。
死を忌み嫌っていたあの哲学科出身の青年も例外ではありません。


               ~ 感謝・合掌 ~



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「独り言」より。

2015-09-17 00:27:32 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

      恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より


           第一章 或る愚か者の生涯


       ◆高橋信次先生との邂逅と天職を見出すまで◆


先の続き・・・

昭和四十五年に癒しが始まった後、四十九年に高橋先生にお会いし、
太陽のような与えっ放しの「無償の愛」を学びました。
又、「今世、天下った光の天使は宗教でめしを喰っているような者は一人もありません。
神はそれだけのものは与え給います」という教えを守っています。
昭和五十三年四月から鍼灸専門学校に二年間通い、昭和五十五年に国家試験に合格して
資格を取得し、職業的な治療家の道に進むことになっていきます。
昭和五十七年には織物業を止めることになりました。
癒しを始めた当初は一日に五人から十人くらいの方が治療にいらっしゃいました。
癌であと三カ月の命と宣告された方が御縁があって来ているうちに、完全に病巣が消えて
しまって、もう帰ってよろしいと医者に言われた方とか、
女性の方の子宮筋腫がすぐに消えたりするなどのケースは枚挙にいとまがありません。

こういう不思議な力がいったいどこから来るものかもわからず、
いろいろな宗教の門を叩きました。
求道者のようにあちこちに足を運び、質問したりしましたが、納得することも、
これはといった師にめぐり逢うこともありませんでした。
そして、とうとう高橋信次先生との邂逅とも言うべき運命的な出会いの御縁をいただいたのでした。
そこから学んだ無償の愛というものを実践させていただきました。
初期の頃には大阪近辺でお話させていただいていたのですが、
昭和六十二年からは遠い招請を受けまして、
枯野に火が燃え広がるような具合で全国各地へと活動範囲は広がりました。
海外での奉仕活動もやはりこの頃から始まりました。
そもそもの動機は、故高橋信次先生の「正法は必ず全世界の人々に伝わるべきものである」
と言われたその遺志を受け継いで、法の灯を絶やすことなく海外にもお伝えしたいという願いからです。
しかし、それも仕事を持っていたからこそ、人様に対して無償の奉仕ができたのだと思っています。
最初は無償で感謝箱だけ置いてありました。

汗水流して一生懸命に癒させてもらっていますと、
「ハイ、お賽銭です」と十円入れていかれる方もあれば、ティシュにティシュをくるんだものを
御礼の代わりに入れられる方もおられたりと、実に様々な方がお見えになります。
たいへん心の勉強になりました。
ときには、お金に困った方はそこから持っていってください、と感謝箱からお金を持って
いってもらうこともありました。
その後、数年前からは治療券を受け取っていただくことにしました。
隣の部屋で若いマッサージの先生たちに治療してもらってから、私が祈ります。
すると、十年以上ものあいだ無料で治してもらうのを当然のように考えて見えていた方が、
ある日突然にみなさんが治療券を受け取っているのに気付かれて、
「えっ、ここはタダじゃなかったんですか」と驚いて聞かれたのです。
これには私の方がびっくりさせられました。
十年間も無料で治療を受けられていたそうです。

感謝箱を設置したのも、癒しは商売として始めたわけではありませんから
神様への感謝を忘れないでいただきたい、という願いからでした。
もちろん、人間には各人に自由意志が与えられていますから、
何事もご本人が判断して行動されるべきものです。
ただ、人間誰しもがそれぞれ内なる良心を持っていますから、
やがて神我に目覚められるであろうということを信頼し、
また一人でも多くの方に神我に目覚めていただきたいと
祈る毎日です。


            ~ 感謝・合掌 ~



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「独り言」より。

2015-09-16 01:43:15 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

       恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より


             第一章 或る愚か者の生涯


        ◆高橋信次先生との邂逅と天職を見出すまで◆


昭和四十五年に不思議な出来事が起こりました。
近所におばあちゃんがいまして、
レントゲンをとると膝の骨がグチャグチャになってしまっていたのですが、
私が手を当てると完全に治ってしまったのです。
レントゲンを撮るともとどおりになっているのがわかりました。
それがきっかけとなって、治してもらったという情報が口コミで広がり、
治療をしてもらいたいという人々が集まってくるようになりました。
そして、不思議な運命の糸に操られるかのように、人生が変わっていきました。
しかし、これも高橋信次先生という方を知ることなしには
考えられないことだったのではないかと思います。
人生を変えることになったのは、一つは「足ることを知りなさい」という教えです。
それからもう一つは「無償の愛」ということです。

昭和四十九年十一月に高橋信次先生の講演をはじめて聴きました。
しかし、直接お会いして先生から指導を受けることはついにありませんでした。
ただ、演壇に立ってお話されるのを群衆の一人として拝聴したのみでした。
高橋先生の伝えられる正法にふれて、
まず「足ることを知る」ということの大切さを改めて知りました。
講演の中で聴いたこの言葉は、自分に向かって言われているような気がしました。
ちょうど商売を少しでも大きくしようとか、もっと儲けようとかして、この世の現実と
四つに取り組んでいる頃でした。
事業を拡大しようとすれば、借り入れが増えます。
すると銀行はいい顔をしない。
手形を割ってもらおうと思って銀行に行くと、考えておきますと言われ、
こちらはどうしても期限内に手形を落とせないと困るから頭を下げて頼みこみます。
もう朝から晩まで寝ていても頭の中ではお金の算段ばかりで、
心の休まる暇はありませんでした。
商売というのは下手だから倒れるのであって、
倒れないためにはあらゆる頭を使わなくてはなりません。
お金を動かすのはたいへんだとつくづく思います。
その当時は自分の工場で稼働している織機は三台でして、ほかに三十台分は外注に出して、
毛布の製造を下請けしてもらっていました。

ふつうなら毛布を造り、製品として袋に詰めて問屋に入れなくてはなりません。
しかし、運よく毛布丹前を主として生産していました。
外注に出した製品は起毛屋が集めてくれ、
それをミシン屋が仕立ててから問屋に入れるので、私の手はかかりません。
いくら多く生産しても私は何もしなくていいのです。
私がすることと言えば、支払い、糸の手配、糸の仕入れ、
そして問屋から集金するということのみです。
ところで、足ることを知りなさいという言葉に出会ってから、
外注の三十台分の製造を止めました。
すると、お金が余ってきてしようがなくなりました。
取引の規模を今までの十分の一にまで縮小したのですから、
十倍の在庫と原材料があり、仕入れの必要もなくなりました。
その結果、銀行に借りなくてすむようになり、資金もたっぷりになり、
銀行からは上得意と見られるようになっていました。
足ることを知ればこんなに楽だったかということがわかりました。
それから、昭和五十一年一月に高橋信次先生がお亡くなりになるまでの
一年八カ月というものは、月に一度ですが、
欠かさず講演を拝聴しにまいりました。


           ~ 感謝・合掌 ~







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